on the line.

緒音百『かぎろいの島』6/20発売

一章 唄う眸

1

 キイ、キイ。

 キイ、キイ。



 ――その女子大生とは心療内科の待合室で出会った。

 赤いセーターがよく似合う白い肌にぽつんと膨らんだニキビの桃色、スカートから覗いた細い足首の引っ掻き傷に交差して貼られた水玉模様の絆創膏。

 脚をパタパタとさせるたびに錆びた椅子がキイ、キイと軋む。殺風景な待合室において、彼女はひとりだけ紅葉色の存在感をはなっていた。

 誰かがテレビのチャンネルを変えた。再放送のバラエティー番組は、海外で流行中らしい珍動画を特集している。人面犬、双頭のワニ、新種の猿……あからさまな作りものの連続に内心うんざりしつつ、俯き加減にじっと順番を待つ患者たち。そんな中で俺だけが彼女に釘づけだった。

 彼女はプリーツスカートをひらひらとさせて立ち上がっては、ふたたび座ったり、院内のあちこちに視線を泳がせたり、膝に置いた児童書を一気に何頁もめくったり、不意にくすくす笑ったりハミングしたりして、少女みたいでまあなんてかわいらしいこと。


「るん。……ふふっ。神様ったら。んふ……」


 まるで違う舞台にいる女の子は、俺の世界にはこのかた登場したことがない。紗幕の向こうにいる。彼女の姿はきらきらとぼやけて、顔立ちすらも明瞭でない。怠けずに眼鏡の度を合わせておくんだったなと後悔した。

 聡明そうな顔立ちに宿った双眸の幼稚さがアンバランスで、心と体がべつべつの方向へ歩こうとしてばらばらになっているみたいに見えた。

 受付の女性が「ツキノさん、ツキノヒカリさん」と呼び、ずいぶんな名前だなあと感心した矢先、女子大生はぴょこんと挙手をした。


「はあい。るんっ、るる……」


 勢いよく立ち上がったかと思うとスキップでもせんばかりにうきうきと診療室へ吸いこまれてゆき、あっと思う隙も無く、ついでに俺の心まで持ち去ってしまったのだった。

 ――恋心特有の耳障りな動悸がした。



 受付の女性が中に引っこんだ間を見計らって、そうっとカウンターに置かれたままの名簿を盗み見る。


〈津 木 野  ヒカ り〉


 小学生が書いたような筆跡にまたしても心臓が五月蠅くざわめいた。やめろ。きゅんとするな。

 字が汚い大人にろくな人間はいない。だってそうだった。みみずにも失礼なほどに雑な文字、なんと書いたのか尋ねると鬼の形相で癇癪を起こすので、何回も読み違え、客先に伝達ミスをし、全部俺のせいにして――ああ、やめよう、あいつを思い出すとまた眠れなくなってしまう。

 ペン先から意地汚さが滲み出ていたあいつと〈津木野ヒカリ〉はまったく違う。字体のセンスが欠けているだけで、彼女の筆跡はとても丁寧だ。まるで心の真っ直ぐさが表れるようではないか? きっとやさしい女性なのだ。

 ばか。違うって。俺はどうしたっていうんだ? さっきから知りもしない相手のことをああだこうだと想像したりして気持ちが悪い。まさかこの年齢になってひと目惚れだなんてことはあるまいな。ばか野郎。情けない。通院中のくせどこにそんな経済的、時間的、精神的余裕があるんだ?

 ああ、でも――

 津木野ヒカリ。美しい名を持つ字が汚い女性。彼女がどんな風に男に笑いかけ、どんな会話をし、どんな相槌を打ってくれるのかを知りたい。知りたくってたまらない。好きだ。俺は、もう、とっくに君が好きなんだ。



 先に会計を済ませた俺は、あとから彼女がやって来るのを期待して、雑居ビルのエレベーターホールに立ち、スマホをいじる振りをして小一時間を過ごした。

 これはストーカー行為だろうか?

 違う。

 断じて違うっ。

 べつにどうという魂胆もない。声をかけるつもりすらないのだ。とうぜん怖がらせようなんて微塵も思っちゃいない。ただもう一度、あの――まばゆい眸が見たいだけ。傷ついて渇いたこの胸に、一滴のきらめきを落として欲しいだけなのである。


「るんっ……」


 とてつもなく長い時間が流れ、ようやく彼女が現れたときにはスマホのバッテリーは赤く点滅していた。彼女を診療した医者はさぞかし長いこと彼女のカウンセリングに時間をかけたのだろう。俺の診察はものの十分も要しなかったくせに、もしかしたら津木野ヒカリがかわいいからって依怙贔屓したのではなかろうか。

 エレベーターが到着し、鼻歌を唄う彼女の背後にそしらぬ顔でつく。足首の絆創膏が剝がれかかっている。巻き髪が揺れる。箱が下降する。地下二階にある薄暗い薬局へと歩く。彼女のあとにつづいて、陰鬱な表情の薬剤師に処方箋を提出する。


「順番にお呼びしますから、ソファにおかけになってお待ちください」

「はあい」


 津木野ヒカリはまるで母親のお手製クッキーが焼きあがるのを待つ少女のような顔をして、薬が準備されるのを待っていた。

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