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 津木野ヒカリは言った。

 順番が正されれば自然とすべてがうまくゆく。その兆候はすでにあらわれているはずです――と。



〈津木野ヒカリ からメッセージが届いています。〉


〈こんにちは。修正が完了しました。転職先はすぐに見つかるでしょう。明日ハローワークに行ってみてください〉




 翌朝、俺はハローワークへと向かった。実際のところまだ半信半疑だったが、津木野ヒカリの言葉にしたがいたい欲求が俺を突き動かした。

 先日よりも混雑はましだった。求人検索用のパソコンに座り、いつも通り画面を流し見する。田舎には仕事が無い。とくに、俺の望むような仕事は。

 画面をスクロールする。

 いくつもの求人が流れてゆく。


〈株式会社■■■

 新オフィス立ち上げにより

 総合職(営業)募集!〉


 その文字列が目に飛び込むと同時に、眼球の奥底が消毒液をぶっ掛けられたが如く鋭く、するどく滲みた。

 あの会社だ。

 苦役の記憶が、痛みが、えずきが、蘇る。落ち着け。そりゃあ闇雲に検索していればこういうこともある。

 それにしても俺が希望する営業職の募集とは……しかも勤務地は自宅からすぐの立地で、前の勤め先でさえ無ければすぐにでも応募したい条件だった。

 新オフィスか――。

 俺がメンバーに選ばれていた可能性は高かった。八洲課長と離れて、良好な就労環境に身を置けさえすれば心身の健康を取り戻し、営業成績は元通りに上がっていただろう。

 あのとき辞めなければ。ほんの少し、あと数ヶ月辛抱できたなら、別の道もあったのかもしれない。……たらればを考えても仕方ないのはわかっている。

 しかし、これが津木野ヒカリの言う「折原さんにぴったりのお仕事」だとしたら?

 迷った末、俺は昔の同僚に電話をかけることにした。当然気まずい。でも書類選考で何社も落ちつづけている今、なりふり構っている場合ではないのだ。

 恋愛とはべつに、これは深刻な問題だった。

 久方ぶりだったもので元同僚は大層驚いた声を出したが、俺からの電話をいやがる様子はなく安心する。

 彼は新しい支店については一切関与していないらしいが、「人事よりも先に支店の人間に話を通したほうがスムーズだろうから、取り次ぐよ」と気を利かせてくれた。その社員は俺が退職したあとに入社した女性で、お前のことも知らないから却って気軽に話せるんじゃないかな。お前なら大丈夫さ――と背中を押す言葉に、ぎゅうっと涙が滲んだ。

 八洲課長からごみ同然に扱われたために会社全体が敵のように思われていたが、違った、やさしい人間もいたのだと今更になって自分の視野の狭さに気づかされた。




「――もしもし。営業部の多辺です。まだオフィスが落ち着いていないもので後ろが騒がしくってごめんなさい」

「こちらこそ、お忙しいところすみません」

「……もしかして、折原さん? あたしです。多辺可乃子」

「えっ」

「わっ、偶然ですね。そっか。折原さんって、折原さんだったのね。こんな偶然があるなんて!」

?」

「ええ。折原さんのことは、同僚から噂に聞いていたから……」


 ぞわりとした。

 俺の噂? 何を? どんな悪評だ?

 風も吹かないのに寒気に襲われ、指先ががたがたと震えるせいでスマホをしっかり両手で持たなければならなかった。


「折原さんはクレーム気質だったり、価格交渉がシビアだったりする専門だったんでしょ。あなたの後任は誰も彼も匙を投げてつづかなかったって聞いたわ。そんなすごい人が支店に来てくれたら百人力よ!」

「へっ?」


 自分がわざわざの担当にさせられていたとは初耳だ。


「折原さんが残してくれたマニュアルや資料は支店でも役立っているわ。最近入ったばかりのあたしが言うのもおこがましいけれど、辞めるべきはあなたじゃなかったのよ。だから是非とも一緒に働きたいわ。もちろん折原さんがよろしければ、だけど。……ここだけの話、かなり人手不足なのよ」


 初めて話す相手に「ここだけの話」をするのは不用心な人だと思った。尤も、それが彼女の営業としての手腕なのかもしれない。

 思えば津木野ヒカリもそうだった。


「ひどい上司とはどう? つらくない?」

「それが彼、少額の横領がバレて辞めたのよ。それも人手不足の要因のひとつね。それより、こないだの打ち合わせは折原さんのアドバイスのおかげで上手く行ったわ。ありがと。今度、お礼に食事でもどう?」

「えっ……と」

「あっ。ごめんなさい。あたし、強引よね。今のは忘れて。入社の話、早く進めるように人事担当者をせっついておくわ。任せて。あたし急かすのは得意なの。どんなに腰の重い銅像でも動かせるわよ」

「それは頼もしいな」


 通話を終え、どっと疲れた体をベンチに沈めると、冷たいプラスチックの感覚が背中を突き刺した。



 人事部から連絡があったのは、多辺と話した僅か三時間後だった。急かすのが得意というのは嘘ではなかったらしい。


「エエ、まア折原さんの退職は当社としても不本意でしたから、新しい支店が立ち上がったタイミングで折原さんが近郊に住まわれているのも何かの縁でしょうし、エエ……以前担当いただいていた企業をふたたび担当してもらえれば取引も円満に運ぶのではと営業部も期待しているようですが、ただ人事部としては、健康状態の問題が解決していらっしゃるのであれば、というチョット条件つきにはなるものの、まア再雇用というのも選択に入るかと思います」


 やたらめったに回りくどい。とにかく心身健康なら入社は歓迎と言いたいらしい。

 嘘をついて後からどうこう言われたら面倒であるから、ここは正直に、未だ心療内科に通院中であると伝えた。

 そそくさと保留にされ、のん気な電子音がピロピロと流れる。


「あ、もしもし、お待たせしました。上に確認したところ就労に問題が無いなら大丈夫だそうです」

「あ、そうですか。てっきり診断書とか、面談とかあるものかと」

「あ、無いみたいです」

「あ、そうですか」


 会話のテンポが妙に悪くなる。

 俺の心につっかえているものがそうさせるのだ。どうしても聞かなくてはならない。


「――先にお伺いすべきだったのですが、その、正直に話しますと自分は営業部の八洲課長と関係が上手く築けずに退職してしまったので、もしまた彼の部下になるのなら……えっと……難しいかなと……」

「難しいとおっしゃるのは、八洲課長の下で働くのなら再雇用の話は白紙にされたいという意味ですか?」

「はい。……すみません」

「結構ですよ。その点ならご安心ください。八洲課長は先日――ボウされました」


 とつぜん電波が悪くなった。


「え? あの、もう一度お願いできますか」

「――死亡されました」

「えっ? ええっ?」

「ですので問題ありませんよ」

「あ、はい」


 お互いに拍子抜けしたような雰囲気になり、「じゃ、後日書類をお送りします」と言われて電話は終わった。

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