蛇口と青空

譜久村 火山

第1話

 初夏の暑さと前日降った雨のせいで、じめじめとした嫌な土の匂いがする。

 遠藤は体操服の短パンに、サッカーのユニフォーム風のクラスTシャツを着て、頭にはクラスカラーの赤い鉢巻きをつけていた。

 校庭の端。水を流し続ける蛇口が反射する。誰かが閉め忘れたのだろう。

 遠藤はそれをただ見つめていた。どんよりとした空気の中を、澄んだ水が切り裂くように落ちていく。と感じられれば爽やかな気持ちになれるだろう。しかし遠藤はただ得体の知れない焦燥感を抱くだけだった。


 七月に入ってすぐ、同級生の筒村が教室の隅にある遠藤の席にやってきた。

「おい遠藤。スポ大の種目、8人制サッカーにしといたからな」

 スポ大というのは、クラス対抗スポーツ大会の略である。いつも通り、筒村の朗らかな声は聴き心地が良い。

「いやだよ。俺はドッジボールにするよ」

 遠藤は数学の教科書を抽斗から取り出しつつ答える。

「おいおい、そんなこと言うなよ。元サッカー部のエースがサッカーしないで、どうする」

「お前の言った通り、俺は“元”サッカー部。それでお前は現役。お前がいれば勝てるだろ」

「そんなことねぇよ。俺たち文系はただでさえ男子の人数が少ないんだ。特にサッカー部は、俺とお前以外ほとんど理系だ。6組なんて8人のうち6人がサッカー部なんだよ」

(だから俺は“元”だ)

と遠藤は心の中で呟く。

「素人よりは実力あるだろ。俺は何としても優勝したいんだ!」

 筒村が熱く語る。確かにそうかもしれない。それに、ドッジボールはそんなに得意ではない。だからといって、サッカーをしたくはなかった。それこそ現役の奴らと試合する時は気まずい。そして、疲れたくない。たとえ勝ったとしても、所詮はスポーツ大会。将来なんの役にも立たない。なら、する意味なんてあるのだろうか?

「じゃ、サッカーは諦めれば」

 その言葉は自分でも冷たいと思った。でも気がつけば口から溢れていたのだ。

「なんだよ、それ。いつまで逃げ続けるつもりだ。臆病者」

 筒村が凄い形相で睨みつけてきた。筒村は心情がそのまま表情に出る奴だ。やはり怒らせてしまったようだ。遠藤も睨み返すが、すぐに視線を逸らした。それを合図に筒村は去っていく。

 次の日グループラインで参加種目を確認すると、遠藤は8人制サッカーに登録されていた。


 当日。それまでの雨が嘘のように眩い朝日が、部屋に流れ込む。

 遠藤は思わず、目を細めるがすぐにその明るさに慣れた。朝が強いのは、唯一の取り柄と言っていい。

 部屋を出る前に気持ちの整理をしたくて、クローゼットの扉を開ける。特に意味のない行為だったけれど、なぜか中学生の時に壊したゲーム機が目に留まった。

 リビングに降りていくと、母がいつも通りお弁当を作っている。父は出社したようだ。

「お母さん」

 キッチンの入り口でそう語りかける。

「今日、体調悪いから学校休む」

 ついに言い切ってしまった。仮病を使うなんて初めてだ。いざやってみると、罪悪感をすり潰したような感覚がした。

 母は表情を変えずに、卵焼きを弁当箱の隅に詰める。この沈黙が心の中の嫌な感覚を倍増させていく。

「駄目」

 母が菜箸を置いて言った。そして、濡れた手をシンクの横に掛かっているタオルで拭く。

「仮病でしょ」

 その言葉には、さらなる罪悪感と少しの安堵感を覚えた。

「なんで?」

 遠藤は好奇心から、聞かずにはいられなかった。

「そりゃ分かるよ。母親なんだから」

 そう微笑んだ母は次に、遠藤の大好物である冷しゃぶを作り始めた。

 遠藤はそれ以上そこにいる必要が無くなり、部屋に戻って、クラスTシャツに腕を通す。


 その日は、いつもより早く学校に着いた。いつも遅刻ギリギリの筒村はまだ来ていない。

 それを確認した遠藤は、教室を見渡し目的の人物を見つけ、彼がいる、黒板の目前にある席へ近寄っていく。

「なぁ、佐藤」

 遠藤が後ろから声をかけると、携帯を見ていた佐藤が飛び上がって振り返る。

「ど、どうしたの?急に」

 佐藤は声をかけてきたのが、あまり話したことのない遠藤だと分かってさらに驚いたようだ。

「スポ大の種目のことなんだけど。サッカーの補欠に入ってるよね?」

「そうだけど」

「悪いんだけど、変わってくれない?」

 佐藤はキョトンとしている。そして少し宙を見つめてから言った。

「それは、僕が試合に出て、遠藤くんが補欠になるってこと?」

 遠藤がそれに頷くと、佐藤は全力で首を横に振る。さらに、両手をピンと伸ばし、それを首に連動させて左右に動かした。

(佐藤って、素直で面白いな)

 と遠藤が思っていると、佐藤がなぜか恥ずかしそうに肩をすくめて言った。

「む、無理だよ。サッカーやったことないし、足引っ張るだけだよ」

「そんなことない。陸上部で長距離のエースなんだろう?走ってるだけでも、相手は嫌がるから」

 遠藤が言うと、佐藤はまた嬉しそうに顔を綻ばせたが、すぐに考えるような素振りをしてもう一度首を横に振る。

「やっぱり、自信ないよ。ごめんね」

 それを聞いた遠藤は、それ以上説得するのも申し訳ない気がして、

「そうか。ありがとう」

 と言って、佐藤の下を去る。

 自分の席に戻った遠藤は、周りに誰もいないのを確認し、ため息をついた。これで、遠藤がサッカーに出ることが決定したのだ。


 真夏の日差しは遠藤を不快にさせた。やりたくない事をこの炎天下でするのは残酷にも程がある。

 初戦の相手は遠藤らと同じ文系のクラスで、サッカー部は一人もいない。

 グランドでは、本来のサッカーコートが分割されミニコートが四つ出来ていた。そのうち、最も校舎から遠い一つが遠藤らのピッチだ。

 遠藤は重たい足でコートに入る。コートの側では、筒村が女子達に

「応援頼んだぞ!」

 と言って、盛り上げていた。そうして応援隊が温まった後、ピッチに入ってきた筒村が佐藤を連れてきて円陣の音頭を取る。

「絶対勝つぞ!」

 という筒村の声に合わせて、足を前に出し

「オー」

 と叫ぶ。そんな単純な事をしていても、遠藤は他のみんなとは違うような感覚がしていた。歪な円である。それを察してかは分からないが、筒村が遠藤の背中を叩いて喝を入れてから、ポジションについた。

 やがて、試合を開始するホイッスルが鳴る。

 遠藤はディフェンスを任されていた。後ろから両チームの選手がボールに群がる姿を眺める。そんなに必死になって、何になるんだと心の中で呟く。

 そんなゴタゴタの中、抜け出した筒村が先制点を奪った。応援席がここぞとばかりに湧く。筒村自身も跳ね上がっては、チームメイトとハイタッチをしていた。

 そのうち遠藤の番がやってきて、筒村が両手を上げるが、遠藤は合わせない。筒村は頬を膨らませ遠藤を睨みつけて、帰っていった。

 そしてまた、試合が再開すれば皆がボールを追いかける。まるで餌に群がる魚みたいに。

 そのとき、突然遠藤の元にボールがこぼれてきた。全く予期していなかった遠藤は、ボールを蹴ろうとしたが、足が思うように動かない。そうやって蹴り損ねたボールは運悪く、相手のフォワードへと渡ったのだ。

 幸いなことに相手はシュートを外した。クラスの女子達からも安堵の声が漏れる。だが筒村はただ一人、遠藤に咎めるような視線を送った。


 試合はその後筒村が追加点を奪い、2対0の勝利に終わった。クラスメイトが喜びながら教室に戻る中、遠藤は筒村に引っ張られていく。

 二人は人気の少ない、校庭の端にある水道までやって来た。

「お前、なんだよあのプレーは。なあ」

 筒村が立ち止まるや否や、声を荒げた。

「別に。今の俺の実力はあんなもんだよ」

 それに対して遠藤は冷めきっていた。ミスをしたのは事実だし、筒村が怒っているのも至極当然で責めることはできない。でも、遠藤はいくら怒鳴られても心が変わることは無かった。

 そのうち、筒村の声が遠のいていく。鋭い日差しが肌を刺す感覚。生ぬるい唾の味。鳴り響く蝉の合唱。誰かが閉め忘れた蛇口。

「おい、聞いてんのか」

 その一言で、意識が筒村の言葉に戻る。

「あぁ」

 とりあえずそう言ってみた。

「嘘つくなよ。聞いてなかっただろ」

 そこで筒村の言葉が詰まった。二人の間に気まずい沈黙がこぼれ落ちる。蝉の声が音量を増し、どこかのクラスが点を決めたのか、校庭から大歓声が聞こえてきた。

「もう戻る」

 それだけ言って筒村が向きを変えた時、視界に水が流れ出たままの蛇口が目に入ったようで筒村の動きが一瞬止まった。

 そして、

「誰だよ。出しっ放しにしたの」

 と誰に向けたわけでもない言葉を置いて、水道を止め、教室に帰っていった。

 遠藤はそれを見ていて何となくやっぱりかと感じる。なぜか筒村なら蛇口を閉めると確信していたのだ。そして筒村がその通りに行動したことに対して納得感があった。


 二回戦目の相手は、理系の中では最もサッカー部の少ないクラスだった。それでも3人はいるけれど。

 筒村は遠藤と目が合うと目を逸らしたが、他の奴とは今まで通りに接していた。

 やがてキックオフの合図が鳴る。

 遠藤はまたディフェンスで、コートの後ろから試合を見ていた。さすが経験者がいるからか、相手は一回戦とは違ってボールに群がらず、ピッチを広く使ってパスを回している。

 こうなると初心者が多い遠藤のクラスは厳しくなってしまう。

 だが、攻撃の選手である筒村が積極的に守備に参加しているおかげで失点はしていない。

 遠藤は前の試合と同様に、自分からは走らずにボールが近くに来たら蹴ることに徹していた。それでも汗はかくし、初夏とは思えない暑さが体力を吸い取っていく。

 だんだんとストレスが溜まってくる。ここで何をしているのか。何のためにここにいるのか。そんなことを考え始めると、思考は迷宮入りする。

 そのとき、相手の応援団から「あー、」という残念そうな声が上がった。野球部で長身であるうちのゴールキーパーが相手のシュートをキャッチしたのだ。

 うちのクラスの女子達からは「ナイスキーパー」と声援が飛ぶ。

 そしてそのキーパーは、近くにいた遠藤にボールを転がした。遠藤はまさか自分に来ると思っておらず、慌ててトラップするがボールは前に流れてしまう。

 慌ててボールを追おうと前を振り返った瞬間、相手クラスのラグビー部の奴がボール目がけて突進して来ていた。

 遠藤は避けきることが出来ず、両者の足はもつれ、遠藤だけが膝から倒れ込んだ。相手は、その屈強な体幹で仁王立ちしている。

 そこで審判の笛が鳴った。

(まぁ、ファウルになったならいいか)

 そう思って立ちあがろうとしたとき、

「よくねぇよ」

 と駆け寄ってきた筒村が言った。そして筒村は遠藤の足元を指差す。

 視線を自分の膝に向けると、両膝の皮が半径3センチほどの円を描くように破れ血が出ていたのである。

 他のクラスメイトも集まってきて、

「大丈夫か?」

 と声を掛けてくれる。

「悪い、血流してくる」

 遠藤はそんなクラスメイト達にそう言って、ピッチをさった。

 筒村も流石に何も言えないようだ。

 後ろでチラッと、補欠の佐藤が恐る恐るコートに入っていくのが見える。

 怪我をしたのは嫌だったけど、これで罪悪感なく休むことができるので、少しホッとした。


 痛みはほとんどなく、一人であの蛇口の下まで歩いた。すると、さっき筒村が止めたはずの蛇口からまた水が流れている。

 遠藤は足を洗うこともなくそれに見惚れていた。熱射が降り注ぐ中、透明に澄んだ水が落ちていく様は見ているだけで涼しくなる。

 そして満を辞して傷口を蛇口の下まで運ぶ。そのとき、冷たい衝撃が足の表面から芯に染み渡り心臓までも冷やした。

 今まで死んでいると感じていたわけではないのに、なぜだか生き返ったと思ってしまう。この感覚はなんだろう。

 そんな感動を噛み締めていると、かなりの時間が経っていたらしい。

 遠くから筒村が歩いてくるのが見えた。しかし遠藤は気づかなかったふりをして、筒村の姿が近くに来てから

「おう、来たのか」

 と言った。筒村はむすっとしている。

「試合どうだった?」

 遠藤は一応聞いてやる。

「勝った」

 筒村が静かに言う。

「よかったじゃないか」

「佐藤のおかげだ。最初は足引っ張るからごめんって謝り倒してたのに、試合が再開したら誰よりも走ってた。そのおかげで相手のサッカー部連中はやりずらかっただろうな」

 筒村は表情を変えないまま語った。

「そうか。なら次の試合も佐藤を出せばいい」

 そう言った瞬間、筒村はさらに顔をしかめた。唇をぎゅっと結び、眉を顰め顔中に皺を寄せる。

 そして遠藤をにらめつけたまま、再び静かに言った。

「本気で言ってるのか?」

「当たり前だ」

(そうだ。当たり前だ。決勝の相手はどうせ6組。8人のうち6人はサッカー部だ。うちが勝てるわけがない。そもそも勝ったところでなんだって言うんだよ。こんなスポーツ大会で本気を出して、結果に一喜一憂して何が楽しいのさ。何が残るんだよ)

「なら、一生そこで逃げ続けてろ」

 そう言い残して筒村は踵を返し去っていく。最後の言葉には怒りではなく憐れみが含まれているようだった。


 遠藤は傷を洗い終えたが、蛇口は閉めずただ空を見上げていた。そこはただただ青い。文句のつけようがないくらい統一された青だ。

(こんな青空、いつぶりだろうか?)

「そうだね、一昨日ぶりじゃない?」

 驚いて視線を下ろすと、目の前に佐藤がいた。心の中で思っていたことが、どうやら声に出ていたらしい。

「遠藤くん、たまに心の中が声に漏れてるよね」

 そう言われてハッと気がついた。そういえば、周りが自分の心の声が聞こえてるような反応をすることがあり、不思議に思っていたのだ。

「そうだったか?」

「うん。そうだよ。ところで、遠藤くんは、今までに何回青空があったか覚えてる?」

「覚えてねぇよ」

 急に話題が変わり、遠藤はつい語尾を強めてしまう。でも佐藤は気にしていないようだ。なんだか佐藤の雰囲気が変わった。まるで蝉が殻から抜け出したようだ。

「僕も覚えてない。でも気づいてないだけで、あるいは見て見ぬふりをしていただけで、青空はきっと無数にあったんだよ。大切なのはそれに気づけるか。逃げずに直視できるかだと思うよ」

 そう言って佐藤は、頭を蛇口に突っ込んだ。流れ落ちる水が髪を濡らし、滴った水で顔を洗う。次に手を伸ばして、腕全体を満遍なく水が流れていった。そして最後に泥だらけになっている足を洗う。

「遠藤くん。ここの水、なぜかいつも出しっ放しだなぁと思わなかった?」

 佐藤はタオルで足を拭きながら、唐突にそんなことを言った。

「あぁ、思ったけど。それがどうした?」

 そのとき、風が吹いた。それは夏の憂鬱を全て攫うかのような風。それを佐藤は、この世で誰よりも爽やかに受け止めているように見えた。

「あれ実は、僕がいつも蛇口を開けたままにしてたんだ」

「どうして?」

 そこで佐藤は顔を上げて、遠藤のことをまっすぐに見た。

「なんか出しっ放しの水を見てると、すごい透明で美しくて。それが蛇口から流れ落ちてるってことは、自分からも何か大事なものが溢れていってるような気がしてさ。なんだか焦ってくるんだよね。今の自分を無駄にしちゃいけないって感じで」

 佐藤が徐に蛇口の方を向く。

「でも。それも今日までかな。さっきの試合、自分ではサッカーなんて無理だって思ってたけど、がむしゃらにやってたら終わった後、みんなに感謝されたんだ。“お前のおかげで勝てた”って。その瞬間は永遠に忘れない。そしてそんな永遠を手に入れたら、もう蛇口を開けておく必要もない」

 そう言って佐藤は自ら蛇口を閉めた。

「遠藤くんにとっての永遠の一瞬は何か、今度教えてよ」

 そうやって去っていく佐藤の姿は、眩しかった。


 そしてまた一人になった。でも、今までよりも視界がクリアになっている気がする。校庭の石ころ一つ一つの違いが鮮明に見えた。

 そこで遠藤は、蛇口に視線を移す。

 年季を感じさせる錆と、錆のない銀色に反射する部分のコントラストが、煌めいていた。

「自分から大事なものがこぼれ落ちている感覚」

 そう口に出してみる。それが何かは分からない。これからもきっと答えは見つからないだろう。でも、

「今の自分を無駄にするな」

 気づけばそう呟いていた。そりゃ、怖くて、恥ずかしくて、不安でこのまま何もしないままでいたいと思うこともあるかもしれない。しかし、いつもそうやって逃げ続けていたら何も残らない。今まで頑張ってきたことも、これからの人生も無駄になる。

 そんなこと望んでないのは、分かっていた。

 そう気づいた瞬間、初めて遠藤は

「俺はこれから何だってできる。何になってなれる」

 と心の底から感じられた。

 そうして遠藤は蛇口に背を向け、歩いていく。もう振り返ることもなかった。ただ一歩を大切にして、確実にコートへ舞い戻る。決勝の相手は強いだろう。でも、まだ試合終了のホイッスルがなった訳ではない。結果は誰にも分からないのだ。

 なにより、遠藤はワクワクしていた。あんなシュートを打ってみようか。こんなフェイントを使おうか。とアイデアが無数に溢れてくる。たとえ失敗したとしても、それらを試さずにはいられないように感じた。

 そうやって歩く遠藤の先には、何度目かの青空が広がっていたのである。

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蛇口と青空 譜久村 火山 @kazan-hukumura

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