三章――③

 これはまたすごい有様だな、と思いながら、榛弥は手形だらけの車から従弟に視線を移した。人はショックが大きすぎると固まるようだ。なにかを言いかけた口のまま、壮悟は石像のように凍りついている。榛弥が肩をゆすっても返答がない。

 アルバイトをしていた頃から給料を貯め、就職してからも同様にコツコツと貯金を積み重ねて購入した新車だと聞いている。壮悟の相棒になってからまだ一、二年しか過ぎていないだろう。

 それがここ数日で傷だらけになったり、汚されたりと散々な目に遭っている。

「な、んや、これ」

 壮悟がようやく言葉を絞り出していたが、可哀そうなくらいにか細かった。

 ふらふらと車に近づく姿は生まれたての小鹿に似ている。今にも気を失ってしまうのではないかと心配になるほどだ。

「なにって、まあ、手形だな」

 淡々と見たままのことを言うと、壮悟はぎこちなく榛弥を見る。長年油をさされずに錆びついたブリキの人形のような動きだった。

 かと思うと急に顔を赤くし、頭を抱えてうずくまる。

「なんで! こんなもんが! 俺の車に!」

「それは知らん」

「……まさか、これ、壱花ちゃんの呪いやったりするんか?」

 はっと顔を上げ、壮悟は縋るように榛弥を見てくる。

「壱花ちゃん、成仏してへんの違うかって言うとったよな。絶対そうや。そんで、ひいじいちゃんのこと恨んでるし、子孫であの子の幽霊も見える俺のことも憎いんや。それを訴えるのにこんな……傷とか、手形とか……」

「…………あのなぁ」

「だってそう考えやんとおかしいやん! 手形が赤いのも、これ絶対に血ィやろ! なんで殺したんやって憎んでて、それで」

「落ち着け。人の家の前で喚くな」

「喚かんとおれるか!」

「あのぉ」のんびりした声が久司の家から聞こえる。振り返ると、初めに応対してくれた女性が玄関から顔を突き出していた。

「忘れ物してましたよ」

「ああ、どうもすみません」

 どうやら机の上に髪飾りと写真を置きっぱなしで壮悟は出てきたらしい。はいこれ、と女性が差し出した二つを受け取る。髪飾りに触れていないか気になったが、ハンカチに包みなおして持ってきてくれたようだ。壱花の夢を見ることはないだろう。

 女性は榛弥の肩越しに、形容しがたいうめき声をあげてうずくまる壮悟を見た。

「どうかなさったんですか?」

「駐車していた間に、車に落書きをされたようです」

「あらやだっ、大変。大丈夫なんですか」

「ご心配痛み入ります。もしよろしければ、雑巾を貸していただけませんか」

 前回の傷と違い、手形の汚れはガラス部分やサイドミラーにまで及んでいた。これでは車が動いても前後が見えない。女性は快く濡れた雑巾を貸してくれた。

 とりあえずフロントガラスとサイドミラーだけでも拭いておくべきだろう。壮悟をしり目に手形を拭うと、思っていたよりも簡単に消える。

 ――つけられてから時間が経ってないんだな。乾ききってない。

 ――ざっと見た感じ、手形は両手ともある。大きさから考えて男じゃない。ああ、だから壮悟は壱花じゃないかと思ったのか。

 ひととおり拭って雑巾を女性に返し、榛弥は問いかけた。

「一応お聞きしたいのですが、ご近所でこういった落書きなどのいたずらはこれまでにもありましたか」

「うーん、特に聞いたことないですよ。夜になるとたまーに裏の道を暴走族が走ったりしてますけど、他はごくごく普通で、平凡で」

「そうですか。お騒がせしてすみません」

 社交的な笑みを浮かべながら改めて女性に礼を言い、榛弥はジャケットのポケットに髪飾りと写真を突っ込んだ。相変わらずうずくまったままの壮悟に背後から近づき、

「いだっ!」

 思いきり尻を蹴り飛ばしてやった。

「なにすんねん! 人が落ち込んどるっちゅうのに!」

「いつまでもここにいたら迷惑になる。泣くなら帰ってからにしろ。僕は免許持ってないんだから、落ち込んでようがなんだろうがお前が運転するしかないんだ。早く乗れ」

「……うぅ」

 さっさと助手席に乗り込んだ榛弥と違い、壮悟はのろのろと運転席に座る。

 車内には重い空気が漂う。榛弥はしれっとたばこをくわえて火をつけた。煙が充満しないよう、窓は開けておく。

「……久司さんとこった時さ、壱花ちゃん、見えへんかったんや」

 普段よりいくらか力のこもっていない声で壮悟が話し出す。榛弥は視線だけそちらに向けた。

「なんでやろなと思とったんやけど、車に手形つけとったからかな……」

「そんなわけあるか」

「ほな誰がつけんねん、こんな手形! 傷やってもしかしたら壱花ちゃんがなんか言いたてつけたんかも知れんし!」

「どっちも人間の仕業に決まってるだろ。少しは考えろ、阿呆」

 落ち込んでいるとはいえ馬鹿にされると腹が立つらしい。左手で榛弥の肩を殴りつけてくる。そこそこ痛かったが、平気に見せかけておく。

「仮に壱花だとしても、おかしいだろ。殺されたときに血が出るような死に方をしてたか? 埋められたんだろ?」

「…………あ」

 言われて初めて気づいたようだ。

「大量に出血してたとかならギリギリ納得するけど、血にしては赤色が鮮やかすぎた。まだ拭いてない部分があるから、帰ったら見てみろ」

「見る勇気あらへんわ……壱花ちゃんの仕業と違ちゃうって分かっても汚されたんは変わらへんもん……ていうか、誰やねん、俺の車にこんなことしたん……」

「傷だけなら通り魔かと思うところだが、今回の手形ではっきりしたな。確実にお前を狙ってきてる」

「なんでや!」

「知らん。誰かから恨みを買った覚えは?」

「あるわけないわ。くっそ、めちゃくちゃ腹立つ」

 落ち込むところまで落ち込んだところで、今度は怒りが沸いてきたようだ。ハンドルを握る指が苛立たしそうにとんとんとリズムを刻んでいる。

「二度あることは三度あるって言うよな」

「あったら困る!」

「三度目の時に見張っておいて捕まえるって発想はないのか」

「その三度目はいつやねん」

「知らん。いっそのことずっと車の中で過ごしておけばもういたずらされないんじゃないか?」

「…………」

「おい、今のは冗談だぞ」

「……ちょっと本気にしたわ」

 でも、と続いた壮悟の声は、いくぶん明るさを取り戻していた。

「喋っとったら気ィ楽になったわ。ありがとな、ハル兄」

「どういたしまして」

「けどケツ蹴ってきたんは痛かったぞ」

「僕だって肩を殴られて痛かった」

「……お互いさまってことで」

 ああ、と答えた榛弥の口許は、緩やかな弧を描いていた。



 今日の帰りは遅くなると榛弥が言っていた。仕事終わりに彼女と夕食デートに行くそうだ。

 ――じいさんの手帳を渡しておく。倉庫整理の合間にでも見てみるといい。息抜きになると思うぞ。

「って言うとったけどなあ……」

 壮悟は縁側に腰かけ、榛弥から預かった祖父の手帳を開いていた。

 車についていた手形の汚れは先ほど洗い流した。使われていた塗料はペンキではなかったようで、少し時間はかかったがなんとか汚される前の状態まで戻せた。このまま倉庫の整理をすると疲れるのが目に見えていたため、いったん休憩をはさむことにしたのである。

「あら、なあに? おじいさんの手帳?」

 庭の手入れをしていた祖母の問いに「うん」と軽く手帳を掲げて答える。

 手帳には外出の記録のほか、榛弥が大喜びしそうな民俗学的な知識が書かれていた。壱花と思われる幽霊についての記述も少なからずある。

「なあ、ばあちゃん。じいちゃんっていつもどこの部屋で寝とった?」

「あなたたちが泊まりに来たときは私の部屋で寝てたけど、普段は二階の和室で寝てたわよ。階段を上がってすぐのところ」

 壮悟が寝泊まりしている座敷の隣にある次の間か。

 ――壱花ちゃんは次の間から座敷の方覗きこんどるし、じいちゃんは次の間からあの子を見とったって感じなんやろか。

 祖父についての話題が出たことで、祖母は昔が懐かしくなったようだ。壮悟も思い出話をあれこれと交わしているうちに、話は雨織に及んだ。

「雨織って中学ん時からここ来たんやろ? 反抗期真っただ中やったん違うの」

「そりゃあもう大変だったわよ。ほら、離婚でいろいろと振り回されたでしょう、あの子」

 叔父夫婦が離婚したのは、雨織の母の浮気と浪費癖が原因だった。

「ストレスを抱えてたのに、新しい学校になじめないのも重なって引きこもりがちになったのよ。かと思ったらふらふら出かけて夜遅くに帰ってくるし。どこ行ってたのって聞いても答えてくれないから、そのたびにおじいさんと喧嘩してて」

「……じいちゃんが怒っとるイメージあんまないな」

 滅多に怒らない祖父が怒るということは、それだけ雨織が荒れていたということでもあるだろう。雨織自身もけんかっ早いところがあるし、二人の口論が数日にわたって続くのも珍しくなかったそうだ。

 壮悟の母も、叔父も伯母も、反抗期はあったがあまりひどくなかったと聞く。穏やかめのそれしか経験のなかった祖父母にとって、ものに当たり散らしたりするような雨織の教育には手を焼いたに違いない。

「中学三年生の頃だったかしら。珍しく学校に行ったときに、気の合うお友だちが出来たみたいなのよ。ああ良かったっておじいさんと二人で喜んだんだけどね……」

「そうもいかんかったんか」

「帰ってきたときに男の子と一緒だったのよ。それがどう見ても、その……あまり良い子ではなさそうというか……仲は良さそうだったんだけどね。高校もその子と同じところに進んだんだけど、結局二人そろって退学しちゃって」

「ふうん……」

 祖父の手帳からは雨織に対する接し方の悩みも垣間見える。

 機嫌の良い日は一緒に買い物に出かけたり出来るのに、悪い日はテレビのリモコンの置き方だとか些細なことで雨織が怒る。甘やかしすぎたのかも知れないと悔いを吐露してある日もあった。

 どうやら引きこもる雨織の機嫌を取ろうとして、彼女が欲しいと言ったものもあれこれ買っていたらしい。当時流行っていた携帯ゲーム機やぬいぐるみ、雑誌やテレビで人気のモデルが着ていたものと同じ洋服、ブランド物のバッグなど。最終的には「自分で買いに行くからお金だけちょうだい」と求められるだけの額を渡していた、と祖母が深いため息をついた。

「最初は一週間に一回だったのが、五日に一回、三日に一回……」

「じいちゃんはなんも言わんかったん?」

「言わないわけないじゃない。『そんなにお金をもらってなにに使うんだ』って聞いたら、そこからまたけんかの始まり。渡さないでいたら、私やおじいさんのお財布から勝手に抜き取っていくし。母親に似たのかしらね」

 ――がっつり窃盗しとるな。

 窃盗とか今さらだし、とぼやいていた理由がなんとなく分かった気がした。

「不良っぽいのと居ったって言うたけどさ、今もそいつとつるんどんの?」

「仲のいいグループがあるみたいで、出かけるときはだいたいその子たちと一緒にいるみたい。ほら、カズキ君って覚えてる? 池の近くのボート屋の」

「うん。この前久しぶりに会うたよ。カズキがどうしたん」

「カズキ君が出かけたときに、駅前で雨織を見かけたらしいの。『なんかチャラそうな奴らに混じって歩いてましたよー』って回覧板を持ってきてくれた時に教えてくれてね」

 話題に上っている雨織本人は、壮悟が榛弥を駅に送っていった間に出かけていったようだ。珍しく朝食は壮悟たちと同じ居間で食べていたため、それとなく壱花の夢や幽霊について聞こうと思ったのだが、声をかけようとしただけで睨まれたので諦めた。

 ――目のあたりの隈とかすごかったし、まともに寝てへんような気はすんねんけどな。やつれとったように見えたんは単純にちゃんと飯食ってへんからやろか。

 休憩を終えて倉庫の整理に戻る。一度は雨織のせいで荒らされたが、この調子でいけば月末までには片付きそうだ。初めは箱を開けるたびに懐かしさがこみ上げていたものだが、いつの間にか冷静に仕分けられるようになっていたし、そんな自分に驚きを覚えたりもした。

 たまに視線を感じるのは、壱花が壮悟を見ているからだ。ただ夜中と違ってやはり声は発しないし、いまいち何を考えているかもわからないため、こちらも徐々に気にならなくなっていた。

 黙々と整理を続け、「もうすぐ晩ご飯の時間だから、ちょっと手伝って」という祖母の一言で時間の経過に気づいた。ずっと座りこんだまま分別を続けていたせいで、立ち上がった時に尻や足の関節が悲鳴を上げる。

「今日の晩ご飯なに?」

「鮭の西京焼きと豆腐のお味噌汁。あとはほうれん草のお浸しにしようかしらと思って」

「ほんなら俺、味噌汁作るわ。わかめも入れてええ?」

「お好きにどうぞ」

 榛弥は不在だが、雨織はいつ帰ってくるのか分からない。祖母から投げかけられる恋愛話を巧妙に避けながら三人分の味噌汁を作り、居間に食事を運んで座布団に腰を下ろす。天気予報を見たいと祖母が言うのでテレビをつけると、ちょうどそのコーナーがやっていた。ようやっと本格的な春に突入する、と気象予報士が胸を張って伝えている。

 ほうれん草のお浸しにかつお節と軽く醤油をかけて、壮悟は「あっ」と小さく声を上げた。

「どうしたの」

「いや、ハル兄に聞こうと思とったことあったなって。昨日聞くつもりやったんやけど、色々あって忘れとった」

 壱花の家があったあたりで撮った草の写真の件だ。帰ってくるまで忘れないようにね、と笑いかける祖母に、ほうれん草を咀嚼しながらうなずく。

 天気予報を終えたテレビは、地元のニュースを伝えるコーナーに変わった。

『今日午後四時ごろ、駅の構内にある階段で、男性が男に突き落とされる事件がありました。突き落とした男は居合わせた駅員や乗客らによって取り押さえられ、駆け付けた警察官に現行犯逮捕されました』

「あらまあ、物騒な事件があったのね」

 鮭の身をほぐしつつ祖母が不安げに頬に手をやった。

『突き落とされた男性は頬に擦り傷を負うなどの軽傷で、男と面識はないと話しているそうです』

「この駅って榛弥がいつも使ってるところじゃないの? 大学の最寄り駅でしょう」

「そうやと思うけど、四時ごろてハル兄、もう彼女さんと合流してんの違うかな。どこでデートするつもりなんか知らんけど……っと」

 普段榛弥が座っている座布団の上に乗せていたスマホが鳴動する。電話の着信だ。画面には「ハル兄」と表示されている。

 なんだろう。駅で発生したトラブルで帰るのが遅れるという連絡だろうか。もしもし、と応答すると、聞こえてきたのは榛弥の声ではなかった。

「もしもし!」快活な響きは女性のそれだ。「榛弥くんのご家族の方ですか?」

「家族ってか、従弟やけど……っていうか、誰? これハル兄のスマホやんな……?」

「あ、ごめんなさい。私、榛弥くんの彼女です。茉莉まつりっていいます」

 自己紹介もそこそこに、電話の向こうの茉莉は快活さをひそめた。

「榛弥くん、今病院にいるんです。念のため診てもらってから帰るから、終わる時間が分からないし、帰りは私がそっちまで送っていくことにしたんで、それを伝えておいてくれって言われたんです」

「は、はあ」

 なになに、と興味津々な祖母に、茉莉から聞いたそのままのことを伝えると、いぶかしげに首を傾げていた。壮悟も同様である。

「なんでハル兄は病院に? なんかあったんですか?」

「ああ、落ちたんですよ」

 ――まさか。

 すでに違うニュースを伝えている番組に目をやり、壮悟は無意識に唾をのんだ。

「駅の階段で、思いっきり突き飛ばされて落ちちゃったんですよ」

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