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「――それで、来月から前の会社に戻られるのですね。よかったですねっ。ふふっ……るんっ……」
前回と同じカフェで、津木野ヒカリはカフェラテを飲みながら微笑んだ。一張羅の赤いセーター。プリーツスカート。巻き毛がふわふわと白い眼帯にかかる。頬の腫れはすっかり治っている。
「うん。びっくりするくらいとんとん拍子に話が進んだんだ」
「ひどい目に遭わされた職場に戻るのは、折原さんは、いや、じゃないですか?」
「そりゃあいやな思いは山ほどしたけど、原因は八洲課長だったからね。でもまさか亡くなったとは」
死亡されました――と淡々と答えた人事担当の言葉が右耳の内側に貼り付いている。
「そうですねっ。るんるんっ」
彼女は何でもないという風に頷いた。
「まさか知っていたの?」
「えと、直接は知りません。でもそうなっているだろうなって思いました。先方は、八洲さんがこちらに来られる予定だったとかそういうことを言っていませんでしたか?」
「言っていたよ。新しいオフィスは営業部メインの拠点になるから八洲課長が支店長になる予定だったと。彼が急逝してしまい、営業の頭数が足りず困っていたところに俺から連絡があってとても助かったって……」
「間一髪でしたねっ。八洲さんはあなたを追いかけてきていたんですよ」
その言葉を理解する前に背筋にぞわっと鳥肌が立った。
俺の一言一句に難癖をつけ、トイレに行く時間すら無いほどの仕事を与え、自分のミスを俺に擦りつけ、俺のやること為すこと嘲笑った……人間の皮を被った鬼のような八洲課長。
「怖いよ。あの人とはもう二度と、関わりたく無いんだ。死んでくれていてよかった……っていうのは不謹慎だよな」
「折原さんが殺したわけじゃあるまいし、思うだけならいいじゃないですか」
「そっか。そうだよね。君と知り合ったのは偶然だったけど、こうして職に就けたのも君のおかげだという気がする。心から感謝しているよ」
「折原さんがわたしと出会ったのは偶然ではありませんよ。あなたは無自覚ながらこちら側の人間なんです」
津木野ヒカリはカフェラテに五袋目の砂糖を注いだ。
「あれは三年前です。東京での敵の妨害によって、わたしは大損害を被りました。そのときの影響でうまく睡眠をとることが出来なくなり、いまだ心療内科に通院する羽目になりました。折原さんは、そのときの影響を受けてしまったんです」
「津木野さんと俺が同じっていうのは、つまり、敵が同じだという意味? 八洲課長は津木野さんにとっても相対する人間だったということ?」
「いえ、そうではありません」
ちいさな頭をふるふると振る。
「彼は世界が正規のレールから外れてしまった際に生じる雑音のようなもので、雑音自体に意思はなく、ただこちら側の人間を排除しようとする本能にしたがうのみです。だから折原さんを余所へ追いやるためにパワハラをし、折原さんより若い連中や営業成績の悪い社員を重宝し、あなたの本来の順番及びそれに付随する価値基準を滅茶苦茶に壊したのです。しかしこちら側の意思は折原さんを見捨てませんでした。だからこそ折原さんはわたしと出会い、正規のレール上に舞い戻る機会が与えられたんですよ。当然敵側もそれを察知してふたたび妨害するために八洲さんを派遣しようとしていたのです。あと一歩遅ければ、折原さんは一生レールから外れたまま二度と戻らなかったでしょう」
「そうか。俺は危ないところだったのか……」
「案外、物事は歯車が噛み合うぎりぎりで回っていますからね。あとは、また脱輪しないように気をつけて。まあ、わたしが敵にやられなければよかっただけの話なので……むしろ、ご迷惑をおかけし申し訳ありませんでした」
「謝らないでよ。津木野さんは人知れずそうやって手順を守り、敵から人々を守ってくれているんだろ? ところで、そもそも敵ってなんなんだ?」
最後、ぽろりと純粋な疑問が零れてしまった。
「敵は敵です」
「そっか」
津木野ヒカリは甘ったるいカフェラテを飲み干す。
「でも……ふふっ。折原さんが、思った通りの方でよかったです」
彼女はマグカップを置いたあと、もじもじと俯いて、はにかんだ笑顔を俺に向けた。
「わたし、ずっと、ひとりぼっちで不安だったから……やっと、信じてくれる味方ができて嬉しいんです」
脳味噌が弾けたかと思った。
その少女らしい照れた仕草に心臓を掴まれ、肋骨を一本一本叩かれて揺さぶられるように体のコントロールを失った俺は、どうやって彼女のアパートに上がり込み、男女の仲に発展したのか――明確な道筋は霧がたちこめたようにぼうっとしてハッキリと思い出せない。
ただ印象に残っているのは、大量のぬいぐるみたちの視線を浴びながらベッドに横たわって彼女の白い首元に唇を這わせる直前、「これって、順番、違うよな」と俺が謝罪すると津木野ヒカリは可笑しそうに目を細めて言ったのだ。
「折原さん、わたしのこと、好きですか?」
「うん。好きだよ。愛してる」
「嬉しいですっ……るんっ……ふふ……」
ああ、これで順番は整った。
安心感に包まれ、俺は彼女を抱いた。
若々しい肉体は、果たして俺を受け入れているのか、拒絶しているのか、判断に苦しむほど張りがあり、男など必要としなくとも十分にうつくしく、俺はほんの少しの劣等感を覚えたが、それはやがて快楽のうちにどこかへ吹き飛び、運命的な出会いをした俺と津木野ヒカリは、いたって凡庸な肉体関係に落ち着いた。
先にシャワーを浴び、汗を流しても、俺の体はまだ火照りを失わずにいる。津木野ヒカリはピンク色のシーツに裸体を包んでミネラルウォーターを飲んでおり、まだ俺が風呂を終えたのに気づいていなかった。
彼女は眼帯を外し、目を擦って、また眼帯を付け直した。そこに浅黒い痣など一切なく、白い肌が地続きだった。
――いやに治りがいいなと思ったが、それも当然だろう。
彼女は普通の人間ではない。
我々が正規のルートから外れないよう昼夜順番を正し、敵に抗い続ける、こちら側の特別な存在なのだから、治癒能力だって人並外れているのに決まっているのだ。
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