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運よく待合のソファは満席で、自然な流れで彼女の隣に腰かけることができた。椅子の破れ目から飛び出した黄色い綿は、青天霹靂の恋に対する注意信号かもしれない。
彼女の横顔は平坦で、左右も非対称で、けして美人とは言えない。しかし眸はとくべつだ。近くで見ればそのかがやきは光の反射や潤いによるものではないと明確にわかる。
虚ろなのだ。
だからまばゆい。
あちこち観察しているようで、その実なんにも見えていないような夢見がちな虚無――純真と言い換えてもかまわないだろう。
さんざん現実に打ちのめされ、一時はみんな死んでしまえと呪い、処方される薬によってなんとか生き延びているだけの腐りかけた俺の肉体が金輪際持ち得ない気がするものを、津木野ヒカリはまだたっぷりと有しているように思えてならない。俺はそのお零れにあずかりたいのかもしれなかった。
「順番が前後いたしますが、
名札に初心者マークを付けた薬剤師は、俺の名を呼んだ直後、「ひっ」と驚いて薬の入った袋を台上に取り落とした。
「ちょっとお。どういうことですかっ」
どんっと細い肩にぶつかられて俺は仕切りの外に押し出される。痛みは不快感を伴ったが、すぐに高揚へと変わった。
「お、お客様……どうされました?」
「どうもこうもないですよ。どうして順番が前後するんですかあっ!」
津木野ヒカリは顔を真っ赤にして震える拳を振り下ろした。錠剤たちがどんっとトレーの上で跳ねる。
「も、申し訳ございません。処方の内容次第で、先に準備が出来たお客様からお呼びしております。津木野さんも間もなく――」
「間もないんだったら、あとの人をちょっとくらい待たせたらいいじゃないですか。どうしてわたしが先だったのに、逆になるんですか。おかしいじゃないですか。おかしいですよね?」
奥からさっと現れた男性薬剤師が、「お客様、お客様、申し訳ございません!」と低姿勢で割って入る。この慣れた動作、どうやらこの薬局のリーダーらしい。
「お客様、お客様。ただいま準備が整いましたので、二番カウンターにどうぞ」
「二番~? だからどうしてわたしが二番なんですか。おかしいおかしいおかしいですよ。わたしが二番目なら二番カウンターでいいけど、確実にわたしが一番、あの男の人は二番目だったのだから、辻褄が合わないですよね。同時っていうのも変ですよ。絶対に変」
「あ~……」
薬剤師のリーダーは共感するような、納得したような、でもやっぱり疑問符がついた煮え切らない相槌を打ったまま硬直してしまった。
「あの――」
彼女は、きっとこちらを睨みつけた。
初めてその眸が俺の姿を映し、いたいけなハートがずきゅんと唸る。
「――自分は急いでいませんから、あなたが処方の薬を受け取って会計を済ませるまで待ちましょう。俺は二番目で大丈夫ですから。ね?」
「当たり前じゃないですかっ。わたしもべつに急いでいるわけじゃありません。正当性を主張しているんです。恩着せがましく言わないでください!」
噛みつかんばかりに吐き捨てて、津木野ヒカリは背を向けた。
あれっ、想像したような展開にはならなかったな。てっきりここからラブストーリーが開幕する流れになると思ったのに。うーん……思いのほか気性が荒いらしい。
感謝されるだろうと意気揚々とでしゃばった鼻っ面を折られてしまい、ガックリと落胆しつつ、すごすごとソファまで後退る。
赤いセーターの背中には〈ナンパお断り〉と看板を掲げてあった。
一目惚れはあっけなく、当たることもなく、からからと砕けた。ふん。かまわんさ。これでいいんだ。もともとアプローチなんかできっこなかったのだ。だって俺にはもう、他人と真正面から向き合う気力は1mgだって残っていない。おそらく心療内科に通っている連中の大半がそうだ。疲れ果てている。患者本人の性格や心を病むに至った経緯はべつにしても、通院と服薬というのはそれだけで心身を疲弊させる労働なのだから。
しかし目の前の彼女はまったくなんにもすり減っていないようだった。それとも摩耗したからこそ先手を取って周囲に噛みつくことで防衛しているのだろうか。だとしたら哀れだ。
哀れ?
――どこが? その見解はきっと間違いだ。だって見てごらんよ。津木野ヒカリはさっきまでの剣幕はどこへやら、人懐こい態度で、薬剤師による処方内容の説明に耳を傾けている。絵本の朗読に聞き入る幼稚園児みたいだ。なんて無垢なのだろう。
処方箋を受け取り、薬局をあとにして地上に出るとすでに西日が差していた。きょろきょろと津木野ヒカリの姿を捜すも、とうに帰ってしまっているみたいだ。
ああ、残念だ――と黄色い落ち葉を踏みしめたとき、彩りの気配が頬を撫でた。奥底からふつふつと湧きあがる泡がはじけて、モノクロームの世界が、津木野ヒカリとの出会いを起点にして一秒一秒変容していく。
いつもと変わらない病院からの帰り道。寂れた商店街も、息苦しい電車も、無愛想なコンビニ店員も――なにもかもが神様によってもたらされた素晴らしい贈り物に見える。
世界はこんなにもかがやいていた。
これまでの俺には津木野ヒカリの存在が足りなかったのだ。
彼女が好きだ。愛している。
もう一度会いたい。そして次に会うときは怒った顔ではなく、笑顔をこちらに向けて欲しいなあと思った。
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