「どうしてお母様を結婚相手に選んだの?」


「他にも候補はいたでしょうに」


 トイニの部屋の前に置いたソファに並んで座っているパーヴァリとウルスラは視線を交わし合うでもなく、閉じられたまま開く気配のない扉をじっと見ていた。よく似た父娘は、やはり横顔もよく似ていた。


「そうだね……」


 パーヴァリの気のない返事に怒るでもなく、ウルスラは静かに座っている。

 パーヴァリも同じく静かに座っていた。窓の外では強い風が吹いて木々を揺らし、木の葉が散っていく。時折窓が音を立てて、それが薄暗い廊下に響く。しかしそれに逐一反応していたのはもうずいぶんと前のことで、今では二人ともぴくりとも動かなかった。


「彼女がお金に困っていたから、かなあ……」

「ふうん」


 聞いているのかいないのか、娘のなおざりな返答を父は気にすることはない。別のことに関心を奪われているからだ。

 組んだ両手を額にあてて、パーヴァリはトイニと初めて会ったときのことを思い出していた。

 トイニに会ったのは招待されて訪れたとある貴族の夜会だった。一度は仕事を理由に断ったが、仕事が終わってからで構わない、顔を出してくれるだけでいい、と熱心に誘われ、仕事上の付き合いがないので、義理で顔を出すだけでいいなら、と仕事終わりの疲れた体に鞭打つように訪問したのだ。挨拶だけで帰ろうとしたのだが、なんのかんのと引き止められ、結局小一時間はいただろうか。ようやく帰りの挨拶を述べて帰ろうと玄関への廊下を歩いていたら嫌なものを目にしてしまった。

 女給に貴族が言い寄っているのだ。酔いに身を任せ、身分差を盾に女性へ言い寄るとは見下げた貴族である。同じ貴族であるのが恥ずかしくなる。

 顔や家目的の女達にうんざりしていたが、困っている女性を見捨てるほどパーヴァリは性根が腐っているわけではない。助けに入ろうと近づくと、驚いたことに女給は平民ではなく貴族で、実家が困窮しているために他貴族の家へ働きに出ているようだった。

 “お人好しのランタマキ家”の噂は小耳に挟んだことはあったが、見たのは初めてだった。ランタマキ家当主とその妻は、何を頼まれても断らず、装飾品でも家財でも譲ってしまう貴族らしからぬお人好しで、最近では借金を背負い込み、長女までもが働きに出たと噂されていた。パーヴァリの周囲にいた女性達は皆一様に家の金で買った宝飾品やドレスで着飾っているものばかりだったので、そういう人もいるのか、珍しく感じたことを覚えている。

 酔っ払いはパーヴァリの顔を見ただけで、言い訳にもならない言葉の羅列を並べたあとは、尻尾を巻いて逃げていった。あとに残されたのはパーヴァリとトイニと、床に落ちて台無しになったワインたちだ。

 パーヴァリの服に少しだけ飛んでしまったワインに慌てた彼女を落ち着けるために微笑を浮かべたが、それを見てもトイニはパーヴァリに見惚れることなく、言い寄ることなく、惚れずに、お礼を言っただけで彼女は仕事に戻っていってしまった。自分に言いよらない女性に会ったのは子どもの頃以来だった。

 それから、なぜか彼女のことが忘れられなくて、パーヴァリはランタマキ家のことを調べた。意識して見れば招待された夜会の先々でトイニは働いていた。くるくると良く働いて、貴族だと言われねば誰も分からないだろう。

 こんな女性が――自分に惚れたりせず、媚薬を盛ろうとせず、血文字で書かれた手紙を送ってこず、既成事実を作ろうと躍起になろうとせず、一歩引いて自分と話してくれる――夢の中にしかいないと思っていたが、いた。パーヴァリは雷に打たれた思いで契約結婚の計画を練り始めた。

 トイニが働いている理由は家の借金返済のためだ。その借金の肩代わりを申し出れば、こちらの条件を呑んでくれるのでは。いや、呑ませてみせる。なぜなら彼女を逃したとして、次に彼女のような女性が現れるとは限らないのである。

 後にパーヴァリはこの時の自分を助走をつけて殴りたくなるのだが、この時は疲れ果てていて、トイニと契約結婚をすることが唯一の問題解決方法だと思い込んでいた。

 その後、計画はトントン拍子で進み、結婚式を挙げてからの結婚生活は快適そのものだった。

 実は式を挙げてしばらくは夜這い夜襲に怯えていた。トイニの一から十まで控えめで殊勝な態度は実は演技で、結婚してから襲われ、傷物にされたと騒がれる可能性も考慮していたのである。

 しかしそれはパーヴァリの考えすぎで、トイニは翌日も、一週間後も、ひと月後も、変わらずパーヴァリと一線を保ち、ビジネスパートナーとしての態度を崩さなかった。

 本当にこれまで会ったどの女性とも違うのだな、と実感してからは、パーヴァリの眼には彼女の良いところばかりが映るようになっていた。

 例えば美味しいものを食べたときに浮かべる可憐で控えめな微笑だとか、伏し目がちだから長いのがよく分かるまつ毛の間から見える瞳の美しさだとか、毎日挨拶を欠かさない律儀なところだとか、いつだってパーヴァリの話を興味深そうに聞いてくれる真摯な態度だとか、驚いた時に思わず出てしまった可愛らしい声を恥じる様子だとかの、日常の彼女にいつの間にかパーヴァリは夢中になっていて、いつまでも自分の隣で笑っていてほしいと思うようになっていた。それに気付いたパーヴァリは慌てた。

 万が一にも好きになっては困ると、トイニにあんなひどい態度を取っておいて、まさか結婚してから一年も経たないうちに貴女に恋をしました、なんて言えるわけがないのだ。言い寄られたことはあっても、自分から口説いたことはないので、どうすればいいかわからなかったせいもある。

 一年目は自分の気持ちを認められずに無駄にした。

 二年目の半分はようやく自分の思いを認めるのに使って、もう半分は自覚したとたん彼女を意識しすぎて、普段通りに過ごすことに集中していた。

 三年目からは開き直った。結婚の期間は有限で、その間に彼女にも自分を好きになってもらわなくては、離婚されてしまうと気づいたのだ。

 彼女に似合うと思った花をいきなり理由もなく渡すのはおかしいかもしれない、偶然貰ったことにして贈ったときに見せてくれた微笑みが忘れられず、あれこれと贈り物をすれば無理をするなと嗜められた。失敗。

 料理長に彼女の好物を多く出してもらえるようにかけあった。好物を食べる彼女を見られる食事の時間が楽しみになった。

 嫁姑問題は大丈夫かと使用人にそれとなく聞き込みをしたら、自分の気持ちはすっかりバレていて、旦那様の恋を応援し隊と奥様の幸せを見守り隊ができていたと知った。前者は積極的にパーヴァリとトイニの仲を応援してくれるが、後者はトイニが幸せであれば相手は問わないと言われて焦った。後者のほうが多いので、大いに焦った。心やさしいトイニは使用人たちから大人気だったのだ。

 使用人たちにはたびたびお土産わいろを渡してトイニの好きなものや、気になっているものを聞くようになった。嫁姑問題はなく、トイニは母にとても気に入られているそうだ。なるほど、母の訪問が増えるわけである。父にそれとなくどうやって見合い結婚であった母と仲良くなったのか聞き出したりした。執事が父母に契約結婚のことをそれとなく匂わせており、父母からは遠回しにトイニを悲しませないように、と釘を刺された。言われなくとも、と奮起したが、しかし、連日のアピールについて、あまりトイニに伝わっていないようなのが気掛かりだった。

 まあまだ契約終了の五年まで時間はあるのだし、始めにやらかしているのだし地道にゆっくりと溝を埋めていこう、と思っていたらすぐに四年目が過ぎ、五年目になってしまった。

 楽しい時間はすぐにすぎると言うが、なにもこんなに早くなくてもいいのでは?! と地団駄を踏みたい気分だった。しかし、トイニが終了日を忘れているかもしれない。そうであってくれ、と願いながらパーヴァリは、トイニに甘い言葉を囁いたり、花、菓子、装飾品を贈ったりしていた。


「離婚はいつにしますか?」


 しかし、パーヴァリの願い虚しく、しっかり者のトイニはきっちり契約終了日のことを覚えていた。

 なんてこったい。じーざす。パーヴァリの背中では汗が止まらなかった。侯爵としての意地で顔には出さずに済んだが、笑顔は引き攣っていたかもしれない。

 なんとかして離婚を考え直してもらわなくては、と意気消沈しながらも仕事に出かけたパーヴァリは仕事場に着くなり幾度となく奥方との危機を乗り越えた先輩にアドバイスを求めた。ここに至ってようやく人生の先輩に助けを求めることを選んだのである。意地とか矜持とか、もうどうでもいい。なりふり構っている場合じゃない。

 パーヴァリの話を聞いた先輩は呆れ顔で、「土下座しろ。誠心誠意謝れ。それに尽きる」と先輩は重々しく述べた。

 土下座の作法を習い、職務中だぞ、と王太子じょうしに苦笑つきで注意されたが、パーヴァリにとっては生きるか死ぬかの大問題である。先輩に完璧だから仕事に戻れ、と言われるまで練習した。その後は仕事にならんからさっさと帰れ、と王太子に友達の顔で言われるほどに気もそぞろであったので、お言葉に甘えて早めに帰らせて貰った。おそらく明日は残業になるだろう。しかし、今日トイニに結婚の継続を断られ、実家に帰られてしまった場合、明日からの仕事はもちろん休む気でいた。もちろん実家に帰ったトイニを追いかけて行くためである。

 パーヴァリがいなくても仕事場は回るが、トイニがいなければパーヴァリの人生は回らないのである。

 夕食のあと、夜にパーヴァリの部屋に入るのは、と遠慮するトイニを招き入れ、パーヴァリはアドバイス通り即謝罪し、土下座した。恥も外聞もなかった。情けない姿だったろうが、それを晒してトイニが離婚しないでいてくれるなら安いものだ。

 結果、なんとかトイニはパーヴァリを見捨てず、離婚しないでいてもらえた。盛大にやらかした己を許してくれたトイニを一生大事にしよう、と決意した。

 しかし最初にやらかした罪は重い。山より高く、海よりも深い。パーヴァリは自戒した。またやらかせば、いくらやさしいといっても愚かな自分をトイニが見限る可能性はおおいにあるのだ。

 なので、パーヴァリはいつだって仕事を一生懸命こなして給料を稼ぎつつ定時に帰り、愛を囁き、愛を捧げる。トイニの両親の善意に付け込もうとする輩は接触前に排除するし、いつなんどき援助を求められてもいいように資金だって貯める。もっとも、トイニが借金のかたに結婚するような形になってしまったことに両親は深く胸を痛めたらしく、トイニと結婚して以降は金銭のやりとりはやめ、専ら自分たちができる範囲での慈善活動しかしていないので資金は貯まっていくばかりである。素晴らしいトイニをこの世に産んでくださったご両親である、いい加減ぱあっと感謝を表したい、とパーヴァリは常々思っているのだが、質素堅実、良妻賢母のトイニのご両親らしく、なにを提案しても「今でも十分良くしていただいております。お気遣いはご無用です」と慎ましく微笑まれてしまう。パーヴァリとしては余暇をのんびり暮らせる別荘地だとか温泉地だとかをどーんとプレゼントしたいのだが。


「なるほど、お母様はやはり聖母のようにおやさしいですわね。わたくしがお母様でしたら最初に

失礼な発言をされた時点でぶん殴ってます」

「だよねー……。お父様もあのときの自分を助走つけてぶん殴りたいよ」

「そうでしょうとも。お父様が自己嫌悪で寝込んでないのが不思議なくらいでしてよ」

「寝込んだらトイニを心配させちゃうからね。そこはちゃんとします」

「そういうところはさすがと言うほかないですわね」

「ありがとう」


 父の固く組まれた両手を見る。わずかに震えて見えた。ウルスラは初めてだが、父は二度目だろうに。しかし、心配する気持ちもじゅうぶん分かった。

 ウルスラは母の自室の扉を見つめた。うろうろと、冬眠前の熊のように落ち着かない父を椅子に座らせて、お互いの不安を紛らわせようと馴れ初めを聞いたのだが、いったいいつまでこんな気持ちでいればいいのやら──

 そのときである。

 扉の向こう、母の自室から泣き声が聞こえてきたのは。

 ウルスラも、もちろんパーヴァリも跳ねるように椅子から立ち上がって扉にかけよった。

 二人が扉の取手に手をかけるよりはやく扉が勢いよく開いた。中につめていた使用人が汗もぬぐわずに宣言する。


「おめでとうございます! 元気にお生まれになりましたよ! 男の子です!」

「トイニは?!」

「お疲れですが、大事ないとのことです!」

「よか……ったぁ……」


 パーヴァリとウルスラは抱き合ってその場にへたり込む。

 ほにゃあほにゃあと聞こえる、頼りない泣き声に誘われるようにして部屋に入った。緊張と感動で生まれたての子鹿のように足が震えているので、父娘互いに支えあっての入場である。


「といにぃ……」

「おかあさまぁ……」

「お疲れ様でした、二人とも。心配をかけてごめんなさいね」

「それこっちのせりふぅ~! お疲れ様ぁ、無事で良かったよぉ! すぐ治癒術士さんに来てもらうからね!」


 ぐずぐずと鼻を鳴らしたパーヴァリが涙を拭う。ウルスラも涙目で母と、生まれたばかりの弟を見つめていた。


「旦那様、やはり治癒術士に来ていただくのはおおげさなのでは……」

「おおげさなもんか! 人生の先輩たちからこれでもかってくらい出産の恐ろしさを教わったからね、手は抜かないよ僕は!」

「吹き込まれた、の間違いでしょう。それにお母様、治癒術士には陣痛が始まってからすぐに連絡して、今までずっと待機していただいていますから、はやく術をかけていただいて、はやく帰してあげましょう」

「ウルスラ、それはナイショに……」

「旦那様、すぐに治癒術士をお呼びになってください」

「はい」


 トイニの額にキスをして、息子の頬を指先でそっと撫でたパーヴァリは背中を少しばかり丸めながら部屋から出ていく。扉が閉まってすぐに廊下を走る音が遠ざかっていった。いつものごとく、母のことになると侯爵家当主らしさを放り投げる父である。

 微笑ましい光景にこぼれそうになる密やかな微笑を隠しながら使用人たちがテキパキと室内を整えていく。

 ウルスラはベッドサイドに用意された椅子に座りながら疲れた様子の母と、ほにゃほにゃ泣いている弟を見る。それから安堵のため息を吐きながら体を折り曲げ母の傍らに頭を埋めた。


「ウルスラにも心配をかけてしまいましたね」

「いいえ……、お母様がご無事で良かったです……」


 髪を梳いてくれる母のやさしい指の感触にうっとりと眼を細め、ウルスラは母に抱かれている弟を見上げた。下からではおくるみに隠れてまったく見えない。そっと体を起こしておくるみの中の弟をのぞきこむ。

 赤ら顔で、しわくちゃの、小さな弟が泣きつかれて眠っていた。


「あのね、お母様。今日お父様にどうしてお母様と結婚したのか聞いたのだけれど、お母様がお金に困っていたから、ですって。もう、お父様ったら」

「ふふ、本当に困っていましたから」

「でも、お母様。どう考えてもお父様は最初からお母様に好意があったから結婚を申しこんだんだと思うわ。お金は単なるおまけでしかないと思うの。お母様だって、お父様に好意がほんの少ぉ~~~しでもあったから求婚に頷いたのでしょう?」

「え、ええ。ほんの少し、というか、だいぶ……あったのですけれど」


 照れて頷く母親の可愛さに再び眼を細めて、ウルスラは慎重に母へ寄り添った。


「でしたら──」


 そこへ待機中の疲労と慌てて連れて来られたせいで肩を大きく上下させている治癒術士と、扉の前で取り繕ったけれど額の汗が隠せていないパーヴァリが戻ってきた。


「お待たせ、トイニ! それではお願いします」


 疲れているだろうに、治癒術士は治癒術をかけ、丁寧に聞き取りをして、問題なし、と太鼓判を押し、それから医師に引継ぎをして静々と去っていった。


「ええと、どこまで話したのでしたっけ。そうそう、お父様もお母様もこの先どうして結婚したか聞かれたら、好きだったから、と答えてくださいね」


「えっ、うん」

「はい……」


 父は不思議そうに、母は顔を赤くして頷いた。

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