四章――①

 祖父が愛用していた安楽椅子をわざわざサンルームの窓際まで運んできて、腰を下ろした榛弥は蝶の髪飾りを光に透かしている。外はよく晴れているが風が強く、庭の草花がざあざあと音を立てて揺れていた。

「これの片割れはいったいどこにいるんだろうな」

「片割れ?」と壮悟は手元のノートから顔を上げる。フローリングに直に座りこんでいるため、知らずに無理な体勢を取っていたらしく、背中がわずかに痛んだ。「あ、そっか。蝶の形しとんのやし、どっかにあるよな、そら」

「もとは壱花の所持品なんだろ。雨織の夢ではひいじいさんと取っ組み合いをしていたみたいだし、これが壊れたのはその時か」

「持って帰ろと思て持ってきたんか、たまたま持ってきてしもたんか、どっちやろ」

「さあな、それは分からん」

「ていうかさ、ハル兄」

 壮悟はノートを片手に立ち上がって榛弥に近寄った。顔に浮かべる表情には呆れと諦めが入り混じっている自覚がある。

「あかんわ。これの意味まったく分からへんのやけど」

 ノートに書いてあるのは、祖父の手帳に遺されていた謎の文だ。もとは秋麗が祖父に託したものだったそれを見つけたのは昨日の昼で、壮悟たちは倉庫あるいは書庫の整理をしながらどういう意味の文章だろうと考え続けていたのだが、丸一日考えてみても壮悟には皆目見当もつかないでいる。

 榛弥はごそごそとジャケットのポケットからしわくちゃになった紙片と祖父の手帳を取り出した。

「安心しろ。僕もまだ意味が分かってない」

「胸張って言うこと違うやん……これ、ほんまに壱花ちゃんが居る場所に関係しとんのやろか。ただの詩ィにしか見えへんねんけど」

「壱花の居場所を教えるってことは自分が殺人犯であることを息子に――じいさんに教えることにもなる。そう簡単に分かるような文は書かないだろ」

「……ってことはなんや? 暗号的なもんか、これ」

「少なくとも僕はそう思ってる」

 ふうん、と壮悟は頭をかいた。

「じいちゃんは解けたんやろか」

「解いてる途中だったんだと思う。答えに行きつく前に雨織の毒牙にかかったんだな」

「毒牙て」

 暗号が書かれていた紙片からは手探りでヒントを求める祖父の様子がうかがえる。あれでもない、これでもないと細かな字で予想を記しては上からバツ印を振ってあった。

 一応祖母にも見せてみたのだが、案の定知らないようだった。

「雨織がヘソクリがあるんやて勘違いしたの、絶対に最後の一言のせいやんな」

 壮悟は窓にもたれて「か弱き腕に抱くは金」と記した己の字を指でたどる。

 榛弥が予想していた通り、雨織は祖父に金銭の要求をしに書庫を訪れたそうだ。その際に祖父は暗号を解こうとしていたのだが、金に困っていた彼女は「金」の字を見てヘソクリがあるのではと考えたらしく、暗号も祖父が考案したものなのだと思ったという。どこにあるんだと問いつめたが話は食い違うばかりで、雨織は欺かれていると勘違いした挙句に逆上したのだ。

 浅はかだよな、と榛弥がくつくつ嗤う。

「なにが?」

「金イコール金目のものだと考えたのと、僕らを追い出そうとした行動、どちらも。どうせ自分で解けないなら僕らにそれとなく解かせて、答えが分かったら僕らより先に見つけに行けばいいだけの話だろ。あいつは手段を誤ったな」

「ってことはなんや、ハル兄はこれが解ける自信あんの?」

「解けないようなものを後世に残すとは思えない」

 二人はそれぞれの手元に目を向けた。暗号の一文目は「眠る白が望むは青」だ。

 ひとまず壮悟は自分なりに、榛弥は祖父の手帳から手がかりを探ってみることにしたのが昨日だ。だが壮悟は全く分からなかったと首を横に振る。それどころかだんだんイライラしてくる始末だ。どうせならもっと分かりやすくて解きやすいものを遺せ、と秋麗あきよりに文句をぶつけたくなった。

 榛弥は手帳をぱらぱらとめくる。表情から察するに、成果はあまり芳しくないのだろう。

「じいさんが暗号を書き残してから殺されるまで一か月とちょっと。今すぐに探さなければと焦ってたわけでもないだろうし、村の集まりとか旅行とか自分の用事を優先していたみたいだ」

「つまり手がかりほぼ無し?」

「ゼロってわけではないけどな」

 ほらここ、と榛弥が手帳を見せつけてくる。つづられているのはある日の日常で、その日はどこにも出かけず暗号解読に勤しんでいたのだろう。「白は父を指しているのだろうか?」と書かれていた。

「……いや、どういうこと? 白がひいじいちゃんを指しとる? イメージカラー的な?」

「さあ、それはまだ分からん。仮に白をひいじいさんだとして、望むってことはひいじいさんから青いなにかが見えるという意味かもな」

「あかん、余計分からんようになった」

 分からないことだらけの暗号文ではあるが、二人で解釈が一致している箇所が一つだけある。

「蝶の中に沈むは蝶」の〝沈む蝶〟とは壱花を示しているのではないか、と。

 秋麗は壱花を蝶に例えていた、と彼の介助をしていた久司から聞いている。それを踏まえて考えると、二人の予想は外れていないのではないか。

「問題は〝蝶の中〟ってどこやねんってことやな。壱花ちゃんの飼うとったジャコウアゲハん中とか、そういうことやろか」

「なんだそれ」

「分からへんから整理するためにうとんのやん。沈むて言うても、直接的な意味なんか、それともなんかの例えなんか」

「あと『恋と悔いの生まれた地』ってどこなんだろうな」

「ひいじいちゃんの思い出の場所とか?」

 ああでもない、こうでもないとそれぞれ思ったままのことを口に出すが、話し合いは一進一退だ。二人でなにを話しているのかと様子を見に来た祖母もまじえて間食を取りながら議論したものの、これといった手ごたえはないままだ。

 いったん倉庫と書庫の整理に戻り、そこで思いついたことを夕食の席で共有する。だが極力暗号の話題はそこそこに、二人は努めて明るい話題を振った。雨織の祖父殺害について祖母が知ったのは昨日の夜だ。当然ショックを受けていたし、今朝起きたときも元気がなかった。一人になって落ち着く時間も必要だろうが、三人がそろう時くらいは気を紛らわせてやりたい。壮悟たちの気遣いを感じ取ったのか、祖母の顔には笑顔が戻りつつあった。

 祖母が早々に就寝し、榛弥も入浴中で席を外した居間で、壮悟は頬杖を突きながら暗号を睨んでいた。

 ――白がひいじいちゃんを指しとるってなんやろな……。

 ――眠るひいじいちゃんから青いのが見える……眠るってのもなんかの例えなんか?

「んー……分からへん……」

 大きく伸びをして、壮悟は気分転換に立ち上がった。向かったのは仏間だ。線香のかおりがほのかに漂う中で遺影を見上げる。秋麗のそれを見て白が本当に彼を示しているのか確かめようと思ったのだ。

「白髪とかかな思たけど、そもそも禿げとるから髪あらへんしな……顔が白いとかもよう聞くけど、白黒写真やで分からへんし……」

「思いついた!」

 すたんっと軽い音を立てて廊下側の襖が勢いよく開く。思わず肩をびくつかせて固まる壮悟に、風呂上がりでジャージ姿の榛弥はにこにこと満面の笑みを見せつけていた。これほど晴れやかな笑みをしているところなど一、二度しか目にしたことがない。珍しさに仰天するよりも、急に現れたことに対する驚きの方が大きい。

「なんやねん急に!」

「分かったぞ壮悟。白は確実にひいじいさんのことだ。これが分かればあとは照らし合わせていけばいいだけだ!」

「なにをやねん! ってか髪濡れっぱなしやないか、早よ乾かしてこい! 風邪ひいても知らんぞ」

「あ、そうだな。お前と違って」

「馬鹿は風邪ひかんて意味やったらぶん殴るぞ」

「詳しくはお前が風呂から出たら話す。さっさと入ってこい」

「はいはい……」

 乙木家の浴室は広い。浴槽は大人一人が足を伸ばして肩まで浸かれる程度だが、洗い場はその二倍ほどある。なぜこんなに広いのかとずっと疑問だったのだが、最近ようやく答えをつかんだ。

 恐らく秋麗のためなのだ。脚の自由が利かない彼の世話をするために久司が余裕を持って動けるよう、広めのスペースを確保したのだろう。脱衣所も床が凸凹しているが、足を滑らせないようにだという。

「これもひいじいちゃんのデザインなんかなあ」

 ぼんやり呟いて、そういえば、となにかが頭をよぎる。

 サンルームのステンドグラスも秋麗がデザインしたものだった。赤い鳥は神獣の朱雀だろうと教えてくれたのは榛弥だ。

 ――あん時に思想がどうのって話しとったよな……なに思想やっけ……。

 髪を乾かしてから居間に戻ると、待ちかねていたと言わんばかりに榛弥が座布団の上で姿勢を正した。目の前の机には例の紙片が置いてある。壮悟は机を挟んで向かい側に座り、「そんで?」と問いかけた。

「なにを思いついたんや」

「お前にはこの前話しただろ。ひいじいさんがなにに興味を持っていたのかって」

「ああ、うん。なんとか思想……」

陰陽おんみょう五行ごぎょうな」

 それそれ、と指を鳴らすと、榛弥が呆れたように長々とため息をつく。

「なんでもう忘れてるんだ。一年も前のこととかならともかく」

「すまん、難しい話あんま得意やないからすぐ忘れんねん。そんで、陰陽五行がなに?」

「五行説の木火土金水もっかどごんすいが手がかりになると思ったんだ。言っただろ、五つの要素には様々なものが当てはめられるって。方角、季節、神獣、そして――色だ」

「色……」

 ノートを貸せというので渡すと、榛弥は空いているページにボールペンを走らせた。五角形を描き、各角に五つの要素を書き込んでいく。そのうちの一つ「金」の隣に、榛弥はあれこれと慣れた手つきで記していた。

「金に割り当てられる色が白っていうのは前も言ったよな。同様に季節も当てはめる。金に対応する季節は〝秋〟だ」

「……秋って、つまり」

「ひいじいさんの名前は〝秋麗〟だろ」

 とん、とペン先でノートを軽くたたく榛弥の顔には爽快感がみなぎっている。壮悟も難解な問題が解けた時と似たような達成感を覚えていた。

「照らし合わせてったらええって言うとったんは、次の青とかもってこと?」

「そう。望むっていうくらいなんだ、確実に方向を示してるだろ」

「方角ってことか」

「頭の回転が速くなってきたな」

 青が対応している五行は〝木〟だ。その隣に榛弥は色と方角をつけ足していく。

「……東……」

「ひいじいさんのいる場所から東を見ろってことだろ」

「いや、それが分からんねん。ひいじいさんが眠る場所ってなんやねん」

 唸って悩みかける壮悟に、榛弥は「そんなの一つしかないだろ」と力強く言う。

「墓だよ。乙木家の墓だ」



 手桶いっぱいに汲んだ水を柄杓ですくい、そろそろと墓石に流していく。全体が濡れたところで、壮悟は持参していた真新しい雑巾で表面を拭った。そのそばでは榛弥が仏花の茎をハサミでぱちぱちと手際よく切り落としている。

 花や線香を供え、一人ずつ順番に手を合わせた。壮悟が目を開けたとき、榛弥は興味深そうにあたりを見回していた。

「風が気持ちいいな」

「ちょっと高いところあるし、遮るもんがあらへんからやろ」

 暗号の手がかりを得た二人は翌日、乙木家の墓がある共同墓地を訪れていた。墓地は車で五分もしない場所にあり、正面には乙木家の日本庭園が見える。目の高さはたいして変わらないのだが、不思議と空気が美味しく感じられる。山が近くにあるからかもしれない。

 墓石の横を見れば祖父、曾祖母、曽祖父の順に名前と戒名、没年が刻まれている。毎年正月など母と帰省した時に参っていたし、これまで特になんとも思っていなかった秋麗の名だが、今は複雑な気分が胸に渦巻く。

 これが怒りなのか、哀れみなのか、自分でもよく分からないでいる。

「壮悟」

 榛弥に名を呼ばれてふり返ると、彼は墓地を囲う柵の前にいた。壮悟の腰当たりの高さのそれに手を置き、じっとどこかを見つめている。壮悟も隣に並び、従兄が見ている方向に目をやった。

「ここからだと村が一望できるんだな。眺めがいい」

「遠いとこまでよう見えるしな。もうちょいしたらあちこちで桜が咲くやろし、そうなったらもっときれいやろ」

「写真写りがよさそうだ。――さて」

 榛弥がスマホに画像を表示する。暗号の紙片を写したものだ。外に持ってきて飛ばされては困る、と家を出てくる前に撮っていた。壮悟も持ってくるのが面倒くさいからという理由でノートを撮ってきた。

「ひいじいちゃんが眠っとる場所から東を見たらええんやんな」

「ああ」

 二人そろって同じ方向を眺める。

 といっても、先ほどと見ている光景はたいして変わらないが。相変わらず乙木家が見えている。

「東の端っこのほうなんやけど、あの辺、壱花ちゃんの家があったとこや」

「恋と悔いが生まれた地、か」

 壱花から秋麗への恋が芽生えたのは、乙木家に蝶が迷い込んだのがきっかけだった。秋麗が壱花を殺した後悔を生じさせたのも見えている範囲にあるとするならば、二人が転がり落ちた山道は、姉石家があった場所を抱えるようにうずくまる森の中にあるのだろうか。

 これで暗号文の二つ目も解決した。次の問題は「蝶の中に沈むは蝶」だ。

「ひいじいさんが二つの文で示したのはこの土地――この村だ。となると、壱花が沈む〝蝶〟とやらも村のどこかにあると思うんだが」

 昨日のうちに話せたのはここまでで、次は実際に墓に行ってから確認することにしていたのだ。

「それっぽいもの見えへんよなあ……って言うと思た?」

 てっきり壮悟も悩んでいるはずだと思ったのか、榛弥はきょとんと首を傾げている。

 ニッと唇に弧を描いて、壮悟はスマホに指を滑らせた。表示したのは通話履歴である。

「俺の頭やと〝沈む〟いうたら単純なことしか思い浮かばへん。水の中に沈んでくことくらいしかな」

「水の中……」

「暗号文自体が回りくどいし、もしかしたらこれの意味も全然違うかも知れへん。そん時はそん時や思て、昨日ハル兄が風呂行っとる間に、ちょっと聞いてみてん」

「……誰に? なにを?」

「生まれも育ちもこの村のカズキってやつに『水にまつわる場所で蝶って名前がつく場所はあらへんか』って」

 カズキが家族で経営している〝くぐい亭〟の電話番号は祖母が知っていた。まさか壮悟から連絡が来るとは思っていなかったのか、夜分の電話で申し訳ないと謝ると、カズキは顔を合わせたときと同じような賑やかさで応じてくれた。

 二つ三つ世間話を挟んだところで壮悟が本題を持ちかけると、カズキは少しだけ悩んだ後で「あれのことかな」と教えてくれた。

「何十年も前に――ひいじいちゃんが生きとったような頃――この辺でえらい雨が降ったんやて。その影響で池が崩れるてことがあったらしい。今は補修工事もちゃんとしてあるけど、その時を境に池の形がちょっと変わったんやと。家からも見えるでっかいため池なんやけどさ」

 壮悟と榛弥は視線を南にそらしていく。日光をきらきらと反射する広大なため池には、白鳥型や釣りを楽しむボートが何艘も浮かんでいる。

 榛弥は無言で説明の続きを待っている。壮悟は横目で従兄を一瞥してから、池を指さした。

「あの池、今はでっかくて丸いから『丸池』て呼ばれとるらしいんやけどさ、昔は形からとって『蝶乃池』て呼ばれとったんやって」

「……なるほど」

 さて、と壮悟は腕を組んで、かつて蝶の名をつけられていた池を見下ろした。

「『蝶の中に沈むは蝶』――沈んどる壱花ちゃん、見つけたらんとな」

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