期限が切れたので契約結婚は終わりにしましょう【3千PV感謝】
結城暁
第1話
「僕を絶対に好きにならないでくれ。君ならば天と地がひっくり返ったって有り得ないだろうが。万が一僕を好きになったらご両親への援助は打ち切らせてもらうから」
「もちろんでございます旦那様」
結婚式が終わったあと、新居となるラント家の、実家の何倍も広大な屋敷の一室で交わされた、新婚であるはずの男女の会話だった。
夫になった男――パーヴァリ・ラントの言葉にトイニ・ランタマキ──今日からトイニ・ラントになる――は口の端を上げて薄く笑んだ。彼ならばそうだろう、と納得もする。
パーヴァリ・ラントは侯爵家の当主で、眉目秀麗、文武両道、年の近い王太子の覚えも目出たい。出世欲にかられた家々からの見合い話、彼の容姿に惹かれた婦女子からの恋文が引きも切らないと聞く。
自分の役割をトイニは一から十までよく分かっていた。侯爵夫人として振る舞い、彼の面目を潰さないこと。決してパーヴァリを煩わせないこと。
「そう。なら良かった。それじゃお休み」
「おやすみなさいませ」
恋情のひと欠片も見つからない彼女の眼に満足して、パーヴァリは部屋から出ていった。
それから五年。同じ屋敷に住んで、対外的には夫婦である二人の間には何もなかった。この五年で少しは気安い関係になったのだろうが、毎日顔を合わせているのだからそれも当然だろう。
お付きのメイドに髪を纏めてもらいながらトイニは物思いにふけっていた。結婚してから五年。もうそろそろいいのではないだろうか。
「奥様、お支度が終わりました、いかがでしょう」
「ありがとう、今日も素敵ね」
「光栄です、奥様」
メイドに微笑みかけ、そうして鏡に映る自分にも笑いかけてみる。侯爵夫人として申し分のない笑みを浮かべられた自分に満足して、トイニは朝食を食べるために食堂へと向かった。
「おはようございます、旦那様」
「おはよう、トイニ。今日もまた一段と美しいね」
「はあ。ありがとうございます」
にこやかに挨拶を返したパーヴァリに、トイニは少しだけ首を傾げて食卓へと着いた。
朝だというのに並べられている食事は豪勢な品数で、さすがは侯爵家、とトイニは毎朝感心している。おかげさまで嫁いでから腹回りに摘めるほどの肉がついた。プニプニ。
「旦那様、夜に少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか。お話ししたいことがございます」
「もちろんだよ。君のためならいくらでも時間を取るとも」
「ありがとうございます」
最近
「旦那様。もうそろそろ結婚してから五年になりますね」
「ああ、そうだね。五周年の記念に何か欲しいものはあるかい? 新しいドレスでも、アクセサリーでも、好きなものを言って。どんなものでも用意するからね」
「いえ、どのようなものも要りません」
「そうなのかい? 僕の奥さんは慎み深いなあ」
言ってにこにことご機嫌なパーヴァリにトイニはとりあえず何も言わないでおいた。慎み深いというわけではない。ただ単に貰う理由がないだけだ。
「離婚はいつにしますか?」
「えっ」
「旦那様から持ち掛けられた契約結婚をしてから五年。しつこい見合い、結婚話等を断るためとのことでしたので、効果は十分にあったかと思います。そろそろ
渇いた喉を湿らせるために紅茶を飲む。離婚すればこの
「あ……いや、でも、そう急がなくてもいいんじゃないかな。君と離婚したらまた見合い話がきてしまうかも……」
「でしたら前妻のことが忘れられないとでも言っておけばよろしいのではないでしょうか」
「ええと、それはそうなのかもしれないけど……」
常にない様子の夫にやはり首をかしげながらトイニは朝食のガレットを含んで咀嚼した。見事な食感と味だった。離婚すればこれほどの朝食を食べる機会などないだろう。よくよく味わって嚥下した。
「今の生活に何か不満でもあるのかい? あるのだったら改善するから、どんな小さなことでも言ってくれ」
「いいえ、まさか。生活に不満などございません」
トイニは紅茶を飲む。ひどく喉が渇いている。
「ただ、契約書に記載した年数は長くても五年とのことでしたので」
「ええ? そ、そうだったかな、ちょっと思い出せないんだけど……年数なんか、書いたかな……」
首を捻っているパーヴァリから視線を朝食の皿に移した。皿もいちいちうつくしい装飾がなされている。トイニはこの五年間、契約書の内容を忘れたことなどなかった。だから内容を諳んじることだってできた。
「書いてございますよ。五年前に口頭でも確認いたしましたし、間違いはございません。契約期限が切れているのにいつまでもお屋敷に居座るものではございませんでしょう。親元に帰るのにも準備をしなくてはいけませんから、早めに日取りを決めてしまいたいのです」
「そ、そう……だったかな。すまない、帰ったらすぐに確認するよ……」
「はい。よろしくお願いいたします」
これで憂いは晴れたとばかりにトイニは食事に戻った。その表情はどこか晴れやかですらある。そんな妻をパーヴァリは切なげに見つめていたが、トイニは朝食から眼を離さなかったのでそれに気づくことはなかった。
「夜に話したいというのは
「ええ、そうです」
それ以外に何があるというのだろう。契約結婚をしてから事務連絡以外をした覚えはない。最近は世間話も増えはしたが。
「そうか……」
出仕前だというのに気分が悪そうなパーヴァリに、体調が悪いなら休んではどうかと提案したが、パーヴァリは「大丈夫だよ」と力なく笑って出仕していった。
その夜。夕食のあと早速話し合いの時間になった。
話し合いが始まった途端にパーヴァリが土下座した。予想だにしなかった行動にトイニは驚きすぎて声も出ない。パーヴァリがそのままの体勢で懇願してきた。
「貴女のことが好きですお願いします離婚しないでください!」
「えっ」
ともかくも、トイニは土下座をし続けるパーヴァリを立たせて、それから椅子に座らせた。動揺しすぎて聞かなくてもいいことを聞いてしまう。
「土下座なんてどこでお知りになったのです……」
「同僚から。奥さんを怒らせた時にさせられたんだって。最上級の気持ちを表す時にするらしいよ」
「はあ」
トイニは半ば呆気に取られながら生返事をしてしまった。先程言われた言葉の内容を深く考える。
「私のことが、好き?」
「うん」
「もしや、最近ご様子がおかしかったのは……」
「お、おかしいと思われてたんだ……。精一杯の愛情表現だったんだけど……。そうです、貴女が好きだから、貴女にも僕を好きになってほしくていろいろしてました。好きです結婚してください」
「してますが」
「そうだった。離婚しないでください」
「うーん……」
「離婚したくないです! このままだと契約書の偽造に手を染めそう!」
「犯罪に手を染めるのはやめましょう、旦那様」
「お願いします本当の夫婦にならなくてもいいから離婚しないでください……出て行かないでください……」
椅子から崩れ落ちてトイニの足に縋り付きそうになるパーヴァリを落ち着かせ、椅子に戻す。聞き分けのない幼児を相手にしている気分だった。
「私じゃなくても旦那様でしたらそのうちいい人が見つかりますよ」
「君じゃなきゃ嫌だ!」
「そんなことはございません。旦那様の仰っていたとおり私は面白味のない女でございます。私よりも面白い女性は星の数ほどいるでしょう」
「過去の僕の馬鹿! なんてこと言ってるんだ殴りたい!」
「私が旦那様を好きになってしまった場合は、実家の援助も打ち切るとも仰っていましたし、それほど好かれることに辟易していらっしゃったのでしょう?」
「過去の僕の馬鹿! 超馬鹿! 愚か者! 君が僕を好きになってくれたら嬉しいよ、天にも昇る気持ちになれる! 君の実家への援助もいくらだってするよ!」
「金銭関係の判断は冷静なときになさってください」
「ひゃい……」
思わずパーヴァリの頬を両手で潰してしまったトイニは謝罪して、そそと手を引っこめた。幸せそうに頬をゆるませて笑うパーヴァリの顔から眼を逸らす。
「旦那様は、もしや邪術にでもかけられていらっしゃる……?」
「かけられてないよ?! そもそも君を好きになる邪術って存在してるの?! してるなら早急に術者を見つけないと! 世界中の人間が君に恋しちゃう……!」
「自分で言っておいてなんなのですが、それはないのでご安心ください」
「そうか、良かった……」
安堵の息を吐くパーヴァリを見ながらトイニは己の頬を抓ってみた。痛い。
「トイニ? どうしたの、いきなり頬を抓って」
「夢ではないのですね」
「? 夢じゃないよ。離婚うんぬんは夢であってほしいけど」
本気で言っているらしいパーヴァリにぱちりぱちり、と眼を
「旦那様が私などを好きだと仰るなんて、都合の良い夢かと」
「夢じゃないよ!」
間髪を入れずにパーヴァリが言う。叫びのような響きのそれにトイニは茫然と聞き入っていた。
「では、私は、旦那様を好きになってもよろしいのですか。好きでいても、許されるのですか」
「許されるよ! 僕も君が好きなので! 離婚しないでください、ずっとそばにいて、僕の奥さんでいてください!」
跪いたパーヴァリに手を取られ、トイニの瞳からほろりと一粒の涙がこぼれた。
「……旦那様」
「なあに、トイニ」
パーヴァリが眼を細めて、甘く甘く、煮詰めた砂糖水より甘くトイニの名前を呼んだ。
「実家に帰らせてください」
「ナンデ?!」
「旦那様のご尊顔が眩くてまともに見られません。心の準備をする時間をください」
首まで真っ赤にして、蚊の鳴くような声で訴えるトイニに感極まったパーヴァリがその勢いに任せてトイニを抱きしめた。
結果、トイニは気を失った。
動転したパーヴァリに寝入り端を起こされた執事長はしょぼしょぼとした眼をこすりながら、経緯を聞いて涙ぐんだ。
「初恋が実って良かったですね、坊ちゃん」
「それはいいから医者を呼んでくれ!」
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