三章――⑤

 腕を後ろ手にまとめられているため、雨織は足をじたばたとさせることしか出来ないでいる。壮悟は彼女の正面に回りこみ、眼前で膝立ちになった。

「あんまうるさくしとったらばあちゃんが起きるやろ。ちょっとはおとなしく出来ひんの」

「うるさいな! くそっ、重いんだよ、どいてよ!」

「どいたらお前、ベランダから飛び出してでも逃げるだろ」と榛弥がため息混じりに言う。

 しばらくは抵抗していた雨織だが、うつ伏せ状態であれこれ訴えるのも疲れてきたのか、十分もすれば大人しくなった。それでもまだ手を伸ばせば噛みつかれそうなことに変わりはなく、榛弥も先ほどより体重はかけないでいるようだが、組み敷いたまま動こうとしない。

 時刻は朝の四時を回ったばかりだ。壮悟は先ほどまで次の間の押し入れにずっと閉じこもっていた。自主的にではなく、榛弥に言われて、だ。

「駅で僕を突き飛ばしてきた奴――吉田亮介だったか。お前、今もあいつと関係が続いてるんだろ」

 榛弥は出かけたときのままの服装だ。いつもの癖で胸ポケットに手を伸ばしたが、たばこを取り上げられていたことに気づいてわずかに眉間をしかめている。一方の雨織は鬱陶しそうに身をよじっては抵抗の無意味さを悟って項垂れていた。

「……だったらなに? そんなこと、あんたに関係ないでしょ」

「いや、そうでもない。だって僕を突き飛ばすよう指示したの、雨織だろ」

「………………」

「黙ったてことはそうなんやな」

「………………」

「雨織。黙っとったら分からへん。なんでそんなことしたん? ハル兄と仲悪いんは知っとるけど、なんも階段から突き落とさんでもええやろ。しかも自分やなくて、人にやらせて」

 雨織は榛弥が言うところの「自分の手を汚したくない奴」なのだろう。

 ――こいつの場合は「これ以上自分の手を汚したくない」やったかも知れんけどな。

「ハル兄は助かったけど、普通ならもっと大怪我しとってもおかしないんやぞ。最悪の場合は死んどったかも」

「死んでもいいと思ったんだろ。僕と壮悟をこの家から追い出せるのなら、なんでも」

 従兄二人から追及され、雨織は目の合う壮悟だけを睨んだまま黙りこむ。

「お前はじいさんの手帳を読んでヘソクリがあるんじゃないかと勘繰った。家出していたことを考えると、最初は必要がなかったのかもな。だけど家出中に資金が尽きて、金に困っていたときにその存在を思い出したんだろ。いざ探しに戻ってきたら僕たちがいて、横取りされるんじゃないかと怖くなった。ここまで合ってるか?」

「…………うるさい」

うとるんやな」

「分かりやすくて助かる」

 体勢のせいでで見えなくても榛弥が笑ったのは分かったのだろう。雨織は忌々しそうに舌打ちしていた。

「あるかどうかも分からへんもんに頼るってことは、最近はバイトもしてへんかったんか?」

「入ったところでどうせクビになるだけだし、だったら最初からしない方がマシ!」

「クビになるんはお前に問題があるからやろ……」

「まあ、それはどうでもいい。横取りを恐れたお前は、僕たち二人をここから追い出すことを考えた。最初の標的は壮悟だな」

「俺の車に傷つけたん、雨織と吉田やろ」

「はあ? 知らないし、そんなの。知ってるよ、あんた子どもの頃に蝶を踏んづけてから呪われてるんでしょ? それが原因でしょ」

 榛弥に蝶を踏みつけたことを相談したのは、子どもの頃に親戚が一堂に会した時だ。人目を避けてこっそり相談したわけではなかったし、雨織が盗み聞きしていたとしても不思議ではない。

 が。

「お前は知らへんのやな。確かに俺はあん時から幽霊とか見えるようにはなった――と思とる――けど、例えばシャワー出しとったら水が全部血になっとるとか、心霊写真が撮れるようになったとか、テレビ見とったら急に変なもんが映りこんでくるとか、そういう被害は一切あらへんのやわ。車に傷がついたり、手形がついたりなんてこともな」

「…………」

「壮悟が呪われたっていうのも本人の心持ちによる部分が大きい。今言ったような、いかにもな心霊現象は起こってない。だいいち車の傷イコール蝶の呪いに結び付けようとする雨織の想像力がどうかと思うぞ」

 無意識なのか、それとも意図的か、雨織を蔑んだところで「話を戻すぞ」と榛弥が従妹を見下ろす。

「車に傷をつけたら、それを修理するためにも壮悟はいったん家を離れると思ったんだろうな。けど予想に反してこいつはここに留まった。自分の計画が失敗したことを悟ったお前は次の手段に出る――と、その前に。壮悟」

 みなまで言われなくとも、なにを求められているか分かった。壮悟は上着のポケットから蝶の髪飾りを取り出し、雨織の前に置く。そのとたん、彼女の表情が明らかにひきつった。

「俺とハル兄な、これ触った日からおかしな夢見とんのやけど、お前もそう?」

「……やっぱり……」

「なんて?」

「あんたの仕業だったのね! 毎晩毎晩、変な夢見るの!」

 顔を真っ赤にして怒鳴り、雨織はばたばたと脚を動かした。無理やりでも壮悟に這い寄りたかったのだろうが、榛弥が簡単に許すはずがない。近づくのは早々に諦めたようだが、怒りはまだ続いているようだ。

「あんた達と喋った日からずっと変な夢見てんのよ! 知らない男と取っ組み合いになって突き飛ばされて死ぬのよ。意味分かんないし、こんな夢見たことないしって思ってたけど、そのへんな飾りが原因なわけ? よこしなさいよ、ぶっ壊してやる!」

「壊したところで見なくなるとは限らないぞ」

「ってか取っ組み合いになって突き飛ばされるってことは、時系列的には壱花ちゃんがひいじいちゃんと山道を転がり落ちる前ってことか……なんで山道で、しかも夜に取っ組み合いなんか……?」

「壱花とかひいじいちゃんとか、誰それ、なんなの、意味分かんない」

「それに関してはお前は知らなくていい。ともかくお前は夢を恐れながらも『仕返しのついでに追い出せないか』と思った。壮悟は呪いの類を怖がる傾向があるし、ありがちな呪いを演出するために手形をべたべた車にはりつけた。この家の敷地内でやるとあからさますぎるから、わざわざ僕らが出かけた隙を見計らってな」

 これに関しては目撃情報があった。榛弥は久司の家に電話をかけ、壮悟たちが訪れていた時間帯に近隣住民ではない者を見かけなかったか、近所の人に聞いてほしいと頼んだのだ。結果、向かい側に住む女性が壮悟の車を覗き込む男女を見かけたと証言したのだ。

 その手には重たそうになにかしらの塗料を入れたと思われる缶を持っていた、とも。

「女の方は小柄な金髪、男は大柄でスキンヘッド。お前と吉田の見た目と一致するよな」

「………………」

「これで怖がった壮悟はいよいよ家を出ていくかと思ったら、これもまた失敗に終わった。壮悟がだめなら次は僕を狙えばいいと思ったんだろ。女で、身長差もある自分じゃ後ろから不意を突くとしてもうまくいかない可能性があるから吉田にやらせたのか」

 大怪我をすれば入院するし、死ねば葬式がある。見舞いや葬儀の出席で壮悟は乙木家から離れる時間が増えるだろう、その間にヘソクリを見つけ出すしかないと雨織は考えたんじゃないか、と壮悟は事前に予想を聞かされていた。

「ちょっとどころかだいぶ無理あらへんか」と壮悟は信用半分いぶかしさ半分でいたのだが、これといった反論がないところを見るに、榛弥の想像はだいたい当たっていたようだ。

 榛弥が軽傷で済んだうえに吉田が逮捕され、いよいよ雨織は焦ったのだろう。眠っている壮悟を襲おうとしたが、絶対に行動を起こすに違いないと読んでいた榛弥に返り討ちにされたわけである。

 ――二度あることは三度あるてハル兄が言うとったけど、あながち間違まちごてなかったな。

「なあ、なんでそこまでしてヘソクリ探してんの? さっきも言うたけど、あるかどうかも分からへんもんやぞ。そんなことに労力使うんやったら普通に働いた方が稼げるん違ちゃうん?」

「無職のあんたに言われたくないんだけど!」

 それはその通りだったので、壮悟は潔く黙るしかない。

「ヘソクリだって、絶対にあるに決まってる。じいさんの手帳に書いてあったもん。かねが沈んでるって!」

「じゃあそれを見せてみろ」

「お断り。だって見せたら横取りするでしょ、そんなの許さない!」

「あったよー」と明るく場違いな声と、廊下を進む軋んだ音が聞こえてくる。次の間から顔を覗かせたのは茉莉まつりだ。勝ち誇るような笑みを浮かべ、白い紙片とビニール製の小さな袋を手に持っている。

 茉莉が壮悟の隣に並ぶと、彼女が手にしているものを見た雨織の目が丸く見開かれる。

「あんたッ……なんで、それッ……!」

「ごめんね、勝手に部屋を探させてもらったんだ。人使いの荒い彼氏を持つと大変だよねぇ」

「……茉莉」

「冗談だよ、怒らないで。はいどうぞ、壮悟くん」

 差し出された紙片を受け取り、尻のポケットに入れていた祖父の手帳を取り出して破れていたページを開ける。雨織が乱雑に保管していたようで、紙片はかなりみすぼらしい状態になっていたためある程度伸ばしてしわを減らしてから合わせてみる。

 破れていた箇所はパズルのようにぴたりと一致した。奇妙な爽快感に、壮悟は思わず頬を緩ませる。紙片には祖父の字でなにごとか書きつけてあるのも確認できた。

「そういえばそっちの袋はなんなん?」

 上部を手軽に密封できるタイプのそれには、茶色と緑が混ざり合ったような色合いの物体がもそもそと入れられている。何気なく問う壮悟の前で、雨織は焦ったように汗を流していた。

 榛弥は茉莉から袋を受け取ると、一瞥してすぐにうなずいた。

「乾燥大麻だな」

「……え、それって」

「付き合いのある吉田が所持してたんだからもしかしてと思ったが、やっぱりか」

「雨織お前……薬物に手ェ出しとったん?」

「そんなの人の勝手でしょ。返してよ!」

「断る。見逃してやるほど僕は甘くない」

 吉田はほかにも覚せい剤を所持していた。雨織も部屋のどこかに隠している可能性が高い。いつから使用していたのかと――榛弥から半ば拷問のように体重をかけられて――問い詰められた末に、雨織は高校を辞めてからすぐだと白状した。

「じいちゃんに金をせびりまくっとったんは薬物買うためか」

「だろうな。これが部屋にあったってことは今も続けてるんだろ。常習者ってわけだ。働いてないならそりゃあ金は尽きていく一方だし、吉田が捕まった今、自分が捕まるのも時間の問題だし逃亡資金が欲しかったんだろ。存在があやふやなヘソクリに縋りたくもなる」

 だからと言って、と区切った榛弥の声は、ぞっとするほど冷えていた。

「じいさんを殺していい理由にはならない」

「………………」

「じいさんを自殺に見せかけて殺したの、お前だろ」

 雨織は否定も肯定もしなかったが、血がにじむほどに唇を噛んでいる。

「金をもらいに来たのに断られたか、その時に薬物の使用がばれたか。そのあたりのことをきっかけにトラブルになって首を絞めて殺したんだな」

 先ほど壮悟を襲おうとした時のように、馬乗りになって。壮悟はなんとなく己の首を撫で、苦しんだであろう祖父の最期を想った。

「ばあさんは近所の人と出かけてていなかったみたいだし、偽装工作をする時間はあった。お前の偽装がうまかったのか、捜査の怠慢があったのか知らないが、結果的にじいさんは自殺として処理された。それからお前はじいさんが遺した金をいくらか頂戴して家出をしたが……ってところで、話が戻る。以上、反論は?」

「………………」

「無いんだな」

「じいさんが悪いんだ!」雨織は無理やり榛弥を振り落とそうと上体を起こし、充血した目を見開きながら叫んだ。「素直に金を出してくれないからッ! 大人しく渡してくれたら殺さずにすんだのに!」

「そもそも薬物に手ェ出したお前が悪いんやろが!」

 思わず殴りたくなる衝動を必死に抑え込み、壮悟は雨織以上の声で怒鳴った。

「勝手な理由でじいちゃん殺して、なんやねん、その言い方。じいちゃんはお前にまともな生き方してほしかったんちゃうんか! だから金も渡さへんだし、薬物も止めたらなって思たはずや!」

「余計なお世話だし! あたしは好きでこの道を選んだんだから放っておいてくれたら良かったんだよ!」

「好きでこの道に?」

 は、と榛弥が嘲笑をこぼした。

「興味本位で足を踏み出して、抜け出せなくなったの間違いだろ。好きで選んだというなら自分一人でどうにかすべきだった。じいさんばあさんの金に手を出して、あまつさえ人殺しをした時点でその道は誤りだ」

 榛弥が雨織の顔を覗きこむ。壮悟から表情はうかがえなかったが、雨織が「ひっ」と喉を鳴らして黙ったため、よほど恐ろしい表情を浮かべていたのだろう。

 朝になってから、雨織は茉莉が運転する車に乗せられた。自首させるためだ。逃げ出さないかと心配だったが、榛弥にすごまれたのがよほど効いたのか、未明までの勢いの良さがうそのようにすっかり萎れていたし、茉莉が合気道の有段者だと知ってからますます項垂れていた。

 祖母には「なんだか騒がしかったけどどうしたの」と聞かれたが、少し羽目を外してしまっただけだと誤魔化した。間もなく知ることになるだろうが、祖母にはまだ雨織の祖父殺しを話していない。警察が事情聴取に来るだろうし、それまでに話しておくべきだろう。

 壮悟も榛弥も徹夜だったため、その後は昼過ぎまで眠った。雨織の部屋から見つけた紙片になにが書かれているのか確認できたのは昼食の時だった。

「机の引き出しの奥の方に詰め込まれてたんだと」

「やからそんなぐちゃぐちゃなんか……」

 二人そろって卵かけご飯を胃に流し込み、食卓に置いた紙片に目を落とす。

「これに壱花ちゃんがどこにるか書いてあったらええんやけどな」

「けど雨織はこれを見て『ヘソクリがある』って思ったんだろ。そこが少し引っかかる」

 紙がしわだらけになっていたせいで、読みやすいはずの祖父の字はところどころ掠れていた。なんとか読めはしたのだが、壮悟も榛弥もそろって首を傾げた。

 というのも。



 眠る白が望むは青

 恋と悔いの生まれた地

 蝶の中に沈むは蝶

 か弱き腕に抱くは金



「……なんや、これ?」

「……さあ」

 思っていたものと違う、と二人は目を合わせて改めて文を読んだが、何度読み返しても、祖父が――曽祖父が遺した文章の意味をつかむことは出来なかった。

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