5

 待ち合わせ場所は、全国各地どこにでもあるチェーンの安いカフェだった。

 彼女はカフェラテとホットサンドを注文し、俺はアメリカンを頼んだ。店員は彼女に番号札を渡し、俺にはアメリカンコーヒーを手渡した。

 やけに順番を気にする彼女のことだ。これは順番が狂ったことにならないのかと心配したが、津木野ヒカリはご機嫌で「るんっ……ふふ。どこに座ります?」と俺に尋ねた。

 ちょうど窓際の席が空いたので、俺達はその二人掛けテーブルに向かい合って座った。


「ハンカチ、ありがとうございました」


 しわの寄ったハンカチを受け取る。彼女は「アイロンが苦手で……」と恥じらった。

 頬に貼った大きな絆創膏が痛々しく、片目は白い眼帯で隠されている。


「大丈夫ですよ。わざわざ洗濯してくださってありがとうございます」

「アイロンができない代わりに、少し、お手伝いできればと思って」

「お手伝い? なんの?」

「折原さん、お仕事を探していらっしゃるんですよね。わたし、折原さんにぴったりのお仕事を見つけてあげられると思います」

「君が? どこか伝手があるってこと?」

「えと、伝手はないんですけど……」


 思わず笑ってしまった。

 なんていじらしいんだろう。


「いいんだよ。それより君の助けにならなくちゃいけないのは俺のほうなんだ」

「どうしてですか?」


 今度は津木野ヒカリが首をかしげた。


「おととい、君がハローワークで言い争っているのを俺は黙って見ていた。助けてあげられたのに、助けなかったんだ」

「折原さんが気に病むことじゃありません。誠実なんですね、折原さんって」

「どうかな。誠実な男なら、あの場で君を助けていたよ」

「折原さんはなぜ通院していらっしゃるんですか」


 どきっとした。

 配慮もデリカシーも無くそういう質問をしてくる辺り、やっぱり、ちょっと変わり者である。


「前の職場で……いやな目に遭ってね。もう退職して半年が経つんだけど、情けないことに、まだ通院していないと不安で落ち着かないんだ」

「情けないということはありませんよ。何事も順番ですから、折原さんより先に済ませるべき相手がぐずぐずしているだけでしょう。折原さん自身の準備は整っています」


 また『順番』か。

 よくわからないが、彼女なりの慰めだろう。


「順番というのは何のこと?」

「順番は、順番ですよ。最初にゴールをした人間が一着、二番目が二着、三番目が三着。どべが一着にはなりませんよね?」

「わかるような……わからないような……」

「えっと。詳しく言いますね。一着に金メダル、二着に銀メダル、三着に銅メダルを与える慣例がありますが、これが今回は一着に銀メダル、二着に銅メダル、三着に金メダルとなると混乱します。どう混乱するかというと、価値がわからなくなります。『自分は金メダルを所持している』と言われても、それが一着なのか三着だったのか判断がつかないわけです」

「なるほど。メダルは成績にわかりやすく価値を付随するものだ。でも、薬局で呼ばれる順番には成績は関係ないし、少し違うんじゃないかな」

「わたしは、あの場では一番目に受付をして一番目に薬を受け取り、一番目に退店するはずでした。わたし自身が意識せずともそうなるものなのです。しかし新人薬剤師に扮した敵が、わたしが役割を遂行出来ないよう妨害を仕掛けてきました。仮に、あのまま私が二番目になっていたらだろうと思うとぞっとします……」


 ふうと息を吐いたタイミングで、店員がカフェラテとホットサンドを運んできた。彼女は軽く礼を言い、マグカップに口をつける。

 って、何の比喩だろう?

 話はさっぱり理解できなかった。

 津木野ヒカリは鞄からノートを取り出し、見開きページいっぱいに書かれた文章に目を走らせ始めた。何度見ても成人女性らしからぬバランスの悪い字だ。


「折原さん――あなたが前職の会社を辞めた時点で、あなたは部署内で勤続年数は三番目に長かった。ですね?」

「えっ。うん、そうだけど……えっ?」

「営業成績は最下位。そのずっと前は一番目でした。この急降下は不自然です。順番が乱れ始めたきっかけは、えっと、他社から移ってきた中途入社の男性。配属されるなり順番も全部飛ばして営業課長になった――八洲やしま雄大ゆうだい


 半年ぶりに聞いた名前は、波紋状の耳鳴りになった。

 飲みこんだばかりのアメリカンコーヒーが、急に胃の中で不味く変化していくのがわかった。マグカップの波紋が、いやな男の顔に形取られてゆく。


「どうして津木野さんが、それを……」

「わたしには地球上のありとあらゆる手順が知らされています。この営業課長の入社を起点として、ドミノ倒しに手順のレールから外れてしまい、最終的に一番しわが寄った場所にたまたま折原さんが位置していた。このハンカチみたいに。本来あなたには何の落ち度もなかったんですよ」


 目頭が熱くなった。

 俺は悪くない。俺の所為じゃない――幾度となく自分自身に言い聞かせてきた。しかし津木野ヒカリが発したたった一言には敵わない。

 俺はずっと彼女にそう言われたかったのだ。

 会ったばかりの相手なのに、そう思った。

 彼女に抱いたちいさな違和感は、赤いセーターの編み目にたちまち吸い込まれて消えていった。


「ここだけの話――」と津木野ヒカリは声を落とす。


「――多少の順番が狂っても、大筋が合っていれば目的達成に問題は生じないのですよ。でも少しの違反を許せば、あれもこれも……と芋蔓式に風紀が乱れるでしょう?」

「うん。その理屈はわかる気がする」

「ですから過剰に厳しく正さなければならないのです。まったく損な役目ですけどね。その代わり、多少、私情を挟んでも許してもらえるのが特権でしょう。こうして折原さんと出会ったのは何かの縁ですから、可能な範囲で、折原さんの順番の乱れを正してあげます」

「ありがとう」


 礼を言いながら、俺は隠さずに苦笑した。正すって、何を、どう正すのだ? 正された結果どうなる?


「折原さんはどこでこうなっちゃったんだろう……ああっ、三年前に受けた妨害の余波ですね……うーん……中心点から相当離れた地点の波紋線上にありますから、正規に一個一個遡及して正していくのは骨が折れます……どこかで他に影響が及んでしまうでしょうし…………」


 ぶつぶつと独り言を言い、津木野ヒカリは腕を組んで、眉間に谷を作った。その仕草がいかにも大仰で、失礼ながら、ぷっと吹き出してしまいそうだった。

 そりゃあ妄想くらいは誰だってする。俺も少年時代は、教室を突如包囲したテロリスト達を持ち前の機転で討伐し、クラス中から賞賛を受けるという妄想を幾度となく繰り広げた。しかしそれはあくまで頭の中での物語。彼女の場合、脳味噌に仕舞っておくべき世界が日常生活が漏出している状態らしい。


「許可が下りるか微妙ですか、スポット的にここだけ修正できるか確認してみます」

「許可? 誰の?」

「〈神様〉ですよ」


 当然じゃないですか、とつづけたい表情で彼女は答えた。


「念のためお尋ねしたいのですが、折原さんは三年前、東京近郊に住まれていましたか?」

「うん。東京の本社勤めだったんだ」

「やっぱり……じゃあ見立ては合っているようですね。念のため裏づけを取ってから修正しますから、少しお時間をいただきます」


 可愛い彼女の可愛い唇が紡ぐものがたりが俺を境界線の淵に立たせる。正気と狂気の境界線。惚れてまっては不利な綱渡りだが、まだ完全に落ちてはいない。まるきり鵜呑みにできるほど能天気じゃない。

 敵って誰だ? 神様とは? 裏づけってなんの?

 君は――誰の影響でなったんだ?

 まさか男? 彼氏? 夫なんてことは……。

 ぐるぐる巡る疑問は、完全に津木野ヒカリの妄想世界に巻き込まれていることを示していた。


「津木野さん、ひとつ質問してもいいかな」

「はい。わたしが答えられる内容なら」


 もうひとりの俺がやめておけと忠告する。そういう病は伝搬性が高いと聞いている。自分では理性を保っているつもりでも、傍から見たらとうに手遅れなのだ。


「彼氏、いる?」

「いません」

「結婚してる?」

「質問はひとつとおっしゃいました」

「ごめん。ふたつだ」

「……してるわけないじゃないですか。わたしを何歳いくつだと思ってるんですか?」


 俺は津木野ヒカリを信じることに決めた。

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