第19話 エピローグ

 六月中旬。

 律は、夕暮れ時のレマン湖上を進むフェリーに乗船していた。スイス・ニヨンから仏領イヴォワールへ向かう船旅は約二〇分の行程だ。

 今日も——

 湖上は麗かだった。

 思えばたまにしか乗らないフェリーだが、利用する時は不思議と毎回決まって好天だ。イヴォワールに着くと、相変わらず多くの観光客に塗れる観光地区には目もくれず、一目散に南側に位置する村の郊外へ向かった。

 間もなくすると、林の一画に古城の如き趣きのある豪邸が見えて来る。洒落た鉄門扉の横にあるインターホンを押すと、返事の代わりに中から一〇歳ぐらいの、如何にも快活そうな男児が突っ走って来た。

「りっちゃん!」

「パット」

 挨拶も何もあったものではない。横にある脇戸が内側から乱暴に開け放たれると、中から出て来たその手に一二もなく引きずり込まれる。

「ちょ、ちょっと、逃げないから」

「今日は負けないよ!」

 早く早く、と引っ張られるままに玄関を潜った所で

「パトリック!」

 慎ましそうな中年女性から思いがけない雷が落ちた。

「お客様を引っ張り回してはいけません」

「アンヌさん、ご無沙汰してます」

「律さん、お待ちしておりました」

 一見して、すっきりとした飾り気のない長袖シャツと地味なフレアスカートに身を包んだ穏やかなこの女性が、イヴォワール・フェレール家最後のメイドから現フェレール家当主夫人となったのは、ちょうど一〇年前の今日だ。本来その立場の者ならばこのような質素な形をする必要などないのだが、加えてアンヌはシンプルな灰色一色のエプロンをしていた。しかも、いつ見ても同じだ。

「この度は、おめでとうございます」

「そのような、勿体のうございます」

 一見して典型的な仏人女性にして仏語でやり取りしている二人だが、それぞれ和式のお辞儀をするのは、やはり当主の影響としたものだろう。

 前当主アルベールから生前に後目を継いだ息子の現当主ジローは、本拠をパリに戻した。そのためフェレール家は季節毎の大それた引っ越しをしなくなったのだったが、それでも隠居したアルベールが余生を過ごす間は細々とニースとの往復を繰り返したものである。

 そのアルベールも他界し、その習慣自体がなくなると、ジローは新しい使用人の雇用を停止。最終的に各屋敷の維持管理に必要な人員だけ残し、中途・定年退職で抱えていた使用人を自然減少させた結果、イヴォワール・フェレール家に残ったのは、その夫人リエコの他は、執事、庭師とメイドが各一人ずつだった。アンヌはそのメイドだった人である。

 リエコに覚えめでたい不破家の事。律は幼少期から頻繁にイヴォワールの邸宅を出入りしていたが、最も古い記憶の中にも登場する若かりし頃のアンヌは、出自を貧農の実家に頼む誇るべき学もない素朴な人だった。当時は数多くいた使用人の中でひっそりと埋もれ、目立たぬよういつも何処か必要以上に自己を卑下する癖のある人だったが、それでも賢明にして勤勉で、いざとなると大変性根が据わっていて周囲を驚かせたものだ。

 フェレールの莫大な財と地位を継いだジローが世界中の美女から言い寄られる中で、彼をして跪かせ生涯の愛を誓わせたその最後のメイドは、確かに一見すると凡庸過ぎて周囲を驚かせたが、律はこの従叔父の決断の理由を知る数少ない「周囲」の中の一人である。

 以前何かの拍子に、父の無二の親友でもあるその人の口が、

「まるで具衛を女にしたような人なんだ」

 と漏らした時には、うっかり盛大に噴き出した律だ。還暦直前まで頑固に独身を貫いていた堅物の男を結婚に踏み切らせた最大の理由は、どうやらアンヌの中に親友の気質を見出したらしい、とは極々一部の近しい者達しか知らない秘密だった。

「パトリック、ちゃんとご挨拶なさい」

「はぁい」

 渋々ながらも明らかに仏人の子供を呈する御曹司たる再従姉弟が、挨拶を口にしながらも「お辞儀」をした。

「後でちゃんと勝負するから待っててね」

 頭の高さが胸程しかないその幼子を前に、屈んで目線を合わせた律が頭を撫でながら微笑むと、

「子供扱いするな!」

 その手を乱暴に払い除けられ、逃げられてしまった。

「こら! パット!」

「秘策があるんだ! 勝ち誇ってられるのも今のうちさ!」

 少し離れた所で舌を出したパットは、今度は母アンヌの言う事も聞かず、そのまま何処かへ走り去る。

「——申し訳ございません」

 宜しければ後で相手をしてやって頂けますでしょうか、と恐縮するアンヌに、律はつい小さく噴き出した。それをアンヌに見られてしまうと

「いえ、何でも」

 慌てて小さく手を振って誤解を解く。いつまで経っても慎ましさを忘れない、富豪の中の愛すべき良心。律は、父に似たこの従叔母が好きだった。

「挨拶の後でお手伝いしますね」

 と言ってその場を離れた律は、広い屋敷内を迷う事なく闊歩して居間に入った。

「あれ? 真純さんだけ?」

「やあ、りっちゃん」

 だだっ広い居間にいたのは、窓際のテーブル席でパットにじゃれつかれているイヴォワール・フェレール家当主夫人のリエコの他は、真純だけである。

「久し振りだってのに、つれないなあ」

「手伝いはどうしたのよ?」

 軽く応酬しながらも、まずはリエコの元へ馳せ参じた律が跪いて挨拶をする。

「ご無沙汰致しております大叔母様」

「余り仰々しく言うものじゃないわ、律」

 まるで大年増みたいじゃない、などと嘯くリエコの前にはチェスボードがあった。

「お婆ちゃんまだぁ?」

 しばらく振りの二人の再会に構わず、パットが対面する椅子に座って焦れている。ジローに手解きを受けた、今はまだ幼いフェレール家の後継ぎのチェスの実力は、既にその父を上回る程であり、適う者が限られつつあると言う名手だ。

 律が盤面を一瞥したところ、今はパットが優勢だが、

「誰に似たのか、強くてねぇ」

 敵わないのよ。何とかして。と、いつまで経っても何かにつけて華のある大叔母も、ここ数年泣き言を漏らす事が増えたものだった。

「パット。レディーに対する慎みを忘れちゃだめでしょう?」

 言いつつ律が、リエコの黒いクイーンを動かすと、

「げ」

「あらっ!?」

 形勢が逆転し、リエコが前のめりに息を吹き返した。

「流石ね!」

「私は台所へ手伝いに行きますので、また後程」

 御年九八と言うリエコは、律の古い記憶を辿っても失われる事のない絶対美を携える、フェレールが誇る社交界の華だ。が、一時期は、律の成長に反比例するように老いの影が色濃くなり、夫アルベールが亡くなった一〇年前などは、心身共に随分と老け込んだものだった。のだが、

「私も手伝おうかしら?」

 今のリエコに老いの影は皆無と言って良い。普段の生活でも文字通り飛び回る壮健振りは言うまでもなく、華やかで上品な雰囲気はそれを競う他者の追随を許さない。加えて認知機能は現役世代を軽々凌駕する鋭敏な繊細さで、接する者を敬服させる、等々。

 アルベールの死の前後には終末の哀愁が漂い始めていた一時期のリエコを復活させたのは、その亡夫と入れ替わるように世に登場した「老化細胞除去薬」の恩恵だった。

 老年病や生活習慣病、加齢に伴う多様な臓器機能不全を標的とした治療目的で研究開発が進められていたそれは、約一〇年前に実用化の目処がつき、人類の健康寿命を一二〇歳まで延伸させた、と言われる。特にここ数年レベルの進歩は著しく、アルベールの老衰には間に合わなかった所謂「若返り薬」は、愛する夫を失い失意に暮れるリエコが苦しい時を過ごした分だけ、皮肉にもその肉体を蘇らせた。

 今やその外見は、律が子供の頃の絶対美人よりも若々しい勢いであり、約六〇年振りに独身生活を送り始めて一〇年。その「アラフィフ」の周囲には、未だに艷聞が絶えない。黄花晩節の美魔女は、やはり末恐ろしい妖艶の美魔女だった。

「私達だけで大丈夫ですから」

「じゃあ悪いけどお願いね。パット。早くなさい!」

 小賢しさが散見される再従姉弟を一撃で黙らせた律は、チャーミングな振舞が板についている大叔母に軽くハグをした。こちらの出自は東京出身の元日本人だが、約七〇年間の仏暮らしですっかり欧米式が染みついている御身である。

 夫アルベールの死後、今でこそ華々しい復活を遂げたリエコだが、それまでの沈みがちな往年の華人を何気なく支え続けたのは、その亡夫に入れ替わり出生した

「うわ! これはないよぉ」

 今もリエコの目の前にいるパットだった。一見、やんちゃを装うその裏で両親の血を色濃く継いだこの異才は、実は父に似て質実剛健をモットーとする年齢不相応の気遣いの人である。賑やかなのは、ややもすると沈みがちなリエコの前だけ。その「絶対美人」を前に「お婆ちゃん」呼ばわりが許されるのは、そんな「やんちゃ者」だけだ。

「パッくんも大きくなったねぇ」

「いーから少しは手伝いなさいよ」

「追い出されたんだよ」

 通りすがりの律を前に、真純は科学誌をめくっては何処か上の空だ。実際は異父兄に当たるこの従兄妹は、今や日本有数の富豪高坂宗家の当主となっていた。

「ちょっとした天才も、プライベートの時は全然ね」

「天才なんてもんは、普通は締まってるネジが結構抜けてるもんなんだよ」

 りっちゃんが普通じゃないんだよ、と言うこの男は、父母が結婚して律が出生した翌年、母の血を引くだけあってハイティーンにして既に日本の弁護士として歩み始めていたその道を惜しげもなく捨て、一念発起して技術者の道を歩み始めた。手始めとして、科学技術を学ぶため、欧州屈指の名門と名高いチューリッヒ工科大に入学するべく婚約者を伴ってスイスへ渡って来た、とは父母から聞いた話である。

 そんな真純と不破家が絡まり始めたのはその四年後だ。真純が大学を卒業後も学内の研究室に残る事になるのと同時に、母の仕事の都合でローザンヌからチューリッヒに引越した不破家は、加えて同時に結婚し長女が出生したばかりの真純一家と一緒に住む事になった。以後、一五年。隠居を仄めかし始めた真純の父利春に絆された真純が、泣く泣く一家ぐるみで日本に帰国するまでのその年月。チューリッヒ郊外の山荘跡地を両家が買い取り、改修した多世帯住宅での暮らしと言うものは、楽しい思い出しかない。

「あぁ。自由奔放だったあの山荘暮らしに戻りたい」

 リエコ同様、泣き言が増えたこの若き当主は、今や高坂重工の若社長にして、AI研究では世界指折りの研究者の一人となっていた。そのきっかけと言えば、フェレールと高坂が共同開発を進める核融合エネルギー実用化プロジェクトの足しになれば、と言う比較的軽い気持ちだったらしい。

 人工的に核融合を起こすために避けて通れない高温プラズマの制御と言う難題において、必須要素と目されるAI技術を学び研究を進めた結果、現職に就くなりそれまで七転び八起きだった同プロジェクトを一挙に押し進めた言う、今や世界が注目する経営者にして研究者兼技術者である。次々に工学的問題を解決し、プロジェクト関連技術で多くの特許を獲得。瞬く間に、後数年もあれば核融合エネルギーの商業実用化が可能なところまで漕ぎ着けさせたこの若き功労者は、この年にして既に、これからありとあらゆる賞勲を総なめにするのではないかと言われていたりするのだが、本人はそうした向きには全く興味を示さず、何処かしらのんびりしたものだった。

「結局高坂の男って、泣き言ばかりねぇ」

「これでも若かりし頃は、女衆に一目置かれてたんだけどねぇ」

 すっかり丸くなったこの異才も、今や四〇過ぎの中年である。

「で、今回はいつまでいられる訳?」

「日曜には帰ります」

 一瞬だけ引き締めた母譲りの凛々しい顔が、すぐに崩れた。色々気鬱らしい。

「今朝来たばかりなのに?」

「フェレール会長の結婚一〇周年のお祝いに託けて、脱走して来たようなもんだからねぇ」

 社長は辛いよ、と嘆息するこの男も、今日が二〇回目の結婚記念日だった。

「——何か、溜息がうつりそう」

 まぁ台所手伝って来るわ、と言った傍から本当にうつったのか、つい嘆息してしまう。若かりし頃は随分とんがっていたこの異才も、長らく不破家と同居した影響からか、何処かしら父に似てしまった一人である。

「とりあえず二〇年おめでとう、って言っとくわね」

 放れ際に祝意を吐いた律に

「そのさばさばしたところ、母さんそっくり」

 似てきたなぁ、と人ごとのように感嘆する多くの肩書きを背負う男にとっても、母はいつまで経っても母のようだった。

 そのまま広い邸内を慣れた足取りで台所へ向かうと、昔の栄華をそのまま残す広い台所内で、何人かが手慣れた様子でてきぱきと晩餐の支度中である。

「え? 五人しかいないじゃない!?」

 思わず叫んだ律に振り向いた五つの顔振りは、先程玄関先に出て来たジローの妻アンヌの他は、真純の妻千鶴とその長女千恵ちえ、それと佐川兵庫助、由美子夫妻だった。

「由美子さん、何やればいい?」

「他の皆さんはどうなさいました?」

「さぁ。そのうち来るのかしらね?」

「とりあえず、玉ねぎのみじん切りを」

「はーい」

 メイド上がりのフェレール夫人アンヌを差し置いて場を切り盛りする由美子は、七〇半ばを過ぎたと言うのに相変わらず切れ味抜群の家政士である。

 高坂宗家で使用人として長年尽くして来たこの夫妻は、定年退職後自由気ままに旅行三昧の日々を送っていた。のだが、母を懐かしんでチューリッヒの山荘に立ち寄った際、スイスの風土や不破・真純両家の暮らし振りが気に入った、とかでそのまま住み着いてしまったのは、両家が山荘暮らしを始めて間がない頃の事である。最終的に三家で一四人と言う、それなりの所帯となった山荘の台所を取り仕切り続けた由美子は、五年前の真純家の日本帰国に伴いもぬけの殻となった山荘を引き継いだ兵庫助につき従い、そのオーナー夫人となった。

「しっかし、間に合うの?」

 後どのくらい何を作るのか「知らないんだけど」と、アンヌが用意してくれたエプロンをかける律が誰にともなく吐くと、

「その他多勢はリモート出演だから」

 と、千鶴が相変わらずの柔らかさで微笑みながら答えた。

 五〇を超えている筈の千鶴も相変わらずで、いつまで経っても清楚で美しい。

 その昔、今のその夫真純から直々に馴れ初めを聞く機会があり、

「小学生の時に猛アタックして婚約したんだ」

 と聞かされた時には驚いた律だったが、今となってはそれも何となく理解出来た。スイス在住の折は、その夫が通う大学に数学講師としてスカウトされる程の才覚持ちであり、家に職場に研究職の夫を随分と助けた千鶴だ。それ程までに千鶴は良妻賢母であり、律にとっては自慢の従姉妹だった。日本に帰国した今では、とりあえず家庭に入って落ち着いているらしい。

「そーか、みんなまだ学校かぁ」

 真純と千鶴は、長女以下五人の子持ちとなっていた。長女以下四女まで女続きで、最後の長男は意地でつくった、とは以前聞いた話だ。千鶴自身四姉妹の長女であり、その自分が築いた家庭もまさに「女流の高坂」を体現してしまった格好に、夫婦共々流石に呆れたようだった。

「下の面々は小中高校ですし」

 学校は休めません、と千鶴の横で、やはり穏やかながらも手だけは如才なく動かしているのは、間もなく二〇歳になる長女千恵である。五年前、中学三年生だった千恵は、一家で一人だけスイス在留を希望しそのまま高校、大学と進学。今では父真純も通った名門大の二年生である。長女以下隔年で弟妹が四人続くその長子の千恵は、千鶴に似て一番大人しく凡庸な形に育ったのだが、ここ数年の才色は只ならない。千鶴も大器晩成だったと言うから、そんなところまで似たようだった。

「流石に大学生は融通効くわね」

「中々大変ですけどね」

 真純と千鶴の五人の子供の中で、律はこの年下の淑女と一番馬が合った。そんな千恵は一家が日本に帰った後、山荘を引き継いだ佐川夫妻の元で高校生活を送ったのだが、大学進学と共に律が住むチューリッヒ市街のシェアハウスへ越して来て、今では一緒に暮らしている。

 今日も一緒に来れれば良かったのだが、律は既に社会人歴数年の多忙な身だ。流石に学生のように融通は利かなかった。特に最近は中々忙しくて、日頃千恵とゆっくり顔を合わせる機会すらない。

「じゃあ、そこまで慌てる事もないのかぁ」

 あの食い盛り共がいないなら、などと嘯く律に、千鶴と千恵が小さく噴いた。山荘時代の晩飯時の食卓と来たら、毎日只ならぬ喧騒だったのだ。

「そうも言ってられませんよ」

 そこへ由美子が釘を刺す。

「お夕食は七時です。ぐずぐずしてたら間に合いませんわよ」

 今晩は特別メニューですし、と言う由美子の横では、夫の兵庫助が「ペルシュ」と呼ばれるスズキ科の淡水魚を確かな手つきで捌いていた。独語圏のチューリッヒでは「エグリ」と呼ばれるそれは、スイスではお馴染みの魚だ。元は高坂宗家の筆頭執事だったと言う切れ物も、今ではすっかり包丁捌きが板についている。その思わぬセカンドキャリアは、由美子と共に山荘で賑々しく暮らし始めた頃から形成されたもので、真純家が帰国後山荘を引き継いだ兵庫助は、その新オーナーとして三年程顧客相手に山荘を切り盛りした。

 が、それも今では別オーナーに譲り、二年前からは妻由美子共々イヴォワール・フェレール家で暮らしている。夫婦で雇われたのではなく、夫アルベールと死別後、寂しく余生を過ごすリエコを慮ったジローに同居をせがまれたのだ。信のおける同居人を探していたジローにしてみれば、不破・真純家のお墨つきと言う日本人夫婦は、願ったり叶ったりと言う訳だった。

 雇われた訳ではない筈なのだが、元職病としたものか。今ではすっかり、夫婦揃って執事であり家政士である。

「お手伝いさん雇えばいいのに」

 と律がぼやくと、

「趣味ですから。好きでやってますもので」

 と言って、周りを笑わせた由美子だった。二〇年弱の西欧での暮らし振りがすっかり板についたこの名家政は、今では和洋食何でもお手の物と言うその腕前で、律の大切な人々の胃袋を満たし、家政の腕を伝授し続けたものである。律にとってこの夫妻は、殆ど祖父母のようなものだった。

 実の祖父母はと言うと、アルベール同様やはり若返り薬が間に合わず、数年前に相次いで亡くなった。年に一度会うか会わないか、と言う日本在住の祖父母とは、正直なところ余り深い絆を築く事は出来なかった。が、機会を見ては、毎年の家族旅行企画担当の父の画策で、真純家共々両家ぐるみで何度も無理矢理帰省させられ続けた事で、思い出としてはそれなりに残っている。

 その帰省前ともなると、何かにつけて圧倒的に強い母が、

「あー帰りたくなーい」

 などと駄々を捏ねては、父に絆される姿が子供ながらに滑稽だった。高坂の祖父母とは何事か確執を抱えていたらしい母だったが、それでも葬儀から初七日の間などは、周囲も憚らず随分父に甘えて慰められる程に弱り果てたものだから、母にとってもやはりその父母は父母、と言う事のようだった。

「趣味は分かったとして、間に合うのかなぁ」

 周囲に言わせると、母譲りの小気味良さと父譲りののんきさを色濃くついでいるらしい律が、ここでは父譲りを発揮してぼやきながらも手を動かしていると、居間の方からピアノの音色が聞こえて来た。

「ったく、ピアノはいいから手伝えってのに」

「まあ、そうは言っても——」

 と千恵が庇うその奏者は、律の年子の妹あきらだ。

 母の気の強さを明白に受け継いだ感性豊かなこの妹は、幼少期からピアノに天才的な才能を開花させ、音大では世界の何本指かに入るウィーン国立音楽大を首席で卒業すると、世界三大ピアノコンクールに次ぐ格付である「ジュネーヴ国際音楽コンクール」のピアノ部門で優勝。更には立て続けに世界三大ピアノコンクールの一つと誉れ高い「エリザベート王妃国際音楽コンクール」のピアノ部門でも優勝し、今や出身地のスイスや国籍を有する母国日本を始めとして、国内外で人気を博する新進気鋭の名ピアニストの一人である。

 今ではウィーンに居を構え、世界中を飛び回っている多忙な身故、

「多分帰れると思うけど——」

 今日この日に合わせてスケジュールを空けている、とは言っていたが、どうやら予定通り戻って来れたようだった。

「お帰り頂けて良かったです」

 アンヌがつい漏らす程、その演奏はすっかり高みに達してしまっており、リエコなどはたまに聴く事を生き甲斐の一つにしている程である。

 その腕は言うまでもないが、加えてそれに勝るとも劣らぬ、母の容姿を余すところなく受け継いだビジュアルでも話題を呼んでおり、その名声はまさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。

 が、決定的な欠点が一つあり、家事と名のつく事の殆どが壊滅的に出来ないとは、このピアノの天才に許されたご愛嬌である。

「まあこの際、玲さんはBGMでよろしいでしょう」

 紛れ込まれるとしっちゃかめっちゃかになりますし、と悪気なくも由美子が呟くと、その場の人間が思わず小さく噴き出した。

 そのBGMと言えば、山荘時代では日常だった。が、今となってはこの美しきピアニストのそれはすっかり縁遠くなってしまい、BGMで聴くなどとうっかり口にしようものなら、世人に怒られそうな程の価値がついてしまっている。洗練された外見に反し、楽しげで着飾らない奏風は昔から変わらない。万人を和ませる力を有するそれは、文字通り音の楽しさの伝道師の如きであり、何処となく父の影を見るようだった。

「じゃあ、耳を慰めながら——」

 現有勢力で頑張りますかぁ、と律が気合いを入れ直したところで、今度は外から凄まじい爆音を轟かす何かが迫って来るではないか。

「あっ——」

「まだあれに乗ってんのかあいつは——っ!?」

 千恵が苦笑いする横で律が顔を顰めていると、玄関ホールから各部屋に至る中央廊下の、その奥まで無遠慮に貫く大音量の排気音に加え、何やらはしゃぎ回る人の声の反響が、玲のピアノの調べを上回る喧騒となって台所まで轟き始めた。

「あぁ——うるさいっ!」

 堪り兼ねた律が、

「説教して来るわ!」

 といきり立って、今度は邸内を玄関に向かって闊歩して行くと、玄関先で一見ラリーで見かけるような派手なペイントの車を囲んで、パットと真純がはしゃいでいる。

「ロッくん乗せて乗せて!」

「へぇ——本物かぁ」

 パットが走り回り、真純が食い入るようにボディーを覗き込んでいるその車は、律の想像したオンボロのガソリン四駆車とは違ったが、左ハンドルの運転席に乗車している男は見間違えようがなかった。

「ロック! うるさいわよ!」

 両手で耳を塞いだ律が顔を顰めると、空吹かしを止めた車の左窓が下がり

「間に合ったらしいね」

 やれやれ、と如何にもマイペースののんびりした嘆息が、男の口から漏れ出たものだった。

「やれやれはこっちの台詞よ!」

 アンタも手伝いなさい! と窓から手を突っ込んで無理矢理車外に引っ張り出したのは、弟一二三ひふみである。名前の漢数字を足しても掛けても合計「六」と言うこの男は、周囲から可愛がられては日本語の「ろく」とロックンロールの「ロック」に掛けて、「ロック」とか「ロッくん」と呼ばれている。普段は一見して、ロッカーとは全く似ても似つかない地味で冴えない男であり、本物のロッカーが聞こうものなら怒られそうなものなのだが。

「何なのよ、この車は!?」

 今時ガソリン車が公道走れんの? と吐き捨てたその明らかに庶民向けしない派手な外見の戦闘的なフォルムの車は、それがついている事が不自然極まりない面持ちで、一応ナンバープレートがついてはいた。

「会長がニューマシンを見たいって言ったらしくってさぁ」

 俺だって被害者なんだよ、と言う一二三は、実は父に似て中々良い男振りなのだが、普段の形はやはり冴えない。その形は、乗りつけた車とは打って変わって、ポロシャツに綿パンと言う素気なさであり、安定的なうだつの低さだった。思えばこの父子はいつも、ポロシャツと綿パンだ。

「ロッくん、エンジンはどうしよ?」

「あぁ、数分アイドリングさせたら切ってください」

 ガソリン車ではなく、水素エンジン車らしい。EV車が定着している世の中だが、二一世紀も半ばを迎えているレース業界は水素とEVが主流だ。水素を直接燃焼させる水素エンジン車の加速性能に対し、内燃機関を抱えずメンテナンスの手間が少ないEV車の構図は、レース形態によって色々優劣があるらしかった。

 真純に何事か扱い方を話しているにも関わらず、構わず邸内へ引きずり込む律に、引っ張られる一二三が、

「お巡りさんに捕まらなくて良かったわ」

 と盛大に嘆息する。

「イタリア北部からアルプスを越えて来た」

 とか

「騒音基準が微妙だったからなぁ」

 などとぶつくさ独り言を吐いては、誰に言ったものか知らないが、何処かしら言い訳臭い。

「ったく、毎度毎度。アンタの口先は景気悪いわね」

 どうしてこう周りの男は一見冴えない連中ばかりなのよ、と呆れつつも律は、一二三を台所へ直行させた。

「あ、俺も叔母さんに挨拶」

「ようやく静かになったんだから後で!」

 通りがかった居間では、玲が楽しそうに弾くピアノに、チェスとパットから解放されたリエコが目を瞑って聴き入っている。それだけでこの二人は、悔しい程に絵になった。邪魔をしては悪い、と足が鈍りそうなものだが、弟はそうした事に鈍い。その鈍さも何処となく父譲りだ。

 小さく嘆息しながらも、そんな弟を無遠慮に引っ張っては居間を素通りして台所へ連れ込むと、早速由美子が駆け寄って来て一二三の外観チェックを始めた。

「今日は油汚れはありませんね」

「まぁ一応、外出着ですから」

「では、石鹸でしっかり手を洗ったら、お手伝いをして頂きますよ」

 言う事を言うと由美子はすぐに立ち去り、またせせこましく調理を再開する。

「久し振りだってのに、他に言う事はないもんですかね?」

 やはり父のような、何処かしらのんきな苦言を漏らすと、待ち兼ねたような他の作り手が一斉に噴き出した。

 年子の妹玲の更に年子の一二三もまた、父母が意地になってつくった長男である。真純家より数年先んじてベビーブームを迎えた父母の間でも、やはり「女流の高坂」の母が影響したらしく、女児の出生が相次ぐと、

「何が何でも男をつくるわよ!」

 などと、母が意地になって力んだらしい。で、

「三人目にしてようやく授かって。ホントよかったわ」

 それを回想しては、口を歪めつつも苦笑気味に、一人二役で強弱を織り交ぜながら当時を語ったいつぞやの父の前で、律は盛大に噴いたものだ。

 賤民の出を公言する父は、不破家の男児に根づく愚鈍の遺伝を気にしていたらしい。しかしてその予感は的中し、青少年期の一二三の体たらく振りは姉の贔屓目をしても目に余るものがあった。が、一家の中で唯一何かしらの確信を持ち続けた母の完璧な飴と鞭により、拙い歩みながらも確実に成長し続けた一二三は、気がつけば真純の研究室に出入りするような学生になっていたものだから、母以外の周囲が刮目したのはほんの数年前の話である。

 チューリッヒ工科大と言えば欧州は言うに及ばす、世界大学格付でも毎年十傑に食い込むような権門だ。日本一の東大が毎年概ね二〇位台である事を思うと、どう言うレベルか理解しやすい。

「私の子だから当然」

 と嘯く母の横で、

「な、何かの間違いではっ!?」

 などと目を丸くして驚く父が、母によってその頬を盛大につねられては悶絶しながら喜んだのも束の間、大器晩成の弟はそれに甘んじる事なく留まらず、今では世界的なレーシングチームのキーパーソンの一人となっている。

「今日は作業着じゃないんですね?」

「まぁ流石に。一応私も社会人ですから」

 と千恵と軽妙にやり取りするこの優男は、四年間の大学生活の殆どを油まみれの繋ぎの作業着で過ごした、と言う変わり者だ。幼少から、真純が機械工学の嗜みを養うために車を弄くり回していたのを一緒になって突き回していた一二三は、母の教導の賜物も相まって大学で知識を獲得すると、既にその時点で十数年の整備経験と、それを上回る玄人域の技術力を携える理論派メカニックとなった。

 大学在学中にWRC(世界ラリー選手権)に参戦中の、今やワークスの巨人「アルベール」にスカウトされて契約すると、昨夏卒業後には本格参加。が、この男の意外性は父に似てメカマンに収まらず、年齢不相応の技術と後づけの知識を持つチグハグな奇才は、既にそれを根拠とした驚くべき運転技術を保有していた。

 で、気がつくとあれよあれよと言う間にテストドライバーとして契約させられてしまったと言うから、人生と言うのは本当に分からない。

「今度は何処に行くんですか?」

「月末にスイスで第六戦」

「あら、凱旋帰国ですか」

 学内じゃ結構話題になってますよ、と千恵が語るこの男は、確かに不思議と周りがほっとけない何かを持っている。天才肌の玲の事は、その経歴を語る上で大した言葉を要しないのに対し、地味で地道な努力型の一二三は、その成長過程を知る近しい人々の中では、いつもバカ話を盛られては丹念に笑い飛ばされたものだ。早い話がぐずぐず煮え切らない泣きべそ男を呈していた期間が長かった分だけ、周囲に愛されたようだった。

「そうは言っても、まだテストドライバーだから」

 とは言うものの、正ドライバーの座を奪うのも時間の問題と言われている。その経歴詳細を知らないその他大多数からすれば、突然降って湧いたWRC界切っての天才的新鋭だ。

 アルベールの遺言の一つだったと言うレース参戦の約束を、ジローはWRC参戦と言う形で果たした。文明が進んだ現世でも、世界にはまだまだ車を悩ます難路や悪路が多い。未開の地でも必ず見かける日本車の如き、高い性能に裏づけられたフレキシビリティーとユーティリティー性の向上を目論んだプロジェクトである。

 汎用車にせよ高級車にせよ使われなくては意味がない。密かに「しなやかな強さと洗練された美しさを合わせ持つ大和撫子の如き車を」などと極々親しい人々に息巻いて進めるそれは、現フェレールグループ会長ジローの肝入り事業の一つだ。それに縁浅からぬ不破家が携われる事は思いがけぬ誉れであり、受け続けた恩に対して微小ではあるが、それでも一二三の存在は確かな恩返しには成り得たものだった。

「しっかし、アンタがねぇ」

 律の記憶では、真純と共に出所の怪しい車を突き回しては、山野で暴走させてケタケタ笑い飛ばしていた二人しか思い出せない。

 まぁ何にせよ、と前置きした律は

「アンタのオンボロ車にせよ、あのレースの車にせよ、大叔母様を驚かせないでよ」

 意外にも慣れた手つきで、包丁のあごを使ってじゃがいもの芽を取り除いている一二三に釘を刺した。

「え、何処か悪いの?」

「全然。至って健康。一二〇まで全く問題なし」

 件の「若返り薬」は処方薬からサプリまで多種多様で、二一世紀半ばを迎えた今となっては、全くそれに触れない人間などいない時代である。リエコが使った物はその超一級品の法外な処方薬だ。効き目も去る事ながら副作用も極少と言うその良薬にありつける者は、今はまだ極一握りなのだが、それが出来るリエコである。

 それに対する世間の見方は辛辣だろうが、周囲に言わせれば影ながらフェレールを、ひいては仏国を支え続け、日仏の良好な外交関係の構築に影響を及ぼした功労者なのだ。当然の役得のようなものだった。

「じゃあ、問題ないんじゃ——」

「だからって、アンタは散々色々心配かけた口でしょうが! それがちょっと上向いて来たからって、まだ海の物とも山の物とも分かったもんじゃないような生業で、そのくせあんなうるさい車乗り回して暴走族か何かか!」

 と畳みかける程に、一二三は本当に何かと周囲を心配させて来た身だ。裏を返せばそれだけ目をかけられ見守られた、と言う事なのだが。対照的に殆ど放任された律にとっては、恨めしい事でもあった。

「うわ。流石にお医者さんは手厳しいな」

 と言う律本人は、既にプロフェッショナルの世界で活躍している弟妹とは明確に一線を画し、手堅く医師の道を歩み始めていた。妹は母、弟は父の遺伝をそれぞれ色濃く引き継いだのに対し、父母を足して素直に二で割ったような、言ってしまえば面白味に乏しい現実的な優等生に成長した長女にして長子の律は、常に何でも器用に出来るおしゃまさんの位置づけだった。

 父母、特にあの母をして「全く手がかからない」と言わしめ、絶対的な信用信頼信任下で堅実な学生生活を送った何処となく冷めた娘は、一二三が通った権門の隣にあるチューリッヒ大の医学部を卒業後、何の変哲もない平凡な医師として勤めている。勿論夢や目標はあったが、やりたい事を単純に純粋に追い続けた弟妹や、父母や周囲の異能異色波乱振りからすると、自分は余りにも味気ない存在であり常に安定的だった。

 で、気がつくと、一家を支えて来たつもりが、いつの間にか何処かしら気を遣われ、支えられ始めている。周りの人々には全く不満はない。それどころか、これ以上はないと言う出来た親族であり、愛すべき人々だ。只、その中で何処かしら劣等感を鬱積させ、密かに歪み始めている自分が余りに情けない。律の不満はそんな自分の体たらくだった。それがいつか、愛すべき周囲に向かうのではないか。勿論今の律にはそんなつもりなど毛頭ないのだが、只それが怖かった。

「ほらほら。手が止まってますよ」

 良くも悪くも、つい目につくチグハグな弟を構っているところを由美子に咎められた。

「本当に、そろそろ本腰を入れて行かないと間に合いませんこと」

「お手伝いさん雇えばいいのに」

 そこを一二三がぼやくと、不意を突かれたようにまた周囲が噴き出す。

「それは先程も、姉上様からご助言を賜りましたが、」

 まだそこまで耄碌しておりませんので、と、一二三の場合だとばっさり切り捨てられるのだ。

 やっぱり——

 自分は気を遣われている、ような。

 俄かにそんな暗さに引かれていると、今度は何処からともなく只ならぬ電子音が耳を突き始めた。

「今度は何!? この超音波は!?」

「直接帰って来たんじゃない?」

「はあ?」

「見た事ないなら見てきたら?」

 続きやっとくよ、と一二三に入れ替わられ、半信半疑でまた玄関先に出て行くと、近づくにつれ電子音と共に風の流れを感じ始める。

 ——何だ?

 まさかUFOか何かか、と気をそばだてていると、外から五歳前後の同じ顔をした可愛らしい女児が飛び込んで来た。

「わっ」

 ジローとアンヌの間に生まれた双子ちゃんである。嬉しそうにはしゃぎながら、あっと言う間に律の目の前を駆け抜けて行き、唖然としていると

「やあ、りっちゃん」

 先程真純から聞き覚えのあるそのフレーズを、玄関から入って来た端正な紳士にまた聞かされた。ジローだ。

「ご無沙汰してます」

 律は瞬間で気を取り直し、深々とお辞儀をした。こちらは大の日本通だ。母と同い年のこの紳士は、還暦を目前にようやく結婚した後ほんの少し恰幅がよくなり、ほんの少し心身共に丸くなった。が、相変わらずのスマートさに加えて近頃はミドルシニアのダンディズムも帯びており、地位や名誉は言うに及ばす好紳士振りでも話題に事欠かない。こんな華のある男が生真面目と来ているのだから、律でなくとも人の不思議を思わされる、そんな御大尽だった。

「まさかUFOでここまで?」

 どうしてこう周囲の人々は常識的な移動が出来ないものか、などと嘯く律に、

「いやぁ、由美子さんに手が足りないから急ぐよう言われてね」

 ジローが小さく鼻で笑う。

 仕事を少し早上がりして、双子を幼稚園から掻っ攫った勢いでそのまま駆けつけたらしかった。そう言えば今日は金曜だ。勤務医をやっていると、不規則で曜日感覚が全くなくなる。と言うことは、

「パットは何で早く?」

 今更ながらにその疑問に行き着いた。

「担任の先生がストライキに参加したらしくてね。あいつのクラスは休みだったんだよ」

 フランスでは、たまにある事のようだ。それで朝一の飛行機で、アンヌと共に来ていたらしかった。

「みんなは台所?」

「え? ええ」

 なら私も手伝いに行くかな、と静かに奥に入っていく落ち着き振りと言い、完璧なスーツ姿の出立ちと言い。殆ど英姿颯爽たる俳優だ。

「あ、一〇年、おめでとうございます」

 その後ろ姿に追っかけで祝意を述べると、歩み始めていた足がまた静かに止まり、こちらに向き直った紳士の頭が下がった。

「ありがとうございます」

 少し笑んだその片手が軽く上がると、また邸宅の奥へ溶け込んで行く。その熟れた所作の前に、自身の未成熟振りを痛感させられる律だった。のだが、何処かしら映画のワンシーンを重ねていた律のその妄想を、

「ったく、何だってのよ!」

 問答無用で乱暴に突き破る容赦ない罵声が、

「あのクソ親父が!」

 玄関先に止まっているラリー車の辺りから聞こえて来るではないか。

「腹が立つったらありゃしない!」

 遥か昔、アナウンサーだった事もあると言う、その聞き間違えようがない滑舌の良さと、凛々しく覇気ある美声は今尚絶好調だ。その口は、高尚な論説を説いては世を圧倒し続ける一方で、時として

「いつかあの『ヅラ』を晒して世間様の慰み者にしてやるわ!」

 などと、只ならぬ暴言を吐いては世間を賑わしたりするものだから、困ったものである。

「何か、今日も怒ってるわぁ——」

 思わず天を仰いだ律だった。

 恐る恐る外へ出てみると、既にエンジンが切られ大人しくなった車の運転席に着座したパットが、嬉しそうにハンドルを左右に動かしているのを、その傍の車外で見守っている真純に、濃青のビジネスドレスを完璧に着熟した美しくも猛々しいアラフォーが食ってかかっている。まるで車と入れ替わるかのようなその大声に、然しもの律も腫れ物に触るように声をかけた。

「ど、どーしたのよ、また?」

「あら、律」

 すると一旦その勢いが収まり、

「元気そうじゃない」

 とケロリと言ったこの女こそ、母真琴である。

「仕事は順調?」

「うん。お陰様で」

「そう。それは良かったわ」

「お母さんは?」

 と、言った瞬間、話の持って行き方を間違えたと悔やんだが、後の祭りだ。

「ぜーんぜん! 腹が立って腹が立って——」

 両手を腰に当てて仁王立ちした姿は相変わらずの女傑振りである。ジローが「俳優」なら母は「大物女優」であり、昔から強く凛々しく美しい母は、常に一家の中心であり、バロメーターであり、燦然と輝く太陽だった。

 律が子供の頃など「永遠に年を取らないのではないか」と揶揄される程の若々しさを誇った美魔女だったが、結局若返り薬の登場により、冗談抜きで年が止まってしまっている。リエコがアラフィフなら母はその一回り下だ。父に言わせるとそれでも少しは老けたらしく、その分良い年の取り方をしたとかで、

「昔より今の方が断然美人で困る」

 のだとか何とか。夫婦間の惚気は放っておくとして、相変わらずの威風凛々にして破裂しそうな程に熱量をたぎらせているこの女傑は、今年で御年六八と言うから娘ながらに驚き以外に形容しようがない。そんな驚異の母親だった。

「パリ出張で駐仏大使と会ったんだけど、これがとんでもない時代遅れのバーコード親父で——」

 ポマード臭がうつっちゃいそうだったわ、などと自らの服の袖を嗅いでは顔を顰める母は、未だに多忙だ。

 ヅラじゃあ——

 なかったか、と迂闊に言いかけた律の前で、母は一人で捲し立てている。最早立腹は放っておくとして、その母がゆっくり在宅していた記憶と言えば、チューリッヒの山荘に越す前の、ローザンヌのログハウス時代だけだった。

 在籍する大学の命を受けた真純からスカウトされた母が、同大の国際関係学特任講師となったのは律が五歳の年だ。それなりの年齢で立て続けに三人の子供を産んだ母の身体を案じた父によって、専業主婦ながら殆どの家事を奪われてしまっていた母が、暇潰しに執筆した小説が目に止まったのだ。

 父をモデルに、

「面白おかしく国家間絡みの波乱を書き殴ってやったのよ」

 と言うその小説は、リアリティとフィクションの匙加減が中々巧妙で、一種の論文めいた内容であり、ストレス解消がてら執筆したらしいそれは、未だ未完で不定期連載中の人気シリーズだったりしている。

「このまま家にいたらカビが生えるわ」

 と、母の講師就任に伴いチューリッヒに引越した一家は、追っつけで佐川夫妻も加わると賑やかな山荘暮らしが始まった訳だが、仕事を再会した母の活躍振りは眩しかった。

 三家による山荘暮らしの生活の基本スタンスは「何でもみんなでやる」であり、これは両親が婚前に打ち立てた「他人の犠牲がもたらす歪んだ幸せを認めない」と言う誓約が起源だったらしい。それをモットーに、家事に育児に仕事に。バタバタする母の快活振りは、まさに不破家の太陽だった。

 母のキャリアをフェレール一家から聞いていた律は、単なる大学講師で収まるとは思っていなかったが、その職員生活は意外に長く続いた。実に五年前までの一五年間で名物教授の座を不動の物にしていた母は、未だに名誉教授として半分学者だったりする。実際何度か、母以外のみんなでこっそり「授業参観」した事があったが、専門性が高い内容なのに分かりやすく面白かったものだ。

「人に物を教えた事がない」

 と言いながらも、その膨大な知識量を持ってして登壇する事の快感と後進を育てる事の尊さを知った母は、家に帰っても何処かしら楽しげで生き生きしていた。父と出会う前は何やら只ならぬ懊悩を抱えていた、とは真純から聞いた話だが、律の知る母はその片鱗を微塵も感じさせない。一家の誇れる顔だった。

 定年間近になっても結局日本国籍のままで、ちょっとした著名人にして事情通の母は、母国日本でもそれなりに注目されていたようだ。そんな識者が長年スイスに在留している事に目をつけた日本政府からスイス大使の就任要請が来ると、何度か固辞したものの結局根負けして応諾。同時に真純家が日本に帰国する事になったため、チューリッヒの山荘は佐川夫妻に譲る事で不破家も同時に親子離れを迎え、楽しい山荘暮らしは終焉を迎えた。

 山荘暮らしは母の輝かしい学者歴でもあった訳だが、それを捨て子離れしても母は母だった。そのやる事の大胆さと壮健振りは、あえて連絡するまでもなく首都ベルンにあるスイス大使館から発信され続けたものだ。

 長年慣れ親しんだチューリッヒの地を離れ、駐スイス大使となった母は、国に拝み倒されて就任した身である事を良い事に「断悪鉄槌」と言う穏やかならぬ強弁で、一大使らしからぬ侠の精神のような物をあからさまに煌めかし始めた。典型的な縦社会の母国体質に飽いでいた母は、以後、国家間の橋渡し役と言う役目よりも、歪んだ国内構造に手を伸ばしてはちょこちょこ騒動を起こす。母が日本を離れて幾年月。相も変わらず島国由来の頑固な保守思想に塗れ、口先だけの国際化を標榜し続ける母国日本。それに対して手始めに突きつけた大使館の現地職員に対する処遇改善要求などは、如何にも母らしい「嫌味」だった。

 母国から遠く離れた物理的には僻地であり、ホスト国からすればウィーン条約に基づく外交特権を有する治外法権の他国である在外公館の特異性は、言ってしまえば万事都合良く取り計らえるブラックボックスである。悪戯に天下国家の浮沈を騙っては既得権益を盛大にひけらかし、それを貪る貴族主義的な官僚以下正規職員の傍若無人振りは、時代錯誤も甚だしい忌むべき旧態。その絶対的優位性を背景に、立場の弱い随時契約の非正規現地職員をいたぶるその構図は、それだけで違法性の臭いに満ちている。

「スポンサー」の遥か彼方で繰り広げられる思いがけないブラック企業めいたその悪逆非道を知っていた元外務官僚の母は、大使に就任するや否や満を持して、日本の弁護士資格を保持し続ける法律家らしく、法に則り目に余る「正規派遣組」を次々処分し始めたものだ。

「母国の看板を背負ってホスト国へ派遣されている役人が、その業務を支えてくれる現地の人を蔑み、その犠牲の上に執り行われる国家間のマネジメントとはどんな関係性を目論んでいるのか」

 痛烈な皮肉と共に本省に迫ったその改善要求と言う名の「旧態の土台」の破壊要求は、事実上の脅迫だった。メディアを介した強力な発信力を手中にしていた母は、民主主義国家の範を示す立ち位置にある世界の日本にあるまじき体たらく振りを

「晒すか改めるか」

 の二択で迫り、結局改善させた話は、その後俄かに他国の業界人も知るところとなった。良くも悪くもその影響力は、拡大の一途である。

「官僚は政治に逆らえないけど、私は違うから」

 民間出身大使が起用される例は昔からそれなりにあるが、ここまであからさまに逆らい賑やかな民間出身者が登用され続けるのは、一言その有能振り故だ。元外務官僚とは言え数年のキャリアしか築かなかった母の位置づけは、只の民間人の識者程度の筈なのだが、スイス大使就任の二年後には、

「今度はジュネーブ?」

「日本も少子化で、人手不足のようね」

 もう総人口一億切ってるし、などと口にしつつも、並み居る官僚を押し退けジュネーブ大使(在ジュネーブ国際機関日本政府代表部特命全権大使)に転任。更にその二年後となる昨春からは、

「ブリュッセルって、まだ次の任地があったの?」

「EU大使(欧州連合日本政府代表部特命全権大使)だって。彼の島国の人遣いの荒さは変わらないわね全く」

 今やあちこちで賑わし放題だ。

 そんな民間出身の元官僚の母は、一応身分としては、国会議員などと同じく特別職国家公務員なのだが、文字通り「歯に絹着せぬ」豪放磊落振りが影響してか、通常有り得ない人事を連発させる日本政府の命により、慌ただしい転任で欧州内を飛び回っている。それは左遷のようでもあり、何らかの期待のようでもあり。どうやらその賛否両陣営の綱引きのようだ。

 そんな水面下の動きなど何ら頓着しない立ち位置の母は、

「首にしたければいつでもどうぞ」

 と言う不遜さで、只のお飾り、頭のすげ替えでは満足しない、しかして立場に執着しないところなどは如何にも母らしい。粗探しをされ続ける旧態側からすれば、まさに迷惑千万の所業だろう。

 真純によるとそれは昔、フェアトレード的観点で家難を招いた反省に基づいた「弱者からの搾取」を嫌い抜いた考え方のようであり、とどのつまりが「他人の犠牲がもたらす——」と言う結婚時の誓約に繋がっているようだ。更に言うと、

「まあ、りっちゃんのお父さんが、そんなだからさ」

 とは、過去を多く語ろうとしない父の何処かを見習っての事、と言う事らしい。普段の父からは、母が範とするような威厳とか信念などは微塵も感じられないのだが。

「あんの加齢臭プンプンのウサンクサオがどの面さげてぇ——」

 クソォ——などと、ローファーのヒールを破壊し兼ねない勢いで地団駄を踏んでいる母は、前任地のジュネーブ勤め時分には、ジローに乞われて佐川夫妻と共に、ここイヴォワール・フェレール家でリエコと暮らしていたのだが、

「久し振りに帰って来たってぇのに、忌々しいったらありゃしないわ!」

 今ではベルギー・ブリュッセルのEU大使館暮らしだ。美しい街並みで知られるその古都を、少しは堪能するつもりだったそうだが、

「あんな能無しが蔓延ってるからこっちに皺寄せがくんのよ!」

 どうやら、そんな暇はないらしい。

 EU日本代表部は、約二〇年前までは在ベルギー大使館内の一角を間借りしていたらしいが、気な臭い安全保障情勢由来の業務拡大で分館独立している。筈が、

「もぉ——毎日毎日袖を引っ張られて腕がちぎれそうだってぇの!」

 とは最近の母の沸騰ワードで、只でも忙しい最中、ブリュッセルに駐在する駐ベルギー大使館やNATO代表部(北大西洋条約機構日本政府代表部)の大使を始めとする職員に押しかけられては、すがりつかれて大変らしかった。国際情勢に明るい事は言うまでもなく、語学学者並みに堪能なポリグリットの母故だ。

 その忙しい母に引きずられるようにバラバラになった不破家は、五年前にチューリッヒの山荘を離れて以来、地球上に実家と呼べる所はなくなっていた。当時既に独立していた律は今のシェアハウスに転がり込んでいたし、年子の玲は既にウィーン暮らしだった。一番下の一二三だけが、真純家の千恵と共に佐川夫妻の世話になる格好で一時的に山荘に残っていた。が、その一二三も翌年には大学進学と同時に入寮し、山荘との縁は切れている。そもそもが、元々「住めば都」的な考え方の父母にとって、住む所はさして重要ではなかったようだ。

 強いて言えば、今となってはここイヴォワール・フェレール家こそが、不破家の故郷のようなものだった。実際に広い邸宅の一角には、行き場を失った父母の荷物が保管されていたりする。その荷物の中には当然、その子供達が残した思い出の品々も紛れ込んでいた。

 そんなこんなで、今では律以下弟妹達にとってもここは故郷なのだ。実の祖父母がいた東京の高坂宗家を訪ねた回数とは比べものにならない程、文字通り数え切れぬ程の回数を出入りしているのだから「名実共に」と言っても過言ではない。その原点を築いたのは母にして、

「お父さんはどうしたの?」

 ここ数年は公私共々、母にべったりつき従っている父だったのだ。が、

「あちゃぁ——」

 それを口にした途端、目の前で延々愚痴を聞かされている真純が顔を顰めて小さく嘆息した。その名はどうやら、今はNGワードだったらしい。

「——に、庭でUFOを点検してるわよ!」

 元はと言えばあいつが、などと更に沸騰し始める母を前に真純が堪らず

「ま、まぁ母さん、みんな手伝いに行った事だしさぁ」

 僕らも行こうよ、とその背中を押しながら、パットと共に邸内に逃げ始めた。その去り際にウインクした真純の様子からして、今は二人を引き合わさない方が良いらしい。

「——やれやれ」

 UFOねぇ、と嘆息した律が庭に足を踏み入れ覗いてみると、それとは似つかない往年のプロペラ飛行機をシャープな近未来系に発展させたような回転翼機が、ようやく各羽根の動きを止めつつあり、超音波の余韻を辺りに漂わせていた。小型の固定翼部分の上にプロペラが四つ上向きに、最後尾に推進用プロペラが一つついている。羽根回りは小型のプロペラ飛行機のようで、キャビンのフォルムは往年のヘリコプターをよりシャープにしたようなその機体は、見るからに機能美を意識した外観をしていた。白を基調とした色彩も合わさった優美さは、白鳥の飛翔形を思わせるようで美しい。

 その周囲や操縦席を甲斐甲斐しく動き回っては、何やら点検めいた事をしている一人の男。

「お父さん」

「おー、りっちゃん」

 先程来、似たようなフレーズで律を呼びやる男達のその根源であるその男は、流石にオリジナルだけあって如何にものんきげに吐いたものだ。存在感薄くぼんやりした独特の浮遊感は相変わらずで、然も足元確かからずの柔和温順なこの優男こそ、父具衛その人だった。

「何、この——ヘリコプター?」

「イーブイトールだよ」

「これが?」

 アルファベットで「eVTOL」と表記される電動垂直離着陸機である。今世紀初頭に登場したドローンは回転翼の世界に技術革新をもたらしたものだったが、今やそれにEV技術が合わさった事で開発スピードは凄まじい。

 イーブイトールは都市内での移動用途、短距離短時間飛行用途の物なら世に浸透しつつあったが、航続距離や推進力ではまだまだ往年の航空燃料で飛行するヘリコプターには敵わない。今ではその燃料もバイオ燃料や水素燃料を用いた機体や、EVと燃料を両方用いるハイブリッドタイプの物も参入しており、回転翼の世界はまさに群雄割拠の乱戦を呈していた。

「パリから飛んで来たの?」

 パリからイヴォワールともなると、いくら空の上を一直線とは言えその距離は五〇〇kmだ。空飛ぶタクシーであったり遊覧用途のイメージが強いイーブイトールでは、到底飛行出来る距離ではない筈だった。それに加えて、一見して一〇人前後は軽く乗れそうな居住性を思わせるキャビンのその大きさはどうした事か。目の前に突如として現れたその飛行物体は、律が知るイーブイトールとはかけ離れており、そうした意味ではまさにUFOだった。

「フェレールの最新鋭機なんだ」

 パリのフェレール本社からジローに乗せて貰い、ジュネーブの東郊外に位置する仏領アンヌマス飛行場に着陸する予定だったそうだが、

「由美子さんに急かされたらしくて」

 直接乗りつける事になってなぁ、と語る父は、まるで人ごとである。

「って、パイロットは?」

「何か急用で乗務出来なくなったらしいわ」

 とは、毎度ジローが使う口実だった。律の出生前、ジローと共にヘリコプターに乗り込んだ父が、嵐の中で墜落しかけたその機体を軟着陸させた、とはジローから聞いた話だが、以来ジローは父の信者らしい。長年レガのドクターヘリ専属パイロットとして活躍した父は、早期退職する前々からその腕をジローに渇望されては、フェレール航空機部門のテストパイロットにスカウトされ続けたものだ。が、結局それは今の今まで実現する事はなく、その代わりと言っては何だが、何かにつけてフェレールの機体を操縦させられていた。

「相変わらずねぇ」

 確かに機体は、ジローが掲げる機能美が反映されたもので、その腕を買う父に任せたくなる、としたものなのだろう。

「まぁ、お陰様で勘が鈍らなくて済むし、運賃タダだし」

 毎度助かってるよ、と父は何処までも何処かしらピントがずれていて、言いたい事を忘れさせてくれるのだった。今は運行後点検中らしい。

「今度はいつまで居られるの?」

「日曜の夕方前までだな」

「相変わらず忙しいのねぇ」

「母さんがな」

 と言う父は、やはり未だに日本国籍であり、今は母専属の現地採用事務員だった。本来は夫婦同一の勤務場所など中々ない人事だが、

「レセプションで大使夫人が列するのと同じ事でしょうが」

 と、大使就任前の母が本省に唯一つけた条件と言うのが、父を同一職場で帯同赴任させる事と来たものだから、この夫婦の仲の良さと来たらいい加減にして欲しいものだ。

 そもそもが、もう十分働いて来た二人である。余生を送れる程には蓄えがある事は間違いなく、もう働く必要などない筈だった。にも関わらず、母はその能力を買われて就いている名誉職のような物だとしても、父の今の待遇は、身贔屓目線を除いたとしても何処か納得出来ない。それこそ母が待遇改善させた現地採用職員であり、給与や福利厚生は向上したものの、ようやく許容範囲になったに過ぎないのだ。身分は相変わらず底辺のままで、それに対する蔑視は拭い切れたものではないようだった。

「折角老後を迎えようってのに」

 スイス男性の定年は今や七〇歳であり、今年六四の父はそろそろそれを気にし始めても良い頃ではある。が、長年レガで活躍した男は母の我儘を聞き入れる格好で、還暦を目前にして職種の路線を派手に変更する事となった。

 以来、大使の母につき従うようになってからと言うもの、日常的に身嗜みに気を遣い始め服装も一新。それまで愛用していたポロシャツ綿パン姿から、世間並みにスーツとまでは行かないまでも、端正なワイシャツとジャケットを着てはビジネスパンツとシューズを履き回し始めた。通常人からすれば、相当遅いビジネスルックデビューである。全ては母に合わせての事だ。

「まぁ、今の時代は長寿だし」

 以前の初老みたいなもんだよ、と律が思った事を父も口にした。初老と言えば、本来は四〇歳を意味していた筈だ。が、今では長寿化した分だけその意味する年齢も、少々後ろ倒しの感がある。それを語った父は、しかして昔の意味のままの初老を体現するような男振りだった。

 そんな男は今は着陸直後のためか、昼間操縦の際にはいつも着用している日除け用のスポーツサングラスをかけたままだ。

「とは言え、結構じじいになったんだけどなぁ」

「それを言ったらお母さんが怒らない?」

 母は父の四つ上なのだから、父がじじいなら母は、と言う論法で何かと揉める事の多い夫婦だった。

「まぁねぇ」

 琥珀色のレンズ越しに湛える相変わらずの穏やかな双眸が、いつもにも増して優しい中にも何処かしら色気を帯びて見えるのは、きっとサングラスのせいだけではない。夏季と言う事でノーネクタイで勘弁して貰っているのだろうが、華奢に見えて実は筋骨逞しい父は暑がりで、長袖ワイシャツ姿が辛いようだ。軽く袖をまくったその姿が何処か粋を感じさせ、着用歴の浅さを思わせなかった。

 シンプルな白のシャツとオフブラックのパンツのその色合いは、相変わらずの地味好みだが一見して清潔感があり、年齢不相応に爽やかだ。どんな物でもさり気なく着熟す父は、ぼんやりした形のくせして、こんな調子で不思議と何処かしら雰囲気を持っている。久し振りの父は、そんなところまで相変わらずのようだった。

「て言うか、何か怒ってたけど」

「旦那のうだつが上がらないからな」

 何でも夫婦格差を、よりによって夫婦の面前で駐仏大使に殊更バカにされたらしい。それに反射で応酬しようとした母を、それより早く父が止めたらしかった。如何にも「その」タイミングを知り抜いている父らしい。

「何で止めんのよっ!?」

「つまらない事で使命を失ってどうするんですか!?」

「侮辱罪の現行犯で常人逮捕してやるわ!」

「公然性がないからダメですよ!」

「なら民事上の不法行為で訴訟起こしてやる!」

「日夜引っ張り凧なのにそんな暇ないでしょう!?」

 侮辱をその場で私人逮捕しようとする母も母なら、駐仏大使の部屋での事であり、不特定または多数の者が認識し得る「公然性」を犯罪の構成要件に求める侮辱罪は成立しない、と即座に制止する父も父だ。

「目が離せないって言ったら、また怒られるんだろうけど」

 ほっとくと脅迫し兼ねないし、と軽く嘆息しながら小さく笑った父は、

「母さんには母さんにしか出来ない仕事がある」

 と言う、母の有能振りを妬むつまらぬ輩の嫌味など、ここ数年の大使生活だけでも「挙げれば切りがない」と呆れた。

「今は辛抱時だ」

 そんな父は気がつくと、いつも母の傍にいる。

「みんなは台所か?」

「うん」

「じゃあ、俺らも行こうか」

 UFOの点検は終わったらしい。最後に操縦席にかけていた仕事着のグレーのジャケットを手に取ると、そのまま片腕にかけた。玄関に向かいながらサングラスを外した父がシャツの胸ポケットにそれを収めると、伊達眼鏡マジックがなくなり記憶の中の朧気で柔らかい眼差しが戻って来る。

「うん」

 記憶をいくら辿っても、その眼はいつも柔らかい思い出しかない。律は、常に安定的で着飾らないこの父が大好きだった。

 律の最も古い記憶においても父はレガのパイロットであり、赤い繋ぎのユニフォームで空を飛び回るその姿は、出来る母共々自慢の父だった。

 母の再就職に伴い、一家でチューリッヒに引越した事で父もレガの同基地に転勤すると、出動要請があればそれを断る条件が限りなく少ないと言うシビアな組織のパイロットであり続けた仕事中の父を、律は図らずもよく見かけるようになった。ピンチになると鮮やかに現れて、時を置かずして颯爽と飛び去って行くその様はヒーローそのものであり、いつの時代の記憶を切り取っても律の誇りだった。その父のヘリを見かける度に、思い溢れる律は飽きもせず、その仕事振りを至る所で人を困らせる程に熱っぽく語ったものだ。

 そうした律の裏で父は一時期、固定翼操縦士への転身を打診された事もあったようだが、結局スイス国内における救急医療の要諦たるヘリコプター救急の意義深さ故に、その道を突き進み極めて行く。その選択の最大の理由は、身近な応援者の目に止まりやすい所で職務に従事出来る事の幸せ、つまり自分の存在が大きかったらしい。ある時それを母から聞かされた律は、その瞬間で将来の自分を見定めた。

 律が医師になったのは、ベタな話だがそんな父の背中を追い求めた結果だ。それも救命救急医を目指した律は、父が現役のうちにフライトドクターとしてレガに入る事を目標としていたのだが、父の予想外の早期退職でそれは実現しなかった。辛うじて医学部時代の研修で、何度か父のヘリに同乗出来た程度だ。

 そのレガを辞める父を前に、

「勿体ないよ、お父さん」

 何度止めたか分からない。が、相変わらず何処かのんきな父は、その雰囲気に反して全く揺るがなかった。

 元を正せば五年前、スイス大使に就任する母に父がつき添わなければ、父と一緒に仕事が出来たのだ。それが父と来たら、そんな自分の思いには見向きもせず。加えてそれによりチューリッヒの山荘を引き払い、事実上不破家の実家がなくなる事になってしまった、と言うのに。更に言えば、それで一家がバラバラになったのだ。

 にも関わらず父は、呆気らかんとしたものだった。

「まぁ母さんとは、そう言う約束だったんだよ」

 とは、書面にもなっていない婚前の口約束だったらしい。それにしても躊躇なく家を引き払うなど、普段の形からは想像もつかない思い切り振りだ。改めて父の行動力と言うか、意外性には驚かされるばかりだった。

 家は良いとして、では「子供の事は良いのか」と迫った時も、

「三人とも十分しっかりしてるだろ」

 と取りつく島もない有様だった。確かに一番気がかりだった一二三も、流石にその頃にもなるとそれなりの社会性を身につけており、母の教導により大学受験に向け堅実な日々を過ごしていたのだから、実際には子供の事は問題にならなかった。

 つまるところ、父があっさり自らのキャリアを捨ててしまったその一事が、その背中を追い続けていた律にとっては衝撃の一言に尽き、責める言葉を吐かせ続けたのだった。

「まぁいい加減、後進に道を譲る時期が来てたしなぁ」

 とは言え、父は二〇年のキャリアで抜群の安定感を誇っており、レガの中で絶対的信頼を勝ち取っていた男である。後進に道を譲ると言う話は確かにあったようだが、その経験を乞われ指導員を兼ねて管制部門で引き続きそのキャリアは続いて行く筈だったのだ。それが今や、特権意識の塊にして旧態依然甚だしい国家機関の出先の、その底辺の小間使いに甘んじているとは。

「お、アルベールのワークスカー」

 邸内に入る前、玄関先に止められたそれに、父がつい足を止めた。乗り物好きの父の事だ。

「間近で見るのは初めてだなぁ」

 などと、感嘆の声を連発しては物珍しそうにその周囲をぐるぐる回り始める。

「ロックが乗って来たのよ」

「イタリア戦が終わって、次はスイスだからな」

「知ってたの?」

「まぁね」

 我が子の活躍は嬉しいもんさ、と父は目を細めた。どうやら情報を追っかけているようだ。妹の玲にしても既にネットで情報が追えるような高名振りであり、際立つのは自分の体たらくである。それは父母の間にしても同じ事が言えた。

 学者にして作家であり今は大使と、その敬称が時に比例して増殖している著名人たる母。対して父の無名振りはあえて語るまでもなく、その差は広がる一方だ。もっとも、世の大抵の男など比べるまでもない母と比べる事にこそ無理があるのだが、それにしても

「お父さん」

「ん?」

「悔しくないの?」

 それは堅実的で地道な生き方をする自分と、華やかな弟妹の構図と同じだった。

「何が?」

「何でバカにされても笑ってられるの?」

 父は、自分の周囲がバカにされる事には敏感で、特に母に関する声にはうるさかったものだ。それは母が旧姓時代、散々な中傷に晒され続けた事に起因するようだったが、逆に母が不破の姓を名乗るようになってからは、その夫婦間格差から父が的になる事が増えたようだ、とは二人を知る周囲から聞いた話だ。しかし父は、自分が言われる分は全く取り合わない。

「笑っちゃいないが、相手にはしとらんな」

 鷹揚な中にも鼻で笑って吐き捨て、俄かに太々しさを見せるこの父の本性を、律は母が執筆した小説で知っていた。

 俗世と隔絶した環境下に身を置き、普段は山村で近隣農家の農作業を手伝いながら晴耕雨読の気ままな生活を満喫する鷹揚な中年の優男は、実は元軍人・元警察官にして両組織で特殊部隊員として活躍した最精鋭だった事で政府に目をつけられ、無理矢理エージェントに仕立て上げられては多くの波乱に見舞われつつも、外見を悉く覆す圧倒的な意外性と破茶滅茶振りで難局を乗り越え任務を全うして行く。

 そんな、シリアスな中にもコミカルなフィクションのその主人公は、

「これ、全く具衛さんだし」

 と、出版された物に目を通した真純をゲラゲラ笑わせたものだ。レガに入る前の父は、一見盤石な組織の中において、複雑で不安定なベクトルに翻弄され、苦労も多かった

「——んじゃないかなぁ」

 とは真純の想像らしいが、極端に外れてはいないだろう。

 その積み重ねた物は未だ何処かに根づいていたようで、二〇年パイロットだった男が今は母の秘書を務め上げている、と言うから驚きだった。母につき従うと聞いた時には正直

「お母さんの身贔屓にも程があるわ」

 などと、まるで何も知らない野次馬を代表するような事を吐いた律だったが、現実として五年経った今でも父は、多忙を極める母を様々な面からサポートしている。基本的なスケジュール管理からエージェントめいた活動まで。まさに一から十までの勢いであり、更にその上専属SPも兼ねている、と言うから俄かに信じ難いのだが。

「まぁ、当然かな」

 と、いつかの真純が、やはりあっさり言ったものだ。

「母さんは、仕事に私情を挟むような人じゃないよ」

 とは、あの母がわざわざ求めた人材と言う事のようであり、身内ながらに過小評価していた自分の見る目のなさに打ちひしがれた律だった。父母は自分を放任する程に信用していたと言うのに。

 それにしても、他の事は百歩譲って何とかなるとしても、還暦を過ぎて専属SPなどと、一体どう言う事なのか。夫婦共々手練れなのは知ってはいたが、それにしてもそれを生業とするような年齢は常識的にはとうに過ぎていると考えて当然であり、むしろそうあるべき年齢なのだ。いくら「若返り薬」でそれなりに筋骨を保っているとは言え、要人警護とは常に神経を擦り減らす程の鋭敏な感覚が要求され続け、老者には向かないものなのではないのか。

 そんな事を悉く覆す父は、それなりに評価されて然るべきだと思うのは、母娘だけではない、と思いたいのだが、世の中はそうではない。

「私は悔しい」

 大切な人がバカにされる事は、先程の母のように我慢ならないし、身内を大事に思うのは何も父の専売特許ではない。それは律も同じだった。

 何より父は、母が地団駄を踏んで立腹する程の逆鱗にして、精神的支柱だったのだ。燦然と輝く一家の太陽である母の傍でぼんやり存在感なく佇む父は、その実で実体のはっきりしない膨大な宇宙のようなものだった。祖父母が亡くなった時にもそうだったように、日頃は絶対的に強いあの母が、いざとなると父を頼む構図は一度や二度ではなかった。時として不安定な感情を露見させる母を、父は周囲を憚る事なく受け止め、窘め、慰めて来た。それが然も当たり前であるかのような振舞に、子供ながらに驚かされ続けたものだ。

 世間が認める女傑が頼む男。その包容力こそ父と言う人間の凄さである筈なのに、それを知らしめる事は一家の秘部を晒す事になる。悔しいがその存在意義の大きさを、その男を中傷する世間に知らしめる術を律は持たなかった。

「そう言うところ、母さんそっくりだな」

 と顔を顰めた父が吐いたそれは、先程も母を良く知るその子真純から言われたばかりである。そうは言われても律からすれば、あのような華々しい世界、弟妹のような高名な世界で活躍するプロフェッショナルたる母とは、何処が似たものやらさっぱり理解出来なかった。

「私はみんなみたいに華々しくないわ」

「スイス史上最年少医が言う事かね?」

 今では世界各国で当たり前になった飛び級制度は、スイスでも日常茶飯事だ。世界には上には上がいるが、とりあえずスイスで何度か飛び級した律は、二〇歳を迎える前に医師免許を取得し、国内では一時期話題になった。大昔の事は知らないが、高度な医療システムが確立された現代の医学界においては、どうもそう言う事らしい。が、それは只「早かった」だけの事だ。

「平々凡々な医者である事には変わらないわよ」

 そもそもが、記録と言うものはいつか必ず塗り替えられるものなのだ。その生業からも、

「早さを誇るような事でもないし」

 そうあるべきではない。

「それは違うな」

 それを普段はのんびりしている父が否定した。父がそうする時は、確固たる何かに基づき発するもので、あの母ですら一目置いている。

「有能な者が早く経験を積めば、それにより助かる命が増える。『一弾指』が命を左右する救急の世界なら早いに越した事はない」

 そのフレーズは「小説の中」の父のコードネームの由来だ。

「まあそれは分かるけど——」

「——ぐずで地味なところは、父さんに似たんだろうなぁ」

 苦笑する父は「派手な車だ」とか独り言ちながらも、相変わらずワークスカーを舐め回していた。

「りっちゃんは、両方に似たからな」

「お陰様で中途半端に小さくまとまっちゃったわ」

 いい加減「ちゃん呼ばわり」はやめてよ、と苦言を漏らすと

「まあ、子供の頃からの癖だから」

 三つ子の魂何とやらだ、と嘯く父は、確かにいつまで経っても玲の事は「あきちゃん」、一二三の事は「ロッくん」だった。もっとも「くん・ちゃん」をつけているだけで、鷹揚な雰囲気ながらも、実はその語彙に弛緩はないのだ。そこは常に何かの「節度」を持つ父なのだから紛らわしい事極まりない。母などは、律の一番古い記憶でさえ呼び捨てにしていたと言うのに。

「三人とも、母さんが産んでくれた大事な子だから」

 恐れ多くて呼び捨てに出来ん、と父の母贔屓も大概だ。どうやら死ぬまで呼び方は変わりそうにない。

「それに三人とも可愛いし」

「はいはい」

「これはホント」

「あ、そ」

 子供扱いに呆れた律が嘆息すると、

「ラリー」

「え?」

「見た事あるか?」

 父が、唐突に言った。

「——ニュースで結果を見るぐらいだけど」

「じゃあSSのダイジェストだけしか見てない訳か」

「SS?」

「スペシャルステージ」

 ニュースで放送されるダイジェストは、大抵タイムアタック中のそれである。車一台分程度の幅しかない狭隘な非舗装路を猛スピードで駆け抜ける様子は、プロドライバーのテクニックの凄さを見せつける。

「SSだけなら、F1みたいにナンバーはいらないんだよ」

 にしては、目の前の車は前後にそれがついている。

「ラリーは、SSの間を移動するロードセクションってのがあって——」

 リエゾンと呼ばれる移動セクションの事だ。一般道を一般車と同様に交通法規を守りながら次のSSまで制限時間内に移動しなくてはならないそれは、違反すれば現地国の警察官に捕まるし、事故やパンクでもして走行不能になれば、SSでいくら良いタイムを叩き出していたとしても失格になる。

「そうなの?」

「ああ」

 これが結構、いろいろあったりするらしい。律は、到着直後の一二三が騒音を気にしていた事を思い出した。

「速けりゃいいってもんじゃないのね」

「そう言う事」

 フェレールの高級車ブランドであるアルベールが、それなりにあるレースの中で、ラリーに拘る所以がそこにあるらしい。

 高級車だろうと何だろうと、走れなくては車とは言えない。しなやかな強さと洗練された美しさを合わせ持つ大和撫子の如き車を目指すのに、専用車両の設計が認められず、あくまでも市販車ベースの車を用いるWRCのノウハウは打ってつけ、と言う訳だった。

「で?」

「俺達は、ナンバーみたいなもんなんだよ」

「はあ?」

「他の三人は車。アクセルを踏めば踏むだけ突っ走る暴れ馬を、このナンバーが押し止める」

 はみとか手綱みたいなもんか、と鼻で笑った父が、他三人がいない事をいい事に

「三人が馬なら俺たちゃジョッキー」

 手綱の持ち真似をする。

「そんな事言って。お母さんが聞いたら怒るわよ」

「母さんは、あれで理解してるんだよ」

 行き過ぎを止めるその存在を信頼しているからこその暴走、と言う事らしかった。

「全く、妬けるわね」

 何年経っても、この夫婦の仲の良さは何なのだ。時として人目を憚らずその内なるものを吐露する様子は、娘ながらに恥ずかしさを覚えたものだったが、父母は全くブレない。

「母さんは華々しく突貫するのがスタイルだから」

 それを支えるのが俺の生き甲斐であり存在意義。それだけだ。と言う父が、小さく笑んだ。

「他人が何と言おうと、自分の人生は自分のもんだ。好きにすればいいんだよ」

「他人からバカにされても?」

「ああ。誰が何と言おうと」

「——ブレないなぁ」

「まぁな」

 こう言うマイペースなところは如何にも父らしい。続けて「それに」と前置きした父は、

「今は幸いにも、理解者がすぐ傍にいるからな」

 と憚る事なく言ったものだった。

「いい加減痒いんだけど」

 そんな父をモデルに母が書いた小説は、実はダブル主人公で物語が展開する。もう一翼を担うのは父をモデルにしたエージェントのお目付役たる女性外務官僚だ。結局は、毎度このお目付役の女官僚が暴走しては、エージェントがそれを食い止めると言う逆転現象がまた面白いのだが、まさにそんなところまで

「赤裸々だなあ」

 と真純が笑ったその夫婦も、今日で結婚二五年だ。

「中途半端じゃない」

「はあ?」

「平々凡々?——冗談じゃない」

 律の自嘲を、父は聞き逃してはいなかった。

「そんなのは事情を知らない上っ面しか知らない連中がほざく世迷言だ」

 と言った父が、続けて思わぬ一言を吐く。

「我が家最強だから、周りのみんなが一目置いてるのが分からんか?」

 律の歪みに気づいていたらしい。そんなところは意外に聡い父だ。

「分かんない。何を根拠にそんな事」

 と突っ張ってみたものの、ここぞの父はあの母をも怯ますそれこそ最強振りなのだ。とりあえず言い返した感が二人の間を漂う。

 常に備えているからこそのゆとりであり「のんびりぼんやり」なのだ。それを知るからこそ周囲は信頼し、抜群の安定感を誇る父に安心感を覚え、その安穏にすがるのだ。それでいて虎視眈々として勘所は決して逃さない。隠爪の凡夫がたまに見せる鋭さ。それに怯まされた母が悔し紛れに

「詐欺師が!」

 と罵るのを何度見た事か。

 では、そんな男が何を「根拠」にそれを口にするのか。

「母さんだ」

 それを父があっさり答えた。

「はあ?」

「あの母さんが手放しで褒める人間が、この世に何人いると思う?」

「いるの? そんな人?」

「お前だ」

「はあ?」

「赤ん坊の頃から全く手がかからない化け物。お前の事だ」

「ちゃん」づけしない時は、大抵「お前」の二人称。それが出る時は、良くも悪くも揺るぎない父だ。

「ぶっちゃけ猪突猛進の母さんと、馬耳東風の父さんは、やっとこさ二人で一役なんだよ」

 その的を得た揶揄につい噴き出すと、父は更に

「それを一人でやってるお前は、俺達に言わせりゃ化け物だ」

 俺が知る限りそんなヤツはお前しかいない、と畳みかけた。

「もう時間の問題だ。覚悟しといた方がいいぞ。それこそ絶対、時間に喘ぐようになる」

 随分持ち上げられてしまったものである。結局は物は言いようで、要するにやはりまた「おしゃまさん」の位置づけではないか。それを、

「化け物って——」

 祖父母と只ならぬ確執を持っていた母が、子育てに一抹の不安を抱えていたとは、それとなく誰かから聞いた話だ。だから腫れ物扱いされ、結果的に遠ざけられたと思っていたのに。まさかこんな所のこんな状況で、長年欲しかった答えを聞かされるとは思いもしなかった律だ。そのせいで、急に何かが迫り上がって来る。

「もう少し言い方ってもんがないの?」

 苦し紛れに悪態を吐くのが精一杯だった。こう言う事で絶対に嘘を言わない父だ。それが周囲から信を集める所以でもある。

「それだ、それ」

「はあ?」

「母さんそっくり」

 律に言わせてみれば、そう言う父は母オタクだった。母のことなら何でも知っている。それ程までに傍で支え続けた母の一番の理解者。それが父だ。あの人嫌い男嫌いの母をその気にさせただけの事はある。

「お母さんも、こんな都合のいい旦那をよく見つけたものね」

「ならお前も早く見つけろ」

「って言われても——」

 中々つまらない男ばかりで、まだまだそんな気には程遠い律だった。父を見続けて来たのだ。その厚みを同年代に求めるのは酷だろう。既に半分諦めている。

「一人二役でやって行けるにしても、やっぱり一人は大変だからな」

「随分とまあ——」

 勝手に決めつけで言ってくれるものだ。それは予言と言うか、

「詐欺師と言うか」

 と漏らすと、突然父が盛大に噴き出した。

「な、何?」

「いや、久し振りに言われたからさ」

 最近は、余り言われていないらしい。

「まぁ流石に。それなりに実績が認められたか」

 と勝手に納得した父は、

「詐欺じゃない。事実だ」

 母さんみたいに袖を引きちぎられる程頼られるようになるぞ、と悪戯っぽく笑むと、今度は自分の服の袖を摘んで来た。

「レガの連中がビビってたよ」

 凄い肝っ玉の据わった新人が来たって、と明かされた律は、この時初めて父が未だに元職場の人々と連絡を取り合っている事を知った。父は近しい人々を除くと母同様「人嫌い」を公言しては、基本的に一期一会のスタンスで濃い人間関係を築いて来なかった筈なのだ。それが、

 何故——

 と言いかけたところで、

「みんな待ってたんだよ」

 また父が、口を開く。

「小さい頃から熱烈なレガのサポーターだった女の子と一緒に仕事をする日を、みんな待ってたんだ」

「別に何も言われないけどね」

 赴任当初に、ちらっと父の娘だと紹介された程度だったのだ。

「そりゃあみんなビビってんだから」

 だってスイス史上最年少医だよ、と重ねて言った父は、

「そりゃ誰だってビビるって!」

 ついにはケタケタ笑い始めた。

「それに、あの母さんが認める逸材だからな」

 結局、それに始まりそれに尽きるらしい。

 医師免許取得後すぐに現場で働き始め、やはり通常にない早さで救命救急医としての実績を積み上げた律は、今春からレガのフライトドクターとして勤め始めていた。

 今日は日勤だったのだが、昼過ぎに早退きさせて貰ったのだ。父母の結婚記念日の祝いだ、と言ったら二つ返事で快諾してくれた。父の名は、未だに職場で通っている。

「みんなの誇りなんだ。お前は」

 家族も、親類縁者も、職場の人間もみんな

「お前がいるから安心なのさ」

「またぁ」

 と言うそれは、父の事ではないか。が、その父が

「いやいや冗談抜きで——」

 もっとゴツくて丈夫なのにした方がいいぞ、とまた袖を指摘した。こうなっては何処まで本気か分からないが、

「ホント母さん、躱すの大変なんだよ」

 袖を引こうとする勢いの手合いを、父が削いでいるらしい。

「そんなに忙しいの?」

「だから袖と言わず、しっかりした服着とけ」

 とは、

「痴漢に気をつけろって事ね」

「まぁそれもあるが——」

 何にでも備えておけ、と言いたいらしい。常備は父のモットーとするところであり、何となくその思いのようなものは素直に感じ取れた。自分にそう思わせる説得力を持つのは、実は父だけだ。

「大智如愚ね」

「そんなところも母さんそっくり」

 俄かに口を歪めた父に、律はまた噴き出した。結局、励まされていた筈が、惚気めいたものを聞かされている。娘ながらに父母の仲の良さには妬けるものだ。

 ——それでも。

 可能ならば。もし母が父と離婚でもしようものならば。代わりに自分が父を絡め取ってやりたい。律の中の父は、そんな男だったりした。が、それはどう転んでも叶わない。どんなに智恵を絞って、いくら様々な枠組みを乗り越える事が出来たとしても、肝心の心根の部分が、父がそれを望まない。

 それは——

 分かり切っている。

「まぁ、分かったんなら——」

 そんな律の心の声と被った父の台詞に一瞬心臓が跳ねたが、

「え?」

 流石にその感情までは読み切れる筈がない、と思いたい。

「いい加減台所に行かないと、本気で後が怖い」

 父が車寄せから及び腰で邸内に入るのを、律は失笑しつつ後を追った。


 三家合同の結婚記念日の宴は、どうにか午後七時に始まった。例年チューリッヒの山荘で、不破家と真純家が一緒に祝っていたところへジロー家も加わるようになり、今ではすっかり三家合同が定着してしまっている。

 とは言え、山荘暮らしが終わってからは、真純家が帰国した事もあって難しくなり、顔を突き合わせての今年のこれは久し振りだ。それでも何かに理由をつけて、山荘の代わりにイヴォワールに集まるようになっていた見慣れた面々は、ダイニングテーブルを囲んでは手慣れた手つきで手送りで皿を回していた。大富豪フェレール家とは言え、イヴォワールの邸宅にはもう使用人はいないのだから、当然と言えば当然だ。普段はリエコと佐川夫妻しかいない生活はすっかり定着しており、人数が増えてもそれは変わらなかった。

 往年の社交向きのパーティーは、生前のアルベールが晩年を迎えてからは全くなくなり、イヴォワールを訪ねるのは極近しい者達だけになっている。それが一度に四家一六人も集まると流石に賑やかだったが、それでも今のイヴォワールでは全て自前だ。自前で出来ないような催し物は、もうしない事にしていた。

「もう見栄を張る時は終わったの」

 と、全てはリエコの意向だ。

 最初の配膳の段階で、ある程度の品は全員に行き渡っている。食事が進めば、後は中央に置かれた大皿から銘々が好きな物を好きなだけ食べる。それでも長方形のテーブルの短辺に座った佐川夫妻が何となく気を回し、中央の大皿を手にすると、

「皆さん、余らせては勿体ないので」

 と言っては手送りの始発点を成していた。由美子から右回りで下座側長辺に手送りされる順番は、一二三、千恵、千鶴、真純、律、パットと渡って、反対側の短辺に座るアンヌで止まり、隣に座るまだ幼い双子と最後にそれを分け合う。片や兵庫助から左回りで上座側長辺へ回る皿は、玲、真琴、具衛、リエコ、ジローと続き、最後はやはり反対側の短辺に座る双子とアンヌが終着だった。

 席次はリエコが上座の中心に位置する以外は決まっておらず、その時々の気分で適当に座っているのだが、いつも似たり寄ったりだ。が、一方で、リエコの左右だけは必ず決まっており、右手に息子ジロー、左手にお気に入りの具衛と言う配置だけは、いかなる時も変わらなかった。どちらもいない時は、人数が少ない時は誰も侍らない。人数が多い時は別の誰かが侍るが、何となく据わりが悪い。今日は左右の二人が定位置を占めているためか、リエコはご満悦のようだった。

 が、それに反比例するかのように、父具衛の隣で母真琴は何処となくご機嫌斜めだ。それは単に、今日の在仏大使館での一悶着に起因するものではないようで、要するところ母の焼き餅のようだった。今にも噛みつきそうな、何やら獣めいた唸り声のようなものを吐き出している母と、それを察してわざと父に接近しては母の感情を逆撫でして楽しんでいるリエコと、その二人に挟まれ苦笑いをしている父がコミカルだ。リエコの妖艶さを母が警戒しているのは、今に始まった事ではないが、齢一〇〇を控えたリエコに未だに焼き餅を焼く母と、それを楽しむリエコと、板挟みの父の構図は今も昔も変わらない。

 思えば母は、昔から父といる時はいつも何処かしらツンケンしていて、傍から見ていて機嫌が悪いのかと勘違いする事もあった。が、それが照れ隠しだと分かると、周囲で気を遣う者は誰もいなくなった。それは二人が、結婚二五周年を迎えた今日と言う日でも変わらない。

 二五年前の今日、結婚した二人のその出会いは、ちょうどその一年前だったとは、密かにジローから聞いて知った事だ。母が日本在住の折に車で山奥を走行中、単独事故を起こした事をきっかけとして始まった二人の関係は、まさに偶然の産物と言えた。たまたま父がその近くに住んでいて、たまたま事故を起こしてうなだれる母に手を差し伸べた事で始まった二人の関係は、母が無茶な運転をしなければ出会う事すら有り得ない間柄だった。それは社会的地位の観点から、母が父に興味を持った事で始まった関係だったと考えて無理はない。それを裏づける要素は、二人が不破姓を選択した事もそうだし、出会った日を結婚記念日に選んだ事もそうだが、何よりも未だに重国籍を認めない日本のその国籍を、頑固に二人が持ち続けている事がそれを物語っていた。

 今でこそ母の仕事の都合でベルギー暮らしだが、結婚後ずっとスイスで暮らし続けた二人は、スイスに帰化しても良い程日本から遠ざかっており、完全にスイスに馴染んでいる。それでも日本国籍に拘る理由は「本籍地」の概念に違いなかった。

 以前、日本のパスポートを申請する際に取り寄せた戸籍抄本で本籍地の存在を知った律が、その縁を確かめるべく迷う事なく尋ねた相手は父だ。母は都合が悪い事に関しては素直でないし、逆に父は臆面もなく話してくれる。その本籍地が、父が母と出会った日に住んでいた山奥の小屋だった、と来れば、その存在を手放したくないが故の日本国籍維持だろう事は最早聞くまでもなかった。

 その日本の片田舎は、帰国した際には父母が必ず立ち寄る、父の親代わりの御大尽が住んでいる故郷でもある。不破家はほぼ毎年夏休みを利用しては、ぐずる母に構わず帰国しており、広島の山奥に住む武智には親子共々可愛がられたものだった。

 何度訪ねても印象的だったのは、武智を前にした父母の様子だ。父は相変わらずなのに、いつも自信をたぎらせている筈のあの母が、いつ訪ねた時も殊勝気で大人しく、ちんまりしながらも懐いている様子が見て取れ、思いがけなく微笑ましかった。その武智はまだ父母の縁の地で未だに息災だ。律以下はもうしばらく会っていないが、父母は今も尚誼みを通じている事だろう。

 そんなこんなもあって、お陰様で律以下不破家の子供達は皆、何となく日本国籍を選択してしまい、律などはスイスから出て住んだ事もないのに、いつまで経っても根底ではよそ者のような扱いに甘んじてしまっている。

 それは何も不破家の子供に限った事ではなく、そんな父母にあやかるような格好で、真純夫妻もジロー夫妻も結婚記念日を同じ日にしてしまったと言うから、最早呆れたものだ。極近しい間柄の内輪の事だが、それでも父母の影響力の大きさは黙って看過出来ないレベルになってしまっている。

 それを知ってか知らいでか、二人は常に二人の世界にどっぷり浸かっているのだ。律に言わせれば特に母だ。いつでも何処でも、内も外もあったものではない女弁慶の母だが、それはいつ如何なる時も傍で支えている父あっての母なのだ。そのくせ普段は文字通りのツンデレと来ている。いないと困るくせに、横にいると何処かしら邪険に扱うその様は「お父さん子」に育った律には許容限界を超えていた。

「ねぇ。お父さんとお母さんは、どっちが先に好きになったの?」

 ほんの一瞬の静寂の間隙を狙い澄まし、対角線上に位置する父母に向けて吐いたその律の一言は、母に繰り出した細やかな説教だった。

「いつか聞きたいと思ってたのよ」

 二五年もすがって生きて来たくせに。礼を口にしている姿を見た事がない。百歩譲って他者の前で感謝を伝える事は難しいとしても、雰囲気ぐらいは醸し出せても良いのではないか。ずっと寛容な父に託けて、自分の殻に籠ってツンデレとは如何なものか。それは余りにも虫が良過ぎはしないか。どうせもう謝意を口に出来ない程天狗になってしまっているのだ。それならば是が非でも、その鼻っ柱を公然と折ってやる、としたものだ。

「それは僕も、是非聞きたいなぁ」

 と、然も思わせ振りな口振りで援護射撃をしたのは、隣に座っている真純だった。

「そんな事、聞かなくても分かり切ってない?」

 加えてしたり顔の玲が、俄かに固まりつつある隣の母を覗き込む。

「分かり切っていても、本人の口から聞くのはまた話が別なのよ」

 リエコの一言が止めだった。周囲の見解は一致している。

「な、何よ。示し合わせたような事言って」

 それまでツンケンしていた母が、予想通りの反応でうろたえ始めると、

「そんなもん、父さんに決まっとるだろが」

 父がやはり、臆面もなく母を援護する側に回った。これも予想通りの反応だ。が、それはやはり周りも同じだったと見え、

「それじゃあ当たり前過ぎてつまらんな」

 普段は堅物のジローが、予想外にも異を唱えた。

「当たり前も何も事実なんですから、つまるもつまらないもないですよ」

 分が悪い様子があからさまに露見する父には悪いが、どうやら周囲もこれには思うところがありそうだ。

「三家の結婚記念日の根幹になった二人の事だしさ。今年はどの家も節目だし、その影響力って結構責任重大だと思うわけよ」

「責任って何よ責任って——」

「二五年だし、そろそろ馴れ初めの一つや二つ、聞いたところで罰は当たらないと思うけど?」

 律の毅然たる声に、父母以外の席から拍手が上がり始めた。

「それは真純やジローが勝手に記念日を一緒にしただけで、我が家とは関わりない——」

「ファーストキスは、どちらからアクションかけたの?」

 母と言い争いになって適う者などいない事は、ここに集まっている者の中では常識である。律はそれを上回る興味で被せて捩じ伏せた。父母が途端に苦虫を潰したような顔をするのと同時に、それ以外の圧倒的多数が色めき立つ。

「——え、えぇと」

「ちょ、ちょっと何本気で思い出そうとしてんのよっ!?」

 生真面目な父を小突く母の前で失笑が漏れる中、

「うちは僕だったかなぁ」

 追い討ちをしたのはやはり真純だった。

「ねぇ? 千鶴さん」

「そう、でしたでしょうか?」

 うふふ、あはは、と真純夫妻の明け透けな開示に、

「我が家は、私だったな」

 思いがけなくジローが乗って来た。

 堅物の予想外の暴露には周囲も驚き、顔を引き攣らす向きの父母と、感心を示す向きのその他多数に二分する中で、アンヌが耳を赤くして俯く。

 これは——

 正義は我にありだ。でなくては真純はともかく、堅物のジローが乗って来る筈がない。後がなくなりつつある父母は、それでも息を潜めて周囲の反応を伺っては、潮の変わり目を探っているようだ。

 そうはさせじ——

 だ。

「じゃあさ——」

 次の一言は、早めに殻を破った方が身のためだと言う事を突きつけるには十分だった事だろう。

「プロポーズはどっちがしたの?」

 その声はしっかり父母の耳に届いたようで、それぞれの口から唸り声とも舌打ちとも取れる音と共に、それぞれが目を逸らし頭を描き始める。二人がぐずぐずしている間に、やはり真純とジローが、

「僕だったなぁ」

「私だ」

 あっさり答えてしまうと、堪りかねた父が口を開けた。

「待ちなさい!」

「んが」

 が、それを横の母が年不相応の素早さで羽交い締めにして口を塞ぐ。父の間抜けな声が漏れると同時に母が耳打ちすると、ぎこちなくも父が二度頷いた。回答を少し待ったが、返答はない。

「保留って事ね」

 どうなっても知らないわよ、と悪戯っぽく微笑んだ律は、

「プロポーズの時のシチュエーションは?」

 構わず突っ込み続けた。

「二〇年前の六月、婚姻届を出す数日前の夕方だったな。チューリッヒの家で。大学卒業と研究室残留が決まって、帰宅直後にプロポーズした。——僕の我儘で待って貰ってたからね」

 この場の大半は、真純夫妻が真純の学士取得まで結婚をずらした理由を知ってはいる。あくまでも真純自身が確かに稼げる目処がついてから、と言うけじめのつけ方は几帳面な真純らしい一方で、意外だったのはジローだ。

「私は一〇年前の結婚記念日の前日だった。居ても立っても居られず会社をすっぽかして、パリから飛んで帰ってね。昼食の準備中だったか。その背中に向かって——」

「あー、それはまた後で」

 勢い余る程、それでも淡々と語るジローは今でも情熱的だった。

 イヴォワール最後のメイドだったアンヌは素朴で凡庸な人ではあったが、嫁の貰い手がない訳ではなかった。飾り気はないが清楚な為人は、まさにジローが言ったように父を女にしたような熟れ具合で、その実近隣では結構モテたらしい。それでも長年フェレールに尽くす生活でジローに想いを募らせてしまったアンヌは、余りの貴賤差に怯み、花盛りが過ぎてもそれを告げる事はなく。結局メイド最後の日を迎え、翌日には修道女として仏国内の修道院に入る予定だった、とはアンヌ本人から聞いた話だ。それを寸前で止めたのが還暦前の堅物男だったと言うから、周囲では知らぬ者などいないのだが、それでもその詳細は明かされていない。

「じゃあさ、言葉は?」

「『お待たせして済みませんでした。今更だけど、結婚してくださいと言ってもいいですか?』だったかな」

「『行かないでくれ。どうしても出て行くなら、恥を忍んで結婚を申し込む。それでも出家するなら修道院まで押しかける。押しかけ続ける』って、殆どストーカーと言うか脅迫と言うか。あれで良かったのか——」

 やはり即答する二人の横で、それぞれの伴侶は少し恥ずかしそうでいて何も言わない。記憶が合致しているのだろう。

「どんどん答えが滞ってるけど大丈夫?」

 夫婦生活が一番長い家らしく何かと範を示すものと思ってたけど、と嘯く律の前で父母は揃って息を潜めている。母を懲らしめるつもりが父まで煽りを食らったのは少し悪い気がしたが、概ね律が目論んだ展開には事が進んでいた。

「余り甘く見ない方がいいかなぁ」

 それを見透かしたかのように、隣の真純が呟く。

「え?」

「あ、雨だなぁ」

 律の小さな疑問をさり気なく躱した真純の声に、釣られた周囲が何となく外に目を向けると、夏至間近の外はまだ薄明かるかった。その雨粒の一つひとつの大きい事が十分見て取れ、その一滴一滴が窓を強く打ちつけている。何処となく「予報と違う」と言う声が上がり始める中で

「降ると思ったよ」

 確信的に漏らしたのは、息を潜めていた父だった。近辺を飛行中、上昇気流と湿気を感じていたらしい。

「それに、今日だから」

 とつけ加えた父の横で、同じく外を見ていた母が、小さく反応を示した。

「あの日もよく降った」

「——そうね」

「あの雨がなかったら、今のこの状況は絶対に有り得なかったなぁ」

「何よ、みんなの前で」

「もうみんな知ってますって」

 瞬間で目を剥く母の横で、父がその逸話を拡散した張本人達を牽制するかのように、ジローとリエコに微笑むと、二人がとぼけた調子で目を逸らす。

「何でこの二人が知ってんのよ!?」

「私が話した事があるんですよ」

「ちょっ!? 何それ!? 初めて聞くんだけど!」

「そうでしたっけ?」

「そうでしたっけって、何だって人の黒歴史晒してんのよ!」

「そうでもしないと、結婚前のあなたと私の関係性をフェレールご一家に理解してもらえなかったんですよ」

「結婚前って、いつの話よそれっ!?」

「だから結婚前の話ですよ」

「何だその頓智はっ!?」

「頓智じゃなくて事実ですよ。事実は一つ。法律家の格言でしょう」

「それならそうと教えてくれてもいいじゃないの!」

「結婚前はドタバタしてて、忘れてたんですよ」

「忘れてたって、随分あっさり言ってくれるわね!」

「忘れてた事を言い訳しても始まらないでしょ!」

「それじゃあ悪気がなかったら何やっても許されるって事になるじゃないの!」

「そう言う意味で言ったんじゃないですって!」

「じゃあどう言う意味よっ!? 何よやろうっての!?」

「いや、やりませんけど、何か無理矢理喧嘩越しになるのはどうかと思うんですけどね」

「無理矢理じゃないわよ!」

 延々ぐだぐだと。言い合いも相変わらずだ。当然慣れている周囲は誰も止めようとしない。いつも決まって、父が引き下がって終わるからだ。そもそもが、毎回母の一方的な噛みつきなのだから、勝負も何もあったものではない。口達者の母に適う者など周囲にはいないのだ。だから原因が何であれ、沸騰する母を宥めるのは良くも悪くも父の役目、と言うのもお決まりだ。が、

「いでででで」

 父が突然上げた悲鳴で全員が我に返ると、母が父の頬を盛大につねっては、何やらウインクしてわざとらしい目配せをしているではないか。只、父にその意は伝わっていないようで、口論に感けてうやむやにしようとする母の戦略だったようだ。

「騙されないわよ」

 ぴしゃりと律が言うと、

「ちっ」

 と母が悪態を吐きながらも、父の頬から手を放した。

「ホント鈍いわね」

「堂々と言ったら済む事でしょう。減るもんじゃないし。こんなん姑息ですよ」

 相変わらず地味に痛い、と頬を摩る父に、

「私の中では減るのよ!」

 相変わらず母は容赦ない。

「もう他に手立てはないと思いますけどね」

「しっ!」

 黙ってりゃそのうち話題が変わるもんなのよ、と勢い余って鋭い耳打ちが全員に聞こえているのが如何にも母らしく、つい何人かが同時に噴き出した。それを見た母が、また舌打ちして苦虫を潰す。

「もぉ——耐えられないわ!」

 癇癪のやり場を失った母が席を倒す勢いで立ち上がりかけたのを、横の父が片手でその肩を押さえつけて制した。

「ちょっ!? 放せ! つき合ってらんないわ!」

「いいから座りましょうよ。大丈夫ですから」

「何が大丈夫よ!? 冗談じゃないわ! 人の秘部を晒すような暴露話なんて」

「ここで逃げたら、もう席に戻って来られなくなりますから」

 母がヒートアップして行く中で、父はやはり相変わらずでいつも敬語だ。律はついこの瞬間に至るまで、父が母にタメ口を使ったのを聞いた事がなかった。父の事だ。きっと夫婦二人の時も変わらないのだろう。その鷹揚さに反してそれでも父は、じたばた暴れる母をしっかり掴んで放さない。

「いいから放っといてよ!」

「そうは行きませんよ。主役が消えてどうするんですか」

「主役の扱いじゃないでしょうが!」

 バカにして! とついに立ち上がった母に父は追いすがり、勢い余って抱きついた。まではまあ許容範囲だとしても、そのまま取っ組み合いの応酬にもつれ込んでしまっている。

「ちょっといい加減に——」

 流石に呆れた律が言いかけた途端、その取っ組み合いを制した父が、ついには周りを憚らず母の口を吸い始めたではないか。

「あ——」

 つい言葉を失い絶句する律を始め、呆気にとられる周りをよそに

「な、何すんのよっ!?」

 母の、幼児の如き拙い拒否反応が手口から繰り出されては、父の顔を打つ音が何度か辺りを包む。が、顔に引っ掻き傷をつけられながらも父が粘り勝ちしてしまうと、口を吸われ続けた母に、拒否の中にも声に顔に艶っ気が混じり始めた。そのくびれた腰が、惚気のために立位を保てなくなったかの如く力を失い、その引き締まった美尻が脱力気味に椅子に滑り落ちる。そして凛々しさを誇るその顔が、いつになく恍惚めいて上気していた。

 当然初めての光景であり、何やらこれはこれで、秘部を覗き見てしまったかのような。見てはならぬものを見てしまったようで、周囲も声が出ない。

「あらまぁ——」

 呆れたと言わんばかりの声を上げるリエコの横で、その母を晒すまじとした父が素早く隣に座り直す。その顔を自分の首筋に押し当てるように抱えると、心得たようにその髪を何度となく撫でつけ始めた。すると、興奮とも放心とも見て取れる母が少しずつ息を整え始め、見るからに身体に纏わりついていたおこりのようなものが取れて行く。みるみるうちに落ち着きを取り戻す母は、まるで大人しく飼い主に懐く猫のように丸くちんまりとして、いつになく可愛らしかった。

 その傍で、父は終始泰然として揺るぎなく。周囲に構わず淡々飄々として、堂々としたものだ。

 これが——

 きっと、この夫婦の、

 ——正体。

 なのだ。

 それを暴きに行ったつもりが、いざそうしてみると思いがけない動揺に戸惑ってしまっている。

「全ての人が、見た目通りだと思わない事だな」

 思い出したかのような父の、誰にともない一言が律の何処かに深々と刺さった。夫婦の秘部を暴いたかのような後味の悪さが押し寄せる一方で、間近で何かの劇か舞台でも始まったかの如きだ。周囲は周囲で、未だ目を剥き口をあんぐり開けて呆気に取られている。

 年こそ重ねて来た二人だが、見た目はナイスミドルにして美魔女なのだ。その絵になる程の振舞は、結局のところそれをリードした父の独壇場だった。爽やかさと言い雰囲気を飲み込む据わり具合と言い、土壇場になると得体の知れない箔を纏う父のそれだ。

「俺と母さんは、周りのみんなのお陰様もあってこれでも結構仲良くやってる。夫婦の形は夫婦の数だけあるもんだ。何の思惑か知らんが、それを体良く追い詰めて暴こうとする向きは感心しない」

 その言葉の毅然さに反し、いつになく縮こまって丸くなっている母の、その赤い髪を撫で続ける父の穏やかな顔がチグハグで、でも魅入られてしまう。

 母の日本人らしからぬ赤く美しい髪は、未だに一見して白髪が見当たらない。それでも流石に少しは染めているようだが、意志の強さを表したかのようなショートカットは律の古い記憶から変わらず、いつも軽やかに活発な動きを見せていたものだ。その母が、父にすがりついて大人しく頭を撫でられ続けるそれは、そう言えば高坂の祖父母が亡くなった時にも見た光景である。あの時は、ここまであからさまではなかったのだが。

「どうだろう。今日はこんなところで堪えては貰えんだろうか?」

 堂々と母を撫でる父の手が、見るからに優しさに溢れていて妬けて来る。

「——分かったわよ」

 ひょっとして「してやられた」格好だ。少し拗ねた様子の抵抗しか出来ず、罰が悪くなった律は目を逸らさざるを得なかった。これでは、弱い者いじめをしているいじめっ子の構図ではないか。

「やっぱり、雰囲気作られちゃったね」

「う」

 真純が呟いた時には、先程まで背中を向けて丸まっていた母が、瞬間で座り直してグラスを呷っていた。それは昔から母が愛飲して止まないハーブのベルモットであり、長年を共にして来たエナジードリンクだ。あれを飲まれてしまっては、母はすっかり元通りと言う事だった。

 やっぱり——

「してやられた」ようだ。

「あの二人、海千山千だからねぇ。今の主戦場はよりによって外交の場だし。手強いよ」

 昔からいざとなるとあの二人には敵わないさ、と真純が白旗を揚げる様子に律が毒気を抜かれていると、

「結局、二五年間熱々の夫婦がどんなもんかを見せつけられただけね」

 リエコが嘆息しながらぼやいて、その場を畳んでしまった。


 二日後。日曜の昼下がり。

 律は居間で帰り支度を整えていた。

 弟妹と真純夫妻は午前中のうちに、それぞれの身の置き場へ戻って行った。皆、世界を渡り歩いている忙しい身だ。残っているのは、庭先に駐機されているUFOで、父の操縦により夕方前にパリへ戻る予定の父母とジロー一家だけだった。学生の千恵ですら、学業を気にして一二三の乗って来た「派手な車」に同乗し、チューリッヒへ向け帰ってしまっている。ぐずぐず残っている自分だけが、何だか格好がつかなかった。

「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

 言いながらアンヌが、ソファーで横になって昼寝しているパットにタオルケットをかける。その前のテーブルには、パットの手番で止まっているチェスボードがあった。昨夜も随分遅くまでつき合わされたのだ。然しものチェスの名手もそこはまだ幼さが見え、睡魔には勝てないらしかった。何せ、手加減すら見抜いてしまう手練れなのだ。長時間本気で対局を強いられ、大人の律ですら疲労感を覚える始末である。無理からぬ轟沈だった。

「『封じ手』と言う事にしておきますね。次に会った時怖いですから」

 本来ならば封じ手は手番の者が次の一手を記録して封じるものだが、手番者が寝てしまっているのだから仕方がない。苦笑いの裏で、このちょっとしたチェスの天才との対局のために足止めされていた、とするならば、

 ——少しはカッコがつくかな。

 と密かに自嘲する律は、目が覚めて駄々を捏ねられる前に退散するべく、手早く荷物を纏めた。

「では皆さん、またお会いしましょう」

 居間に集まっていた主たる残留者に小声で叫ぶと、銘々が手を挙げたり小声で返事をしたりする中で律が居間を後にする。その後を何も言わずに父母がついて来た。

「どうしたの?」

「門を閉めておかんといかんだろう」

「自動じゃないの?」

「閂するのよ」

「あ、そうか」

 今日、正門から出るのは律が最後なのだ。それがまた追い出されるかのようで、勝手に小さく嘆息した。そうではない事は分かっているのだが、自分の何処かの部分が勝手に弟妹と比べては僻んでいる。そんな小さい自分の何処を、父母が一目置いていると言うのか。口で説明されたところで自分自身が納得行かないのだから、理解出来る筈もなかった。

「でも、二人がかりでするような事なの?」

「ああそうだ」

「アンタに似て捻くれてんのよ、この門は」

「あらそうなの」

 こんなやり取りも、もうしばらくお預けだ。独り立ちから数年になるが、父母と同じ空間で語らうなど、本当に少なくなってしまった。昔はそれが当たり前だった、と言うのに。たまに会ったら会ったで、憎まれ口や軽口の応酬ばかりしている。

 後、どのくらい——

 この父母と一緒にいられるのか。ぼんやりそんな事を思っていると、目の前に門があった。

「見送りどうも」

「素気ないな」

 父が即答すると、

「あなたに似たんだからしょうがないでしょ」

「いやいや、このさばさば感はあなたでしょ!?」

「何言ってんのよ!? この淡白感はあなたよ」

 また俄かに言い争いを始めるではないか。

「はいはい、喧嘩する程仲が良いのよね」

 ばっさり切り捨てると、

"そんなんじゃない"

 二人が声を揃えて否定した。

「って、思いっ切り息が合ってんじゃないの!」

 思わず噴き出した律を前に、苦笑いする父とツンデレの母だ。大概にしろと思ったものだが、そう言えば、

「まだ、言ってなかったか。——二五周年おめでとうって、とりあえず言っとくわ」

 それをまだ、直接伝えていなかった事を土壇場で思い出した。こう言う時、

「ああ、ありがとう」

 父は素直だ。が、母は、

「とりあえずって、アンタも大概としたもんだけど、フェリーの時間は大丈夫なの?」

 いつもわざと斜め上を行く。

「大丈夫。今日中に帰ればいいから」

「そう」

 と言うそれは、照れ隠しに他ならない。そのついでに

「二人は、パリからどうやって帰る訳?」

 まさかそのまま大使館までUFOとか、などと聞いてみる。

「そうよ」

「んな訳ないでしょ!?」

 騒動になりますよ、と慌てた父が訂正した。車らしい。

「って、三、四時間かかるわよ?」

「でもまあ、殆ど自動運転だからな」

 自動車は自動運転技術の普及が進み、一昔前のようなひどい渋滞は鳴りを潜めるようになった。移動に時間計算が出来るようになった上、一般車の燃料は脱炭素化が進んでいる事もあり、自動車由来の交通事故や大気汚染は激減している。最早車は、運転疲れをする物ではなくなっていた。

「公用の後に私用が絡んでたから——」

 色々突っ込まれるのが面倒、とは如何にも特権意識を嫌う母らしく、

「——パリまで『アル』で来たのよ」

 お馴染みの「愛車」で来ていたようだ。

「元気そうね、アルも」

 我が家の車は代々、アルベールから送りつけられる物が定番となっていた。が、車は変わってもナビは変わらず、その頭脳は膨大なデータと知識を蓄積し続けている。山荘暮らしの頃はSUVタイプだったが、今は夫婦二人暮らしに戻った事で、この度の車の「交換時期」にスーパースポーツクーペにしたらしい。何でもそのタイプは、母が並々ならぬ思い入れがあるらしかった。

「宜しく伝えといて」

「ああ、分かった」

 不破家の生き字引である中性的な電子音声が懐かしい。その主に尋ねれば、大抵の事件は答える事が出来るそうだが、それは母の厳命で禁止されていた。優秀なAIは「ご主人様」の言いつけを破った事がなく、その生真面目は一体誰に似たものか。ナビの趣味まで何処かしら、父に通ずるものを見るかのような。そんな母の長年の相棒だ。

「アルに聞いてもいつも教えてくれないから、直接聞いてみたいんだけど?」

 それに託けて、日頃中々口に出来ない事を口にしてみた。

「二五年も仲良しの秘訣は?」

「そんなもん——」

 それに瞬間で反応するのは、やはり父だ。

「——好きこそ物の何とやらだろうが」

 言いながらもその手が母の手を握ろうとするのを、受け手の母が瞬間で躱してその腕を決める。

「あたたたたっ」

「全く。図々しいにも程があるわ」

 結局、今回のイヴォワールでの母は、表向きにはずっと不機嫌だった。身内とは言え、あれだけ晒してしまったのだ。その後嘘のようにケロっとしていたものの、母にしてみればやはりそれは恥辱の一言に尽きた事だろう。元々プライドの高い人である。特に、思う様やらかした父に対しては容赦なかった。

「じゃあ、お母さんは?」

 父の答えなど、ジローではないが分かり切っていてつまらない。やはり、母の底意が聞きたかった。

「私!?」

 その瞬間、話を振られた母が、二日前の宴席とは違った真摯な問いかけを察したようだったが、それでも忌々しげに顔を顰めて見せる。が、舌打ちした後吐き捨てるように、

「右に同じよ」

 目を逸らしながらも口を動かすと、同時に決めていた父の腕を緩めた。

「操縦に支障が出たらどうするんですか!?」

「年甲斐もなく間接が柔らかいから、加減が難しいのよ」

 痛がる父に「いつまで経ってもタコよね」と追撃する母は、やはり容赦ない。

「もう見てらんないから、そろそろ行くわ」

 またね、と振り返ろうとすると、

「律」

 母が呼び止めた。急転してその声はフラットで、表情も真顔だ。

「何?」

 その思わぬ変わり身に驚く間もなく、

「アンタ、僻み癖治しなさい」

 母が直球で被せた。

「でないと偏屈に苛まれるようになるわよ」

「昔のお母さんが、それでお父さんを捕まえたんなら、是非それにあやかりたいんだけど」

「バカ」

「大丈夫だ」

 俄かに母が気色ばむのを、横の父がさらに被せた。

「大丈夫」

「何が?」

「そのまま、思うままに突き進め」

「はぁ?」

 母が真摯になり始めたかと思うと、今度は父が斜め上を行くような。まるで水と油のように混じり合わない。どちらかがアクセルを踏めば、もう一方はブレーキを踏む。こんなのも相変わらずだ。

「どっちなの?」

 何かにつけてチグハグなのは、父の得意技の一つである。思えばそうだったからこそ、家庭内は何処か寛容的だったのだ。それはゆとりであり多様性であり。多分に家風に影響をもたらした「チグハグ」だった。

「お前に怯まないヤツを見極めるためにそのままでいろ。そうすれば、いずれ理解者が現れるもんだ」

「にしては、二人は素性を隠したまま親交を温めたんでしょ?」

「ちょっとぉ!? 何処まで喋ってんのよぉ!」

「いやいや! 私は遥か昔に一回だけフェレールご一家に話しただけですよ!」

 こうなってしまっては、父の断末魔は母には通じない。やはり腕を決められてしまった父は、顔を顰めてまた悶絶し始めた。

 両親が通り名で愛を深めたとは、リエコやジローから聞いて知った事だ。確かにそうでもしないと昔の母の立場に、賤民出を称する父のような庶民が寄りつける筈もなかったのだ。とはつまり、母が積極的だった、と考える事にやはり無理がない。律が脳内で丁寧に証明を解いていく中で、

「このっ! このっ!」

 母は得意気に父の左腕を決めている。プロレスの関節技のようなそれは、母お得意の合気道なのだろうが、父は本気で躱せないのか

「ギブギブギブギブっ!」

 苦笑しながらも絶叫していた。

「ふん!」

「本気で外れそうでしたよ!」

 鼻息荒くもようやく緩めた母に、堪らず本気で抗議する父だ。が、

「目の前に名医がいるから大丈夫よ」

 脱臼ぐらい訳ないでしょ、と嘯く母は、

「ねぇ?」

 悪戯っぽく微笑んだ。

「もう見てらんないからいい加減行くわ」

 長らく欧州に暮らしながらも、律は母が他人に触れるのを見た事がない。徹底してハグを嫌い、精々握手レベルが限界のようだった。それは家の内外問わずそうで、律ですら母に受けたスキンシップは遥か昔の幼児時分が最後だ。が、今目の前で左肩を摩っている父だけは例外だった。

「そう言わずにちょっと診ていけ」

「何大袈裟な事言ってんのよ」

 そんなに強く決めてないわよ、と父の身体だけは人目を憚らずベタベタ触れる母は、その肩を診ては「問題ないじゃない」などと眉を上げながらも、それを摩っている。この小難しい母に理屈抜きで許された存在。それが父だった。

「ホント仲良いわね。いつまで経っても」

 先程来、痛々しくもよく動く二人のその手首には、その手際の争い事に反してお揃いの腕時計がつけられている。二五年前、ジローから結婚記念品として贈呈されたと言う一見地味で武骨な灰色のそれを、二人は大事に使い込んでいた。律は、二人がこれ以外の腕時計をつけたところを見た事がなく、それどころかどうやら他に腕時計を持っていないようだ。外出時に必ずつけているそれは、二人にとっては結婚指輪に準ずる物のようであり、どうやら不文律のようだった。

 そんな想いを形にしたような物を手につけての小競り合いなど、茶番にも程があるとしたものだ。で、満を持して、

「父親が子供達のために出来る事で、一番重要な事をやってるだけだ」

 父が好きなセオドア・ヘスバーグの格言が出て来るのだ。何度聞かされた事か。

「アンタも早く見つけなさい」

「『も』と来たか」

 結局父は、この小難しい母を手懐けてしまった、と言う事だ。

「今は仕事でそれどころじゃないの」

「私もそうだったわよ。アンタの事だから、ジローやリエコ叔母さんから聞いてんでしょ?」

「まぁね」

 仕事でストレスを溜めていた母に非日常を提供したのが、山奥の小屋で隠棲していた父だったと言うから、この二人は娘ながらに興味が尽きない。

「でも詳しくは知らないし。その辺りを知りたい読者は多いんじゃない?」

 そんな母の書くの小説のタイトルは、その名も「アノニマ」だ。ドタバタしっ放しで面白いのだが、とにかく落ち着かない作風は、何かと賑やかな母らしさがよく出ていた。

「あんなんじゃ、いつ私が生まれるものやら分かったもんじゃないわ」

「生まれる訳ないでしょ」

「えっ! そうなんですか!?」

「だってドタバタしてるから面白いんじゃないの」

「そうですけど、一息つかせてやっても良くないですか?」

 だって山奥で隠棲してる筈なのに、あちこち飛び回ってろくに家にいないじゃないですか、と突っ込まれると

「うーん、そうかぁ」

 まあ考えとくわ、と結局絆される母は、父の言う事だけは不思議とよく耳を傾けた。そんなところまで、とにかく父は母の良き参謀でありパートナーなのだから、この期に及んでは流石の母『も』認めざるを得ないのだろう。

 やはり夫婦生活の秘訣は、父の言った通りらしかった。

「まあ確かに、アンタには色々助けられて来たしねぇ」

 未完のまま終わらすつもりだったようだが、それよりも母のその一言に驚いた律だ。それを察した父が

「子はかすがいって事だ」

 乱暴に一括りにして締めた。

「そこんとこ、詳しく聞きたいんだけど」

「だから今、俺が頼んだろうが」

 小説で書いて貰え、と父がさっさと煙に巻く。このような事で母がカミングアウトするのは初めてであり、もう少し突っ込んで聞きたかったが、今日はこれまでらしい。オープンな父がさっさと畳んでしまっては、もう聞き出せそうになかった。公私共々、本当に優秀な秘書振りだ。

「——まあ、いい加減帰るわ」

「ん」

「気をつけて帰りなさいよ」

 連絡を寄越せ、とはお互い言わない。一家はバラバラになったとは言え、連絡は頻繁だった。確かに直接会う事は激減したが、一家全員リモートで繋がる事はしばしばなのだ。

 そんな折でも、父母はいつも画面の向こう側で小競り合いしながら顔を並べていて、いつまで経っても熱々だった。お陰で家庭内は、いつも何処かしら楽しかったものだ。明らかに一見して隙がなくとんがっている母が、それでもいつも何処か楽しげなのは、やはり父が愛した格言による向きが大きかったのだろう。

 この二人を見ていると、つい早く結婚したくなってしまう。こうなって来ると

 最早——

 目の毒だ。

 正門から緩やかな坂を下って、さっさとイヴォワールの観光地区へ向かった。その長い一本道の途中で、それでもつい一度振り返ると、目の毒の二人がやはりまだ見送っている。気づいた二人がそれぞれ手を振った。二人とも利き腕は右の筈だが、母はやはり右腕を振っている一方で、父は先程母に決められて痛がっていた筈の左腕を振っている。

「また——」

 最後の最後まで仕方がない父母だ。遠くてよく分からないが、どうせこの二人の事だ。空いているもう片方の手は、お互いの手を握っているに違いなかった。

「いい加減にしろっての」

 二日前の宴席でのスタンドプレーもそうだが、二人のスキンシップは年を追う毎に人目を憚らないようになって来ている。若振りにして堂々として、スマートな振舞が板についている美男美女のやる事だ。嫌悪感どころかつい見惚れてしまい、何処となくそれが羨ましくもあり悔しくもあり。

 が、父の愛した格言もそうだが、呆れる程の夫婦円満が家庭円満に繋がったとするならば、二人の熱々振りは何物にも代え難いと言わざるを得なかった。その恩を、そろそろ返し始めなくてはならないだろう。まだまだ若い二人だが、それでも世間的に見れば晩婚だったのだ。長寿時代とは言え、受けた恩の多さ大きさを思うと、とても返し切れないような気がした。

 律から見えるその姿は豆粒大で、もう表情は分からない。が、きっと薄く笑っては我が子の行く末を、落ち着き払ってのんびり眺めている事だろう。未だによく分からないその信頼のようなものに、少しでも応えたい。いつになるか分かったものではないが、仕事をしながらも最終的に目指すのは、二人が築いたような家庭だ。

「待ってろよぉ——」

 目を見開きその姿をしっかり捉えた律は、何度か右手を大きく振ると背を向けて、後は相変わらず麗かなレマン湖を眺めながらイヴォワールの港を目指した。

 近くにいるようで遥か遠い彼方を歩いている、理想の夫婦。律が目指し続けた二人は、その後も、いつまで経っても、仲睦まじかった。

               終

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先生のアノニマ まと一石 @ma10-1koku

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