ハンカチ記念日

 久しぶりの休日をパーヴァリは堪能していた。

 やわかな日差しに照らされるあたたかな中庭。整えられた花壇に咲く花々は生きる活力に満ちて光り輝くように咲いている。嬉しげに囀る鳥達の声が聞こえてくる。

 テーブルには妻が淹れてくれた紅茶に、妻が作ってくれたマフィン。

 妻。そう妻! 

 パーヴァリ・ラントには誰よりも何よりも愛してやまない妻がいる。

 旧姓トイニ・ランタマキ。今は名実共にトイニ・ラント侯爵夫人だ。

 結婚も六年目となるのに、なぜ今は、とつくのかといえば、パーヴァリがトイニに契約結婚を持ちかけたのが二人の夫婦生活の始まりだからだ。

 パーヴァリはランタマキ家への援助を条件に、縁談避けとしてトイニに白い結婚を申し込んだ。

 結婚当初のパーヴァリの態度はそれはもう酷いもので、トイニと心を通わせ合い、誠心誠意を尽くしている今でも使用人達や、母にチクチクと言われるくらいには酷かった。

 パーヴァリにとってもかつての自分の言動は黒も真っ黒、暗黒の歴史として世界の果てに葬り去ってしまいたいくらいだった。そんな自分を捨てないでいてくれたトイニには感謝しかない。

 今日はそんな愛しの妻とゆっくり過ごせる休日なのだった。なぜ週に二日しか妻とゆっくりすごせる日がないのか疑問でしかない。近々、週休三日制の議案を提出するつもりだ。

 契約を白紙にし、行き違いを解消し、本当の夫婦となってからトイニの笑顔が格段に増えた。

 以前は万が一にもパーヴァリを煩わせないよう、感情の露出を最小限にしていたと聞いたパーヴァリはその日の夜泣いた。自分勝手な希望を押し付け、妻の笑顔を奪っていたなど言語道断である。

 それ以降、どんな些細な理由でも妻の笑う機会を奪うことのないよう留意して行動していたら、

 トイニに不思議がられてしまった。理由を話せば、


「そんなに気になさらずとも、私は幸せですし、ずっと貴方を好きなまま、嫌うことはありませんので安心してください」


 と微笑まれ、無事にときめき死した。

 政略結婚の決まっている王太子友人からは「パーヴァリみたいに将来の妃を愛せたらいいよね」と羨ましがられている。

 そう、トイニのような妻を迎えられたパーヴァリは世界一の幸せ者なのだ。守護まもりたい、妻の笑顔! 否、絶対、何があろうとも守護る!

 ──という固く重い決意を日々していることなどおくびにも出さず、澄ました顔でティータイムを堪能していた。僕の奥さん超かわいい。

 そんな和やかな時間の最中さなかトイニが笑う。くすくすと愛らしく笑う妻にパーヴァリは思わず身だしなみを確認した。もちろんこっそりと。

 土下座も泣き顔も見られていてもやはり、できるだけカッコ悪いところは見られたくないおとこ心だ。


「トイニ、どうかした?」

「ふふ、こうして旦那様とお茶をしているなんて、まるで夢のようだな、と……」

「夢じゃないよ!」


 即座に離婚しないで! と泣きつけばしませんよ、と朗らかに言い切られ、安堵して着席した。


「旦那様と初めてお会いしたときのことを思い出していました」


 はにかむトイニの言葉に、利己的な考えで彼女に契約結婚を迫った自分を思い出し、パーヴァリは背中に滝が流れるような汗を感じた。いや、その前に酔っ払いから助けた! あれが初対面だ!

 パーヴァリは誰にともなく言い訳をした。当時の自分は今でもパーヴァリの殴りたい男ナンバーワンを冠している。


「あ、あー~、あの時は災難だったね、酔っ払いに絡まれて」

「あの時は旦那様が雇い主にとりなしてくださったおかげで、給料を減額されずに済んでありがたかったです」

「それはよかった」


 にこやかに微笑みながらパーヴァリの内心は荒れていた。給料を満額もらえない場合があった……?

 どこのどいつだ、僕のかわいくてよく気が付く奥さんの給料を引いたのは。

 不穏なパーヴァリの心情には気付かず、ふわりと春の日差しの下で咲く野花のように笑ってトイニの言葉は続く。


「実は旦那様とお会いしたのはあれが初めてではなかったんです」

「へ?」


 思いがけないトイニの言葉にパーヴァリの高速回転して該当する記憶を探した。しかしまったく分からない。一体、いつ、どこで?!

 めったに物忘れなどないはずの頭なのに、肝心なところで役に立たないなんて!

 焦るパーヴァリに変わらぬ柔らかな笑みを介してトイニはゆるく両手を結んだ。親指同士がちまちまと動いて可愛らしいその仕草は、トイニが照れているときの仕草だった。


「子どものころ、一度会っただけですから、旦那様が覚えていないのも無理はありません。

 あれは私が幼い頃、母に連れられてお茶会に行った時のことです──」


※※※


 パーヴァリは母に連れられて参加していた茶会を抜け出した。

 成長したのちに思い至ったが、この茶会は子ども達のお披露目兼、子ども同士の相性を見る機会でもあったのだろう。

 参加していたほとんどの家とそつなく挨拶をし終えたパーヴァリは、植垣に囲まれた誰もいない場所で年齢に似合わぬ重いため息を吐いた。

 知らない人間からちやほやとされるのは“そういうもの”として慣れたが、人が悪意をぶつけられる場面を見るのは不快だった。

 パーヴァリ──ラント家にはにこやかに挨拶をしていた大人達は、古い型のドレスを着ていた母娘を時代遅れと嘲笑していた。

 流行の最先端をいく服を用立て続けるのは莫大な金銭がかかる。たとえ貴族であってもたいていはほどほどに流行を追っているものだ。中には身の丈に合わぬ見栄を張りすぎ、借金に借金を重ねて破産する貴族も出るほどだ。

 母娘らは見栄などはらず、古い型を着ているだけだ。そのドレスとて、少しでも流行に近付けようという努力が窺えた。

 遠目に見えただけだったが、それでも古い型のドレスはうつくしく見えた。きっと丁重に保存され、補修されてきたのだろう。

 ラント家が古い型のものを着ていれば“素敵なアンティーク”とでも言って持て囃すのだろう大人達が育てた子どもと何食わぬ顔で話せるような心持ちではなかったため、設けられた子ども同士で歓談する時間をひとりで過ごそうと、人気ひとけのない庭園までやってきたのだった。

 母娘への周囲の仕打ちに癇癪を起こしそうになっていたパーヴァリの背を押してくれたのは母だった。今頃はきっとそれとなく母娘を庇ってくれているのだろう。

 今のパーヴァリにはまだ感情を包み隠して嫌いな相手にも応対するのはできないが、いつかきっと、誰よりも紳士らしい行動ができるようになってみせる。

 小さい胸の内に巣食うモヤモヤとした気分を払い、パーヴァリは咲いている花に視線を移した。

 茶会の主催者が自慢していただけあって、美しい庭だった。ちらりと育てている側の内面も同じように美しければ、と思う。

 庭師すら見当たらない庭園は茶会の喧騒も遠く、静かだった。

 その静かな庭にかすかな泣き声をパーヴァリの耳は拾った。

 泣き声の主を探してみれば、植垣の影に隠れるようにして少女が小さくうずくまっている。

 泣いている子がいる! 紳士として慰めないと!

 未来の紳士としての第一歩だ、とパーヴァリは少女を驚かせないよう、そっと声をかけた。


「こんにちは。どうして泣いているの?」

「……こ、こんにちは」


 パーヴァリの呼びかけに顔を上げた少女はかわいらしかった。つぶらな瞳にきらりと光る涙は止まっている。

 自分が声をかけるまでもなく泣き止んでいたんだ、と安堵と照れがないまぜになったパーヴァリが何を話そうか迷っているうちに、少女はなぜかまろく柔らかそうな自身の頬をつねり出した。


「どうして頬をつねったの?」

「ゆ、夢かと思って……」


 涙がまた出てきてしまったのか、眼をこすりはじめたので、パーヴァリは慌ててそれを止め、ハンカチを差し出す。


「こすっちゃだめだよ」

「は、はい……」


 少女はハンカチを持ったまま使うそぶりを見せなかったが、潤んだ瞳から涙が溢れることはなく、きれいだな、とパーヴァリはゆらめく瞳に数瞬魅入っていた。


「あ、ありがとうございます……」

「ううん。君の涙が止まったならよかった。

 君のドレス、手がこんでいてとても素敵だね」

「……はい!」


やはり型は古かったが、近くで見ても縫い目が分からないほど丁寧に繕われていたドレスも、その持ち主の少女も大事にされていることがよく分かったから、会話のとっかかりと、少女に笑ってほしくてドレスを褒めた。

 言ってから、もっと気の利いた文言で褒めろよ僕! とパーヴァリは冷や汗をかきかけたが、少女は拙いパーヴァリの褒め言葉に嬉しくてたまらない、といった満面の笑みを返してくれた。

 パーヴァリは自分の鼓動の高鳴りを聞いた。耳のすぐ側で心臓が脈打っているのかと錯覚するほどだ。

 じわりと顔が熱くなってくる。耳は、顔は、赤くなっていないだろうか。手のひらに汗が滲んでくる。

 こんなかわいい子の前で無様を晒したくない!

 パーヴァリは少女の名前を聞くのも忘れて走りだしてしまった。


「あの、ハンカチ……!」

「あげる!」


 なんとか彼女に手を振って、パーヴァリは庭園を後にした。

 息が上がるまで走った頬が今までにないくらい熱い。肩を上下させながら構わず頭を抱えた。失敗した……!

 そうして呻いたあとにようやく気付く。

 少女の名前を聞けなかったばかりか、少女をひとり置いて走り去るという紳士らしからぬ振る舞いをしてしまった! なんてカッコ悪いんだ、僕! 恥ずかしい! 彼女の名前を聞こうと思ってたのに! 好きなものや趣味を聞いて仲良くなろうと思ってたのに!

 顔から湯気が出るくらいに恥いったパーヴァリはしかし切り替えが早かった。

 ここでくよくよしていてもしかたない! 次に彼女に会えたらスマートに自己紹介して、名前を聞いて! 趣味や好物も聞いて! プレゼントも贈って! 仲良くなるんだ! そのためにも対人スキルを磨くぞ!

 固く決意したパーヴァリはその日からさらに稽古事や勉学に力を入れた。

 何事にも熱の入った様子で打ち込むパーヴァリを不思議に思った周囲に理由を聞かれても、


「将来父のような立派な侯爵になるためです」


 と答えて、本当の理由は誰にも教えず、大事に大事に胸の奥にしまい込んだ。


※※※


 大事にしすぎた結果、しまったこと自体を忘れ、あの日であった笑顔のかわいい少女のことも忘れ今に至る。

 ──ということをパーヴァリは思い出した。


「……っ! ……っ!」


 羞恥でどうにかなりそうな顔面を長年培ってきたポーカーフェイスで保つ。

 輝く至宝、などとたたえられる美しい顔面のうちでは感情が嵐のごとく吹き荒れていた。

 なんで今まで忘れてたんだ僕のバカ! 超バカ! 忘れず覚えていたらトイニの幼い頃から今までを近くで見られたのに! バカ!

 パーヴァリの内心百面相には気付かず、トイニは微笑している。大切な宝物を見るような視線をパーヴァリに向けている。


「あの時、母が繕ってくれたドレスを褒めていただけたのが、本当に嬉しくて……。それからずっと旦那様のことをお慕いしていたのです」

「……ッ」


 照れたことを誤魔化すように紅茶を飲むトイニはかわいかった。

 ありがとう、過去の僕。よくやった! 忘れてやがったのは許せないけど、よくやった!

 トイニもありがとう、好きでいてくれてありがとう!!!!!

 感動に打ち震えるパーヴァリにトイニがおずおずと真新しいハンカチを差し出す。隅にパーヴァリの名前が刺されていた。


「あの時いただいたハンカチをすぐにお返しできたらよかったのですけれど、当時の私には難しく……。今更ですが、私が刺繍したものでよければお返ししようと……旦那様?!」


 トイニの言葉が終わらないうちに壊れた蛇口のような涙を流すパーヴァリはハンカチごとトイニの手を包む。


「ありがとう、トイニ。大事にするね」

「い、いえ、お礼を言うのは私のほうで……」

「額縁に収めて毎日拝ませてもらうよ」

「旦那様?! 使ってください!」

「もったいなくてそんなことできないよ。額縁の意匠は何がいいかな。君の好きなプオルッカとかどうだろう」

「ハンカチに刺繍くらいいくらでもしますから、使ってください!」 飾るとか考え直してください!」

「え~……」


 その後、トイニに加勢したラント家の使用人とパーヴァリの両親にも説得され、ハンカチは無事普段使いされることになった。

 妻にハンカチへ刺繍をしてもらえる約束を取り付けたパーヴァリはご満悦であった。めでたし、めでたし。


「旦那様。旦那様が『妻が刺繍してくれたハンカチを隙あらば自慢している』という噂についてお話が……」

「噂じゃなくて事実だね」

「旦那様?!」

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期限が切れたので契約結婚は終わりにしましょう【3千PV感謝】 結城暁 @Satoru_Yuki

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