3
疲弊しきった背筋に木枯らしが容赦なく吹きつけてキイキイと軋む音は、幼年期に遊んだブランコの音に似ている。
どんなに懐かしい童謡より、どんなにうつくしいクラシックより、心に染みる音。
キイ、キイ。
キイ、キイ。
「勘違いするなよ、糞ったれ。やる気がねェんなら辞めちまえ。誰もお前なんか引き留めたりしねえぞ。エエッ? まるで部署の一員みたいなデカい顔していやがるが、いい機会だからハッキリ言ってやる。ほんとうは、お前なんかはいないほうが、俺たちの仕事はずうっと円滑に回るところを、その体たらくじゃアどこにも引き取り手がないだろうから可哀想だと思って、渋々雇ってやっているんだ。わかるか? わかったらさっさとA社とB社に謝罪に行ってこい。今すぐ、全部俺が悪かったですって土下座してこい。……ん? 昼飯がまだだって? おい、聞いたかよ? てめェの仕事も処理できないゴミ虫が昼飯って……ハハハ。そんなに腹減ったのならイイモン食わせてやるよ。なあ折原――」
キイ、キイと猿みたいに喋りやがって、騒がしいことこの上ない。
いやな記憶は、再生ボタンを押さずとも自動的にリフレインして脳味噌に流れつづける。
キイ、キイ――折原。キイ、キイ――。
だから俺は今日も、なけなしのお金で電車に乗る。
「コンニチハ、折原さん。調子はいかがですかぁ?」
「はい。最近は睡眠時間も取れていて、いやな記憶を思い出す頻度も減りました。そろそろ働こうかと、このあとハローワークへ行ってみるつもりです」
「焦りは禁物ですよ。折原さんの心はマラソンを走ったあとの肺と同じ状態で、息を整えている最中なんですからねぇ」
医者は「じゃ、お薬はいつもの量を出しておきますんで。お大事にぃ」と早々に締めの言葉を告げた。せっかちな先生だ。
「ありがとうございます、先生」
「あっ。無花果はお好きですかぁ? たくさんいただいたのでいくつかもらって帰ってくださいよ」
無花果を詰めた紙袋と、処方箋の入ったビニール袋のふたつを提げて階段をのぼり終える。
……今日は津木野ヒカリに会えなかった。
そりゃあそうだ。通院スケジュールが偶然合うなんて奇跡、そうそう起こるはずもない。失望は友達だ。これまでだって上手く付き合ってきたじゃないか。次の通院では会えるかもしれない。落ち込んでいたら成就するものもしやしないぜ。
くじけそうな気持ちを奮い立たせ、予定通りにハローワークへと足を運ぶ。
昨今の不況で街は失業者だらけ、すでに溢れかえって水から揚げられた魚さながらに皆息絶え絶えである。手当頼みの財布も、そろそろ、空っぽになりそうだ。
室内は暖房を切っているらしく異様に寒かった。誰もがかじかむ指に息を吐きかけて耐えている。その上、椅子も冷たい。
たっぷり一時間半待たされてようやく名前を呼ばれたとき、俺の尻はすっかり感覚を失っていた。
「どうしてこの人が先に呼ばれるんですかっ」
聞き覚えのある声に俺はぎょっとして背伸びをした。あの赤いセーターは間違いない。仕切り板の向こうで津木野ヒカリが頬を紅潮させてぎゃんぎゃん吠えているではないか。
クレーム慣れした様子の職員は、ネクタイをぎゅっと締め、彼女に対して毅然と振る舞う。
「順番が違うじゃないですか!」
「いいえ。順番通りです。あなたは求人の紹介を希望されていますね。今カウンターに呼ばれた方は紹介不要で手続きのみですから、そもそも並んでいらっしゃる列が異なるのです。順番にお呼びいたしますから、あちらの椅子にかけてお待ちください」
「そっ……そんなの詭弁です。だって同じ番号札だし、同じカウンターじゃないですか」
「同じに見えても手続き内容が違うのですから、違うのです」
「納得できません。おかしいおかしいおかしい。じゃあわたしも紹介はいらないです。手続きだけでいいです」
「じゃあ番号札を取り直してください」
「おかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいですよ!」
彼女の癇癪に室内は騒然とし、職員がどこからか警備員を連れて来ると、津木野ヒカリは別室へ引きずられて行った。
いつもああやってクレームをつけて回っているのか?
女性職員が「お知り合いですか?」と尋ねた。返答次第では、彼女を連れて帰って欲しそうな目をしていた。
「あー……違います」
嘘ではない。だってただの片思いだ。椅子のほつれたカバーの継ぎ目からは座板の木目がじいっと俺を見ており、責められているみたいに感じた。
結局ろくな求人もなく、肩を落としてハローワークの正面玄関を出ると、ちょうど津木野ヒカリが並木道をとぼとぼと歩いて行くのが見えた。
数秒間逡巡したのち、俺は早足で彼女を追いかけ、「あの!」と声をかけた。
「すみません。覚えていらっしゃいますか。俺、先日薬局でお会いした者で――」
振り返った彼女の顔を見て、俺は絶句した。
打撲のような赤黒い痣。
腫れた頬に、ぐしゃぐしゃになった涙のあと。
さらさらの髪は誰かに掴まれたのだろうとわかって、口の中いっぱいに鉄の味が広がった。無意識に舌を噛みしめていたのだった。
ハンカチを差し出すと、彼女は目を丸くして、おずおずと受け取った。警戒心を解いてくれたらしい。
「……鼻をかんでもいいですか?」
「あ、どうぞ」
遠慮のない音が秋空に響く。彼女はハンカチに鼻水をつけ、ひっくとしゃくりあげた。
「うっ。う……わ、わたし、〈敵〉にやられたんです……」
枯れ葉の積もったベンチの上で子どものように膝を丸め、彼女は言った。
「敵? あなたに敵がいるんですか?」
「ひっく……うっ……。今回はハローワークの職員と、警備員に扮していました。わたしが意地でも順番を正そうとするものだから、こんな卑怯な手に出たんです……ううーっ。悔しいっ!」
また、ちーんと鼻をかむ。
……なんの話だ?
「よくわかりませんけど警察に行きましょう。こんな暴力は到底許されませんよ」
「無駄ですっ。公僕は上層部になればなるほど敵の息がかかっています。どうせもみ消されるか、もっと悪いことになるでしょう」
「ええっ? じゃあせめて病院に」
「そうですね、病院は行きます。ひとりで大丈夫です。こんな怪我、折原さんが同行したら変な疑いをかけられかねません」
津木野ヒカリはそう言って、力なく笑った。俺は彼女が別室に連れていかれる一部始終を静観していた。あのとき俺が割って入っていればよかった。薬局ではそうしたように。なぜそうしなかった? 面倒だったから? 拒絶されたくなかったから?
エゴではないか。後悔の胃液が、食道を伝って「お前のせいだぞ」と喋った。お前はもう被害者じゃない――立派な加害者だ。上司にやられっぱなしのお前を見てみぬ振りした同僚たちと同じだ。
「な、なにか俺にできることは」
「ありません」
被害者であるはずの津木野ヒカリは、凛として俺の助けを断った。
それじゃ罪を償うことすら赦されないではないか。困る。困る。困る。俺はずっと加害者ではいたくないのだ。
「なにかあるでしょう。俺は細身ですけど一応は男です。あなたよりいくつか年上です」
「男だろうと年上だろうと関係ありませんっ。どうせわたしのこと、変な女の子だって思ってるでしょ」
「いや変っていうか、かわいいなって」
「お世辞は結構ですっ。……ハンカチは、えと、ありがとうございました。洗ってお返ししますので連絡先を教えてくれますか」
「も、もちろん。喜んで。これ――」
「――登録できました。では、敵と戦うのにいそがしいので、落ち着いたらわたしから連絡しますね」
俺は反射的に、起立した彼女の腕を掴んでいた。
「なぜ俺の名前を知っていたんですか?」
「たってハンカチに書いてあります」
簡潔に答え、彼女は俺の手を優しく振りほどく。持ち物に記名するのは近頃の癖だった。
津木野ヒカリは並木道をふたたび歩いて行った。
もらった無花果のいくつかは紙袋の中で潰れてしまっていた。
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