親父の恋

あんとわねっと

第1話

どうやら親父に彼女ができたらしい、と俺が気づいたのは、全くの偶然だった。


この前親父のマンションを訪ねると、無防備に開きっぱなしになっていたタブレットに、高級ランジェリーショップのサイトが映っていたのだ。親父に女装趣味はないはずだし、たとえあったとしてもそのショップのサイズは入りようがない。


親父は10年ちょっと前におふくろと離婚し、その前後は彼女がいたが、その彼女と別れてからは色恋とは無縁のようだった。まだ60を過ぎたばかりで、腹はかなり出ているが心身ともにすこぶる健康。仕事も現役だし、趣味の卓球に、サッカーの贔屓チームの応援に、それに姉貴の子供の世話まで買って出て毎日忙しい。だから彼女を作る暇がない、というのがいつもの言い草だ。


それを真に受けていちいち気にしてなかったが、今思い返すと、彼女がいたとしたら、ははーんと腑に落ちることがいくつかあった。


親父は、「離婚」なので正確にはそうではないが、いわゆるヤモメ暮らしである。離婚を機に家を出て、2LDKのマンションで一人暮らしをしているが、部屋干しの洗濯物がいつまでも干しっぱなしだし、台所には汚れた食器の山が4、5日分積まれている。居間のテーブルは物で溢れているし、キャビネットにはうっすらほこりが積もっている。そして寝室の床やベッドには脱ぎ捨てられた寝巻きや作業着が点々と落ちているのが常だった。


それが最近はといえば、洗濯物はきちんと畳まれて、流しもスッキリ片づいている。居間のテーブルは物を置くスペースができたし、キャビネットには拭き取った跡がある。


寝室も、床やベッドの上にも何も落ちていないし、シーツやカバー類が頻繁に取り替えられるようになった。そういえば洗面所のゴミ箱に何本か長い黒髪が入っていた。あれは絶対に親父のものではない。


それに電話しても出ないことが増えた。彼女と会っている最中だったのかもしれない。


ただの女友達以上の、いわゆる深い仲の恋人ができた。タブレットで見てたランジェリーショップは、その彼女へのプレゼントでも見繕っていたのだろう。それは、多分、いや絶対、大いに喜ぶべきことだ。


俺は、離婚当時の親父の元カノには、あまり良い印象は持っていない。姉貴なんかは目の敵にしていた。元カノが現れる随分前から両親の仲は冷え込んでいたが、元カノの存在がなければ、離婚は避けられたのではないかと思う。その女は、親父を寝盗ったばかりか、親父とお袋および俺たちを引き離そうとしていた。たとえば親父が俺や姉貴、姉貴の娘達と食事に行くのをひどく嫌がり、なんとか宥めすかして親父が出かけても、いつ帰るのか、早く帰れと、何度も電話をかけてきて、親父を困らせた。俺と姉貴はあんな女のどこがいいんだ、と憤慨した。


しかし、それはもうずっと前のことだ。親父は離婚後まもなくその女と別れたが、そのうちにおふくりにも恋人ができて、結局両親が元の鞘に戻ることはなかった。おふくろは親父のことを今でも憎んでいるが、彼氏が出来てからは親父に関する愚痴も減ったし、何かいきいきしている。だったら、親父にも親しい女友達ができて楽しく暮らしてもらいたい。


これまで姉貴やおじさん、おばさんが、誰かいい人はいないの、と訊いても、親父は首を横に振るばかりだった。仕事や卓球、サッカーや子守で忙しくてそんな暇はないという例の言い草だ。しかし状況は変わった。どうやって白状させようか…その前に俺と姉貴には紹介してくれてもいいのにな。


まあ、まだ付き合って日が浅いのかもしれないし、いろいろと事情があるのだろう。あの元カノと違って俺たちが反対することはないのに。いや単に恥ずかしがっているのかもしれない。親父はすこぶる社交的な人間だが、結婚するのが早かったし、お袋との仲が冷え込むまでは浮気もしていなかったそうで、あまり女ズレしていないのだ。


とある週末、親父が最近ゲットした電動自転車を借りにきたところ、マンションの駐車場の片隅の、ちょうど通りからも各住戸からも死角になっている一角で、激しく抱き合う男女がいた。なんと!こんなところで日の高いうちからラブシーンか!そこに踏み込むほど野暮でも、無知でもないので、一歩下がって待っていたが、2人はなかなか出てこない。ちらっと覗くと2人の影はまだ重なっている。一体どういう奴らなんだと、目を凝らすと、女は小柄で男に体を預けている。長い黒髪が背中で揺れている。そして男は、女の細い背中を両腕で包みこみ…おい、ちょっと待て、あれは親父だ!


驚きのあまりその場に立ち尽くしてしまった。それからどのくらい経ったのか、ものの数秒だったのかも、分単位の時間のかもしれないがよく覚えていない。2人は体を離し俺の方に歩き始めた。とっさに物陰に身を隠す。親父が何か話しかけ、女がうなずいている。そして女は片手を挙げて通りへ、親父はマンションの玄関へ向かう。親父が最後に女の方へ振り向いた。角を曲がって見えなくなるまで女の姿を追っている。何という切ない目。名残惜しさをひたすら抑えている目だ…親父は、恋をしている。


親父のラブシーンを目の前で見てしまい、「男」としての親父を目の当たりにしたのは、かなりの衝撃だったので、俺は5分ぐらいかけて呼吸を整えてから、親父の部屋のベルを鳴らした。ドアを開けた親父はもう普段の親父に戻っていた。俺は親父の顔を思わずまじまじと眺めてしまい、かといって親父と目を合わせることもできず、親父はちょっと変に思ったようだ。こういう時はどうすればいいのか…一体何を話したらいいんだろう…とにかく気まずい。もう自転車どころではない。俺は早々に退散した。


そうこうするうち、季節は春になった。あれから親父が女といるところを見かけたことはないが、マンションは相変わらず小綺麗で、親父はやはり電話に出ないことが多い。2人の関係は続いているようだ。俺はショックから立ち直れず、親父には何も言い出せず、しかも姉貴にも相談できないでいた。


5月の終わり、従姉の結婚式があった。親父の一番上の姉の娘だ。その伯母んちは、かなり裕福だし、従姉は一人娘なので、結婚式は大がかりなものだった。石楠花で有名な大きな庭園付きの大邸宅を借り切って挙行され、親戚一同のほか、仕事関係の招待客も多かった。新郎はコンピュータサイエンスの修士を取った後、友人とベンチャービジネスを立ち上げ、仕事もどうにか軌道に乗ってきたらしい。


宴もたけなわ、みんな飲んで食べて無礼講っぽくなってきた頃だ。背後で新郎の声がした。

「Hさん、よく来てくださいました」

見ると新郎新婦が招待客に挨拶回りをしている。

「いや本日はご招待ありがとう」

「Hさんにはいつもお世話になっております。ご多忙中、恐縮です」

ふむ、新郎の取引先の人間か。年配の神経質そうな痩せギスな紳士だ。小柄な女性と一緒だ。

「家内です」

「奥様もご足労さまです」

「おめでとうございます…」

ほう、かなり歳の差がある夫婦だな。奥さんの方は華奢な体つきだから若く見えるのかもしれないが。あれ、あの奥さん、どこかで見たことがあるような…。


すると新婦の従姉が呆れたような声を出した。

「まあ、パパったら、やだ。飲み過ぎちゃって」

新郎新婦の前に新婦の父親が千鳥足で立ちはだかっている。うーん、伯父さんはすっかり出来上がっていて、あろうことか新郎に絡み始めた。

「おい、大事な一人娘をくれてやるんだ。ヒック、こいつを泣かせたら、ヒック、承知しないぞ」

「パパ、お客様の前よ、やめて」従姉はH夫妻に詫びるような視線を向けた。


従姉の声を聞きつけ、親父が伯父貴をとめにはいった。

「おい、花嫁の父が辛いのはわかるが、飲み過ぎだ。奥でちょっと休もう。どうも失礼しました」

親父は伯父貴に肩を貸し、H夫妻に会釈した。


親父が一瞬立ち止まった。と同時にH氏の妻がシャンペングラスを落とした。空気の色がそこだけ変わったが、それは俺の錯覚だろうか。


思い出した。あれは親父の彼女だ。


H氏が妻を叱責する。

「こら、何をしている」

「ごめんなさい、ちょっと目眩がして」

「大丈夫ですか、お怪我は」

「…大丈夫です。申し訳ありません」

新郎が会場スタッフを呼んだ。その隙に親父は伯父貴を連れ出した。


彼女は遠ざかっていく親父の背中を見ている。表情はちょっと硬い。お互いこの式に来ていることを知らず、偶然鉢合わせしてしまったのか。親父の表情はわからない。彼女の左手の薬指には指輪が光っている。親父の彼女は人妻だったのだ。親父が彼女のことを俺たちに黙っているのはそのせいか…


伯父貴のハプニングはあったものの、結婚式は無事終了し、新郎新婦はハネムーンに旅立った。従姉は幸せそうだった。親戚一同で撮った記念写真でも従姉は極上の笑顔で写っている。その横の伯父貴は赤ら顔でしょぼくれているが、その後ろの親父は…何もなかったかのような普通の表情だ。


昨日親父のマンションに立ち寄ると、例の人妻がちょうど玄関から出てきた。俺はびっくりして立ち止まってしまったが、彼女は俺にちょっと会釈して悠然と去った。それはそうだ。俺は彼女が何者か知っているが、彼女は俺のことを何も知らない…びっくりする理由はない。彼女は赤いカーディガンを羽織っていた。


部屋に入ると、親父はガウン姿で、リビングの通りに面した窓ぎわにたたずんでいた。親父の部屋は3階で、この窓からは通りが遠くまで見渡せる。んー、ガウンということは…もしや取り込み中だったのかな。何か話しかけた方がいいのか。と俺が態度を決めかねていると、

「この木に、鳩が巣を作ったんだよ」

振り向きもせず、親父が言った。乾いた声だった。


俺が近くに寄ると、親父は窓のすぐ下にある、樺の木を指さした。おお、確かに枝と枝の間に何かあって、そこに鳩がうずくまっている。

「へえ、卵抱いてるのかな、雛が孵るかも」

俺は思わず声を弾ませたが、親父は無言だった。いや聞こえてなかったのかもしれない。親父は鳩とは逆の方向を見ていた。そこには赤い服を着た人影があった。親父はだんだん小さくなっていく赤い点をいつまでも見つめていた。

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