四章――④

「この中に入っているのが〝壱花〟ですよね」

 とん、と榛弥が机の上に円柱型の白い壷を置く。榛弥の右隣には壮悟が座り、その向かい側では久司が座布団に正座している。彼は壷を黙って見つめ、やがてゆっくりとうなずいた。

 壷の中身を確認してすぐに、榛弥は久司の家に連絡していた。その時点で夕方の六時を回っていたため、訪問は翌日にしたのだ。

 壮悟はポケットからハンカチを取り出し、中に包んであった蝶の髪飾りを壷の隣に置く。榛弥が書庫で見つけたものと、そして、壷の中から取り出したもの。

 壷の中には髪飾りの片割れと、いくつかの骨の欠片が入っていた。壷の大きさから考えて、全ての骨は入れられなかったのだろうと榛弥は言う。祖父を火葬した時のように、足から頭にかけて各部位を少しずつ収めたのだろう、と。

「髪飾りは中に埋もれていました。腕に抱かせていたんでしょう」

『その方が彼女も安らかに眠れるはずだから。秋麗さんはそう仰っていました』

 久司がさらさらとノートに字を綴る。たまにためらって止まるが、前回のようになにかを書きかけて消すという仕草はない。

『秋麗さんにとって〝きん〟は自分を表すのに最適で、彼女にもそう伝えたことがあったと』

「なんで〝金〟が……?」

 壮悟は首を傾げたが、榛弥は心当たりがあったらしい。

「五行思想ですか。ひいじいさん――秋麗の〝秋〟が対応している五行は〝金〟だから」

『髪飾りはもともとお母さまの形見だったそうです。壱花があまりに泣くものだから、泣き止めばいいと思って譲ったのだと。深い意味はなかったと秋麗さんから聞きましたが、哀れに思うほかに、どこか可愛がる気持ちもあったのではないかと、私は勝手に考えています。でなければ親の形見なんて大切なものを譲るでしょうか』

「さあ? それはもうひいじいさんにしか分からないことです。僕たちが出来るのは推測だけだ」

 壮悟は分かたれてしまった髪飾りを引き寄せ、机の上でそっと組み合わせた。

 ようやく本来の形を取り戻した髪飾りは今にも羽ばたいていきそうで、同時にその瞬間にまた壊れてしまいそうな危うい美しさを孕んでいる。

『もうお話ししないわけにはいきませんね』

 わずかにペンを止めた後、久司は覚悟を決めたように力強く書き始めた。

『あなたたちが思う通り、秋麗さんは壱花さんを殺しました。殺してしまった、と言った方が正しいのかもしれません。山道でもみ合って転落した際、壱花さんは岩に頭をぶつけて血を流していたと聞きました』

 夢の中で壱花は全身のだるさを感じていた。頭を強打して意識を失い、再び目覚めるまでの間に血を失い過ぎていたのだろう。

「ひいじいちゃんは『もう助からへん』思て埋めたんでしょうか」

『秋麗さん自身も足を挫いていたらしく、彼女を背負って村まで戻るのは難しいですし』

「ほんならいったん家まで戻って、助けを呼んだらええんじゃ……」

『お前が壱花を殺したのかと疑われるのが恐ろしかったようです。突然そんなことになり、秋麗さんもかなり混乱していたのでしょう。どうにかここに壱花がいることを隠せないかと思って、埋めた。壱花さんの髪飾りは頭をぶつけた際に壊れたようで、自分の行いを忘れないように、と欠片を持って帰ったと聞きました』

 ごめん、ごめんとくり返し謝る秋麗の声が耳の奥で響いた気がした。

 その後秋麗は足を引きずって帰宅し、どうして泥だらけなのかと家族に追及されて、山道で足を踏み外したと説明したようだ。壱花と取っ組み合った場所ではなく、別の道でと誤魔化して。秋麗が挙げた場所はもとから道幅が狭いうえに夜になると真っ暗になると有名で、負傷者が少なくなかった。だから家族も「なんでそういう場所と分かって通ったのか」と思うほかに違和感は抱かなかったのだろう。

 第二次世界大戦が始まり、秋麗は戦地に赴いたが、その頃から眠るたびに夢の中に壱花が現れた。

『アキちゃん、アキちゃんと呼んでくるだけの夢だったようですが、秋麗さんは恐ろしくてたまらなかった。あの世から自分を迎えに来たのではないかと』

「だからなんとしても生きのびてやる、と思ったんでしょうか。ひいじいさんは足の不自由さが残ったけれど復員していますし」

 恐らくは、と書く代わりか、久司はこっくりうなずいた。

『私を雇い、事業を興してからも壱花さんは現れ続けた。夜に何度も起こされて「そこにあの子がいる」と言われたものですが、私には一度も見えなかった。家を建て直して魔除けを施しても、警備員を雇っても、なにも変わらなかった』

 秋麗の行動を責めるように、壱花は毎晩現れては蝶となって消える。

 ある日、秋麗は久司に「絶対に誰にも言わないと約束するか」と強い口調で迫り、うなずいた彼を連れて、家人が寝静まった夜に山へ向かった。壱花が埋められている場所だ。

『彼女は成仏していない。秋麗さんは壱花さんを掘り起こして、一緒に埋まっていた彼女の衣服や遺品に火をつけたんです』

「お焚き上げのつもりだったんでしょうかね」

『きっと。彼女の骨と髪飾りは、その壷に入れて池に沈めました。壷に入れられなかった分は撒きました。ちゃんとした墓に入れてやれなくてごめん、と最後まで謝る秋麗さんの姿は今でも覚えています』

「壱花の金を奪ったのはその時ですか?」

 榛弥の口調が追及するものに変わる。

 久司の家に向かう道中で、壮悟は榛弥から疑問を聞かされていた。それと同じことを久司にも言うつもりなのだろう。

「壱花はひいじいさんと遠くへ逃げようとしていた。先ほど遺品とおっしゃっていましたし、手ぶらだったわけではないのでしょう。当面生きていくための金銭も所持していたはずです。ひいじいさんは事業で成功したと聞いていますが、本当に?」

 秋麗が得た富は己の実力で手にしたものではなく、壱花から奪ったものなのではないか。

 かりかり、とボールペンがノートの上を走る音が続く。久司が書き終えるまでの間、場にはぴりっとした緊張感が漂っていた。

『確かに秋麗さんは、壱花さんが所持していた金銭を持って帰ってしまいました。あまりの額に目がくらんでしまったと聞いていますが、持って帰ったのは山道から転がり落ちた日のことです。掘り起こした日ではありません。事業を成功させたのも事実です』

「ほんなら壱花の金はどうなったんです?」

『戦争によって遺児になった方のために全額寄付したそうです』

 自分が勝手に使ってしまうより、せめて人のためになる使い方をと思ってのことだろうが、持って帰ってしまった時点でよろしくない。それもまた罪悪感となって秋麗にのしかかり、十数年後、秋麗は壱花が沈む池に自ら身を投げた。

 彼女には〝身代わり〟を残していたが、きっと満足していないのだろうと思って、秋麗は池まで付き添ってきた久司に沈むまで見届けてくれ、壱花のそばに行くまで放っておいてくれと頼んだ。

『出来ませんでした』と記した久司の手は震えている。『黙って見届けるなんて出来なかった。耐えられなくなって秋麗さんを引き上げたときには息がなく、そのまま帰らぬ人になってしまった』

 遺族や秋麗の友人たちから、久司はひどく責められた。秋麗の死を止められたはずだろう、役立たずと詰られた。ただ一人だけ久司の苦しみを察して寄りそってくれた女性がいて、のちに彼女を娶ったという。

「ひいじいちゃんが久司さんに壱花ちゃんとの思い出とかいろいろ話したんは、一人で抱えとんのがしんどかったからでしょうか」

『己の罪と秘密を共有する相手が欲しかったのかも知れません。秋麗さんが死んで事実を知るのは私だけになり、私もいつ耄碌して真実を誰かに言ってしまうか分からない。不安で仕方がなかった時に、喉を患いました』

 いつ秘密を暴露してしまうかと恐れていた久司にとって、声が失われてしまうのは都合が良かった。壱花の死の真相を誰かに話す可能性が格段に減る。声の再取得を望まなかったのはそれが理由なのだろう。

『けれど今、こうしてあなた方にお伝えしている』

「伝えられてよかったと思いますか? それとも後悔を?」

『お伝え出来て良かったと、今は思います』

 久司も壱花の死について隠しているのが辛かったのだろう。彼の表情は少しばかり晴れやかだ。

『秋麗さんは「壱花に呪われた」と何度も言っていました。「見捨てないで」と言われたのがずっと耳に残っていて、自分はその言葉に永遠に捕らわれているのだと。呪いではなく切ないまでの願望だったのだと、今なら分かります。秋麗さんもきっと分かっていることでしょう』

 ずっと胸の奥底で抱えていた罪の記憶を吐露して、重荷がなくなったように感じたのだろう。久司が亡くなったと祖母から連絡があったのは、壮悟たちが顔を合わせてから一か月後だった。



 梅の名残と、桜がちらほらと咲く神社の境内を、黒い蝶が飛び交っている。壮悟が数えられただけで二十匹いる。実際の数はもっと多いだろう。相撲大会を控えた子どもたちは蝶を見上げて楽しそうに笑い、何人かは捕まえようとして親や祖父母に「神さまの使いなんだから止めなさい」とたしなめられていた。

「もう怖がらないんだな」

 本殿に参拝を済ませた榛弥が壮悟の隣に並ぶ。ああ、とうなずいて、壮悟は穏やかな気分に笑みを浮かべ、ひらひらと通り過ぎていく蝶を目で追った。

「全くこわないってわけと違うんやけど、前ほどでもない。見た瞬間に逃げやなって思わんようになったかな」

「そうか、良かったな」

「ハル兄は? 神主さんに話聞いてきたんやろ?」

「ああ」

 榛弥はたばこを吸いたそうにしているが、境内は禁煙だし、代わりに飴を舐めようと思っても飲食も禁じられている。壮悟の車に置いてある棒付きキャンディーをあとで渡してやろうと思った。

「もともとは蝶じゃなくて、神社の裏に咲いた花の数で占っていたそうだ。蝶が判断の材料になったのは、壱花がいなくなってからだな」

 三月末の今日、神社では毎年恒例の祭りが行われている。研究の資料のために知りたいことがあるという榛弥を連れて、壮悟は数年ぶりに祭りに参加していた。境内のあちこちでは真剣なまなざしをした大人たちが蝶を数え、やがて安心したように笑いあっている。今年の結果は良好らしい。

「占っていたのも吉凶じゃなくて、その年は豊作か否か、だったみたいだ」

「ってことは歴史としてはだいぶ新しいんやな、この祭り」

「壱花がいなくなってすぐは、祭りと併せて〝蠱毒の巫女〟の帰還を天に祈るために蝶を放っていただけだったんだが、いつしか本来の祭りと習合して今の形になったらしい」

「ふうん……」

「そういえば、壱花はまだ現れるのか?」

「いや、もう見やへんな」

 壱花の遺骨と髪飾りは寺の住職に託して供養してもらった。託すにあたって、住職にだけは全てを話している。壱花――姉石家の誰かに渡すのが一番良かったのだろうが、姉石家はもうない。

 壱花は家にあった金をありったけ持って出てきたようだ。日々を暮らしていく金や女中たちへの給金が間もなく尽き、〝蠱毒の巫女〟を頼る信者たちからの追及を逃れるためにも壱花の父は親戚を頼って隣の市に移ったものの、空襲の集中砲火に見舞われて命を落としたそうだ。親戚も同様に。

 話を聞いた住職はもちろん衝撃を受けていたし、信じられないと何度も言っていた。それでも信じてもらうしかない。壮悟一人では説得は難しいと判断したようで、途中からは榛弥も話してくれた。

 その晩から、二人とも壱花の夢は見なくなったし、壮悟のもとに彼女が現れることもなくなった。無事に成仏したのだろう。

「壱花ちゃんはさ、〝蠱毒の巫女〟やったけど〝孤独の巫女〟でもあったん違うかって思うんやわ」

 わさわさと舞う群れから外れ、一匹の蝶が危なっかしい羽ばたきで壮悟のもとにやってくる。前までは近寄ってきた時点で悲鳴を上げて涙目になっていただろうが、今は違う。指先を伸ばすと、舞い降りた蝶はそこで翅を休めていた。

「巫女やなんやって崇められても、友だちは居らんかったんやろな。そんで唯一頼れる相手やったひいじいちゃんには殺されるし、死んでからも池に沈められるし。ずっと独りぼっちで寂しかったと思うねん」

「お前にしては珍しくポエミーなこと言うんだな」

「やかましいわ」

 蝶は再び羽ばたいていく。群れに戻って楽し気に舞うのをみて、壱花の魂もそうであればいいのにと願わずにいられない。

「ハル兄はいつ名古屋戻るん?」

「二、三日したら戻るかな。資料も大量に送ったし、じいさんが遺したものもあるからそれをまとめないといけない。向こうに戻ってから大忙しだ」

「がんばれ。――二、三日くらい後な。ほんなら俺、それに付いてこうかな。車で送ってくわ」

 なんでだ、と榛弥が軽く首を傾げた。

「名古屋駅の近くにデッカイ本屋あったよなと思て。けど場所分からへんし、ハル兄、案内してくれへん?」

「別に構わないけど、本屋ならお前の家の近くにもあるだろ」

「あそこやと小さいから置いてあるか分からへんのやもん。久々に名古屋も行きたいし、ちょうどええかな思て」

「なにを買うんだ?」

「潜水士の資格の本」

「仕事にする気になったのか」

「とりあえず資格だけでも取っとこかなーと。活かすかどうかはこれから考える」

 当面はアルバイトでもして貯金を再開する、と話すと、励ますように背中を無言で叩かれた。

「子ども相撲大会、間もなく始めまーす! 参加するみんなは集まってねー!」

 召集の声をきっかけに、蝶に夢中になっていた子どもたちがわらわらと境内の一角に集まっていく。

「せっかくやし行こかな」

「子ども相撲大会だぞ。お前、自分が何歳だと思ってるんだ」

「誰も参加するて言うてないやん。見物に決まっとるやろ。ハル兄も行く?」

 壮悟が歩きだすと、榛弥も「仕方ないな」と短く返答してついてくる。その目が懐かしそうに細められているのを見逃していない。素直やないな、と壮悟はくすくすと笑みをこぼした。


               完

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壮悟と榛弥~コドクの巫女と蝶の呪い~ 小野寺かける @kake_hika

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