二章 無花果

4

 津木野ヒカリと連絡先を交換してから一日。

 未だ彼女からは何のメッセージも届かない。


〈こんにちは〉

〈昨日は突然話しかけてごめんなさい〉

〈怪我の具合はどうですか?〉


 何度もアプリを起動させては閉じ、文字を打っては消す。メッセージを待ち続けるのは苦痛だ。

 ここは勇気をだして、気軽に一言。


〈今なにしてる?〉


 いやいや。さすがに馴れ馴れしいだろ。気の置けない間柄ならまだしも……。

 第一、あちらから連絡すると言われた手間、俺からメッセージを送るのはマナー違反である気がする。

 スマホを秋用コートのポケットに沈め、切らしていた洗剤を購入しに出掛けた。

 ころ。

 坂の上からなにかが転がってくる。

 ころ。ころ。

 果物だ。――また無花果? どこから?


「すみませえんっ」


 女性の声。

 まさか津木野ヒカリ――


「拾ってくださってありがとうございます!」


 ――ではなかった。

 俺と同年代くらいの女性だ。

 思いっきりお辞儀をした勢いでリュックから書類や名刺の束がばらばらと落ちた。


「ああっ。ごめんなさい。……もうっ、いや。今日はツイてないわ」

「大丈夫ですか?」

「全然だめ。これから客先で打ち合わせをするのに、資料も汚れちゃったし」


 声からエネルギーがほとばしり、学生時代は水泳か陸上なんかの個人競技をしていたのではと想像させる、そんなタイプだった。


「……訪問前なのに、八百屋で買い物ですか?」

「ばかみたいでしょ? 上司がね、どうしても無花果が食べたい気分だから買ってこいって言うの。でも打ち合わせのあとじゃ八百屋は閉まっているじゃない。スーパーで売り切れていたらそれこそ最悪だし、罵倒されるに決まっているわ。それで打ち合わせの前に買っておこうと思ったんだけど完全に裏目に出ちゃった。資料を印刷し直していたら遅刻だわ……」


 ひどい上司はどこの会社にもいるらしい。

 書類に付着した土を払う指先は、乾燥してささくれ立っていた。


「ああっ。リュックも壊れてる!」


 小さな金具が歪んでいるのだった。俺は鞄から携帯用工具箱を取り出し、ペンチできゅっと金具の形を整える。


「――はい」


 彼女は大きな眸をさらに丸くし、お礼を言うのも忘れて呆気に取られていた。営業先でなにが起こるかわからないので、簡単な工具と救急セット、ぱっと食べられるお菓子を持ち歩くようにしている。辞めた今も、その習慣は抜けない。


「これくらいの汚れなら『急いでいたらリュックが開いて書類が散らばってしまった』と正直にお伝えしたら大丈夫ですよ」

「そうかしら」

「ついでに、『拾うのを手伝ってくれた通りすがりの人から無花果をもらったので、よろしければ……』とお渡ししてみたらいかがですか」

「あはは。冗談はやめてよ――って、もしかして本気で言ってる?」

「誠意さえ伝わればどんなことも好意的に取られるものですよ。営業で勝ち抜くコツは、相手の印象に残るストーリーが作れるかどうかです」


 彼女はぽかんとして、リュックのジッパーを閉める手を止めた。


「……あなたの言うとおりかも。あたしに足りないものって、そういうユーモアなのね。堅物ってよく言われるの。あなた、同業者?」

「元営業職です。今は――転職活動中ですが」

「へえ。ずいぶん引き留められたんじゃない? デキる営業マンって感じだもの」


 まさか。

 かつてトップだった成績は、退職直前には最下位に転落した。最終出勤日に荷物を取りに来た俺に話しかける者は誰一人としていなかった。


「じゃあ行くわ。ほんとうにありがとう」

「上司に献上する無花果が足りなくなれば、うちに潰れていない無花果がひとつくらいはありますので」

「ねえ、それって口説いてる? それとも職業病?」

「ただの冗談ですよ」

「ふふ。あなたって変なひと。……もしほんとうに困ったら、連絡してもいい?」


 昨日と今日で、ふたりの女性と連絡先を交換するとは、妙なことは続くものだ。

 多辺たべ可乃子かのこと名乗った女性は、颯爽と坂をのぼって行った。どうせ連絡は来ないだろう。彼女はそういう性格だ。俺にはわかる。これきりだろうけど君の商談が成功しますように――と健闘を祈った胸ポケットがぶるっと震えた。


〈津木野ヒカリ からメッセージが届いています。〉


〈折原さん。こんにちは。明日の十時、ここの喫茶店に来てください〉

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