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その日は喫茶店で限定メニューを食べたあと、俺の自宅でゆっくり過ごす予定だった。またカレーを作る。なぜなら俺もヒカリも、カレー以外まともに自炊ができない。
「――あのね、折原さん」
予感があった。
甘えた声で、なにか大事な用件を切り出そうとしていると。
「わたし東京に戻らなくちゃならないんです」
キッチンに立つやいなや、津木野ヒカリは言いにくそうにもじもじと言った。
「急だな。どうして?」
「三年前に受けた損害の影響は、こないだ折原さんのために行った修正の成果もあってずいぶんと薄くなって、あちらに残してきた敵の痕跡もようやく一掃できる目処が立ちましたから、そろそろ本格的に活動を始めるつもりなんです。だから戻らなくっちゃ」
「活動って……」
順番を守りたいと言えばデートの都合でも何でも融通した。譲歩してきた。彼女を信じていたから。しかし、そのために遠距離恋愛になるのでは話が違ってくる。
彼女はお湯を沸かす。
「いよいよ、この惑星を高次元に連れていく準備をしに行くんです。人口が多い土地でやるほうが簡単なので……だから、ここではなくて、東京に……」
「ど、どのくらい?」
「短ければ三年。長ければ……ずっと」
原っぱですやすや昼寝をしている最中にみぞおちに鉄の塊を落とされた気分だった。
俺は彼女との結婚を希望していた。まだ付き合って日が浅いため口に出してこそいなかったが、いずれ、例えば、二十歳になる来年に……と考えていたのだ。
それなのに、彼女はどうだ?
俺との将来より、そのお役目とやらが重要なのか?
内臓がぐっと重力に負けて沈んだように苦しくなった。
「失敗したらすぐにでも戻ってこられますよ。ふふ。あ、そうなったら戻る時間もなく崩壊するかもですけど」
「なんだよそれ」
「お、怒ってますか? わたし、折原さんと別れるつもりはありませんよ。わかっていただけますよね?」
「わかるけど」
納得なんてしちゃいなかったがうなずくしかなかった。彼女には天使の役目があり、俺には彼女の唯一の理解者であるという役目があった。そこから降りるわけにはいかなかった。
「お願いがあるんです」
「何?」
「折原さんにも順番を正して欲しいんです」
「俺が? 俺、何にも能力無いよ」
「無くていいんです。たぶん敵は、すでに折原さんを敵対勢力と見做していますから、わたしがあなたから離れたら、きっと妨害して来ます。絶対に順番を抜かされないで。ただそれだけ。お願いします」
「わかったよ。俺からもひとつ訊かせて欲しい。順番を正して、地球を高次元に連れて行くってのは……具体的にはどういうことなんだ? 最終的に俺達はどうなるんだ。もし失敗したら?」
津木野ヒカリがリモコンを手に取った。
彼女が自らテレビを点けるなんて珍しいことだ。
「敵がどうして妨害なんかするのかっていうと、敵は地球上のいきものではなく、かつて失敗してしまった惑星の生命体の成れの果てだからです」
「宇宙人ってこと?」
「地球外生命体だったものですね」
うん。
なるほど?
もちろん、信じるさ。
「奴らは、わたしたちを自分たちと同じ低次元へと引きずり降ろしてやろうと目論んでいます。それは宇宙レベルの悪意で、人間では太刀打ちできません。天使でもギリギリです。
万が一わたしが失敗してしまったら地球上の全生物が人間も猿も虫も微生物も全部焦げついてしまって、みんなくっついて、一塊の肉片となり、他の惑星を邪魔するだけの存在になります。ある程度の知能を有する生命体にとっては永遠に終わらない生き地獄のはじまりです」
彼女の理屈で言えば、〈敵〉とは他の惑星で焦げついてしまった者たち。では地球が焦げついたら、俺たちは別の惑星人にとっての〈敵〉へと転じる――……。
「近頃はあちこちで人面犬や、二つ首の猿や、喋る樹木が相継いで目撃されて、海外の動画サイトを賑わせています。日本国内ではまだ信じる方は少なくてみんな作り物だと思っていますけれど、違うんです。全部本物なんです。あれが焦げついた結果なんです。ごめんなさい。誰も気づいていないんです。折原さんみたいな方はほんとうに稀で、多くの人々は臆病で、可哀想で、自分の精神がおかしくならないよう正常化バイアスを働かせすぎているんだと思います。
神様は平等な立場で、気まぐれですから、天使を導いても守ってはくれません。敵の陰謀に抗うには自力で対抗する他ないんです。無力な天使が力を得るためには、同じ志を持ってくれる人間と出会う必要があります。賛同者が多ければ多いほどレールは強固になり、ちょっとやそっとの妨害では円が乱れなくなるんです。過去には宗教団体を立ち上げて、天使自ら教祖になった地球担当者もいたようですが、わたしにはそういう才能がないので……歴代の地球担当の天使で一番落ちこぼれかもしれません……うっ……ひっく……だから折原さんが唯一の味方なんです。わたしには折原さんしかいないんです! わああああんっ」
感極まって、俺は津木野ヒカリを抱き締めた。
「――大丈夫だ。俺がいる。君には、俺がついてる!」
「折原さん。もし失敗したら、わたし、最後は折原さんと一緒にいたい」
「わかってる。世界のどこにいても駆けつけるよ」
「……うん。もし間に合わなかったら、せめて、最後に連絡をください。ひとりぼっちで焦げつくのはさみしいから。折原さんが順番を守ってくれさえすれば、きっと大丈夫。どうかお願いします。どうか……どうか…………」
縋りつくように振り絞られた言葉は、俺の記憶のもっとも取り出しやすい場所に仕舞われた。
俺が彼女を守り抜く。
俺だけが彼女を信じてやれる。
俺は彼女の恋人であり、唯一の賛同者だ。
――そうしてヒカリは、あっさりと東京へ旅立った。
――順番を抜かされないで。――
彼女に依頼された通り、それからの俺はとにかく順番、後にも先にも順序を重んじるべく、慎重に日々を送った。
「順番は守れよ」
駅のホームで、それとない風を装って割り込もうとした年配男性に対し、俺は厳しい態度で立ち向かった。もちろん津木野ヒカリとの約束を守るためだ。
予想しなかったことに、後方に並んでいた人びとから拍手が巻き起こり、「そうだそうだ」と後押しまで得られ、俺はこれまで覚えた試しのない高揚感と自己肯定感に包まれた。妄想でテロリストを撃退するより、何倍も気持ちのいい出来事だった。
出社して多辺に話すと、「朝からいいことしたわねぇ」と俺の行いを肯定し、ご褒美に、と個包装のチョコレートをデスクに置いてくれた。
安心してくれ、ヒカリ。
すべてが順調に進んでいるよ。
「――しかし案件が多いな。そういえば定例会議で議題になった稟議書の草案、俺に回って来てないけど、あれは誰の担当だっけ?」
「本社のシステム課の子じゃなかったかしら。あたし、連絡してみるわよ」
多辺が内線電話をかけ、いくらか談笑した後、にこやかに電話を切ったところで「どうだった?」と確認する。
「管理課の担当で止まってるみたいよ。部署またぎの案件ってこうだから面倒よね」
「はあ? 管理課の担当は三年目のぺーぺーだろ。どうして俺より先にそっちに回すんだ。稟議書関係の書類は部署関係なく役職順及び社歴順って慣例で決まっているんだぞ」
「でも……」
何か言いたそうな多辺を無視し、俺は内線電話の受話器をあげてシステム課担当者の番号をプッシュした。相手が応答するや否や、慣例を無視してはならないこと、俺が中途入社とはいえ人事の計らいで社歴は退職前からカウントが続いていること、複数部署が絡むときは報連相に気を配って欲しいということを滔々と説いた。
相手の声に泣きべその色が混じったところで、俺はこれくらいにしてやるかと溜飲を下げ、最後にもう一度俺の勤続年数について念を押して電話を切った。
「折原……言い過ぎじゃない? 悪気があって折原の番を飛ばした訳じゃないと思うけど」
隣で聞いていた多辺が渋い表情で言う。
「重要なことだぞ。最初にゴールをした人間が一着、二番目が二着、三番目が三着。どべが一着にはならないだろう」
「はあ?」
多辺はまったく同意しかねるという様子で、それきり俺と喋ろうとはしなかった。
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