四章――③
ほこほこと香ばしいにおいを漂わせる味噌カツ丼を前に、壮悟の心はうきうきと弾んでいた。
どんぶり一杯に盛りつけられた白米の上に千切りキャベツがこれでもかと敷かれ、神々しささえ感じるトンカツにはたっぷりと味噌がかかっている。注文する直前まで卵とじのカツ丼と迷ったのだが、思い切って味噌カツ丼にして正解だった。
端から二番目に鎮座している部位を取って口に運ぶ。さくさくとした衣は音の響きもよく、味噌と油の甘みが舌の上で絶妙に混ざり合い、肉のジューシーな旨味が口の中で弾けた。
「
思わず呟いてから、今度はキャベツと白米を咀嚼する。新鮮なキャベツは瑞々しく、しっとりと炊かれた白米が味噌とは違った甘みをもたらした。
目を閉じてじっと味を堪能し、それでは次の一口を、と箸を伸ばしかけて、壮悟は固まった。
「……あらへん」
トンカツの両端の欠片のうち、一つが消失している。
無くなった側に座っているのは、ともに出かけていた榛弥だ。そちらからさくさくと覚えのある音が聞こえている。
「……ハル兄?」
「確かに美味いな、このトンカツ」
「なに勝手に食うてんねん!」
壮悟の怒りに、当の従兄は「なんで怒ってるんだ」とでも言いたげな顔をして、己が注文していたざる蕎麦をすすり始めた。
祖父の手帳に書かれていた秋麗の暗号を解いてから一週間が経過している。次の用事まで時間があったため、二人は倉庫と書庫の整理を終わらせることにした。今日は売れそうなものと処分するもの、発送するものをまとめて壮悟の車に積み込み、どれも済ませることが出来るショッピングモールに訪れたのだった。
捨てるものは早々にゴミ捨て場に置いてきて、現在は売却品の査定待ちである。倉庫からは衣類や雑貨、書庫からは数多の本を持ってきたために査定が終わるまで一時間ほどかかると言われ、昼時ということもありフードコートで腹ごしらえをすることにした。
春休みに入り、フードコートには家族連れや学生の姿が多い。壮悟たちは駐車場を一望できる窓際の一人用の椅子に並んで座っている。榛弥はずずず、と気持ちのいい音を立てながら蕎麦をすすり続けているが、壮悟は景色を見ることなくがっくりと肩を落とした。
「楽しみにしとったのに……端っこ食べんの……」
「お前はあれか。楽しみは最後にとっておく派か。ショートケーキの苺も最後に食べるタイプ」
「なんか悪いか」
「悪くはないけど、そんなに食べたかった部位なら僕の手の届かないところに避けておくべきだったな」
「うるさいわ。一言も謝らんで」
「すまん。代わりにここから一つ選ばせてやる」
榛弥が差し出してきたのは天丼だ。ざる蕎麦とセットになっていた小ぶりなそれには、エビや野菜といった天ぷらがこんもりと乗っている。
そういうことなら、と壮悟は海老天を取ろうとしたのだが、寸前で「あ、海老以外で頼む」と注意が飛んできた。一つ選ばせてやるといったではないか。釈然としないまま、壮悟は仕方なくカボチャの天ぷらを自分のどんぶりに迎えた。
「壱花が沈んでいるのは丸池だろうが、問題は『どうやって沈んでいるか』だな」
榛弥が海老天を頬張りながら言う。尻尾までばりばりと食べている。余すことなく食べる
「『か弱き腕に抱くは金』って書いてあったもんな」
「腕はそのまま『壱花の腕』って意味で捉えるべきなのか、なにかの例えなのかもまだ分からない。ただ『抱く』って記すくらいだし、僕の夢では最後に閉じ込められていたから、遺骨を池にばらまいた訳ではないだろう」
「箱とか、骨入れるんやったら壷とか?」
「じきに分かることだ」
「そうやな」
「もう一個トンカツ貰っちゃダメか?」
「あかん」
その後も隙あらばトンカツを奪っていこうとする榛弥からどんぶりを死守しつつ、米粒一つ残さず完食した壮悟はセットで付いてきたぜんざいに手を伸ばした。もちもちとした白玉とあんこの優しい甘みが至福の一口を提供してくれる。一方の榛弥は適度に冷めた緑茶でのどを潤していた。
「昔はよく来たよな、ここも」
「子どもの頃に『どこか食べに行くか』て連れてこられたん、ほとんどここやったよな」
フードコートにはたこ焼きやハンバーガーショップのほか、ステーキ、ラーメンやスイーツの店もある。各々好きなものを食べるにはうってつけの場所だった。壮悟や榛弥はいろんな店のお子様ランチを食べたりしていたが、祖父はたいていラーメンを食べていた記憶がある。
懐かしさが胸を通り過ぎ、壮悟はさりげなく目頭を押さえた。
「……倉庫、えらいすっきりしてしもたなあ……」
「書庫もな」
「本はあれやろ? 教え子さんたちに渡す分とか、まとめて大学に送りつけるやつもあるんやろ?」
「読みたい奴がいれば譲ってやった方がじいさんも喜ぶだろ。安価で売り払われたり、捨ててしまうより遥かにいい」
「俺もそう思う」
不意にジーンズのポケットが震えた。中に入れていたスマホに電話の着信があったのだ。壮悟は誰からの着信か確認し、画面をタップした。
「はい、暁戸です。ああ、終わった? ありがとな。どう、あった? ――ああ、ほんなら良かったわ。――うん、今出かけとるから、帰りがけに寄らせてもらうわ。――うん、夕方までには行くで。――はい、はい。ほんなら、またあとで」
通話を切ると、榛弥がじっと壮悟を見ていた。
「誰からだ?」
「カズキから。『見つかった』て」
「そうか」
「『多分これじゃないかな』て言うとったから、あとで行って確認してみやんとあかんな」
「査定もそろそろ終わった頃だろうし、行くか」
ごちそうさま、と二人はそろって手を合わせた。
カズキの中江家が経営している〝くぐい亭〟には食堂兼ボートの待合室がある。広大なため池を一望でき、周辺の山々も見渡せる。壮悟は丸い椅子に腰を下ろして、榛弥は立ったまま、池を見るともなしに眺めていた。
「なんで〝くぐい〟って名前なのかと思ったら、なるほど、白鳥型のボートがやたら多い」
「なにが『なるほど』なんか全然分からへんのやけど」
「〝くぐい〟は白鳥の古称。昔の呼ばれ方だ」
「あー、だから店のロゴにも鳥が描かれとんのか」
池にはカップルや家族連れが乗る白鳥ボートのほかに、釣り客用の普通のボートも浮かんでいる。暖かくなってきたこともあり、それなりに繁盛しているようだ。
普段と違い、池の一角には人が立ち入れないよう、表面にロープが張られている。そちら側ではたまに池の中から頭が何人ぶんか現れて、岸に寄ってはまた潜っていく。
「壱花を山に埋めたんなら、そのままにしておくのも手だったと思うんだけどな」
榛弥はたばこをくわえているが、火をつけていない。壮悟はがったがったと暇つぶしに椅子を揺らしつつ「なんで?」と問いかける。
「
「死んだ後の世界とか、そういう意味やんな?」
「そう。異界と表してもいい。日本には霊山と呼ばれる場所が多くある。神聖な山には仏や神がいて、死んだ人の魂はそういうところに帰ると昔は考えられていた。ほら、送り火とかあるだろ」
「京都で毎年お盆の時期にやってるやつ? 山でデッカイ大の字が燃えてるやつ。生で見たことないけど」
「京都以外でもやってるから機会があれば行くといい。――要するにあれは、お盆の時期に山から帰ってきた先祖の魂を、再び山へ送る行事なんだ。ひいじいさんは壱花を掘り起こした場所で火をつけたみたいだが、どうせならそのまま埋め直して、ちゃんと弔ってやればよかったのにと思ったんだ。思いつめて死ぬくらいなら口を閉ざさないで、彼女を仏としてある種の信仰対象にするのも一つの手だったはずなのに。そうすれば壱花も成仏できたかもしれない」
「……難しいことはよう分からんわ」
待合室には壮悟たち以外に誰もいない。榛弥のバリトンボイスと、壮悟が揺らす椅子の音だけが響いている。
「もしくはひいじいさんは、壱花が池から川、川から海へと流れていくのを望んでいたのかもしれない」
「海?」
「さっきは山中他界だったが、こっちは
「ひいじいちゃんは壱花ちゃんがそういうとこに着いたらええなって思とったんやろか」
「恐らくは。まあ結果的に壱花は成仏してないみたいだし、暗号も『沈む』って思いっきり書いてあったからな。流れていけばいいなと思いながら、たどり着くことはないかもしれないと思ってもいたんだろ」
「お待たせー!」
静かだった待合がたった一言で明るく染まる。よう、と手を振って現れたのは、以前と同じく黒いジャンパー姿のカズキだ。
「悪いな、待った?」
「いや、そんなことない。話しとったし気にせんといて」
「おう、そうか。ところでえーっと、こっちは誰?」
「従兄のハル兄」
「そこは榛弥って紹介しろよ」
呆れ顔の榛弥に、カズキは「中江カズキです!」と元気よく挨拶して頭を下げていた。
一応子どもの頃に会ったことはあるはずだが、双方ともにあまり覚えていないらしい。壮悟のことは相撲大会の決勝で戦ったからこそ記憶に残っていたのかもしれない。
カズキは池を見て、満足そうな笑みを顔いっぱいに広げて壮悟に目を移す。
「いやー、ありがとな! 壮悟くんが紹介してくれたおかげで、池の中がきれいになってるよ! 本当助かった!」
「ええんやって。たまたま知っとっただけやから」
暗号を解読した一週間前、池に沈んでいるであろう壱花を見つけるにはどうすればいいのか話し合った際、壮悟には思いついたことがあった。
きっかけは先日実家に送られてきたという友人からの絵ハガキだ。差出人の友人が勤めているのは、ダイバーの会社だ。ゴルフ場などの池に落ちたボールを拾ったり、各地の池のごみを拾ったりといった清掃にダイバーを派遣していると聞いたことがある。記憶を頼りに会社を検索すると、果たして壮悟の記憶は正しかった。
次いでカズキが「池の中にごみを捨てる奴がいる」と憤慨していたのが脳裏をよぎった。
この二つをうまく結びつけることは出来ないか――壮悟がさっそくカズキに連絡を取ったところ、彼も彼で行動が速かった。一日もしないうちに池清掃の依頼を取り付けて、その実施日が今日だった。
清掃が入る前に、壮悟はカズキに一つ伝えていたことがある。
『どうやら昔じいさんが、池に大事なものを落としてしまったらしい。箱か壷かは分からないけど、もし見つかったら教えてほしい』と。
「それがさあ、ごみが結構いっぱい見つかったんだよ。自転車とかタイヤとか。意外と不法投棄してる奴がいたっぽくて! めっちゃ腹立つ」
「そうなんや……なんかすまんな」
「あ、いいよ。
落としたのは祖父の春好ではなく曽祖父の秋麗で、うっかりではなく故意に落としたのだが、そう思わせておいた方が話がややこしくなくて済む。
池から拾い上げた箱などは別室に置いてあるという。そこまで移動する途中、榛弥に脇腹をつつかれた。
「なに?」
「お前もダイビングの経験あるんだろ? 人に頼まないで自分でやっても良かったんじゃないか」
「機材のレンタルとか費用かかんねん。今の俺にそんな金あらへんわ。それに仕事で潜るんやったらちゃんとした資格も取らなあかんけど、俺持ってへんから」
「取ったらいいじゃないか。好きなんだろ? 潜るの」
「簡単に言うてくれんなぁ……」
「お前なら出来るんじゃないかと思っただけだ」
「え、なになに? 壮悟くん潜れるの? うち専属の潜水士にでもなる?」
二人から期待の眼差しを向けられ、壮悟は「色々考えとくわ」と苦笑を漏らした。
カズキに案内されたのは倉庫の一つだった。そこには床一杯に箱やら壷やら並べられている。最近投棄されたと思しきものや、苔や藻まみれで元の色が分からなくなるほど変色してしまったものもある。
壮悟たちは少し部屋を借りて、一つ一つ中身を確認していった。たまに元は食品だったと思しき謎の物体が入っていることがあり、異臭を放つそれにそろって涙を滲ませたりもした。
「――――あった」
榛弥が呟いたのは、箱の開封作業から二時間が経った頃だ。
彼の前には円柱型の入れ物が置かれている。大きさはすっぽりと胸に納まるほどで、そばには錆びた鉄の箱があった。どうやら水の侵入を考慮して、別の入れ物に入れられたうえで沈んでいたようだ。
蓋は開けられている。壮悟はおずおずと中をのぞきこみ、間違いなく〝壱花〟だと確認した。
やっと見つけてあげられた。思わず入れ物を持って大事に抱える壮悟の隣で、榛弥はスマホを取り出していた。
「壱花も見つかったことだし、全てを明らかにしなきゃならないな」
榛弥の目には確固たる決意が浮かんでいる。壮悟は〝壱花〟を撫でてやりながら、ああ、とうなずいた。
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