三章――④

 榛弥が帰ってきたのは日付が変わろうかという頃だった。普段ならとっくに眠っている祖母も居間でずっと待機していて、玄関の扉が開く音が聞こえるやいなや立ち上がって飛び出していく。

「幸いなことに打撲や捻挫はしていなかった。うまいこと受け身を取れたおかげだな」

 玄関先で五分ほど話し込んだのちに居間までやってきた榛弥の左頬には大きなガーゼが貼り付けられていた。彼の後ろにはここまで送ってきた茉莉もいて、「もう、びっくりしたんだから」と腕を組んでいる。茶色いショートカットの隙間からちらちらとイヤリングが覗き、長い脚を強調するようなパンツスタイルからはデートに臨む気合が感じられた。

「普通に喋ってたら急に視界から消えるんだもん。あれ、おかしいなと思ったらいつのまにか階段の踊り場で転がってるし、周りにいた人は悲鳴上げてるし」

「真っ先に悲鳴を上げるべきはお前だと思うんだけどな。彼氏が突き飛ばされたんだぞ」

「だってそんなこと夢にも思わないでしょ。なにが起こったんだろうって状況を理解するのに時間かかるよ」

 病院で治療を受けたり、警察で事情を聞かれたりして疲労を感じているのか、それとも茉莉が相手だからか、榛弥の声にはいくらか元気がない。

 ひとまず頬以外に傷はなさそうだな、と壮悟も安堵した。祖母もずっと気を張っていたようで、無事だと分かり涙を滲ませている。

「ニュースで見たけど、ハル兄突き飛ばしたん、知らん人なんやろ?」

「全く知らん」

「ちなみに取り押さえたのは私だよー」と茉莉がにこやかに言う。

 あとで聞いた話だが、茉莉は祖父が合気道の師範なのだそうだ。

「なんで突き飛ばされたん?」

「そんなの僕が知りたい。『突き飛ばさなきゃいけないと思った』って供述してるみたいだけど」

「はあ?」

「でも大した怪我がなくて本当に良かった」祖母はしきりにハンカチで目元を拭ってうなずいている。「骨を折ったりしてたら生活が大変になってたもの。犯人も捕まって安心だわ。ちゃんと裁かれるのよね?」

「多分な。連行してから色々と別の問題も出てきたらしくて、どっちかっていうとそっちの罪が問われるだろ」

「どういうこと?」

「ドラッグ」

 榛弥は胸ポケットからたばこを取り出したが、隣で目を光らせていた茉莉に取り上げられていた。「怪我が治るまでは禁止」と箱まで奪われている。おもちゃを取り上げられた犬のような悲しげな眼つきをしていたのがなんだかおかしかった。

 壮悟が棒付きキャンディーを差し出すと、どことなく萎れた様子で榛弥は素直に受け取っている。サイダー味がお気に召したようで、少しだけ目に光が戻った。

「所持品を調べたら、よろしくない薬物が発見されたんだと」

「大麻とか?」

「あとは覚せい剤」

「……え、なに? 売人かなんかやったん?」

「人に売る用でもあり、自分で使うためでもありって感じらしい。僕を突き飛ばしたのも幻覚や幻聴が絡んでそうだ。そのへんは今調べてるところだろ」

「うわー、怖……」

「吉田亮介っていうんだって、犯人。お知合いですかって、私まで聞かれちゃった。明日の報道だと名前と顔写真出るんじゃないかなー」

 茉莉がなにげなく言った名前に「え?」と目を丸くしたのは祖母だ。

「知っとる名前なん?」

「知ってるっていうか……その人、確か雨織ちゃんとお付き合いしてたことあったんじゃないかしら……」

 昼間に話していた「雨織と同じ高校に進んだものの、結局退学した」という人物らしい。退学後もしばらくは家に上がり込んだりするなど付き合いがあったようだが、最近は雨織本人が家出していたこともあって、現在も交流が続いているか定かではない。

 まさか顔見知りが孫に危害を加えた張本人だとは。祖母は再び恐ろし気に肩を震わせ始めた。また同じことがあったらと想像しているに違いない。

「そうだ茉莉。お前、今日は泊まっていけ」

 時刻は深夜零時を過ぎている。茉莉はここまで車を運転してきたのだろうが、今から一人で山道を走らせるのは彼氏として心配なのだろう。榛弥の提案に、彼女は遠慮がちに首を横に振った。

「急に押しかけたのに泊めてもらうのは悪いよ。昼から仕事もあるしさ」

「押しかけさせたのは僕だから気にしなくていい。昼から出勤なら朝にここを出て家に帰っても間に合うだろ」

「でもメイク落としとか着替えとか持ってきてないし……」

「下着はさすがに無理だろうが、着替えくらいなら雨織に借りられないか?」

「はあ?」と廊下から不満を訴える声が聞こえた。

 驚いて目を向けると、いつの間に帰ってきていたのか、雨織がスカジャンのポケットに手を突っ込んで仁王立ちしていた。

「なんで見ず知らずの女にあたしの服とか貸さなきゃいけないわけ。絶対にお断りだから。つーか貸したところでサイズ合わないでしょ」

 確かに、と壮悟はひそかに納得した。

 雨織は一五〇センチ前後の身長だが、茉莉は榛弥とたいして変わらない。ちなみに榛弥は壮悟より五センチばかり低い程度だ。雨織の言う通り、彼女が着ているサイズでは茉莉にはきついだろう。

 どすどすと厳めしい足音を立てて雨織は自室に引っ込んでしまう。誰もがしばらくぽかんとしていたが、真っ先に我に返ったのは榛弥だった。

「――じゃあ僕のジャージを貸すから、今日はそれでも着て寝たらいい」

「いや、でもさ……」

「さっきからやけに茉莉ちゃん引き止めたがんなーと思とったけど、ハル兄もしかして寂しいんか」

 壮悟が指摘すると、かすかに榛弥の耳が赤らんだ。反論がないところをみるに図星だったらしい。茉莉は意外そうに目をぱちぱちと瞬いている。やがてにやにやと口の端を緩めて、面白がるように榛弥を肘でつつく。

「なぁんだ、最初からそう言えばいいじゃん」

「別に……本当なら出かける予定だったのに全部潰れたから」

「それはそれでまた別日に予定たてよう。レストランも予約し直せばいいし。ま、今日はお望み通り泊まっていってあげるから」

 普段はどことなく偉そうなわりに彼女には弱いのだなあ、と従兄の意外な一面に微笑ましくもなったが、同時に「余計なことを言いやがって」とものすごく怒られそうな気もして怖くなる。

 壮悟の予想は当たった。祖母が就寝、茉莉が入浴で席を外している間に、力いっぱい頭を殴られた。

「なんで殴んねん!」

「自分の胸に聞いてみろ。心当たりがないとは言わせない」

「面白がったんは悪かった思てるけど、なにも殴らんでええやろ!」

「面白がった自覚はあるんだな?」

「あ」

 今度は頬を思いきり引っ張ったうえで抓られる。

 ひりひり痛む頬を手で押さえつつ、壮悟は何度も榛弥に謝った。許されたのは土下座してからだった。

「で、今日はなにか分かったことあったか」

「特にあらへんよ。倉庫の整理が進んだくらい。あ、そうや。壱花ちゃんとこで草の写真撮らされたやん? あれってなんの意味があったんやって聞こと思て忘れとった」

「そういえば話すの忘れてたな」

 榛弥はスマホをすいすいと操作し、一枚の写真を表示する。壮悟が送った一枚だ。なんの変哲もない雑草が密集しているだけの写真である。

「お前が撮ったこれを見て、僕の予想が一つ現実味を帯びた。壱花の継母が死んだのは事故の可能性が高いってな」

「……壱花ちゃんに殺されたんやなくて?」

「正直それも捨てきれないが、事故の線で考えて問題ないと思う」

 見てみろ、と榛弥は画像の一点を指で示した。

「これがなにか分かるか?」

「なにって……普通の草ちゃうの」

 なんの変哲もない、どこにでもありそうな雑草を写しただけだ。榛弥は検索画面を表示してなにやら名前を打ち込むと、結果を壮悟に見せてくる。

「植物に詳しい教授に聞いたら、お前が撮ったのはって草だそうだ。有毒のな」

「……有毒?」

 スマホの画面には一つの茎から筒状の花がいくつも咲いた可愛らしい植物が映っている。花の先端は濃厚な紫色をしていて、下に行くにつれて白くなっていた。壮悟が撮ったものは葉だけだったが、花の時期にはこれが咲くようだ。

 続いて榛弥はまた別の文字を打ち込み、表示されたものを壮悟に見せる。先ほどとたいして違わないようで、よく見ると花の色や形が微妙に異なる植物だ。

 なんとなく見覚えがあるような気がして、小学生の頃に通学路でよく見かけた花だと思い出す。花をぷつりと取って吸うとほんのりとした蜜の甘さが舌に広がって、よく登下校時に口に含んだものだ。

「今見せてるのはだ」

「聞いたことあんな。春の七草やっけ?」

「確かに春の七草ではあるが、あれはあれで別の草。春の七草でいうホトケノザはという全く別の草を指す」

 壱花の継母は恐らくそこを間違えたのだ、と榛弥は言う。

「ホトケノザとコオニタビラコが別物だとしっかり理解していなくて、さらにホトケノザとムラサキケマンは見た目が似ている。ムラサキケマンは誤って食べれば嘔吐、呼吸困難、心臓麻痺などを起こす恐れがあって、最悪の場合は死に至るそうだ」

「え……」

「良かったな壮悟。通学中に口にしたのがムラサキケマンじゃなくて」

 ホトケノザと勘違いしてムラサキケマンを口にし、壱花の継母は命を落とした。それが壱花の仕業として語られたりしなければ、彼女が〝蠱毒の巫女〟として名を馳せることもなかったかもしれない。

「これで分かったな。壱花に呪いの能力なんてものはなかったって。彼女はただ蝶を愛でていただけだったんだ。それが継母の死をきっかけに狂いだしたんだろう」

「……壱花ちゃんは〝蠱毒の巫女〟って呼ばれんの、嫌やったんかなあ」

 逃げなければ、と彼女は思っていたのだ。いったい何から逃げたかったのだろうとずっと疑問だったのだが、壱花はきっと〝蠱毒の巫女〟という立場など捨てて、自分の噂など広がっていない遠いところに逃げたかったのではないか。

 愛しい人と――ただ一人、理由はともあれ自分を気にかけてくれていた秋麗と。

 その願いが叶えられることはなかったようだが。

「……壱花ちゃん、どこに居んのやろな」

 壮悟はポケットから蝶の髪飾りを取り出して、光にかざした。壊れてしまってなお美しさを保つそれは、はじめこそ恐ろしくてたまらなかったけれど、今は悲しさに満ちているように思えた。

「ここまで関わったんなら、あの子をちゃんと成仏させたりたいな」

「初めは怖がっていたくせに?」

「なんも分からんから怖かったんや。けど今は、色々事情も分かったわけやし。ハル兄やってそう思うやろ?」

「まあな。ここで引いたら今後もずっと引きずりそうだ。壱花が今どこにいるのか……それを突き止めないことには終われない」

 がりん、と榛弥の口から飴の砕ける音がした。唇は挑戦的な弧を描き、好奇心に満ちているのがありありと分かる。

「けど突き止めるって、どうやって」

「手がかりが一つあるだろ?」

 榛弥の視線が上に向けられる。壮悟もつられて天井を仰いだ。

 居間の上にあるのは雨織の寝室だ。

「ひいじいさんは間違いなく壱花がいる場所について遺している。髪飾りと一緒に預かった紙とやらに書いてあったんだろう」

「でもそれ自体は紛失してしもたんやろ」

「だけどじいさんは内容を覚えていて、今度こそ失くさないよう自分の手帳に書き記した。しかし書かれていたであろうページは破られていて見つからない。で、雨織が言っていただろう? 『葬式の前にじいさんの手帳読んだら、家のどこかにヘソクリが隠してあるみたいだった』って」

「でも俺、ハル兄から手帳渡されて昼間にずっと読んどったけど、そんなことどこにも……あ」

 もしかして、と目線を正面に戻すと、榛弥が目を細めて笑っていた。

「さて、あいつがどう出るか――楽しみだな」



 遠くから新聞配達のバイクの音が聞こえる。鳥や虫の声が聞こえない真夜中に、その音はいやに大きく響いた。

 外から聞こえたそれがやたら大きく思えたのだ。二階の廊下はやけに軋むし、慎重に移動しなければいけない。慎重に慌てず、けれどなるべく急いで部屋から出て、五年以上暮らしてきた経験から、もっとも軋まない箇所を選びながら進んでいく。

 どれだけ配慮しても音は鳴る。ぎ、ぎ、と鳴るたびに冷や汗が流れたが、なんとか次の間に入りこめた。座敷に続く襖は人が一人通れる程度に開いている。そっと室内を覗き込むと、夜目に慣れていたおかげで、部屋の中央で眠っている従兄と思しき姿が目に入った。布団をすっぽりと被り、次の間に足を向けて寝転んでいるようだ。すうすうと規則正しく耳を打つ寝息から、ぐっすり夢の中に落ちていると思われる。

 襖の隙間から体を滑り込ませて座敷に侵入し、抜き足差し足で従兄に近づいた。

 は、と自分の口から漏れた息が荒い。手も震えるし汗が止まらない。

 ――それでもやるしかない。

 ――邪魔をされたら……横取りされたら困るんだから。

 高身長なくせに意外とひ弱で、運動も苦手だったことは知っている。自分を奮い立たせるためにもニッと無理やり笑みを作り、勢いよく掛け布団をはいでから、間を与えることなくまたがるようにして勢いよくのしかかった。

 布団をはぎ取られて寒かったからか、それとも急な重みに驚いたのか。従兄が身じろぐ気配がした。

 その首めがけて手を伸ばしたところで――雨織の体は、畳に叩きつけられていた。

 えっ、と目を丸くする暇さえなかった。従兄を下敷きにしていたはずなのに、いつの間に。身動きを取ろうにも背中に重みをかけられて、足をじたばたさせるくらいしか出来なかった。

「僕を相手にマウントを取ろうなんざ百年早い」

 ――この、声。

 ――なんで。

 どうしてと戸惑っていると、パッと座敷に明かりが灯った。

「俺に言うたことと同じこと言うてるやん」

 次の間の方から呆れたような声が聞こえた。ここで寝ているはずの人物の声が、どうしてそっちから。

「焦りは隙しか生み出さないぞ」

 混乱を深める雨織は、背中にのしかかってくる従兄――榛弥が不敵に嗤っていることなど、気づく由もなかった。

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