「どうしてお父様と結婚したの?」後
「契約結婚、とは、どういう意味なのでしょうか……」
「そのままの意味だよ」
うつくしく微笑したパーヴァリが一枚の書類を差し出す。契約書と書かれていた。
トイニは混乱していて、けれども憧れの人の前で失態を見せたくなくて、それを誤魔化すために書類を手に取った。文字を見ても意味はまるで頭に入ってこなかったが、読むふりをする。
その間にパーヴァリが契約結婚を思いついた理由を述べていった。
「見合い話がね、毎日毎日、山ほど、本当に嫌になるほど届くんだ。一度断った家からも、姉だ妹だ、親戚だ、もう一度考え直してくれって言われたり」
トイニは噂で聞いたことがあった。パーヴァリには見合いの釣り書が山ほど届いて埋もれてしまう、というものだったが与太話ではなかったのだ。
資産のある婿を探すために釣書を見比べていただけでうんざりしていたのに、それが望んでもいないのに毎日、大量に届くというのはどれほど大変だっただろう。
「ご婦人方からもね、初対面なのにすぐ言い寄られる。一度会っただけなのに恋文が届くし、ひどいと無理矢理迫られるし」
その噂も耳に挟んだことがあった。パーヴァリのようなうつくしい才人であれば、さもありなん、と思っていたが。声からすると心底嫌がっているように聞こえる。
「本当、鬱陶しくて、しょうがないんだ。妻を迎えればなくなるんだろうけど、でも、本当の結婚は無理だろう? 僕には愛する人なんていないわけだし、下手な女性を妻に迎えて悶着を起こされるのもまずいし」
ずきりと痛んだ胸の奥は無視して、トイニはなんとか声を搾り出した。震えなくてよかった、と安堵する。
「契約結婚をする理由は理解いたしました。ですが、なぜ私なのでしょうか」
待ってました、と言わんばかりにパーヴァリが瞳を細めた。パーヴァリには子どものような一面もあるのだな、とトイニは一瞬だけ見惚れた。
「君はどんな男にもまったく興味を示さなかったから。僕と話してもお近づきになろうとしなかったのは君が初めてだったよ。先日のパーティーでも観察させてもらったけれど、どんな貴公子たちにも一切興味を示してなかったろう?」
まさか見られていたなんて。トイニは顔を俯かせた。
顔から火が出るほど恥ずかしい。けれど、その羞恥も長くは続かなかった。
「失礼だけど、君のことは調べさせてもらったよ。ご実家はずいぶん生活が苦しいんだね」
でなければ貴族子女の君がああまで働きにでるわけないものね、とおそらく微笑んでいるだろうパーヴァリの言葉に氷水を浴びた心持ちになって、トイニからすう、と熱が下がっていく。
「この契約書にも書いてあるけど、僕と結婚してくれたら夫として君の実家に援助させてもらうよ」
トイニは冷えた頭で再び、今度こそ契約書に眼を通した。
「大丈夫、最長でも五年経てば離婚するし、君に好きな人ができた時点で契約解消できるから」
もしもトイニがガラス細工だったら粉々になっていただろう。血肉の通った人間でよかった。パーヴァリに粉々になったガラスの掃除をさせるわけにはいかない。
「自意識過剰だと言われるかもしれないけれど、万が一、君が僕を好きになっても契約は終了するし、ご実家への援助も打ち切らせてもらうから」
そうだろうな、とトイニは思う。見合い話などを一掃するために偽装結婚までするのに、その結婚相手に惚れられては本末転倒だろう。
「僕も君のような面白味のない
パーヴァリは目の前にいる理知的な女性にとってたいそう酷い、侮辱的な言葉を投げつけた自覚があった。けれど、こうまで酷いことを言っておけばなにがあってもトイニが自分を好きになったりはしないだろう、と判断してのことで、痛む良心をきれいに隠して余裕のある男の笑みを浮かべ続けた。
ちなみに、この五年後、パーヴァリは死ぬほど後悔する羽目になる。
トイニは契約書を何度も読んだ。サインする前に口頭で確認したし、写しにも間違いが無いかをしつこいくらいに確認した。
しっかりしているね、とパーヴァリに言われても心が浮き立ったりはしない。浮き立たせたりはしない。それはパーヴァリが望まないものだから。生活のために資産のある夫を望んでいたのだ。望みが叶って、そのうえ好きな人を間近に見られるチャンスが増えたのだから、いいではないか、と自分を納得させた。
両親には契約のことを話して、住み込みで働きに出るようなものだ、と説明した。自分の結婚を無邪気に喜ぶ弟妹たちには言えず、出戻ってきたときはよろしくね、としか言えなかった。
それから結婚の手続きのために何回か話し合いをしてからトイニはパーヴァリと結婚した。結婚式も指輪も辞退した。私に使う金銭はすべて実家のために使ってください、と言ったトイニにパーヴァリは面食らったが、わかったよ、と笑った。
とはいえ、侯爵家の人間になるのにすべて質素に済ませる訳にはいかず、けっきょく身内だけの簡素な式をあげ、人に見せるための指輪は誂えることになった。
「倹約に協力的な
「恐縮です」
結婚生活は偽装だと分かっていても楽しくて、幸せで、トイニは段々と恐ろしくなっていった。
ラント夫人として使用人たちはみな一様にやさしく接してくれたし、夫のパーヴァリもひどくやさしかった。
万人にやさしい人なのだから私だけではない、思い上がってはならない、勘違いしてはならない、とトイニは何度も自分に言い聞かせなくてはならなかった。
契約終了まで良き契約相手でいられるならば、終了後も友人として手紙のやりとりくらいならば許されると思っていたのだ。そうして、実は私は幼いころあなたに会ったことがあるのですよ、と打ち明けて笑いあえたら、と。
けれど、パーヴァリへの愛しさは日ごとに募っていくばかりで、トイニはこの気持ちが悟られる前に契約が終わりますように、と結婚五年目になる前から祈っていたくらいだった。
けれど契約期限の五年が過ぎてもトイニは離婚せず、未だパーヴァリの伴侶として一緒に居る。このうえない幸福だった。
トイニは離婚の日取りを決めるはずだったあの日の夜を思い出して、くすくすと笑いをこぼした。
「――というわけで、お父様とお母様は結婚したのですよ」
「……お父様ったら、ひどい!」
「え?」
どうしてウルスラが怒っているのか分からず、トイニは首をかしげるしかない。
「安心してください、お母様! このウルスラ、おとなになったら必ずやお父様より稼ぎに稼いで、お母様の実家に支援できるようになります!」
「気持ちは嬉しいですけれど、金銭関係は慎重に判断しなくてはだめですよ。いくら身内相手とはいえ、簡単に支援すると言っては……」
トイニの忠告を聞いているのかいないのか、ウルスラはまくし立てる。こんなところもそっくりね、とトイニは微笑んだ。
「そしてお母様が窮屈な思いをしなくてもいいように、実家のおばあ様、おじい様たちと、私たちですごせる家を建てます!」
「壮大な夢を持つのはいいけれど、少し落ち着きましょう、ウルスラ」
「ちょっと待ったああああ! いくら愛しの我が子でも聞き捨てならないな! 僕の奥さんは誰にも奪わせないぞ!」
「出ましたね、金でお母様を買った極悪貴族め! 成敗してくれます!」
「うぐぅっ! い、今はちゃんと相思相愛だから! ねっ! マイスイート!」
涙目のパーヴァリに微笑み返して、仲の良い父娘ね、とトイニは大きくなった自分の腹にそっと手を添えた。
「あなたのお父様もお姉様も、やさしくて楽しい人たちですよ。安心して生まれてきてくださいね」
それに応えるように腹を蹴られて、トイニはますます笑ってしまった。
「二人とも、ケンカはそのへんでやめませんか? 今お腹に手を当てると蹴ってもらえるかもしれませんよ」
「やめます!」
「やめます!」
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