第5話

「……女のつぶはそろっているが、正直なところ、あまり気がれないな」

 ここ数日ずっと気鬱きうつそうな表情をしていると、気の置けない友人にさそわれて娼館しょうかんにやって来たのは、あの優男やさおとこであるフォンテーヌ伯アルフレッドだ。

「いや……」

 気が霽れないのは店のせいではない。それはアルフリード自身が一番よくわかっていた。

 日ごと夜ごとに彼の元にかよめていた、ハルホード伯爵令嬢はくしゃくれいじょうデリダがここ数日ふっつりと姿を見せていないからだ。

れば居たでかしましいが、声を聞かなくなるのもさみしいものだ」

 部屋の中は、はだかむつみ合っても寒くないよう暖炉だんろの火が強めにかれ、甘ったるいこうにおいも充満じゅうまんしている。


「あぁ……!」

 りょうもとめて廊下ろうかに出た伯の耳に、狂乱きょうらんしたような女の嬌声きょうせいが飛び込んでくる。

「……なんだ?」

 ここは娼館だ。女のあえぎ声などめずらしくもないのだが、あまりにもかんきわまった女の声に、伯も興味をそそられた。一体どんな風にもてあそべば、女からこのような声を引き出すことが出来るのかと。

 しばらく歩くと、声の元にたどり着いた。扉が少しだけひらいており、そのせいで廊下に声がれ出ているのだったが――。

「いや、それでも……先ほどの声は……」

 聞いたことのないみだれようだった。そう思い直して、気づかれぬようにそっと扉の隙間すきまから部屋の中をのぞき込む。

 すると――。


「ああぁあああっ……!!」

 ちた化粧けしょうも気にせず、汗だくで男にまたがってこしる――今までに見たこともない女の乱れように、アルフリードは一瞬いっしゅん目をうたがう。何故なぜならその女は。

「そんなにはげしくされたらっ……こんなの、アルフリードにもしてもらったことありませんのにぃ……!」

 一瞬、それが彼女かどうかを疑ったが……自分の名をぶその声で、否応いやおうにもきつけられる。

 目のまえにいるのが、自分の情人じょうじんであるデリダその人だということを。

「おやこれは……フォンテーヌ伯は貴女あなた大事だいじな方ではありませんか。それでもおれほうがいいと仰有おっしゃるので?」

 相手あいての優男は口角こうかくゆがめ、目に獲物えものとそうとするあやしいかがやきをたたえたままに、デリダの耳元でそうささやく。

貴方あなたよっ……! 貴方のほうがいわっ……! アルフリードよりもっ、エリーヤさまぁっ、あなたがっ、あなたがいいのおっ……!!」

 とびら一枚をはさんで、他人のやりつらぬかれながら情人が自分を裏切うらぎるその睦言むつごとを聞かされて、フォンテーヌ伯は目を見開みひらいた。

 それはいかりか、落胆らくたんか、かなしみか、憤怒ふんぬなのか……どれにも見え、そしてどれども取れないごちゃぜににごりきった、どすぐろいドロドロとした顔色かおいろわっていた。


                 †


「ふ、ふふっ……まあ、なんとも素晴すばらしい見世物みせものね。さすが師匠ししょう仕上しあげも完璧かんぺきでしたわね」

「ありがとうございます。お嬢様じょうさま機嫌きげんそこねずにことをやりおおせたようで、まずは安堵あんどしております」

 失意しついのフォンテーヌ伯アルフリードを見送みおくってから、カインはエリーヤの報告ほうこくを聞いた。


「それで、デリダ嬢についてはいかがいたしましょうか。伯爵家はくしゃくけのご令嬢れいじょうだとおうかがいしておりますが」

「そうね。どうすれば一番もうけになるかしら……」

ほねきにしてみつがせることも、出来できるといえば出来ますが……先日の一件を考えますと、お嬢様としては国内にめ置くお心づもりはないのではございませんか?」

「あら、彼女かのじょの心がフォンテーヌ伯からはなれたれた以上いじょう、これ以上アベルが嫌がらせを受けることもないのではなくて? ふふっ、私もそこまでおにではないもの」

 カインは小さく肩をらしながら、ティーカップを口に運ぶ。

「けれど、実行犯のマイヤー子爵家ししゃくけがお父様からしぼり取られている今、たすけをもとめないともかぎらないものね……心配しんぱいんでおくべきかしら」

「それでは……」

「どこか他国の娼館にでも、高い値で引き取ってもらいましょうか。あれで彼女も伯爵家の三女ですもの、それなりの値が付くのではなくて。どうかしら?」

「そうですね。先日の一件でそんをしたぶんを取り返せるくらいの儲けは出せるかとぞんじます――みがけば、もう少しは光る玉かと」

「そう。ではそれでおねがいしますね、師匠」

「はい。お嬢様のご指示しじとおりにいたします」

 エリーヤは顔を上げず、ずっと平伏へいふくしたままだ。


「どうかしら、師匠……久しぶりにその快楽かいらくわざ、私にもふるってみる気にはならないかしら」

 からかうようなカインの言葉に、エリーヤは無言むごんで一歩うしろにがった。

「おからかいを……お嬢様のみつごときお身体からだには万金ばんきん値打ねうちがございますが、公爵様より次はないとの厳命げんめいをいただいております。どうかげてご寛恕かんじょいただければと」


 そう、おさないカインが快楽けになっている現場げんばから救出きゅうしゅつされたおりに、エリーヤはザンダール公爵から、カインに二度と手を出してはならないことと、かせがしらである彼が他の娼館にうつることをきんじられているのだ。

「ふふっ、残念ざんねんね。もっとも命があやういとなれば、その自慢じまんの槍もやくには立たないものかもしれないわね」

 心底しんそこ残念そうにつぶやくカインの声に、下を向いたままのエリーヤのほおから、あせ幾筋いくすじながれ落ちる。

「では、あとのことは師匠の差配さはいまかせるわ。精々せいぜい高値たかねになるように仕込んであげて頂戴ちょうだい――わたくしの時のようにね」

「はっ……御心みこころのままに」


 最後にぎゅっとカインの口角こうかくが上がり、そのまま部屋へやを出て行く。

「……はぁぁぁ」

 足音が遠離とおざかったのをたしかめてから、エリーヤはふかく深く、いきき出していた。

 ――床には、流れた汗のあと数滴すうてき分残っている。

「どうやら、いのちつなげたみたいだな」

 ゆらりと立ち上がり、ワゴンにそなえられたちゃをカップへ乱暴らんぼうそそぐと、一息ひといきした。

「……お嬢様は、おれいた中じゃ最高の女だが、同時に一番おそろしい女ですよ」


 カインを籠絡ろうらくする現場に、公爵と私兵しへいみ込んで来た時、エリーヤは即座そくざころされるところだったのだ。それをこともあろうに、快楽で息もえになっていたカイン自身が押しとどめた。

 だが、それはエリーヤにほだされた結果とか、そういうものではなかった。


『……この男は役に立ちますわ。い殺しにして、絶対ぜったいに殺してはなりません、お父様とうさま


 汗と体液たいえきにまみれた少女がまたひらいたまま、気怠けだるそうだがしかし毅然きぜんと、そして優雅ゆうがにそう声をはっした。

 エリーヤが命を救われ、そしてまた彼が女を相手にして完膚かんぷなきまでにやぶれた、それははじめての瞬間しゅんかんだった。

 その時彼は、カインのことをすっかり心までとしきったとそう信じていた自分の確信かくしんが、もろくもくずった音を聞いていたのだ。


「もうすぐ死ぬとでもわかった時には、もう一回くらいはお相手をお願いしたいモンですね。お嬢様」

 少しだけむかしを思い出して、そんなことをつぶやくと、エリーヤも部屋をあとにした。


                 †


「どうかしら、このところの社交界しゃこうかいほうは?」

「あ、はい。カイン様のおかげで嫌がらせもなくなりましたし、お陰様かげさま心安こころやすらぐ日々がかえってまいりました」

「ふふっ、そう。それは良かったわね」

 くすくすと、楽しそうにカインは笑う。

 一歩間違まちがえば、貞操ていそううばわれて聖女せいじょの力をうしない、そのまま何処どこぞに売りはらわれてもおかしくはなかった。

 そんな修羅場しゅらばをくぐりけてきたわりに、アベルの言葉はなんとも呑気のんきなもので、そこがカインをきょうがらせるのだけれど。

「そうえば、枢機卿すうきけいにはどう話したのかしら」

「いえ、まあそこは……マルコと口裏くちうらを合わせまして……」

「なるほどそうね。何かを話して、さわぎにならないということはないでしょうし……」

 そんなカインの言葉にアベルも薄笑うすわらいをえて、小さく肩をすくめる。

「ややうしろめたい気持ちもあるのですが、ただゝゞお義父とう様にご心労しんろうをおけするだけで、他に何もいいことがないようなので」

 実際じっさい首謀者しゅぼうしゃ達にいかなる処罰しょばつりかかったのか、アベルには知るよしもないのだが、カインがってくれたあと、嫌がらせもピタリとんだので、アベルがそれ以上何を気に掛けることもなかった。

「以前カイン様に、出来るだけだれたいしても好意的こういてきうようにとご助言じょげんいただいたのに、早速さっそくこのような面倒めんどうごとを引きこしてしまい、おずかしいかぎりです……」

「ふふっ、そんなかおをしなくてもいいのよ。助言さえ守っていればかなら上手ういまく行くという、そんな単純たんじゅんちまたではないということ。そうでしょう?」

 何しろ今回の主因しゅいんは「なびかなかった男の逆恨さかうらみ」などという、貴族きぞくの女――それも純潔じゅんけつむねとする聖女せいじょにとっては手のちようのない出来事できごとたんを発している。実際、アベルにはどうすることも出来なかったことだろう。

「ですがカイン様にらぬお世話せわかせてしまったことも事実ですし、何かわたしに出来ることでおびを出来ればと思うのですが……」

「お詫び? 聖女様にしをつくれたならそれはおおいに活用かつようしたいところだけれど、今はとくに――あっ」

 にこやかだったカインの表情ひょうじょうが、そこでかすかにゆがむ。

「……そうね。ひとつだけあったかしら」

「そ、それは……?」

 アベルの前で、カインが顔を歪ませることなど滅多めったにないことだ。

 だからつい、思わずアベルの方も身構みがまえてしまったのだが……。

「大丈夫よ。わたくしがあまり得意とくいとしていないだけで、アベルがこまるようなことではないから」

 先ほどのアベルにならったものか、カインもうっすらとした苦笑にがわらいをえて肩を竦めると、やさしい表情でアベルを見詰みつめてこう云った。


王宮おうきゅうにご一緒いっしょして頂けないかしら――王妃おうひ様のサロンに、ね」


「お、王妃様……ですか」

 すると、普段ふだんあまり物怖ものおじすることのないアベルがほんの少しだけ顔を引きらせた。

「あら、アベルにもそんな顔をする相手がいるのね」

 よわいいところを見つけたとでも思ったのか、カインのおもてがぱあっと楽しそうにはなやいだ。

「いえ……王妃様とはお話ししたことはないのですが、ただ……」

「ただ……?」

「どうも私、王妃様にあまりよく思われてはいないみたいなので……」

「まあ……それはどうしてかと、聞いてもかまわないかしら」

わたしとしては何も問題は……ああえっと、ですが……」

 云いかけてアベルはちょっとかんがえ込んだ。

「……カイン様は、神様の国王へのご託宣たくせんの話、どの程度ていど存知ぞんじですか」

「ああ、貴女が月に一度王宮に伺候しこうしているアレのこと……?」

 聞かれて、今度はカインが考え込む。

「確か、王と宰相さいしょうしかその場にいるのがゆるされないのでしょう? 王妃様も居合いあわせることが出来ないとか」

「そ、そこまでご存知なのですね。さすがカイン様です……」

 本来であれば、王族おうぞくとその周辺しゅうへんしか知らない極秘ごくひの話も、三大公爵家の令嬢ともなれば――いや、カインならばそのレベルの情報じょうほうでもられるものであるらしい。アベルはその情報力じょうほうりょくに舌をいた。

 ちなみに、アベルの口を借りておろされた神の言葉の内容は、さすがのカインも知るところではない。

 謁見えっけん警備けいびする騎士きし達も、神の託宣たくせん最中さいちゅうは部屋の入り口からとおざけられ、部屋の中の会話を聞き取れる者は誰もいないからだ。

「実はですね、その……どうも王妃様には、その件で私、ご不興ふきょうを買っているようなのです」

「……それは初耳はつみみね」

 今度はちょっと意外いがいそうな顔をする。実際に王妃と接見する立場のカインでも、そういう話は聞いたことがなかったようだ。

「いつも、その……託宣の直前に謁見の間を出てかれるさいに、胡散うさんくさい者を見るような一瞥いちべつなさるので。私の気のせいであればいいのですが」

「そう……アベルの観察眼かんさつがんがそれなりにするどいことは、今まで聞いた話からも解るもの。恐らく気のせいではないのでしょうけれど……」

 少しだけ考えごとをするように目をらすと、カインは――。


「それは、直接王妃様におうかがいするのがいいのではないかしら」


 ――すぐに、悪戯いたずらっぽく微笑んで見せた。

「お、王妃様に……ですか!?」

 さすがに、いつものんびりとしたアベルもこれには鼻白はなじろむ。

(本当に、カイン様は……なんて豪胆ごうたんな方なのでしょうか)

 波乱はらん予感よかん、けれど新しいカインの顔を知ることが出来るのではないか。

 そう思うと、アベルのむね高鳴たかなはじめていた……。


                 †(人称にんしょうが変わります)


「き、緊張きんちょうしてきました……!」

 ――そんな話をうけたまわってから数日ののち

 わたしは、カイン様にれられて王宮にお伺いしました。

「ふふっ、そんなにかたくならなくとも平気でしょう……少なくとも、首が飛んだりはしないわ。私とは立場が違うのだから」

「そ、それは……」

 それはつまり、私が粗相そそうをするとカイン様の首が飛ぶということなのではっ!?

「ふふっ、大丈夫です。さあ、参りましょう」

「は、はい……」

 私の懸念けねん何処どこく風という感じで、カイン様はみちびくように、悠然ゆうぜんと私の前を歩いていく。

(いつか、カイン様のお友達として、胸をってとなりを歩けるようになったりするものでしょうか……?)

 そんなことをふと考えたけれど、今はただ遅れないようについて行くことしか出来ない私だった……。


「お二人がおきになったと、王妃様にお伝えしてまいります。お待ち下さい」

「ええ」

 私たちをひかえの間に通すと、侍従じじゅうさんが頭を下げて部屋を出ていく。

「な、何と云いますか、緊張してきましたね……」

「あら、物怖じをしないアベルにしてはめずらしいのではなくて」

「そ、そうでしょうか!?」

 私、一体カイン様にどんな人間にんげんだと思われているのでしょうか……ちょっと心配しんぱいになってしまうのですが。

すわって待ちましょう。しばらくかかるから」

「は、はい……」


 貴族きぞくのご婦人ふじんたずねる場合――まあ相手との身分みぶんにもよるところがあるだろうけれど、相手の身分が高ければ高いほどこちらが待たされる時間は長くなります。

 カイン様相手にそんな経験けいけんはないのですが、一度他の公爵家のご婦人を訪問した時は随分ずいぶんと待たされたことがありました。


「今そんなにお茶を飲むと、本番で入らなくなるのではなくて?」

「あっ、はいっ……! そうですねっ!?」

 カイン様にくすくすと笑われて、私は自分がお茶を飲んでいることに気が付いた。

 ――というか、自分がそれくらい緊張しているんだということに、ようやく気が付いた。

「……どうやら、本当に緊張しているようね。ごめんなさい、気がかなかったわね」

「い、いえっ……! その、緊張してるって、自分でもいま気が付いたのでっ……!」

「ふふっ、そう」

 ちょっとドキっとしてしまうような、優しい微笑ほほえみを投げかけられておどろく。

(あわわわ……カイン様こそが、実は聖女様なのではっ……!?)

 取り乱す私をよそに、カイン様は立ち上がって目の前までいらっしゃると、そーっと、私の頭をなでられた!

「安心して。何があっても、貴女のことはわたくしがまもりますからね」

「カイン様……」

「と、云うか……まあ、そんなことにはならないわ」

 小さく肩をすくめると、カイン様はちょっと相好そうごうくずされた。

「確かに私と王妃様はなかがいいとは云えないけれど、仲が悪いわけでもないの。であれば、こんな風にそもそもサロンに呼ばれることもないでしょう?」

「そ、そうですね……」

 ですが、仲は良くないのですよね……?

「悪くはないけど、良くもない……というのは?」

「私は、王妃様に人物じんぶつとして興味きょうみを持たれているわ。けれど評判ひょうばんの悪い我が公爵家と蜜月みつげつだと思われるわけにもいかないの――王妃様のお立場としてはね。解るかしら」

「ええと……ああ、なるほど。そうなりますね、失礼ながら……」

「いいのよ。事実だから」

 今度は先ほどとは打って変わって、すうっと悪そうな笑みを浮かべられる。一体カイン様というのはどれだけの心のうつわをお持ちになっていらっしゃるのか……。

 残念ながら、ザンダール公爵家の悪評あくひょう虚像きょぞうでもなんでもない。それは先日の私の誘拐騒ゆうかいさわぎでカイン様が娼館でふるわれたおちからからも証明しょうめいされているし、私自身、カイン様においしようとするだけで、色々な人からたしなめられたり忠告ちゅうこくを頂いたりしてしまうわけで。


「お待たせいたしました。間もなく王妃様がおいでになられますので、先にお部屋にお入りになり、お出迎でむかえのご用意よういをお願いいたします」

 そこへ王室付きの侍女さんがやって来て、案内あんないをしてくれる。

「わかりました。では行きましょうか、アベル」

「はい」

 カイン様にうながされて、私もせきを立った。


「わ、わぁ……」

 侍女さんに案内されて王妃様のサロンに入る――なんだろう、豪華ごうかすぎて眼がつぶれてしまいそうだ。

「すごいです……キラキラしていますね」

 家具かぐにしても、壁面へきめんにしても一目でぜいつくくしたものだとわかる。口幅くちはばったいことを云わせてもらえるなら、それはやや悪趣味あくしゅみいきに足をみ入れているくらいには。

「王妃様の趣味というわけでもないのよ。国賓こくひんのもてなしにも使われるから、国の威信いしんにもかかわるわ。められるわけにはいかない、というところかしら」

「な、なるほどです……」

 王妃様というと国で一番の権威けんいある女性という印象ですが、そういう話を聞くと、私のように役目にしばられているところもあるのか……という気持ちになる。

「そろそろね。出迎えるわ」

 侍女さんが控えるとびらの方を向いて背筋せすじばす。少しして、ゆっくりと重い扉がひらく。

「王妃陛下へいかのおなりにございます」

 スカートのすそを軽くさえ、片膝かたひざを軽く曲げながらもう片足を引く――王家のかたへ対する貴族としての挨拶あいさつだ。

 何度も練習れんしゅうしたけれど、正直あまり上手く出来ている自信はない。

「陛下」

「……息災そくさいでしたか、ザンダール公爵令嬢」

「お陰様をもちまして」

 王妃様――マルレーネ・システィア・マクシーム様。

 確か御年おんとし三十を少し過ぎたくらいと伺っていましたが、そうは見えない美しさです。豪奢ごうしゃ着飾きかざってはいるけれど、これが嫌みに見えないのはご本人の容姿ようしがあってこそなのでしょう。きっと、私のようにきよらかさだけでっているざつな聖女あたりでは、服やかざりに着られてしまうにちがいない。

「それで、貴女が――」

「あっ、はい……」

 いけない、返事へんじではなくて名乗なのりをしないといけなかったのに……!

「……こちらが当代とうだいの聖女、アベル・ミラ・エルネスハイム枢機卿すうきけい令嬢にございます」

 カイン様が代わりに名乗ってくださった。うぅ、もうしわけありません……!

「あ、アベル・ミラ・エルネスハイムにございます。このたびはこのような場へのおまねき、こ、幸甚こうじんえません……」

 しばらくの無言の空間くうかんや汗が流れる。王妃様の視線しせんが私に降りてきているのは判るけど、お、おそれ多くて目が合わせられません……!


「……カインが目をかけているとうわさになっているから、一体どのような女狐めぎつねかと思ったけれど……思ったよりも普通ふつうね?」

「めぎっ……!?」

 思わず顔を上げてしまい、その王妃様のお顔と云ったら……!

 私、一生いっしょう忘れない自信があります。あれはあきらかにガックリなさっているお顔……!


「まったく、なぜそれ程までアベルにご興味をお持ちなのかと思っていましたが……」

 混乱している私のよこで、カイン様は王妃様に向かって大きなめ息を落とされて……ええっ、い、いいんですかカイン様っ! そんなご不敬ふけいおよばれるなんて……!?

 はと豆鉄砲まめでっぽうらったような顔を私がしていると、王妃様は悠然と手を一振ひとふり。私とは違う見事みごとなカーテシーを見せて、お付きの侍女さん達が音も立てずに部屋の外に出て行く。


「初めましてかな……いえ、城では何度か逢っているか。わらわはマルレーネ・システィア・マクシーム。このマクシームの王妃だ。この場では妾のことをマルレーネと呼ぶことをゆるす」

 ええっ、王妃様をお名前で呼ぶなどと、それはさすがに不敬なのでは……!?

「あくまでもこの場でのことよ。それ以外では、きちんと『王妃陛下』と呼ぶようにね、アベル」

「は、はい……それは勿論もちろん。と云いますか、むしろ今もそうお呼びした方がいいのでは……」

「これは妾がみずからのために用意した『息抜いきぬき』の場だ。その証拠しょうこに、侍女も護衛ごえいも、この場できたことを記録きろくできる者は誰もおらぬ」

 あっ、なるほど……それで侍女さん達もみなさん外に出られてしまったんですね……。

左様さようにございますか……その、それでは僭越せんえつながら、マルレーネ様と呼ばせて頂きます」

「それでよい」

 高位こういの人にあまり何度も質問を投げかけるのも不敬に当たるだろうし、ここは云われたとおりにしておきましょう。

「ではカイン、お茶を頼めるかしら」

「承りましょう」

 えっ、ここでもカイン様がお茶をれられるのですか!?

「ああアベル、貴女は手伝わなくていいの。マルレーネ様に対する毒殺どくさつうたがわれたくなければ、大人しく座っていらっしゃい」

「ど、毒っ……!」

 そうか、私の時と同じなんだ……そもそも、どうしてカイン様がお茶を淹れられるのかが不思議だったけれど。元々は王妃様の為だったのですね。

「さてアベル、まずはびよう。妾は勝手かって憶測おくそくでそなたに勝手に落胆らくたんしてしまった。まったくそなたのせいではないというのにな」

「いえ、私もカイン様ほどの才ある方に何故友誼ゆうぎ頂戴ちょうだいしているのか、自分でも理解りかい出来ていないくらいですので、そこはお気になさらず……」

「ほう」

 私がそう答えると、王妃様は不思議と納得なっとくしたというような、くだけた表情をされた。

「いかがですか。『い』でしょう、この子」

 云いながら、カイン様は王妃様にお茶をきょうする。えっ、良いって何がですか……?

「そうだな。しかし妾やそなたにづかぬというのは、生粋きっすいの貴族ではないからとも云えるだろうからな……」

 以前いぜんカイン様に云われた、『事前の智慧ちえを持たないがゆえ』という話と同じ意味だろう。それでも、私に王妃陛下は十分におそろろしいと思えるかただけれど……。

「王妃様のご実家じっかであるシスティア公爵家ならまだしも、この子は泣く子すらふるえ上がるであろうがザンダール公爵家に、のこのことあそびに来てしまうような鉄面皮てつめんぴなのです」

「ふむ……云われてみればそうだな」

 てつめんぴ……あの、カイン様いまのこのこって……それ、絶対ぜったいめていらっしゃらないですよね!? 王妃様も何やら納得なっとくされていらっしゃる!?


「しかしカイン、そなたもみずからの家名かめいに対して自虐じぎゃくぎるのではないか?」

「自虐ですか? いいえ、これは客観的きゃっかんてきな事実ですので、自認じにんというべきでしょうか」

 云いながら、カイン様は扇子せんすで口元をかくすとクスクスと笑った。

「そうだな、もっと胸を張るべきだ。何処に出しても恥ずかしくない、三大公爵家の一角いっかくめる家なのだから」

 丁々発止ちょうちょうはっしとでもいうようなり取りがつづく。私程度では、その会話のうらの意味までは理解出来そうにない。そうか、王妃様も元々は公爵家のご令嬢だったんですよね……。

「ですが、ただ爵位しゃくいが同じだったというだけでは、マルレーネ様ほどの女丈夫じょじょうふわたくし同列どうれつにはならべられないでしょうか」

「じょじょうふ……とは、女だてらにうでぷしが立つということですか?」

「そうよ。この方は王太子妃の時分じぶん外遊がいゆう中にぞく襲撃しゅうげきを受けたおりけんを抜いて当時王太子だった陛下を身をていしてお護りになられた実績じっせきがあるのよ。対外的たいがいてきにはされているけれど」

「ええっ、すごいです……!」

「それは順序じゅんじょぎゃくだな。女だてらに剣術けんじゅつにうつつを抜かす妾を王太子妃として迎えた陛下が、そもそも酔狂すいきょうなのだ。もっとも、陛下につまを選ぶ自由があったかどうかはさだかではないが」

「そうでしょうか。私には衆目しゅうもくはばからない鴛鴦おしどり夫婦ふうふのように思えますが……主に陛下からのあいされかたが」

「そうか? そうであるならば、妾はまだ陛下に愛想あいそうかされてはいないということだな」

 そうこたえながら、一瞬いっしゅんだけ少女っぽい表情をされる王妃陛下。不敬不遜ふけいふそんながら、ちょっと可愛かわいらしいなどと思ってしまう。


「そういえば、アベルはマルレーネ様を怖がっていたわね。この機会きかいに聞いてみるのがいいのではないかしら」

「おや……」

「ぴぇっ……!?」

 えっ、ええええええっ、どどど、どうしてこんな拍子ひょうしでそんなことを云われるのですかカインさまぁぁぁぁっ……!?

「くっ……」

 わ、笑ってる……扇子の陰で笑いをこらえていますねカイン様っ……!

「いえ、その……いつも神降かみおろしの儀で国王陛下に拝謁はいえつさせていただく折、王妃……じゃないですね、マ、マルレーネ様のご|機嫌(きげん)がよろしくないようにお見受みうけしておりましたので、わたしは知らないところでご不興を買っているのではないかと、そう思いまして……」

 一生懸命いっしょうけんめい失礼しつれいにならないような云い回しをこねくり回してみたものの……やっぱり失礼な云いようは変わらなかった気がする。

「ふむ。確かに妾はあまりいい顔はしていなかったであろうな」

 や、やっぱり……うぅ。そうですよね……。

宰相さいしょうもいるとはいえ、わかい女と記録も残されぬ場所で三人きりで、しかもすこぶる付きの美女と来ている。歴代連綿れきだいれんめんと続く神事しんじとは云っても、中で何をしているのかわかったものではないからな」

 そう云って、マルレーネ様はくすりと笑われる。

「な、なるほど……そのように仰有おっしゃられますと、私も身のあかしを立てようがございませんね……」

「おや、そういうものなのか」

「は、はい。神様が身にりて来ているあいだ、私は何もおぼえていないものですから……私自身としましては、国王陛下と神様がお話しになった事柄ことがらなど、覚えていない方がありがたいなどと考えておりましたが……」

「…………」

「…………」

「……えっと、あの……?」

 マルレーネ様とカイン様は、たがいに見つめ合うと怪訝けげんそうな顔をしている。

「やはりそうなのか。嘘をついているようには見えないしな……」

 一言つぶやいてから小さく嘆息たんそくされると、マルレーネ様は、

「神がおくだしになった言葉を、聖女様は教会に持ち帰っているのではないかといううたがいをかけていたのだが」

 そう云ってちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべられた。

「ああ、そうですね。もし私が神様のお言葉を覚えていれば、きっとそうなりますよね……一番神様のことばをたまわりたいのは、きっと教会の方々でしょうし」

 そういえば、それについては義父ちちにも夕食の話題わだいで聞かれたことがある。何となれば教会で神様をおろししましょうか? と提案ていあんしたけれど、それは教会法きょうかいほうによって禁じられているのだと、そう云っていた。

「ええと確か、教会で一番の権威けんい教皇きょうこう様だけれど、神様の招請しょうせいについては王家の方以外がおこなってはいけない――そう伺っております」

「そうだ。どちらが専横せんおうすることのないよう、王家と教会で権能けんのうけているのだ」

「なるほど……?」

 私にはよく分からないけれど、色々いろいろあるのだろう。

 王の血筋ちすじが神によってみとめられてられた国――その国教こっきょうとされている以上、王家と教会は切っても切れない間柄あいだがらではあるのだろうけれど、それでも蜜月とまでは云いがたい。お義父様もそう仰有っていた。

「……そこで、だ。ひとつ聖女様にお願いがあるのだが、聞いて貰えるだろうか」

「はい……?」

 そんな話をしていると、優雅な微笑みを浮かべて王妃様が突然とつぜんそう云った。

「な、なんでしょう? 私におこたえ出来ることならいいのですが……」

「ああ。ここで神の招請をこころみてしいのだ」

「は……」

 はぇえぇえぇぇぇぇ……っ!?

「ふふっ、さすがのアベルでもそういう顔になるわよね」

 私はさけび出すのをおさえるだけで必死ひっしだったのに、カイン様にはおどろ様子ようすが全くない。つまりそれは……。

「な、なるほど……本日私をここにお招き頂いた理由はそれなのですね」

ていに云えばそうだな。まあ、カインが可愛がっている相手がどんな者かというのも気になっていたからな。一本の矢で二匹の鳥をとす|好機(こうき)だと思っていた」


 さて、ですがここに神さまを招請してしまってもいいのかどうか……。


「いえ、それは私がなやむことではありませんね。承知しょうち致しました」

 私がそうおこたえすると、何故かお二人は逆にキョトンという顔をなされました。

「あの、どうかなさいましたか……?」

「ああ、いや……もっと悩むかと思っていたからな」

 と、王妃様。

 ああ、なるほど。それは確かにそうかも知れませんね。

「そもそも、人の身で神様を招請する力など身にあまるものですし、私はただ神様の道具であり、仮初かりそめの器。自身の意志いしは関係ないものだと思っております。すべては神様の御心のままですので」

「……確かにそうね。治癒ちゆの力や聖なるじゅつといったものはアベルの裁量さいりょうまかされているけれど、神の招請は、そもそも神がおうじるかいなかでまっている、ということなのね」

「はい。もし神様が私に総ての裁量をということであれば、私のたましいはこの器には残っていないでしょうから……」

 聖女となった時、私は神様によっていくらか姿すがたや性格に変化があたえられた――その話を覚えて下さっているのだろう、カイン様はただだまって小さくうなずかれた。

「では早速ですが、神様をおびしてみようと思いますが……ご準備じゅんびはよろしいでしょうか」

 私は、いのりをささげると、ゆっくりと神様に心の中で呼びかけを行った――。


                 †


「……思ってもみないことになったな」


 神様への祈りをすと気が遠くなり、わずかに微睡まどろんだあと、かすかに誰かが話す声が聞こえてくる。

「そうですわね。努々ゆめゆめ、先のことをよく考えておかなければならないようですが――ああ、アベル。目が覚めたのね……大丈夫?」

 そこで、目を覚ました私に気が付いてくださったのか、カイン様に気遣きづかわれる。

「あ、はいぃ……ひゃわっ!?」

 ぼんやりと首の後ろにやわらかな感触があったけど、それがカイン様のおひざだということに気が付いて、私は大慌おおあわてでき上がった!

「そのように慌てて起き上がるものではないわ、アベル。眩暈めまいを起こすわよ」

「だっ……大丈夫っ、だいじょうぶですのでっ……!」

 確かにちょっとクラクラするけれど、私としてはカイン様に膝枕ひざまくらなどをさせていた方がよほど大問題なんですが!

 と、そこまで慌ててから、私も、とてつもなく重大じゅうだいな事実に気付かされざるを得なかった。


「……もしや、神様は呼びかけに応えて下さったのですか」

 まさか、神様が招請に応えられるとは思っていなかったので、正直驚きを隠せない。

「妾達も本当に驚いた。丁度、神も我らにつたえたいことがあったようで、運が良かったようだな」

「お二人に……神様から、伝えたいことが……」

 考えてみれば、神様の言葉を受け取ることが出来るのは国王陛下と宰相様のお二人だけだ。もしかしたら、それだけでは不都合ふつごう不十分ふじゅうぶんがあるということも……?

「ほんの出来心からの思いつきだったけれど、これは少々風向かざむきが変わってきてしまったかな」

「そうですわね。下手へたを打つと、いい意味でも悪い意味でも、我々の関係を一新いっしんしかねない程には」

 女傑じょけつであるお二人が、真剣しんけんな表情でそんなことを云われるのは、もしかしてとんでもない一大事いちだいじなのでは……。

「えっ……あの、そんな大変なことに……?」

「……アベルは気にまなくてもいいのよ。いいえ、むしろここはアベルにおれいを云うべきでしょうね」

「そうだな。突然とつぜんりかかるわざわいにはそなえようもないが、きざしがあるのであれば、まだやりようはある」

「…………」

 これは明らかに、神様からのご託宣が、何かとんでもない厄介やっかいごとだということだと直感で理解する。

「あの、率爾そつじながら、何か教会につたえることなどはありますでしょうか……?」

「いや、今のところ必要ひつようはなさそうだ。将来的しょうらいてきには何かたのむことになるやも知れぬが、その時はアベルを通して依頼いらいしよう。ふふっ、そういう気遣きづかいも出来るのだな」

 王妃様は、そう答えるとからかうように私をお笑いになった。

「こう見えて、アベルは割とさといのですよ、マルレーネ様」

「カ、カイン様……」

 もう、カイン様まで……。

「それとアベル、それとカインにもな。もうひとつもうわたしておく」

「あっ、はい……!」

 そう云って、王妃様はすうっと息を吸うと、姿勢しせいただされた。

「我、マルレーネ・システィア・マクシームはここにせんする。ここにおこなわれた神への招請は妾の名の下に行われた行為であり、そのせきは妾がその総てをうものとする」

「……ご勅旨ちょくし、我ら両名りょうめいここにしかと賜りましてございます」

「たっ、賜りましてございます……!」

 カイン様が膝をいたので、私も慌ててそれに倣う。

 今の宣言は、王家につらねた者だけが行える『勅言ちょくげん』という神聖な術だ。宣言した場所に信頼できる人間が誰もいなかったとしても、その発言を神の力によって正確に記憶させることが出来るという。

 私も、宰相様に説明を頂いただけで、それがどういった原理げんりのものかは知らないのですが……。

「神の招請は我が国において神聖なるものだ。それは王家の血族、あるいはその伴侶はんりょによってのみ行われねばならない……これは、先の招請が聖女アベルの独断どくだんによるものではないということをあかすものだ。まさか妾も、神が応じてくださるとは思っていなかったのでな」

「そ、そうですね。私も思っておりませんでした……」

 思ったよりも大事おおごとになってしまったけれど、これも私としては忘れてしまった方が良さそうだ。

「少しカインと二人で相談そうだんをしたいところではあるが……カインとしては、アベルをひとりで帰すのはイヤであろうな」

「……そうですね。今日のところはマルレーネ様と私、二人のままに付き合わせてしまったかたちですし」

「えっ、いえ……何か大変なおげがあったようですし、私のことでしたらお気になさらず……!」

 慌てる私を優雅に手でせいすると、カイン様は余裕よゆうのある笑みを浮かべる。

「いいのよ。わたくしが貴女と一緒に退席たいせきしたいの」

「カイン様……」

「ではこれでおひらきとしよう。そうだアベル、私はもうそなたを友人ゆうじんと考えている。次に逢った時は礼儀れいぎまもった上で、また言葉をわしてくれると嬉しい。ではな」

「は、はい……!」

 そう云われてしまうと、それ以上は何も返せなくなってしまう私でした……。


「――それにしても、急転直下きゅうてんちょっかとはこのことね」

「は、はあ……」

 王妃様のサロンをすると、それでも少し面白おもしろそうにカイン様はそうつぶやかれた。

 私は、神様をお招びした部分の記憶きおくがすっぽりと抜けているので、どうしてもの抜けた返事をすることしか出来なかったのですが……。

「アベルには無理むりをさせてしまったわね。もう身体の方は平気なのかしら」

「はい。神様に身体をおわたしすると、しばらくは神気しんきが体内に残ってしまうのですが」

「神気……」

「ええ、こんな感じに」

 軽く息を吸い込むと、胸の奥で『心』に力を入れる。すると――。

「これは……何かしら、アベルの身体からだがうっすらと光をはなっているように見えるわね」

「私にもよく分かっていないのですが、神様の霊妙れいみょうなお力が少しだけ残っているのだと」

不思議ふしぎね。まるで真珠しんじゅのような――ちちの色とにじの色がじり合ったような、あわかがやき」

 するとどう云った効能こうのうなのか、私を見詰みつめていたカイン様のひとみから、はらりと一粒涙ひとつぶなみだがこぼれ落ちた……!

「……なるほどね」

 ギリッと、少し嫌な音が聞こえて……気付けば、カイン様のくちびるから一筋の血がしたたる。

「カイン様……!?」

 私は慌ててハンカチーフを取り出すと、カイン様の血をぬぐう。

 そのカイン様の表情と来たら! ――正直、しばらくは忘れられそうにない。それは傲然ごうぜんとした強い、とても強いいかりの表情だったから。

「ああ、ごめんなさい。貴女のハンカチーフを汚してしまったわね」

「い、いえ……そのようなことはどうでもいいのですが、大丈夫でいらっしゃいますか」

「……ええ」

 さっきの表情がうそのようにえて、カイン様はいつもの穏やかな表情にもどられる。

「この光、いつでもはなてるというものではないのね」

「そうですね。神様が身体におとどまりになられたあと、心に残滓ざんしのように残っていて――先ほどのようにわざと光らせたりしなければ、二刻か三刻ほどは身体にあるでしょうか」

「アベル、貴女ほんとうに聖女でしたのね……」

「あの、今頃になってしみじみとそのように云われますと……さすがの私も立つがないのですが!?」

「ふふっ、そうよね。もうそんな場面は散々さんざん見て来たというのに」

 優しく微笑ほほえまれると、カイン様は私からハンカチーフをそっとうばう。

「これはあずからせて頂戴。しっかりとあらってお返ししますから」

 そう云って微笑わらうカイン様だったけれど、その様子には表情から見て取ることの出来ない、何かすごみのような雰囲気ふんいきただよっていたのでした……。


                 †(人称が変わります)


「……やってくれたわね」

 アベルを屋敷やしきおくとどけ、帰りの馬車ばしゃ――カインはひとりごちていた。

「このわたくし寸暇すんかといえど、神に対しての畏敬いけいいだかせるなんて――」

 おそらくアベルの意図ではない。彼女の体内に残されていた神気が引き起こした、いわゆる奇蹟きせきたぐいであるのは間違まちがいない。

「勿論、私もこの国の貴族である以上、神に対して畏敬を抱かぬわけもない。当然ね」

 だが、しばらくの沈黙ちんもくののちに、ふたたびカインのひらいた口から出た言葉は。

「――けれど、私の意志をねじ曲げてまで畏敬を抱かせるなどという真似まねは、たとえ相手が神だったとしても、それを許せるものではないわね」

 そう、アベルの放った光暈ヘイロウは、強制的に、カインの心の中へと畏敬の念を這入はいり込ませて来たのだ。寸暇ののちに、おのが感情の違和いわに気付いたカインはくちびるみ、そのいたみで自分のなかにあって、おのれのものではない感情を振り払ったのだった。

「しかしものは考えよう。ならばこのカイン、神の挑戦を改めてお受け致しましょう」

 唇のきずをそっと舌で沿なぞると、カインはその端正たんせいおもてに、小さくくらいい笑みを浮かべていた……。

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聖女と悪女が、午後の談話室で駄弁る話。 髙椙苹果 @applehigher

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