三章 軋む旋律
8
津木野ヒカリと過ごす日々は素晴らしかった。まるで野原に置かれた上等のグランドピアノ。かんかん照りでも雨ざらしでも音色はやわらかくなるばかりで、ひとつの鍵盤も痛みやしない――そんな奇跡の中にいるように感じられた。津木野ヒカリと一緒にいるときもいないときも、俺の胸にはいつでも音楽が流れていた。
彼女は映画鑑賞や観劇、コンサートといったエンターテイメントは苦手らしく、デートといえば近所を散策したり、公園でピクニックをしたり、喫茶店で珈琲を飲んだり、何者にも時間を縛られない休日を好んだ。
毎朝おはようと、夜のおやすみのメッセージはお互いに欠かさない。
会えるのは週末だけだ。会社勤めの俺にとってはちょうどいいペースだが、まだ学生の彼女には物足りないのではと心配になり尋ねたところ、彼女は大学は中退し、もう働いているから俺と同じペースで問題はないと回答が返ってきた。
思えばハローワークに来ていたのだから学生ではあるまい。どうして俺は、彼女を女子大生だと思い込んでいたのだろう。見た目の年齢だけで判断していたのなら、とんだ偏見だ。
彼女はいい意味で幼い。
実年齢の十九歳よりも心はずっと若く、無垢な存在だ。
「近頃は敵の活動は、どう?」
「おとなしいですね。不気味なくらい。指示もないですし……。あっ、指示っていうのは、こちら側……便宜上〈神様〉と呼ぶとして、そういう存在がわたしたちに命令するんです」
へえ、と俺はうなずいてジャガイモの皮を剥く。今夜はカレーだ。
「神様の下にはわたしのような〈天使〉が何人もいて、それぞれがそれぞれの惑星を担当しています。わたしは地球を担当する最後のひとりで、七歳のときに天啓を受けて天使になりました」
「そんなにちいさなときから?」
「天使と言っても、べつに羽根があって飛べるとか、天界に住んでいるとか、そんなのは全然なくって、この惑星を次の次元――つまり高次元に連れていく役割の名称です」
「こ、高次元? もちろん信じるけど、なんだかSFみたいだな」
「ふふっ。そんなにたいしたイベントじゃありませんよ。これまでも幾度となく繰り返してきた、地球の歴史の分岐点に過ぎませんから。そうですね、惑星を高次元に導くというのは、例えるなら、絶対に失敗出来ない料理のようなものです。細かく手順も分量も定められていて、ちょっぴりでもズルできないルールが定められています。地球は〈お鍋〉で、地球上のいきものは〈具材〉だと思ってください。手順は基本的に神様を中心点に波及する形で影響し合っていて、手順通りに進んでいるうちは綺麗な円になって順調に高次元へ向かっているわけですが、これが敵の妨害なんかで石を投じられると、円が歪んで、上手く舵が取れなくなり、具材が焦げつくんです。この焦げがいわゆる損害です」
なんとなくわかってきた。
なぜヒカリがクレーマー扱いされながらも必死に順番を守ろうとするのか――地球を、俺たち人類のためなのだ。
ひと目で好きになった相手が、天使だったなんて。俺の目に狂いはなかった!
「折原さんは、もうわたしの一部になりかけています」
「うん。俺たちは一心同体だ。君を理解できるのは俺しかいない」
「いいんですね?」
「もちろん」
「折原さんが順番を誤ったら、焦げつく原因になりますよ」
「俺が?」
きょとんとして、ジャガイモの芽を取る手を止める。
「たとえば、わたしと付き合っているのに他のひとのことを好きになるとか」
「ありえないよ」
「それならいいんですけど……ふふ……もしそうなったら……るんっ……」
ヒカリは微笑んで、牛肉を包丁で切り刻んだ。
昔からドビュッシーの『月の光』はどうも陰気臭くて好かなかったが、津木野ヒカリと出会ってからはその題に何とも言えぬ縁を感じ、通勤時間や、外回りの移動中で聴くようになった。
キイ、キイ。
「この社用車、ブレーキの調子がわるいわね」
「点検に出したほうがいいかもな」
「総務に報告しとくわ。――ね、折原。このままランチ行かない?」
多辺は早くも俺を呼び捨てにしている。
「いいけど、俺昼一で商談だからあまりゆっくり食べられないんだ」
「熱心ね。頑張りすぎちゃあダメよ。……じゃ、国道沿いのうどん屋にしましょ」
職場での日々は今のところ順調だ。多辺が俺の復職についてあらかじめ各所に根回ししておいてくれたらしい。お陰で色々とやりやすかった。
それでも周囲からは気を遣われていて、こうしてランチに行く相手は多辺くらいのものだ。
「折原。今度の週末、暇?」
「週末は――」
――土曜日は、ヒカリと会う予定だ。
「昼間、付き合ってよ。観たい映画があるの」
「俺と?」
「いいじゃない。独り者同士、たまには」
職場で恋人の存在を隠しているのは、なにも、やましい魂胆があるのではない。年齢差について周囲がどう思うか……社内での信頼を失うのではないか……罵倒されたり、私物を盗られたり、信じられないいやがらせの数々をまた受けることだけは耐えがたい。
「恋人がいる」と教えれば、多辺はかならず根ほり葉ほり追及する。そのしぶとさが彼女が営業成績をキープする持ち味でもあるから、けして嫌いではない。
「ごめん、今週末は先約があって。また次の機会に」
「……うん。残念だけど、しかたないわね」
胸がちくりと痛んだ。
多辺は魅力的な女性だ。ありえないだろうが、万が一、俺なんかを好いていてくれるとしたら、一刻も早くべつの男へ目を向けるべきだ。だって俺はヒカリ以外愛せないのだから。俺たちは運命のつがいなのだ。
「コンニチハ、折原さん。調子は良いようですねぇ」
「ええ、先生。おかげさまで」
「症状が緩和されているのなら薬の種類を減らしましょうかぁ?」
「あっ、それは駄目ですよ。まだ彼女とは付き合って日が浅いですし、だって何事も順序というものがあるでしょう」
「ほう? はぁ?」
いつもの通院。
年がら年中日焼けしている色黒の担当医は間の抜けた相槌を打つためだけに電子カルテにせわしなく入力する指を長いこと休めた。
「折原さん、もしかして、恋人ができたのですか」
「あ――……実は、そのう、相手はこちらに通院していらっしゃる津木野ヒカリさんなんですけど……」
「あぁ、彼女」
彼は斜め上にぎょろりと目玉を押しやった。俺の恋人の顔を思い浮かべるのにそんな下品な仕草をするのはやめて欲しかったが、何だかんだお世話になっている先生なので注文はつけづらい。
「ビッチとお付き合いされているんですねぇ」
「は?」
唐突な悪口に、俺は閉口した。津木野ヒカリが――何だって?
急激に体温が上昇し、怒りとも悲しみとも驚きともつかない感情の渦が、腹の底から竜巻になって発生し、今にも飲み込まれてしまいそうだった。
「先生。も、もう一度よろしいですか?」
「美人とお付き合いされているんですねぇ。いつからですか?」
「あ、えと、先月からです」
「そうですか。どうぞお幸せに」
「ありがとうございます」
処方薬を受け取った足で、俺は駅ビルの雑貨屋に立ち寄り、なるべく良さそうな耳かきを購入した。その晩、俺は風呂上りに念入りな耳掃除を行い、もう二度ととんでもない空耳に襲われぬよう、祈る気持ちで耳をほじった。
ただの聞き間違いだったのにまだ鳥肌が立っている。津木野ヒカリの男遍歴など知りたくもない。恋をするすべての遍く人間がそうではないか? 世界のありとあらゆる秘密のうち、もっとも鋭く研ぎ澄まされた残酷な秘密だ。過去のことなら、まだいい。もし現在進行形で、俺以外にも誰かがいたら……。
やめよう。考えるべきでないことを俺は考え過ぎている。第一、それは順番を違える行為に他ならない。ヒカリは絶対に誤らない。彼女は天使なのだから。地球を護っているのだから。
ばかな男だ。俺は。
津木野ヒカリを愛するがあまり独占欲が高まっているのだ。
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