「どうしてお父様と結婚したの?」前

 ぱちり、とトイニは瞬いた。

 トイニの膝に懐いて、娘のウルスラが母親トイニを見上げている。


「ねえ、お母様。お母様はどうしてお父様と結婚したの?」


 髪の色も、瞳の色も、造形もなにもかもが夫のパーヴァリによく似て、うつくしく成長している娘の、期待に満ちた視線を受けてトイニはわずかに首を傾けた。

 なぜお父様パーヴァリと結婚したのか。その発端を思い出し、今に至るまでをしみじみと思い出す。


「そうですね……、お金がなかったからですよ」

「えっ」


 驚愕に見開かれたウルスラの瞳に、かわいらしい、と微笑んでトイニはかつてを思い出す。

 トイニの実家は子爵位のランタマキ家だ。しかし、貴族らしからぬお人好しである両親はその人の良さにつけ込まれ、たびたび騙されていた。

 家財などをあげては生活が不便になり、たびたび困ったことがあったが、借金を背負わされてしまうよりはずっとよかった。知人の借金を肩代わりするはめになってからは、両親は借金を返すために身を粉にして働いたし、トイニも使用人さえ雇えない家の一切を請け負った。

 弟妹が家事をこなせるようになってからは親戚や金持ちの屋敷で使用人として雇われた。そうなれば黙っていても家の事情は知れる。貴族のくせにみっともない、と笑われるのはいつものことで、いつの間にか笑われるのにも慣れてしまった。

 周囲から見下され、友達もできず、働いてばかりいたトイニは同じく働いてばかりいた両親によく謝られた。謝るくらいなら他人ひとに物や金をあげてしまうのではなく家族のために使ってほしかったが、何度騙されようとも人を信じる両親の善性は筋金入りであったので、何も言わずただ頷きを返した。

 それに悪いのは両親ではない。騙すほうが悪いのだ。

 そんな生活を続けていたトイニは給仕係として雇われたとある貴族のパーティーでパーヴァリを見かけた。貴族子女がこぞって噂をするだけあって目の覚めるようなうつくしい人だった。所作も洗練されており、服も装飾品も値の張るものだろうことは一目でわかった。

 昔とは比べ物にならないほどにうつくしさに磨きがかかっており、トイニはかつて一度だけ出会った妖精のようにかわいらしかったパーヴァリを思い出した。


 トイニは幼いころの昔、まだ両親が借金を背負っていなかったころ、母に連れられて茶会に参加したことがあった。

 そのころもランタマキ家はあまり裕福といえず、トイニのドレスも母のドレスももちろん古着で、トイニの母は他の貴族から馬鹿にされていた。子どもたちもそれに倣いトイニも爪弾きにされ、そういう扱いに慣れていなかったものだから、トイニは庭の隅の、植垣の影に隠れて泣いていた。

 ドレスは周囲にいた人々のように流行の最先端ではなく、華やかでもなく、たしかに着古したものだったが、母が心をこめて繕ってくれたものだった。それを馬鹿にされたのが悲しくて、どうしても涙を止めることができなかったのだ。

 母を心配させないようにお茶会が終わるまでには泣きやもう、と鼻をならしながら眼をこすっていたトイニに声をかける者がいた。声に顔を上げればトイニが今まで見たことのないくらいかわいらしく、うつくしさの片鱗をのぞかせた美童がトイニの顔を覗き込んでいて、トイニは驚きのあまり涙が引っ込んだ。泣きすぎて頭がおかしくなり、妖精が見えるようになってしまったのだろうか、と思ってしまうほどにうつくしい子どもだった。


「こんにちは。どうして泣いているの?」

「……こ、こんにちは」


 妖精に話しかけられた、とトイニは自分の頬をつねる。痛い。夢ではなかった。つまり目の前にいる妖精は現実、ということだ。


「どうして頬をつねったの?」

「ゆ、夢かと思って……」


 自分は寝ぼけているのかと、眼をこすると白魚のような指がそれをとめる。そうして真っ白なハンカチが差し出された。


「こすっちゃだめだよ」

「は、はい……」


 妖精に差し出されたハンカチからはいい匂いがした。もったいなくてとてもではないが顔を拭ったりはできない。トイニはハンカチを持ったまま固まるしかなかった。


「あ、ありがとうございます……」

「ううん。君の涙がとまったならよかった。

 君のドレス、手がこんでいてとても素敵だね」

「……はい!」


 トイニのために母が繕ってくれたドレスを褒められて、トイニはその茶会に来てから始めて心の底から笑えた。

 それに一瞬だけ眼を見張った少年はにこり、と笑って踵を返して行ってしまう。


「あの、ハンカチ……!」

「あげる!」


 さようなら、と手を振る少年にトイニも慌てて手を振った。

 少年の姿はすぐに見えなくなって、トイニは本当に妖精だったのかも、と手元に残されたハンカチを見た。


「パーヴァリ……さま」


 ハンカチに刺繍されていた名をぽつりと呟いて、トイニは自分が恋をしたのだと知った。それからずっと、トイニはパーヴァリへのほのかな恋心を抱いて成長していった。


 しかしそれももう過去のことだ。何年も前に一度会っただけの人間のことをパーヴァリだとて覚えてはいないだろう。

 後生大事にハンカチをしまってパーヴァリに想いを寄せていても、今のトイニにはまるで芸術品のようなうつくしい彼の人に見惚れている暇も、うつしく懐かしい思い出に浸っている暇もないのだ。

 あたたかい陽だまりのような思い出を振り払ったトイニは給仕として独楽鼠こまねずみのように働いた。何度厨房とパーティー会場とを往復したか知れない。胸の塞がるような疲労に襲われて、浅く呼吸をくり返しながらも、給金がいいんだから、と自分に言い聞かせトイニは追加のワインを会場に運んでいた。

 前方から赤ら顔の中年がよろよろと千鳥足で歩いてきたので、トイニは廊下の隅によったのだが、その酔っ払いはトイニのほうによってきた。


「こんなところに美しいお嬢さんがいるなあ、ぐひひっ、ワシの相手をしてもらおうかなあ」


 明らかに泥酔しているその客は、酒臭い息を巻き散らしてじろじろとトイニを値踏みするように見てくる。そうして下卑た笑いを深めた。


「ああ、平民にしては、と思ったが、貧乏子爵のランタマキ嬢ではないか。いやはや大変ですなあ、ご実家が裕福でないと」

「ご心配ありがとうございます、ヴィヒトリ・パーシリンナ様」


 トイニのほうもこの酔っ払いの酒癖が最悪の部類であると思い出していた。使用人の間では酒癖悪すぎクソ貴族のランキングに見事に入っている。

 嫌なのに捕まってしまった。ワインをこぼさないため、走って逃げることもできず、招待客なので、撃退することも叶わない。

 どうしたものか、まごついている間にも酔っ払いは無遠慮にトイニの体へ手を伸ばしてきた。トイニはワインをこぼさないよう後ろに下がる。


「お戯れはおやめください、仕事中ですので失礼いたします」


 酔っ払いをかわして会場に向かおうとするトイニの歩みをやはり酔っ払いが阻む。


「おいおい、客を放ってどこへいこうというんだ。客の相手をしなくてはダメだろう」

「……!」


 ワインがこぼれてしまったら、グラスが割れてしまったら、と盆の上に意識を集中していたトイニはすぐうしろに誰かいることに気づかなかった。

 ガシャン、とグラスの割れる音がして、トイニはきれいに掃除した床の上に赤い液体が広がっていくのを茫然と見つめる。給料天引き、の単語が頭の中で踊っていた。

 茫然としすぎていて、青褪めた酔っ払いが何かを言っているのも耳を素通りしていく。耳元で涼やかな、爽やかな、男性の声が聞こえてようやく我に返った。


「も、申し訳ございません、ラント卿!」

「酔いが過ぎたようですね、パーシリンナ卿。今日はもうお帰りになったほうがよいのでは?」

「は、はいっ、そ、その通りで! では失礼いたします!」


 酔っ払いは無様にこけつまろびつ転逃げ去っていった。

 トイニは錆びたブリキ人形よろしく、ぎこちない動きでおそるおそる背後に視線を巡らせる。すぐそこにパーヴァリ・ラントがいた。

 トイニは驚きすぎて何を言うこともできず、パーヴァリの服にワインが飛んでいるのを見て血の気が引いた。

 その視線に気付いたパーヴァリが柔らかく笑う。完璧な笑みだった。


「ああ、このくらい大丈夫。君のほうがよほど大惨事だね」


 パーヴァリに言われて、トイニは自分の服を見た。たしかに白の前掛けがワインの色に染まっている。白ワインであればよかったものを。


「助けていただき、ありがとうございました」


 折り目正しくパーヴァリに頭を下げ謝罪したトイニは床に散らばったワイングラスを拾う。昔一度見ただけの、うつくしさに磨きのかかった憧れの人を見ていられなかったのだ。はやく箒と雑巾を持ってこなければ。掃除をしているうちにパーヴァリも帰るだろう。


「申し訳ございませんでした、クリーニング代を……」

「いや、いいよこれくらい。もう帰るところだったしね」


 ウィンクが様になる人間がこの世に存在しているのだと、トイニは初めて知った。


「でも帰る前にご当主には挨拶をしていくよ。素敵なもてなしには感謝を述べなくてはね」


 にこり、と笑うパーヴァリがまばゆすぎて、トイニはとっさに頭を下げた。


「ご当主様でしたら、まだ会場にいらしたかと。私は掃除に戻りますので、失礼いたします」


 熊に狙われた野兎だってもう少しまともな逃げっぷりを見せただろう。トイニは命からがらパーヴァリから逃げ出した。

 トイニだとて、いつか白馬に乗った王子様のような誰かが自分を助けてくれる、と夢想したことはあった。運命の出会いを果たし、互いに名乗ってロマンスが始まるのだ。

 しかし現実ではこのありさま。トイニは自分が体の芯まで緊張すると逃げ出す性質であるとこのとき初めて知ったのだった。


 運んでいたワインをグラスごと台無しにした件はパーヴァリからも話があったらしく、厄介な酔っ払いに絡まれたことに同情され、さほどお咎めはなかった。

 だからトイニは長いこと昔と変わらずうつくしい人だったけれど、心もやはりうつくしいままの人なのだ、とパーヴァリに助けられた夢見心地に浸っていられた。助っ人として呼ばれたあちこちで催されるパーティーでパーヴァリを見かけるのが多かったのも、夢見心地を長引かせる要因だったろう。

 パーヴァリは神の作った芸術品のごとくうつくしく、誰よりも洗練されていて、とにかく人目を引く。トイニも例に漏れず、仕事の合間を縫って憧れの人を垣間見た。

 働くことは苦ではなかったが、駆り出されるパーティーにパーヴァリがいるかもしれない、と思えばいっそう仕事に精が出た。

 良い働きぶりだと特別手当が出る事もあった。さりとて借金の返済、生活費、弟妹の学資、などなど、稼いだ先から消えていくので、生活は決して楽ではなかった。家事に追われていて満足に勉強のできていない弟妹たちにゆっくりと、充実した教育を受けさせるにはまだまだ金が要った。

 貴族位目当ての豪商か豪農と結婚して実家を支援してもらえれば、とトイニは自身の使い道を模索していた。憧れのパーヴァリと結婚したい、とほのかに思っていても、ほとんど会話したこともなく、トイニがかってに懸想しているだけだ。もとよりない望みとして、トイニは若いくらいしかセールスポイントがないけれど、見つかるかしら、と伴侶候補を探していた。

 そんなある日、ラント家からパーヴァリの名前で手紙が届いた。こんな貧乏貴族にも夜会の招待状かしら、本当にやさしいお方だわ、と感心しながらトイニは封を開く。着ていくドレスがなく、つれていく従者もいないので欠席一択なのが悲しかった。

 給仕として行けるかしら、と手紙を読み進めていって、トイニはとりあえず深呼吸をした。深く呼吸をして、もう一度手紙を読み直す。眼をこすっても、深呼吸しても文面は変わらない。何度読み直しても、パーヴァリ・ラントがトイニ・ランタマキに婚約を申し込む、と書いてあった。

 頬をつねってみる。痛い。手紙を光にかざしてみる。透かし文字などない。

 トイニはなるほど、最近働きすぎたせいで疲れているのだ、と判断した。だから自分に都合のいい幻覚が見えているのだ。

 仕事で忙しくしている両親を煩わせるのは申し訳ないので黙っておくことにした。弟妹たちにも心配をかけないために黙っておく。姉が疲労で幻覚を見たと知ったら、今すぐにでも働く! と心配をさせてしまうだろう。通院、なんてことになれば豪商か豪農との結婚が遠のいてしまう。

 とにもかくにも、トイニは返事を精一杯丁寧に書いて、手紙に書いてある通りの日時にラント家へ赴いた。

 ラント家では数々の使用人たちに丁寧な挨拶をされ、お茶をいただいて、ここまで覚めない夢もあるのか、とトイニは香り豊かな紅茶を堪能していた。

 しかし現れたパーヴァリの言葉に夢心地はすっかり覚めた。夢は夢で、やはり現実にはなり得なかったのだ。


「僕と契約結婚をしてほしい」

「契約結婚」


 オウム返しに言葉を呟いたトイニにパーヴァリは殊更うつしく微笑んだ。

 いっそ残酷なほどに。

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