後の祭り


 職場で同僚のパーヴァリが祝われている。

 五年前に契約結婚したパーヴァリは奥さんに惚れ込んで、このたび契約をやめて本当の夫婦になったのだ。同僚の一人であるアートス・ハーンバーも心の底から彼を祝福していた。

 パーヴァリが契約結婚をしたと聞いて、「なるほどその手があったか」とアートスも幼馴染のセニヤ・ヴァーラニエミに頼んで契約結婚をした。パーヴァリが五年の期限を設けたと言っていたから、なんとなくでアートスも期限を設けたのだが、そんなものつけないほうが良かった、と嘆きながら奥さんのことを相談していたパーヴァリと同じく、期限などつけなければ良かった、とアートスも思うようになっていた。

 気心の知れた幼馴染との生活は快適だった。快適すぎて、彼女以外の人間と暮らすなんて無理では、と思ってしまうほどだった。

 もともと恋愛感情でこそないものの、好意はあったのだ。それがセニヤと生活を重ねていくうちに恋情になるのにそう時間はかからなかったように思う。彼女も自分と同じ気持ちでいてくれたら、と思うも、パーヴァリのように離婚を切り出されたらどうしよう、とアートスは最悪の未来に青褪めた。


「どうした、アートス」

「い、いや、なんでもない……」


 パーヴァリに相談されて「まず謝れ、なにがなんでも謝れ、許しを請え、土下座しろ」とアドバイスをしていた同僚に声をかけられたが、アートスは首を振った。

 大丈夫だ、自分はセニヤに嫌われるような行いはしていない。セニヤもパーヴァリの奥さんのようにきっちり期日を覚えているタイプではない。

 湧いてくる不安を消し去るためにアートスはセニヤに本気のプロポーズをすることに決めた。

 まずは指輪を用意して花とレストランの手配をしなければ。


 プロポーズをすると決意してから三週間。

 いよいよ今日注文していた指輪が出来上がる。花の手配もレストランの予約も完璧だった。あとはプロポーズ相手の本人を誘うだけだ。

 朝の出仕前、いつものように見送りをしてくれるセニヤにひっそりと打ち震えながらアートスはにこやかに見えるよう、爽やかに見えるよう、細心の注意を払って切り出した。


「セニヤ、今日大事な話があるんだ」

「今日?」

「そう、今日だ。だから今日も定時で帰るし、夕食を食べずに待っていてほしい」

「今話すんじゃダメなの?」

「うーん、ちょっと」

「そう……。なら、いいわ」

「よかった、ありがとう! じゃあいってきます!」


 了承を貰えた嬉しさのままセニヤにハグを贈って、アートスは出仕していった。

 玄関にぽつんと残されたセニヤは疑問を顔いっぱいに浮かべて首を傾げていた。


「……なんで、お礼?」


 それを見ていた使用人たちは何も言わず、ひっそりとため息を吐くばかりだった。


 アートスは上機嫌で家路を進んでいた。指輪の出来は申し分なかったし、予約したレストランはこの城下街一番の店で、評判もすこぶるいい。花も彼女の好きなかすみ草をふんだんに使った花束を運んでもらえるようにしっかり手配した。

 これで完璧なプロポーズができる! とアートスは意気揚々と自宅の扉を開けた。


「ただいまセニヤ! 食事の予約をしてあるんだ、さっそく行こう――」

「おかえりなさいませ、旦那様」


 出迎えてくれたのは妻ではなく古株の執事だった。拍子抜けしたアートスは肩を落とす。


「なんだ、セニヤじゃないのか。セニヤはどうしたんだ、いつも出迎えてくれるのに」

「セニヤ様はいらっしゃいません。ご実家にお帰りになりました」

「なんで?!」


 アートスは執事に差し出された手紙をひったくるように受け取って、読んだ。


『アートスへ

 今までお世話になりました。

 今日が期限なので契約書通り実家へ帰ります。

 五年前に預かった離婚届は出しておくので安心してください。

 これからもどうかお元気で。

 セニヤ』


 手紙を読み終えて、セニヤの署名が間違いなく彼女のものだと何回も確認して、それから足元が崩れたような、地震の最中にいるような、そんな不安定さを感じつつアートスは役所へ走った。なりふり構わず受付に飛び込んで、仕事終わり間近の職員の迷惑そうな顔にも目もくれず妻の出した離婚届は手違いだ、取り消してくれ、と訴えた。

 しかしどこにも不備のなかった離婚届はしっかりと受理されていてどうすることもできなかった。


「奥様と話し合ってください。それでは本日の業務はこれまでです」


 職員の声が左から右へと素通りしていく。呆然とへたり込んだままのアートスを執事が引きずるようにして連れ帰った。


「ですから、幾度となく申し上げたでしょう。指輪など持たずにセニヤ様へお気持ちをお伝えするべきです、お話し合いの機会を設けるべきです、と」

「……」


 言われた。たしかに言われていた。けれどもアートスは最高のプロポーズがしたかったし、幼馴染のセニヤは黙って出て行ったりしないと思っていた。


「セニヤ様は夜にはいなくなっているから朝ではダメなのかと聞いていらしたのですよ」


 使用人おまえたちはそれを知っていたのかと恨み言を吐き出す気力さえも湧いてこなかった。


「今話せない『なら』聞かないまま出ていくから『いいわ』ということだったのですよ」


 どうして幼馴染の自分よりも執事おまえのほうがセニヤに詳しいのだ、と喚く気力も湧いてこなかった。

 ほたほたとアートスの両眼から涙がとめどなくこぼれる。

 まるで砂浜に打ち寄せる波のようにあとからあとから後悔が押し寄せてきた。本物の波であればアートスはとっくに溺死しているだろう。いっそ溺死してしまいたい、とアートスは顔を覆った。

 翌日、死に体で出社したアートスにその理由を聞いた件の漢同僚アドバイザーは気の毒そうにアートスの肩を叩いた。


「ちゃんと口にしないと相手には一ミリも伝わらないぞ」


 その通りだった。

 その後、いくら会いに行っても、手紙を出しても梨の礫で、アートスは後悔に塗れた日々を送った。

 両親には家のためにも新しく妻を、と勧められたがセニヤが忘れられない、とすべてつっぱねた。

 契約結婚をしたときにセニヤと一緒に考えたセリフだった。

 政略結婚だったアートスの両親はアートスが生まれたあとはそれぞれ愛人を作って勝手気ままに過ごしていた。その貴族らしいといえばらしい暮らしぶりを否定するわけではないが、まともな結婚をしたいと思わなくなっていたアートスはセニヤに契約結婚を持ちかけたのだ。金だけはあったから、セニヤの家への援助を見返りとして。最初は渋っていた彼女だったが、最終的には頷いてくれた。


「五年もあれば母か父、どちらかが年の離れた弟か妹をこさえてくれるさ」

「ウワア……。相変わらずぅーー」


 などと笑って話したのが遠い昔のようだった。


 セニヤに離婚されてからずいぶんと年月がすぎた。

 両親は死に、アートスは立派な中年となった。

 体型には気をつけているのだが、忙しさにかまけて最近は腹回りが気になって仕方ないお年頃だ。

 黒の装束に身をつつみ、空色ばかりを集めた花束を片手にドアノッカーで扉を叩いた。

 ややあって扉が開き、扉の向こうから少年がアートスをこわごわとした様子で見上げてきた。


「こんにちは。副院長先生はご在宅……いるかな?」

「……セニヤせんせいのおきゃくさまですか?」

「うん。そうだよ。お……おにいさんは、アートスっていうんだ。セニヤ先生にそう言ってくれるかな?」


 恥ずかしがり屋なのか、人見知りなのか、少年は小さく頷くと扉の向こう側に消えていった。しばらくすると小走りの少年が舌足らずに「お待たせしました」とアートスを迎え入れてくれた。

 その少年に花束を任せて、通された客室であまり座り心地のよくないソファに座って待っていれば、アートスと同じようにシワを顔に刻んだセニヤが茶を持って部屋に入ってきた。


「久しぶり、セニヤ」

「……ええ、久しぶりね」

「住んでる場所くらい教えてくれてもいいだろ。おじさんとおばさんに口止めまでして。おかげで結婚祝いも出産祝いも送り損ねちまったじゃねーか」

「元夫にそんなの貰えないわよ」

「ばか。幼馴染の気持ちを考えろ。ほらよ、今までのご祝儀」


 アートスが菓子を出すくらいの気軽さで机に置いた皮袋をこわごわセニヤは覗き込んだ。薄暗い皮袋の中でも光り輝く金貨が入っていた。それも一枚や二枚ではない。両手で持てばこぼれ落ちるほどの金貨だ


「なに、この額……。こんなの、貰えるわけないでしょ。持って帰って」

「貰っとけ、利子がついたんだよ」

「なによ、それ。ご祝儀に利子なんてつくわけないでしょう」


 セニヤは俯いた。


「こんなに貰ったって、もう、あたし、あんたの嫁になんてならないわよ」


 なれないわよ、とセニヤが肩を震わせた。膝上で固く握られた彼女の手の上にぽつぽつと落ちた滴を見ないフリをして、アートスは窓の外に視線を移した。暗く、どんよりした雲が風に流されている。ひと雨くるかもしれなかった。

 アートスと離婚をしたセニヤはすぐに孤児院を経営する男爵に嫁いでいた。孤児院によく顔を出して子どもたちに慕われていると人伝てに聞いていた。


「いーよ、もう。復縁迫ったりなんかしねーよ。俺の奥さんになってくれなくて、いいよべつに。生きててくれりゃそれでいい。会って話してくれるならそれでいいよ、もう。人伝てにおまえの話を聞くよりずっとマシだからさ」

「なによ、それ……」

「おまえが俺に愛想を尽かすのも仕方ねーな、って話。おまえの話とか、ぜんぜん聞かなかったし。同僚には怒られたし、呆れられたわ」

「…………」


 ハンカチを渡してやって、アートスはソファに体重を預けた。ギイ、とスプリングの音がして、今度の寄付はソファにしよう、などと考える。


「おまえは幼馴染で、母親あのひとも知らない仲じゃないから嫁姑問題なんてないと思ってた。でも、そうじゃなかったんだよな。あのあと使用人たちに聞いた。辛かったよな。ごめん。謝って許されることじゃないし、許さなくていい。ずっと気づかなくてごめん。放っておいてごめん」


 言って、アートスは机に額をつけて頭を下げた。頭上から鼻をすする音がする。


「……あたしも、ごめん。ちゃんと言わなくて。平気だと思ってた。なんとかなるって。でも無理だった。ごめん」

「おまえのせいじゃないんだから謝らなくていいって。息子の幼馴染と息子の嫁じゃ扱いが違うよな」

「……うん。驚いた」


 アートスの母がセニヤを陰でいじめていたのが知れたのはセニヤが出て行ってから一年以上経ってからだった。血眼になってセニヤを探すアートスに母親がにこやかに笑って言ったのだった。


「あんなにこだわるのはおやめなさいな。わたくしが直々に貴族としての在り方を指導してあげたというのに、身につけるどころか音を上げて実家に帰ってしまうような娘なのよ」


 アートスはそんなことがあったなんて微塵も知らなかった。周囲に控えていた使用人たちはみな一様にアートスからも母親からも視線をそらした。きつく口止めされていたのだ。

 その母親直々の指導がどのようなものだったのか、母親から眼をそらした使用人たちの顔色を見れば予想がついた。それを興味なさそうにして煙草をふかしているだけの父親に腹が立った。

 アートスはそんな両親の血を引いている自分が心底嫌になったし、自分の子どもの大切な女性ひとを同じように大切にしてくれない両親が悲しくて虚しくて仕方がなかった。

 けれど、怒りがないわけではない。母親を辺鄙なところにある別荘に押し込め、父親も辺境の別荘に隠居させ、怒りでぐちゃぐちゃになった腹を癒した。


「むしろあの人相手に五年ももったとかすごくね」

「だよね。褒め称えろ」

「キャーセニヤ様ー。すごい、えらい、最高ー」


 涙をこぼして笑うセニヤが笑えたことに安堵して、また来る、とアートスは帰り支度を始めた。


「ねえ、奥さんもらってないんでしょう。いいの、後継とか」


 あたしが言うことじゃないけど、と結婚時代いつかのように見送りをしてくれたセニヤを安心するためにアートスは口の端を上げた。


「大丈夫なんだな、これが。うんと年の離れた弟が次の当主になるから心配いらない」

「弟、さん」

「そう。今年二十歳になるんだ」

「二十歳って、それは……」


 アートスの母が病気療養として実家を離れたとセニヤが聞いたのは二十五年前のことだ。


「大丈夫だよ、本当に」


 アートスは帽子を被って親愛のハグをセニヤに贈った。


「家の血はちゃんと継いでるからさ」


 半分だけだけど、とアートスは眉尻を下げて笑った。そうして、またな、とアートスは帰っていった。

 金貨のつまった皮袋を金庫にしまって、セニヤはため息を吐いた。

 ずっとアートスが匿名で孤児院に寄付をしてくれていたのは分かっていた。アートスの母親がハーンバー家を出たと聞いたときに会いに行こうかとも思った。

 けれど、心身ともに疲れていた自分を支えてくれた夫と結婚したあとだったから、行くのは戸惑われた。夫は行ってもいいと言ってくれたし、離婚してもいい、とも言ってくれた。けれど、孤児院は居心地がよくて、ハーンバー家が怖くなっていたから、けっきょく行けなかった。

 久しぶりに会ったアートスはすっかり変わっていた。よく笑い、愛嬌のあった幼馴染ではなく、どこかひんやりとする空気を纏わせた貴族の男になっていた。

 あの時会いに行っていたらなにか変わったのだろうか。

 セニヤは首を振って浮かんだ思いを振り払った。


「今さらなにを言ったって、もう過去は変わらないわ。後の祭りよ」

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