三章――②
メモに書かれていた住所をカーナビに入力し、音声案内に従って到着したのは隣の市にある住宅街の一角だった。少し歩いたところには小学校や中学校、公園もある。乙木家のような昔ながらの民家は見当たらず、どこを見ても似たような外観の住宅が規則正しく並んでいた。表札と外壁の色くらいしか違いがない。
壮悟が家の前に駐車している間に、榛弥がインターフォンを鳴らしていた。応対に現れた年配の女性とスムーズに話しているところを見るに、訪問の連絡はぬかりなく済ませていたのだろう。
二人そろって家に上がる。フローリングの部屋が多そうな中、壮悟たちが通されたのは落ち着いた雰囲気の和室だった。室内には老年の男性が一人いて、二人の姿を見るなり立ち上がろうとしたのを「お気遣いなく」と榛弥が制した。
男性の向かい側に用意されていた座布団に腰を下ろし、壮悟はぶしつけにならない程度に彼を見た。
年は八十代と思われる。中肉中背で背中は少し曲がり、髪は後頭部のあたりにうっすらと生えている程度だ。首元には手ぬぐいを巻き、しわに埋もれた目で壮悟と榛弥をじっと見つめている。手元にはなぜかノートとボールペンが置かれていた。
「突然お伺いしてしまって申し訳ありません」と榛弥が頭を下げる。「僕は
こく、と男性はうなずいてボールペンを手に取った。さらさらと慣れた様子でノートに文字を書いていく。
『昨日、そうお電話があったと息子の妻から聞きました』
「……筆談?」
壮悟の呟きに、彼はしわだらけの指で己の喉をさした。
『数年前に喉の病気を患いまして、声を失いました。食道での発声法も提案されたのですが、正直に言――』
そこまで書いて、男性はなにやら首を振って文字をぬりつぶした。壮悟たちに見せられたのは声を失った部分までだったし、見てはいけない部分だったかと壮悟は空気を読んで知らないふりをしておく。
男性が何者かというのは、車中で榛弥に聞いている。
「
榛弥の問いに、久司はゆっくりとうなずいた。
『戦後間もなくから
「それはどういった経緯で」
『秋麗さんがそういった人材を求めておられたんです。住み込みだったので衣食住も提供されましたし、勉強などは秋麗さんが教えてくださって』
久司は懐かしそうにペンを走らせる。
秋麗が口下手だったこと、外に出かけられない代わりに将棋や囲碁をよく打ったこと、遊んでやれない彼の代わりに孫――榛弥の母のことだろう――と遊んだこと。そして、秋麗が亡くなったときのこと。
『秋麗さんがどうして亡くなったのかお聞きしたい、とのことでしたが、なぜですか』
面会を取り付けるのに、榛弥は回りくどい理由を用いなかったようだ。
秋麗が命を絶った際、彼の世話を担っていた久司は自殺を止められたのではと責められていたと聞く。それを踏まえてか、榛弥は「あなたを責めようとは思っていません」と真剣なまなざしで言う。
「僕はただ、曽祖父が自ら死を選ぶほどなにに悩んでいたのか、真相を知りたいだけです。事業に成功して富を手に入れ、家族にも恵まれていたのにどうして世を去る決意をしたのか。気にならないはずがないでしょう」
『血がつながっていると考えも似るのでしょうか。春好はるよしさんと同じことを仰るんですね』
「えっ、じいちゃんも久司さんに話を聞きに来とったんですか?」
『秋麗さんが亡くなった時と、二年ほど前と。どちらの時も、お教えすることはしませんでしたが』
「つまり、教えられるだけのなにかを、あなたはご存知なんですね」
久司の手が止まる。
静寂が流れる中、榛弥の肘が壮悟の腕をぐいぐいと押してくる。なんやねん、と口の動きだけで問うと、彼の目線が壮悟の腰あたりに移動した。
――あ、なるほど。
壮悟はズボンのポケットにしまっていた蝶の髪飾りを取り出す。ハンカチに包んであったため机の上で広げると、みるみるうちに久司の目が丸くなった。
彼はこの髪飾りに見覚えがあるのだ。
「ハル兄が書庫の整理をしとったときに見つけた髪飾りです。女物やけど、ばあちゃんのもんでもない。それにじいちゃんが『父から預けられた』って手帳に書いとったから、もともとはひいじいちゃんが持っとったもんやと思うんです。ひいばあちゃんのならそう書くはずやと思いますし、書いてないってことはじいちゃんも本当の持ち主を知らんかったん違うかと思うんです。あと……」
壮悟はさらに例の白黒写真を取り出し、久司の前に置いた。ぎゅっと彼は唇を引き結ぶ。
「この写真に写っとんの、ひいじいちゃんなんですよね。隣に居るのは〝蠱毒の巫女〟って呼ばれとった女の子やって聞きました。この子の頭にある白っぽいのは髪飾りやと思うんですけど、もしこの蝶の髪飾りと同じもんなら、この髪飾りはもともとこの子のもんってことでしょう。失踪してしもた子の髪飾りを、なんでひいじいちゃんは持っとったんでしょうか」
そこまで言ったところで、はっと壮悟は目を瞬いた。まるで追及するような口調になってしまっていたと気づき、「すみません」とすぐに首を垂れた。
机の下で、榛弥の手のひらが壮悟の太ももを軽くたたく。責めているのではなく、慰めのつもりだろう。
「曽祖父と〝蠱毒の巫女〟――壱花は幼馴染だったそうです。ただあなたが雇われた時期は戦後とのことですし、戦前あるいは戦時中に失踪した彼女と、直接の面識はないですよね」
『そうですね』と久司は落ち着いた様子でボールペンを手に取る。『その方とお話したことはありませんが、秋麗さんから話を聞いたことはあります。その髪飾りは確かに壱花さんのものです』
久司はボールペンの頭の方で、写真の中の壱花と髪飾りを交互にさし示す。ここに写る彼女の頭を彩るのは、書庫で眠っていた髪飾りで間違いないようだ。
「話を聞いたことがあるっていうのは、思い出的な……?」
『世話をしている立場上、多くの時間を一緒に過ごした分、私は話しやすい相手だったのでしょう。たまに過去の話をすることがありました。彼女……壱花さんは蝶のような人だったと、よく言っていました』
「蝶のような?」
『美しい女性はよく花にたとえられますが、壱花さんの場合、長い髪をひらひらと風におどらせて、つかみどころがなく気高い雰囲気をまとい、蝶を侍らせて道を行く姿は本人も蝶そのものに見えた、と』
壮悟は視線だけで周りを見回した。壱花の幽霊は、今はいない。
――そういやぁ壱花ちゃん、車ん中とか、そういうところでは見やへんな。だいたい家ん中で見かけるような……。
『壱花さんの蝶が乙木家に迷い込んできたところで、お二人は幼馴染になったのだと聞いています。壱花さんは周囲から気味悪がられることが多く、唯一まともに話をしてくれた秋麗さんを慕ってくるようになったのだと』
「なぜ曽祖父は壱花を邪険に扱ったりしなかったんでしょうか」
『哀れに思ったのだと言っていました。お二人とも母を病で亡くされたんですが、その時期が近かったのだとか』
きっと壱花は、自分を気味悪がらない秋麗に好意を抱いたのだろうと壮悟は思う。しかし秋麗はあくまで哀れに思って声をかけてやっていただけで、まさか懐かれるようになるとは想像していなかったのかもしれない。
「壱花が〝蠱毒の巫女〟と呼ばれるようになってから、曽祖父は彼女と距離を置いたそうですが」
『真実かどうかはさておき、呪いという言葉に恐ろしさを感じたそうです。同時期にご近所の娘さんとの婚約も決まったことで、秋麗さんはこれ幸いと壱花さんに構わなくなった、と。けれど、突然距離を置かれた壱花さんは納得がいかなかったようで』
久司はわずかに眉を下げた。苦笑というより、呆れているように見える。
『一度、家に侵入されたことがあると聞きました』
「侵入って……堂々と入ってくるわけと
『巫女として有名になって時間がない中、どうしても話をしたかったんでしょう。真夜中にこっそり家に入りこみ、秋麗さんのお部屋に来たそうです』
当時は防犯意識が今ほど高くなく、玄関や勝手口など主要な出入り口は別として、一階にある小窓だとか、二階の窓は無施錠なことが多かったそうだ。避けられている以上、正式に訪問しても追い返されるだけだと判断したのか、壱花はどこからか乙木家に侵入して、秋麗に会いに来たらしい。
「それで、ひいじいちゃんはどうしたんですか」
『追い返したと言っていました。当然の反応でしょう。その際に「私といっしょに逃げてほしい」と泣かれたそうです』
「……逃げる?」
夢の中で壱花が感じていたことと一致する言動だ。だがこれに関しては秋麗も詳細は知らず、ゆえに久司も真意は分からないという。
「それからどれくらい時間の経過があったか知りませんが、壱花は突然失踪したそうですね」
榛弥の言葉に久司がうなずく。壮悟にだけ聞き取れるくらいのか細さで、榛弥がすうっと息を吸う。
「壱花はただ失踪したわけではなく、曽祖父が殺したのではありませんか」
「ちょっ……!」
あまりに単刀直入すぎないだろうか。慌てる壮悟に反して榛弥は落ち着き払っている。対面の久司はボールペンを握る手に力を込めたように見えた。
「信じていただけるか分かりませんが、僕たちはこの髪飾りに触れてから夢を見るようになりました。壮悟は曽祖父と思われる男によって埋められる夢を。僕は掘り起こされて燃やされ、どこかに閉じ込められる夢を。恐らくは祖父も似たような夢を見ていたはずです。いずれも壱花の体験で、僕たちはそれを見せられているのではないかと考えています」
そして、と榛弥が姿勢を正した。
「あなたは曽祖父の壱花殺しに関わっているのではありませんか」
「えっ」
壮悟は驚きながら榛弥と久司に交互に目を向けた。榛弥の口調は確信に満ち、久司は視線から逃れるように俯いている。
「で、でもハル兄。俺の見とる夢に久司さんは出てきてへんで。若い頃のひいじいちゃんだけで……ハル兄の見とる夢もそうと違うの?」
「確かにひいじいさんしか壱花には見えてない。ただ、言っただろう。僕の夢では炎の明かりがあるって。壱花が燃やされる前、つまり掘り起こされているとき、炎の光源はひいじいさんのそばから発されていた。近くにひいじいさん以外の誰かがいたと考えるのが自然じゃないか? 何回そっちを確かめようと思っても、壱花自身の体が動かないから確認できなかったけどな」
久司はなにも書こうとしない。ペン先はノートに触れているのだが、書くのを躊躇っているようだ。
違うのならただ一言、否定の文字を書けばいい。違います、関係ありません、知りません、と。なのにいずれも記そうとしないのは、壱花殺しに関わっているからなのか。
「あなたが明かりを掲げる中で、曽祖父は壱花の死体を掘り起こした。誰にも見つかっていないか確認するためもあったでしょうね。その頃には白骨化していたと思われますが、念には念を入れて一応火をつけた、というところですか。その後、彼女の骨はどこかに閉じ込められた」
久司は黙り込んだままだ。壮悟も息をのむ横で、榛弥は冷静に言葉を紡ぐ。
「曽祖父が自ら命を絶ったのは、壱花への贖罪、後悔あたりが理由ですか? 彼女は死後も幽霊となって曽祖父の前に現れたようですし、それから逃げようとしたというのも考えられる。壱花から逃げるには死ぬしかないと思いつめても不思議じゃない」
『榛弥さんが今言ったことはすべて憶測でしょう』
そうですね、と榛弥は小さく息をつく。
「ですから真相が知りたい。別に今さら警察に突き出そうとか、そういうことを考えているわけではありませんし、責められるべきは曽祖父であって、ただ傍観していたであろうあなたを責めるつもりはない。だから、教えていただけませんか」
秋麗は壱花を殺したのか。
そして壱花の遺骨は今、どこにあるのか。
久司の家に向かう道すがら、榛弥は窓枠にもたれながら「壱花は成仏していないんだろう」と言っていた。
わけも分からないうちに殺され、まともな供養をされないまま〝冷たくて暗い場所〟に閉じ込められているのだ。安らかにあの世にいけるとは壮悟も思えない。だから壱花は夢を見せたり、幽霊として現れることで、助けを乞うているのではないか。
見捨てないで、と。
真夜中に消える間際、壱花の残した言葉が耳元で響いた気がした。
『お引き取りいただけませんか』
しばらく待ったのち、久司がノートに書いたのはその一文だった。
『私にお話しできることはありません』
「え、でも……」
「分かりました」
意外なほどにあっさりと榛弥が応じたものだから、壮悟の困惑はますます深くなる。普段の彼なら食い下がってもおかしくはないのに。
榛弥が立ち上がったため、壮悟もあとに続くしかない。見送りのためか久司も腰を上げ、玄関まで歩いていく。背後につかれているため、まるで追い立てられているようだった。
壮悟が靴ひもを結んでいる間に、すでに革靴を履いていた榛弥が久司に振りかえる。
「今日はお暇しますが、僕はまだ納得したわけではありません」
「…………」
「また来ます。――行くぞ、壮悟」
「お、おう。すみません、お邪魔しました」
二人そろって会釈し、玄関の扉を閉める。久司はだらりと腕を垂らしたまま、微動だにしていなかった。
「なあ、なんで問い詰めへんかったん?」
玄関前の短い階段で立ち止まって問いかける。
「食い下がったところで話してくれる雰囲気じゃなかったからな。今日のところは大人しく帰ることにした。ご家族が夕飯の準備もしていたみたいだったし、長居すべきじゃないと判断したまでだ」
「確かに、台所の方からなんかええ香りしとったもんな……」
スパイシーな香りから考えて、カレーの準備をしていたのだろうか。空腹を訴える腹を撫で、壮悟は榛弥と並んで歩きだす。
「まあ、なにも分からないまま帰るわけじゃないからいいだろ。二人がどういう関係だったのか、少しは知られたし」
「せやな……しっかし、真夜中に家に侵入してくるて。今のご時世やったら警察沙汰やろ。ストーカーとかで」
「お前のところに毎晩出てくる壱花の幽霊は、当時の行動をなぞっているものだったりしてな」
「あながち
「壱花が〝蠱毒の巫女〟と呼ばれるようになった継母殺しについて気になることがあったんだ」
「ふうん。なんか分かっ……」
分かったのか、と言いかけて、壮悟は固まった。「どうした」と榛弥も立ち止まり、壮悟が見ている先に目を向け、やがて顔をしかめる。
久司の家の前に停めてあった壮悟の車に、夥しい数の赤い手形がついていたからだ。
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