四章――②
母は〝外〟の世界を怖がる人だった。部屋の外、家の外、村の外、国の外――自分の知らない世界に飛び出していくのを恐れて、己の見たもの、聞いたものがあふれる場所で楽しく穏やかに暮らすことを本気で望んでいた。
そして母は、その信念を壱花にも課した。
「壱花、お外の世界は危険があふれています。道を歩けば石につまずいて転んでしまうでしょう。転べば怪我をして、怪我をしたところが悪化すれば死んでしまうかもしれません。お花だって、きれいなものは摘みたくなるでしょうけど、見た目に騙されてはいけません。とんでもない毒を秘めている植物だってあるのです。だから」
「おそとのせかいにでてはいけません?」
四歳になったばかりの壱花がつたないながらも教えられたことをそのまま言うと、母は心の底から嬉しそうに口の端をほころばせて、しかしすぐに厳めしい表情を浮かべて「よく言えました」と撫でてくれた。
幼い心で母の教えをすべて理解できていたかというと、そうではない。どちらかというとよく分からない部分の方が多かった。けれど「お外は危ない」という一文だけは何度も聞かされたし言わされたため、自然と自分の中に浸透していった。
あれが危険、これが危険と母はいろいろ壱花に教えたが、どんな話でも最後は必ず「でも一番恐ろしいのは人間です」で締めくくる。誰もが身勝手に生きて、それに振り回される人も大勢いる。そうして視線を、酒におぼれがちな夫に向けていた。
母の教えに従って部屋の中、家の中、敷地の中で暮らしてきた壱花だったが、ある日庭で蝶が一匹ふわふわひらひらと舞っているのを見つけた。
この蝶はどこから来たのだろう、どうやって生きているのだろうと考えて、蝶への興味はいつしか〝外〟に対する憧れへと変わる。こんなにひ弱で潰れそうな虫が生きていられるのなら、自分にも出来るのではないか。
さっそく母に提案しようと家の中に戻ると、母は血を吐いて倒れていた。
村では病が広がっていた。母は外の世界を怖がりながらも、村での集まりにはいやいや参加していた。恐らくその時に感染したのだろう。病気の兆候は今までにもあったのだろうが、本人が病を認めたくなかったのと、壱花を心配させたくなかったのという理由で、どうにか隠していたらしい。
結局、母は数日後に死んだ。死に際の言葉もやはり「お外は危ない」だった。
けれど壱花は〝外〟への憧れを捨てきれず、母の願いに背く。
蝶を追って庭から飛び出したのだ。
思い切って飛び込んだ〝外〟の世界は魅力であふれていた。初めて触る花、初めて見る虫、初めて嗅ぐ香り、初めて聞く音。ちくりと足の裏が痛んで、そういえば裸足だったと気づく。けれど壱花は心の奥底から湧きあがる歓喜をおさえ込めず、大いにはしゃぎまわった。周囲の人々には、ただの狂った娘にしか見えなかっただろう。
姉石家には一人娘がいる、という程度の情報はあったけれど、多くの村人が実際に姿を見て、声を聞いたのはこの時が初めてだ。いったいどんな娘だろうと思っていたら、はだしで蝶を追いかけて、けらけらと笑いながら道や空き地で転がりまわっている。近づかないでおこう、と誰かが言いだして、誰もが同調した。
「ふふ、うふふ。ねえねえ、蝶々さん。こんどはわたしをどこへつれていってくれるの?」
壱花の問いかけに、黒い蝶はひらひらとどこかへ飛んでいく。先導するように道を行くそれを追いかけた壱花がたどり着いたのは、村の中で一番高い場所にある家だった。
どこにでもある普通の民家だったが、壱花の目には素晴らしいものに映った。というのも壱花の家はあちこちが綻び、土壁は崩れてみすぼらしい。風雨に耐えられなかった瓦は一部が欠けてしまっている。それに比べてこの家はなんと立派なことだろう。
蝶はひらひらと庭に入っていく。壱花もそれを追いかけて敷地に入った。
家の縁側では、一人の男の子が悲しそうに項垂れていた。
「どうしたの?」
壱花が声をかけると、男の子は顔を上げて目を丸くした。よほど別のことに気を取られていたのか、誰かが庭に入ってきたことなど眼中になかったようだ。
「だ、誰?」
「わたし? わたしはねえ、いちか。どうしたの?」
「どうしたのはこっちの台詞だよ。えーっと、いちかちゃん? なにか用?」
「ここのお庭にわたしの蝶が入っていったの。だから入ってきたの。そうしたらあなたを見つけたのよ」
「蝶? ……ああ、あそこの花にとまってるやつか……」
男の声は覇気がなく、泥に沈んでいるようだった。壱花はぽすりと男の子の隣に腰かけて、もう一度同じことを、今度は顔を覗き込みながら訊ねた。
「……母ちゃんが死んだんだよ……」
男の子は着物の袖で目元を拭う。
「お医者さまはケッカクだって言ってた。もう家のどこにも母ちゃんがいないんだって思うと、悲しくて、つらくて」
「だからお外をながめていたの? とってもきれいな景色だものね!」
壱花の家からは見えないものがなんでも見える。色んな家、お店、道を歩く人や田畑を耕す人。その向こうに見えるのは広いため池で、今は丸池と呼ばれているけれど、去年か一昨年に大雨が降って土手が崩れて形が変わってしまうまでは蝶乃池と呼ばれていた、と男の子が教えてくれた。
壱花はほかにもいろいろ聞いたし、男の子はそのたびに答えてくれた。壱花は単純にはじめて両親以外の人と話せたことを喜んで、彼は彼で誰かと話すことで母のいない悲しみを紛らわせたかったのかもしれない。
やがて男の子は、壱花も母を亡くしたこと、母に言われて外に出たことがなかったことを聞くと、痛ましそうに目を伏せた。
「そんなのおかしいよ。外に出たのは今日が初めてなんて」
「そうなの?」
「じゃあ友だちもいないんだ?」
「ともだち……ともだちってなに?」
ことん、と首を傾げる壱花に、男の子は眉を下げてかすかな笑みをこぼす。
「分からないなら教えてあげる。今日からぼくが友だちになってあげる」
「ほんとう? なんだかよく分からないけれどありがとう! えっと、あなたのお名前は?」
「あきより、だよ。乙木秋麗」
「あきより! あきよりね。なんてよんだらいい?」
「なんでもいいよ。いちかちゃんが呼びやすいように呼べばいい」
「じゃあアキちゃんってよぶわね!」
秋麗は優しく穏やかで、無知な壱花が教えたことを片っ端から吸収していくのが気持ちよかったのか、遊びに行くたびに新しい知識を授けてくれる。秋麗の父も、ふさぎこんでいた息子が明るくなってくれるならと壱花の訪いを喜んでくれた。
壱花はますます〝外〟は怖いものではなく楽しいものなのだと理解するようになった一方で、今度は〝中〟に対する恐怖を覚える。
一年ほど経って、父が〝新しいお母さん〟を連れてきたのだ。
継母は壱花に対して厳しく当たった。この頃には秋麗から教えてもらって蝶の幼虫を育てていたため、虫を嫌った彼女は徹底的に踏みつぶした。蝶を愛でていた壱花のことも殴った。継母だけでなく、彼女に同調した父も娘に辛辣に接するようになった。
一日、一週間、一か月耐えればいい。そう自分に言い聞かせていたけれど、精神はどんどんすり減っていく。辛くなったときは蝶を眺めるか、逃げるようにして秋麗の家に遊びに行った。
「これ、あげるよ」
ぐすぐすと洟をすする壱花の膝に、秋麗は光り輝くなにかを置いた。
「蝶、好きなんだろ」
「なあに、これ? かんざし?」
「死んだ母ちゃんが持ってたやつなんだ。お前にやるよ。苦しいなって思ったときは、それを俺だと思えばいいんじゃないかな」
壱花はすぐに金で出来た蝶の簪を気に入った。さっそくつけてみると、壱花の黒髪によく映える。まるで生きているような輝きを放つそれは、周囲を飛ぶどんな蝶よりも優美で可愛らしい。
「でも、これをアキちゃんだって思えるかしら」
「思えるよ。だってそれは〝金〟だから」
「?」
秋麗の言葉の意味は分からなかったけれど、その日から壱花は、彼に言われた通り蝶の簪を秋麗の分身として想うようになった。どんなに辛い日々でも、それに触れるだけで荒んだ心は潤いを取り戻す。継母の前でつけると没収される恐れがあったため、その時だけ懐に潜ませていた。そうすると秋麗を抱きしめているような気がして、一人で嬉しくなった。
そんな生活が三年ほど続いたある日、継母は「飯を食べたけりゃ家族の分を調達してきな」と壱花を家から閉め出した。
耐えてばかりの日常が続いたこの時に、壱花はきっと限界を迎えたのだ。
――お母さんじゃない人がお母さんだから、私は苦しいんだわ。
はだしで家の裏にある山を歩き回って、言われた通りに食べるものを調達した。
「この草、とても美味しいの。おかゆに混ぜて食べると厄除けにもなるんだってお母さんが教えてくれたわ」
採取してきたものを継母に渡すと、彼女は満足そうに調理した。
それが毒草とも知らずに。
毒があるから気を付けてね、と教えてくれたのは秋麗だ。よく似た見た目の別の草と間違える人がよくいるから、と。
なにも知らない継母は毒草を――ムラサキケマンを食べて、苦しんだ末に死んだ。水を欲して井戸に向かう途中で力尽き、泡を吹いて倒れる姿は痛々しくもあり、同時に壱花に解放感をもたらした。
村の寄り合いから帰った父に「なにがあったんだ」と問いつめられても、壱花は「知らない」を貫き通した。家から閉め出されていたから分からない、突然継母が外に飛び出してきて倒れたのだと説明すると、父はそれを信じたようだった。
父が「壱花が俺の嫁を呪い殺したんだ」と周囲に言いふらすようになったのは、継母の葬儀から一年が経った頃だ。継母が消えたことで壱花は思うぞんぶん蝶を愛せるようになり、彼女が歩くとどこからともなく黒い蝶が現れて、まるで護衛のように付き従う。その姿にまっさきに恐れを抱いたのはほかならぬ父だったのである。
父の台詞はあながち妄言でもなかったけれど、呪いという単語は真実味のある話をどこかばかばかしく感じさせたのだろう。初めは誰も信じなかったが、やがて噂が噂を呼び、壱花の呪いを確かめようとする者たちが現れた。
だが壱花は人を呪い殺したことなどないし、蠱毒なんてものも知らなかった。適当にそれらしいことをして効果がなければ諦めてくれるだろうと思ったのに、そう簡単にはいかなかった。
壱花に呪われた人物が二階から転落し、大怪我をしたというのだ。
よくやったな、と父は壱花を褒めて依頼人からたんまりと依頼料と成功料をむしりとっていたが、壱花は気づいてしまった。
呪われた人が転落した時間、父は家にいなかった。出かけてくる、と言って外に出て、帰ってきたときにはなにやら満足そうな顔をしていた。
――ああ、きっとお父さんが。
噂がますます流れるにつれて壱花に舞い込む依頼も増える。いかにも〝蠱毒の巫女〟らしい仕草や言葉を適当につらねるだけなのに、あなたのおかげで憎い奴が消えましたと感謝を述べる者が絶えない。
父は〝蠱毒の巫女〟の助手を自称していた。壱花に代わって依頼人がどんな顛末を迎えるのか確かめに行く役割なのだと。
実際は父が手を下していたのだけれど。
父は壱花に呪いの能力などないことを知っていた。そのうえで〝蠱毒の巫女〟として利用した。いい金づるになると思ったからだ。うまくいくわけがない、そのうち隙が出ると思っていたのに、壱花の予想に反してなにごとも順調に運んでしまった。
いつしか壱花は子どもの頃のように自由に〝外〟に出ることを許されなくなった。依頼人は毎日尽きないし、幼少期の経験から人との関わりに飢えていた壱花も彼らを完全には拒めない。外出が許可されるのは、一日のほんのわずかな時間、父の目が届く範囲のみ。心は摩耗していく一方だ。
秋麗が婚約したと聞かされたのは、〝蠱毒の巫女〟として扱われることで精神が限界に達した時だった。
壱花が囚われの身のような生活をしているのに、秋麗は〝外〟を謳歌していたのだ。
心のどこかで、秋麗は姿を見せなくなった壱花を心配してくれているものだと思っていた。助けに来てくれるかもしれないと期待していた。婚約したと知ってからも望みは捨てきれず、想いはどんどん膨らんでいく。
――ねえアキちゃん。
――どうして助けに来てくれないの。
呪いの依頼を受けて、適当な儀式をこなして、父が望むままに金を稼いで。
――もう、無理。
ある日の真夜中、壱花は家を抜け出した。向かう先はただ一つ、乙木家だ。
秋麗の部屋は二階。屋根裏を改装した場所。入ったことはないけれど、話で聞いて知っていた。勝手口に鍵がかかっていないこともだ。悪いことをしているなんて露ほども思わないで、壱花はあっさりと乙木家に侵入して秋麗の部屋を訪ねた。
当然、秋麗は驚いた。真夜中に侵入してきた壱花に叫び声を浴びせ、慌てて家族を起こすと壱花を追い返した。
「やだっ、お願いアキちゃん! 私と一緒に逃げてほしいだけなの! 私を連れていってほしいだけなの、一緒にいてほしいの! お願いよアキちゃん、私を見捨てないで!」
それを機に乙木家の防犯も、壱花の見張りも厳しくなった。壱花が〝蠱毒の巫女〟になってから姉石家は家を建て替え、手伝いの女中も雇っていたのだが、再び壱花が逃げ出さないようにと数が増えた。部屋から一歩でも出ようものなら即座に父を呼びに行かれ、髪を引っ張ってでも連れ戻される。
秋麗から貰った簪は手入れをする暇も気力もなく、どんどん薄汚れていく。それでも秋麗からの唯一の贈り物として、秋麗の化身として大切にした。きっと彼は驚いて追い返しただけで、ちゃんと準備ができれば迎えに来てくれると信じて、儚い祈りに縋って二年の月日を過ごした。
ある雨の日、父は〝蠱毒の巫女〟の信者たちと宴会を開いていた。よほど盛り上がったのか、参加していた全員がまだ夕方だというのに雨の音を子守唄に眠りこけている。女中たちは食べ残された食事の処理や掃除に大忙しで、珍しく壱花から目を離していた。
――今しか、ないんじゃないかしら。
壱花の部屋は一階にあったが、窓は外から木の板がうちつけられていて出られない。脱出するなら玄関が一番だが、鍵の開く音で誰かが気付くかもしれない。勝手口は台所にあるし、そこには女中たちがいる。論外だ。
――それなら、お風呂場は。
浴室の下部には鍵のついていない窓がある。少し横に細長いが、線の細い壱花なら通れなくもないはずだ。読みは当たり、壱花は必要最低限の荷物を胸に抱き、脱出に成功した。足音は
二年前と同じように、足は自然と乙木家を目指した。けれどまた追い返されるのではないかと怖くて、壱花は彼の家の真下にある坂道で立ち止まってしまう。
頭上から声が降ってきたのはその時だ。
「だいぶ雨が降ってきたねえ」
――アキちゃんの妹さんの声だわ。
「アキお兄ちゃん、帰ってくるかな」
「この雨だ。泊まってくるんじゃないか」と続いたのは彼の父の声だ。どこか心配そうな響きを含んでいる。
どうやら秋麗はどこかに出かけているらしい。それなら乙木家に行っても意味がない。
――アキちゃんが出かけるとしたら、どこの道を通るかしら。
あまり外を出歩いていては誰かに見つかる。見つかれば姉石家に連絡が言って連れ戻される。壱花は出来るだけ急いで人から隠れられるよう、山に入りこんでから彼が辿るであろう道を考えた。
彼の家族の会話から察するに、出かけた先で泊まってくるという連絡もしていなさそうだ。今日中に帰ってくるつもりなのかもしれない。天気は荒れに荒れて雷まで鳴りはじめたし、出来るだけ早く家に帰ろうと思うのではないか。
――それなら。
壱花が選んだのは、姉石家のすぐ脇にある神社への一本道だ。薄暗くて普段なら通りたくもないが、ここを通ればどんな道よりも早く村にたどり着ける。壱花はひたすら道をさかのぼり、神社の境内で彼を待った。
雨で体を震わせ、居るのかどうかも分からない神に「どうかアキちゃんが来ますように」と祈り続ける。どれだけ待っただろう。曇天は時間の感覚を鈍らせて、いつしかあたりは雷光だけが頼りになるほど暗くなっていた。
もう駄目だろうか。読みは外れたか――果たして秋麗は、ずぶ濡れの壱花の前に現れた。
「……壱花?」
「アキちゃん、アキちゃん!」
傘を片手に立ち止まる秋麗の手には、土産物と思しき袋がぶら下がっていた。隣町で有名な老舗の紋が入っている。そして隣町には彼の許嫁が暮らしている。壱花は温もりを求めて彼の胸に飛び込み、涙と雨でぐしゃぐしゃになった顔で秋麗を見上げた。
「許嫁のところに行っていたのね? どうして? 私だってアキちゃんのことが好きなのに! アキちゃんは私を迎えに来てくれるって信じてたのに!」
「な、なんだよいきなり! 放せって!」
秋麗は壱花を突き飛ばし、逃げるように村への近道を急ぐ。その背中を慌ててつかみ、壱花はなおも訴えた。
「私にはアキちゃんしかいないの。アキちゃんだけが私を〝壱花〟として扱ってくれるの! 〝蠱毒の巫女〟なんて呼ばないの! だからお願い、私を遠くへ連れていって。あんな村から連れ出して!」
「訳の分からないことを……! 放せよ、俺は家に帰りたいんだ!」
「だったらどうして簪なんてくれたの!」
壱花は簪を引き抜いて彼の眼前に突きつけた。
「アキちゃんは私のことを好いてくれてたんでしょ? だからお母さんの形見を私にくれたんでしょ?」
「それはッ……」
「好きじゃなかったの? だったらどうしてくれたの?」
これを俺だと思って、なんて一言まで加えて。
あの言葉があったから、壱花は苦しみながらも耐えてきたのに。
「もう好きじゃなくなったの? 許嫁が出来たから?」
「…………ああ、そうだよ。こう言えば満足か」
「……アキちゃん」
「もういいだろ、放せよ。こんなところで待ち伏せまでされていい迷惑だ」
秋麗が乱暴に肩を回し、壱花を振りほどく。べしゃ、と泥だらけの地面に膝をついて、壱花は簪をぎゅうっと握りしめて、彼の背中に声をかけた。
「――ねえアキちゃん。私が今なんて呼ばれてるか、知ってるよね」
「なに?」と秋麗は眉をひそめて振り返り、立ち止まる。
ゆらりと立ち上がった壱花の姿は、幽鬼のようだったろう。
「私ね、人を呪えるんだって。呪って殺せたりしちゃうんだって。おかしいよね。おかしいけど、もし本当なら――アキちゃんの許嫁を殺せたり、しちゃうかもね」
「…………!」
「そうしたらアキちゃんは、私のことをまた好きになってくれる?」
唇を三日月のごとく歪めて笑いかけて――それからのことは、よく分からない。
秋麗が逃げ出して、夢中で追いかけて。暗闇を走るうちに本来の道からそれてけもの道を二人で走り回った。子どもの頃の鬼ごっこのようで楽しいな、と頓珍漢なことを思ってけたけた笑う壱花の姿は、秋麗からすれば恐怖以外の何ものでもない。
捕まえた、と壱花が秋麗の肩に手を伸ばして、振り払われないようしっかり着物を握る。彼は無理やり壱花を引きはがそうとして、ずるり、と足を滑らせた。
整備など一切されていない山肌を、二人はそろって転がり落ちた。雨で濡れているせいで体はなかなか止まらない。止まれない。
やがて壱花は頭に強い衝撃を感じて意識を失い、次に目覚めたときには体が動かず、そして、埋められたのだ。
〝蠱毒の巫女〟はひっそりと、秋麗以外の誰にも知られることなく息絶えた。
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