第4話
「フォンテーヌ伯という方をご存じですか?」
しばらく考え込んでいたアベルが、おずおずと口を開いての第一声がそれだった。
「ええ、知っているわ。フォンテーヌ伯アルフリード……社交界で一、二を競う
「そんなに有名な方なのですか。確かに整った顔をされた方でしたが……」
アベルは相手の顔を思い出そうとしているのか、わずかに
「……あら、その云い方からすると、アベルにとっては好みではなかったということかしら」
「いえ、好みかどうかという以前に、
「そうだったわ。要らぬことを尋ねてしまったわね」
普通の貴族令嬢であれば、あの伊達男になびかぬ女はそういない――フォンテーヌ伯アルフリードというのはそういう男だ。
「ということはつまり、えっと、カイン様にとっても好ましい男性ということですか?」
「あら、
宮廷において美男子の代表格にある人物、というところで普通はその品定めは終わるところだけれど、アベルは私の好みかどうかを尋ねてくる。どうやら、アルフリードの
「遊び相手としてなら、申し分ないかも知れないわ。ただ……」
「ただ?」
「私が相手ということになると……接待になってしまうかも。そこはあまり楽しくないかしらね」
「接待、ですか?」
アベルがキョトンとした顔になる。まあそうでしょうね。
「彼のような男は、云ってみれば
「あっ……」
そこでようやく云われている意味を理解したのか、アベルの顔が赤くなる。
「けれど私は公爵令嬢で、しかも
「くま……カイン様がくまなのですか?」
アベルには残念ながら男女に関しての想像力が足りないようだ。首を傾げる様子に私は小さく噴き出してしまう。
「
「あっ、なるほど……それでくまなのですね、くま……くま……」
変なところで感心してアベルがうんうんと
「ぷっ、くくっ……別に、私が
「そっ、それくらいはわかりますっ……!」
まったくもって可愛らしい。けれど、この子は神との約定に
「それで、今日の話の主役はフォンテーヌ伯ということなのかしら」
「あっ、はい……そうとも云えますし、そうではないのかも……?」
どうやら、もう少し複雑な話のようだ。取りあえず、今は大人しく彼女の話を拝聴しましょう。
「先日王宮で
アベルは、思い出すようにこめかみに指をあてると、ぽつりぽつりと、その時の様子を語り出した……。
†(人称が変わります)
「これは聖女様、初のお目見え
フォンテーヌ伯アルフリードはアベルの手を取ると、
「初めまして。アベル・エルネスハイムにございます。どうぞ大神様の加護のありますよう」
アベルが舞踏会や貴族の行事に顔を出すのは、他の貴族達とはいささか用向きが異なる。
アベルは聖女――彼女自身の気持ちとは無関係に、彼女の身体や心、そして言葉に至るまで、そこには神性とでも云うべきなにがしかの聖なる力が宿っている。
アベルの口から出でた祝福、
国を支えるべく、王の
また逆に、こうした場で貴族達に祝福を与えることが、教会にとっては
もしかしたら、教会としてはアベルに貴族
「さすがに神の恩寵を受けた方……まるで神話の女神に生き写しのような
いつもなら、祝福を与えてそれでご機嫌よう――という流れだが、このアルフリードという男は違った。取った手を離さず、ねっとりとした
「あ、はあ……それはどうも、ありがとうございます……」
――聖女というのは、神に身を
アベルも、よもやそんな自分に粉をかけてくる男性がいるとは思いもよらず……真意を図りかね、思わずやや間の抜けた受け答えをしてしまう。
「……どうやら、聖女様は私をお気に召さなかったようだ」
(えっ……)
するとどうだろう、アルフリードの表情が面白いように変わっていく。
波が引くように、湛えていた笑顔が枯れると、冷血な、少しぞっとするような素顔が現れた。
「失礼します、聖女様」
「はい……」
そんな風に、何故かひどく
†(人称が変わります)
「ぷっ……ふ、ふふっ……ああ、ごめんなさい……」
私のそんな話を聞いて、カイン様は
「な、何かおかしいところがありましたでしょうか……?」
「ええ、もう最高……
云いながら、カイン様はとても楽しそうにしている。
「ごめんなさい。貴方にとっては嫌な思い出だったのよね」
「いえ……カイン様が楽しめていらっしゃるなら、それは構わないのですが、ただ……」
「私の笑った
「はい……」
何でもお見通しなのか、カイン様はまるで無知な妹でも見守るような優しいお顔になる。
(ううっ、つまり世間知らずなのは私、ということですよね……?)
「いいのよ。そんな顔をしないで……貴女には必要のない、
筒抜けだ。つまり私は無知な妹、ということなのだろう。
「まあ一言で云えば、貴方は彼の
「えっ……」
私が、ですか……?
「フォンテーヌ伯と云えば、名うての
困ったようにくすっと微笑むと、カイン様は楽しそうに続けた。
「それを、『十五かそこらの小娘』が
「……ええっ?」
再び、私が驚いたような、
「ふ、ふふっ……貴女きっと、フォンテーヌ伯にも今のような表情をしたのでしょうね。さぞ、伯も
さっと優雅に扇を広げると、口元を隠してカイン様はこらえられずに笑っている。よほどおかしいのだろう。
「本当に、アベルは可愛らしいわ……抱きしめたくなってしまうわね」
「どうして急にそんな話に……!?」
「貴女に、どう説明をしてあげたらいいのか……そうね」
少し考えると、カイン様は席を立って私のところにやって来た。
「これは聖女様、初のお目見え仕ります……」
「えっ……」
そっと、カイン様は私の手を取って……あのっ、顔が近いのですが……!?
「私はザンダール公爵令嬢、カインと申します。どうぞ、神の
「ひゃっ、ひゃいいっ……!」
そう云って、カイン様は私の手の甲に
本当に、この人の
「……ふふっ」
「ね? 伯はきっと、貴女にこんな風になって欲しかったのでしょうね」
「えっ……あっ……」
そうか……私がポカーンと
いえ、実際に興味はなかったのですが……。
「理解、出来たかしら?」
「は、はい……わかった、気がいたします……」
「そう、それはよかったわ」
にっこりと微笑む。本当にお美しい。
もう、私なんかよりもカイン様の方がよほど聖女らしいと思います……。
「ですが、どうして私はフォンテーヌ伯にはドキドキしなかったのでしょうか……」
「ふふっ、そうね。つまりそれは私にはドキドキしてくれたということだから、多分面食いではあるのよね、アベルも」
「そ、そうですね……」
さすがカイン様、ご自分がすごい美人だという自覚と自信があるんですね……。
「恐らくだけれど、人は多かれ少なかれ、その人の後ろにある物語を重ねて見ているのでしょう」
「物語……」
「私と貴女には、互いをドキドキさせるだけの積み重ねがあるということね。もっとも、私の場合は初めから『恐ろしい公爵家の女』という物語が後ろにあるという部分もあるかしら」
「なるほど……私は、フォンテーヌ伯の評判すら何も知らなかったから」
「貴族の子女なら、フォンテーヌ伯の
私は、そもそもとして男女の交わりを禁じられている身。だから、そもそもそういった
「あら、顔が少し赤いわね。大丈夫?」
「は、はい……大丈夫、です……」
どうしてカイン様が相手だと、私はこんなにもドキドキしてしまうのだろう……?
「それで……主役はフォンテーヌ伯ではないと云っていたわね。話には続きがあるのでしょう?」
「あっ、はい、そうでした。それでですね……」
私はカイン様に
「その日は、それで終わったのですが……」
私は、記憶の糸をたどるように中空に視線をさまよわせた。
「その数日後に、ほかの伯爵邸で催されたサロンにお邪魔した時のことです」
「美しい
そんな声に振り返ると、
「お初にお目にかかります。わたくしはハルフォード伯爵が三女、デリダと申します」
「これはご丁寧なご挨拶を。アベル・エルネスハイムにございます。どうぞ大神様の加護のありますよう」
そう
それだけなら、聖女というのは好奇の視線を受けることも多いですし、気にも止めていなかったのですが……。
「……アルフリード様を袖にされたというので、どのような美しい方かと思いましたが、どうやら美しいのは御髪だけだったようですわね」
そんな言葉の後、周囲を取り巻いていた令嬢方も、一緒にクスクスと笑い出しました。
当の私はと云えば、会ったこともない人からのいきなりの悪口に思わずぽかーんとしてしまったのですが……そのお陰で、この人達は最初から、私を笑いに来ているのだと気が付きました。
「ふふっ、そうよね。云われた当の本人がキョトンとしているというのに……周囲が合わせたように笑い出したなら」
「そうなのです。私も、笑われてから初めて自分が馬鹿にされていることに気づいたくらいなので……」
カイン様が
「なるほど。つまりここが、この話の主題なのね……フォンテーヌ伯は、自分の
「うーん、特に証拠もないので、そう云い切ることも出来ないのですが……他に原因も思い当たらない、という感じでしょうか」
デリダ様もわざわざフォンテーヌ伯の名前を引き合いに出していますし、多分そうなんじゃないか、程度の
「……もしかして、その嫌がらせは今も続いているのかしら」
「ええと、まあ地味に続いていますね。たまたまどこかのサロンで
「そう」
私が答えると、カイン様は楽しそうににこにこしている。
「アベルのその様子を見ると、特に
「えっ……はい、まあ……そうですね。ちょっと面倒くさいかな、くらいには思うのですが」
神様に選ばれてから、見た目だけはかなり
「ふふっ、それならよかったわ」
私の
彼女達と同じ「くすくす」であるのに、カイン様のそれが不快でないのはどうしてなのでしょう?
「さて、アベルがしたくない話を
「ありがとうございます。ですが、こんな話で本当によかったのでしょうか……」
「ええ……ふふっ、ちゃんと楽しかったもの」
カイン様は楽しそうに、私に手ずからお菓子を用意してくれた……。
「ですが私、解らないことがあるのです」
「私の笑いの勘所が解らないという話かしら?」
「いえ、まあそれは……」
そこは先ほどと同じ問答です。私が世間知らずということですよね……。
「その、もっと気になっていることがありまして」
「あら、何かしら?」
自分なりに色々と考えをめぐらせてもみたのだけれど、やはり解らないことがあって。
「その……デリダ様はどうして、私に嫌がらせをしたのでしょうか」
私は聖女で、そもそも
「
「ああ、そういう話ね」
何か、納得の行く質問だったのだろうか。カイン様は小さく微笑むと、紅茶を口にした。
「どう説明すればいいかしら。人間というものは……特に女というのは、思っているよりもさもしいものなのだと思うわ」
「さもしい……ですか」
「デリダ嬢は、恋敵が増えないことよりも、貴女が自分の恋人に
「ええっ……!?」
私が驚くと、それがおかしかったのは、カイン様は扇を広げると顔を隠して肩を震わせた。きっとお笑いになっているのだろう。
「ふふっ、もう……そうね。例えばアベルがとても大事にしていて、人に褒めて欲しいくらいの飛びきりの宝物を持っているとしましょうか」
「は、はあ……」
「それをドキドキしながら私に見せる……すると、私がいかにも下らないものを見るような、冷たい受け答えをしたとするわ。そうしたら、アベルはどう思うかしら?」
「うーん……しょんぼりはすると思います。カイン様にはよいものではなかったのだなということなので」
「あら。ふふっ、困ったわね……たとえが悪かったかしら」
くすくすとカイン様は肩を揺らす。ええっと……?
「そこは、『
「あっ、そうなのですか……!? カイン様なら、理由もなくそのような態度をお取りになられないかと思ったので……!」
「…………」
私がそう答えると、カイン様の目が丸くなってピタッと動きが止まった。
「あ、あの……?」
恐る恐る声をかけると、カイン様は困ったような笑い顔になった。
「まったく……アベルは私を買いかぶり過ぎているわね。そこは改めさせないといけないかしら……」
「えっと……申し訳ございません……?」
「云い方を変えましょうか。私にではなく、貴女が
「……なるほど! それはちょっと一発くれてやりた……いえ、一言
「まあ……ふふっ」
いけない。つい孤児院の頃の気持ちで考えてしまいました……私が「一発くれる」なんて思わず云ってしまったのが意外だったのか、カイン様はちょっと驚いてから、楽しそうに笑った。
「男にとって、墜とした女の数は
な、なるほど……。
『自分のことを墜としてモノにした男を莫迦にするな』
そういう、ご自身の
「それではデリダ様の嫌がらせは、一体いつまで続くことになるのでしょうね……」
「さて、それは私にもわからないわね。貴女がデリダ嬢を面白がらせなければ、そのうち
「?」
カイン様は少し眉根を寄せて、困ったような表情で――けれど、すごく楽しそうに。
「――女を信用しないことね。特に金持ちと貴族の女は」
ただ一言、そう
そして私には、その言葉の意味がまだ理解出来なかったのですが……。
「……う、うぅん……?」
まるで、その言葉は予言であったかのように、私に
†(人称が変わります)
――カインがアベルとフォンテーヌ伯の話をしてから、半月ほど経ったある夜のこと。
「申しわけございませんお嬢さま、お耳を」
「……どうかして? サンドラ」
珍しく、切迫した表情のサンドラから一報を入れられて、カインは顔を
その表情は、不思議と
「面白いわね。そこまでの男とも思えないのだけれど――取りあえず
「承知しました」
サンドラが扉を出るのと入れ替わりに、着替えを手伝う侍女達が部屋に入ってくる。
「さて、間に合うのかしら。こんな経験は初めてだけれど……まあ、きっと大丈夫でしょう」
ドレスを脱ぎ捨てながら、カインはひどく愉快そうだった。
「大丈夫でなかったら――まあ新しい聖女が
「……ここは」
アベルは意識を失っていたようだ。気づけば、見知らぬ部屋に寝かされていた。
「っう……私は、確か……」
ずきずきと痛む頭を押さえながら、気を失う前の出来事を思い返そうとする。
「ああ、そうか……マイヤー
マイヤー子爵令嬢イポリアは、デリダの取り巻きのひとりだ。アベルもそれは知っていたし、警戒もしていたのだが。
「これは、何か薬を
――頭痛、そして幾ばくかの気だるさがある。いくら知識のないアベルでも、なにかしら一服盛られたのだろうというのは想像に
「それにしても、ここは
聖女の自分を誘拐しても、出来る要求など何もない。それどころか、誘拐したというだけで恐らく
そうなると殺害するくらいしか思いつかないが、いくらデリダ嬢が自分のことを憎いと云っても、露見すれば一族
「そうなると……」
そんなことに頭を巡らせていると、扉が開いて何者かが部屋に入ってくる。ハッとして寝台から立ち上がるアベルだったが。
「――こんばんは。いい夜ですね、聖女様」
入って来た人物の姿に、アベルは思わず息を
それほどに、美しい男性だったからだ。
長い
フォンテーヌ伯も
しかしアベルが息を呑んだのは、その男の美しさ故ではなかった。
「あの、ここは……何処ですか?」
「ここは
彼はしがないと云うが、部屋の装飾はなかなかに
「
――そこで、アベルにも何が起きたのかを理解した。
純潔を失えば、アベルは聖女としての力と、その地位を失う。
これなら殺すよりも簡単だし、何よりもそれをアベル自身に責任を
「
膝を突き、大仰に
「なるほど……私も、なかなかに短い
アベルは困惑したように肩をすくめると、不満そうにそんなことをつぶやく。
「おや、抵抗なさらないのですか?」
相手の反応が意外だったのか、仮面のような麗しい笑みが剥がれると、不思議そうに苦笑いを浮かべる――今度の表情の方が、アベルにとっては幾分か好印象に思え、こんどはアベルが聖女らしい微笑を浮かべて男をたじろがせる。
「何しろ聖女というのは神の加護があるそうで、本人が武器を持ったり、暴力で以て抵抗したりということは禁じられているものですから……」
これは本当だ。
「なるほど」
男は立ち上がると、少し態度が
「では落ち着いていただくためにお茶を――と思いましたが、考えてみれば、聖女様はお茶に薬を盛られてここへ
少しおかしさを
「その盛られた薬のせいなのか、どうにも
「ふふ、不用心ですね。別に眠り薬と云わず、この館には女性の快楽をお手伝いする種々様々な愛の薬も揃っているのですよ?」
「それならそれで、無理やり開かせられる花ならば、お薬の力を借りた方が痛みもないでしょうし……そのような説明をわざわざして下さっている時点で、お茶に薬を仕込むつもりはないと云っているのと同じことですから」
「そういうものですかね」
男はくすくすと笑いながら、アベルのためにお茶を用意してくれる。
「お口に合えばいいのですが」
「ありがとうございます」
やや
「はぁ……喉の苦みが洗い流されます。とてもいい香りですね」
「当館自慢の、香ばしく
「上品な香りでいいですね」
「上客に貴族の方も多くお
男は、自分の分なのか、もう一杯カップにお茶を注ぎ始める。
「……話に花が咲いているようね、師匠」
するとそこに、アベルにとっては聞き慣れた声が。
「か……カイン様!?」
現れたのは確かに、カインその人だった。夢でも見ているのだろうか? そんなことを思わず考えてしまうほどの突然の登場に、アベルは
「一応、急いで馬を走らせて来たのだけれど……心配はなかったみたいね」
「いえ、そうでもありません。カイン様からの
男はしつらえのいい椅子と
「ありがとう師匠。逢うのは随分と久しぶりな気がするわね」
カインは優雅に腰かけると、男の姿を見て微笑んだ。
「私がなにを云える身分でもございませんが、そろそろその呼び名はご
男はカインに師匠と呼ばれると、何とも微妙そうな表情になって、その場に膝を折って
「ふふっ、どうして? 貴方は私にとってもっとも人生に於いて尊敬すべきお師匠様だというのに」
「……それは
「えっと……師匠というのは……?」
カインは、アベルが男との遣り取りに戸惑っているのにようやく気付いたのか、楽しそうに微笑んだ。
「どうやら、アベルは無事だったようね。本当に運のいい子……いえ、違うわね。これがきっと神に加護されているということなのでしょう」
「では、カイン様が私を助けて下さったのですか」
じわじわと、どうやら自分が助かったらしいという事実を実感し始めたアベルが目を
「助けた――というか、今回は相手が勝手にドジを
「ドジ、ですか……?」
「ふふっ……この娼館、私の父の持ち物なのよ。他の娼館に連れ込まれていたなら、さすがにこんな風にのんびりはしていられなかったわね」
「な、なるほど……」
カインの父であるザンダール公爵は、別名『夜の王』とも呼ばれる――こと後ろ暗い職業の裏には、必ずザンダールの名があると公然とささやかれる人物だ。娼館のひとつやふたつ牛耳っていても、今さら驚くような話でもない。
「貴女が
くすくすと楽しそうに笑うカインに、アベルはベッドから立ち上がるとゆっくりと頭を下げた。
「……ありがとうございます、カイン様。茶飲み友達程度の私にこのようなご厚意、どのようにお返しすればいいのか想像もつきません」
「構わないわ。私も楽しかったから……欲を云えば、もう少し楽しみたいところなのだけれど」
「えっと……も、もう少しとは……?」
キョトンとするアベルに、カインは血が
「この
「それが、カイン様の『後の楽しみ』なのですか? 私にはひたすら
「ふふっ、そこはもう私とアベルの趣味の違いというところかしら」
アベルは、カインの言葉が心からのものか、自分を気遣ってのものかと考えるが――。
「わかりました。ではお言葉に甘えて、後のことはカイン様にお任せいたします」
カインがあまりにも楽しそうに見えるので、その言葉を信じてみることにした。
天使というのは、まあ
「本当に? 嬉しいわ。では後のことは
二度も嬉しいと繰り返し、
「……そういえば」
アベルはそこで、心に引っかかっていたことがあったのを思い出した。
「えっと、エリーヤさん……でしたっけ?」
「はい。何でしょうか聖女様」
「先ほど、私に『気の毒だ』と仰有っていましたが……カイン様が助けに来るのはわかっていたのですよね? なのに、何故『気の毒』と……?」
エリーヤはそう尋ねられると、不思議そうに首を傾げた。
「ええ。だってそれはそうでしょう? せっかく、
優雅な笑顔でそう答える。アベルはちょっと驚いた顔をしてから、しばらくしてなるほどと
「ああ……まあ、そう云われてみれば確かにそうですね。しかもこの機会を逃したら、一生
そのつぶやきを聞いて、カインは扇の陰で小さく噴き出していた。
「そういうところ本当に正直ね、貴女という子は。ふふっ」
「いえ、これでもお
「そうね。枢機卿もいいお歳ですもの、貴女がそんなことを口にしたら、
笑い疲れた、というように扇の後ろで大きく息をつくと、カインは口元を隠していた扇を畳む。
「では帰りましょうか、アベル」
「はい……あっ、
アベルは、同行していたマルコがサロンの外で待機していたことを思い出した。
「そうね。恐らく無事だろうとは思うけれど……今は所在を確かめようがないし、貴女を家に送り届けることしか出来ないかしら」
「そうですね……」
「そんな顔をしないで
「そ、そうでした。私、危うく自分が聖女の力を失うところだったんでした……」
「……このドレスだと、少し目立つかしら。師匠、この子に何か
「承知しました。下女たちに何か用意させましょう……聖女さま、どうぞこちらに」
「あ、はい。ありがとうございます」
エリーヤに呼ばれた下女について、アベルは部屋を出て行く。
「……実は、手を出せなくて残念だと思っているのではなくて? 師匠」
アベルのいなくなった部屋で、カインはエリーヤに笑いかけた。
「さてや教会と神の秘蔵する美しき花、その
「あら、この私を
「だからこそですよ。命を
エリーヤが
「では、代わりと云ってはなんだけれど――一人『お願い』したい子がいるの。アベルほどの
「……そういうことでしたら、そちらはお任せ下さい。相手が名うてのフォンテーヌ伯だというなら勝負に不足はありません」
エリーヤの
「デリダ嬢だったかしら? お可愛そうにね……いいえ、これで真の愛に出逢えるということもあるでしょう。そこまで悲しむことでもないかしら……ふふっ」
†
「もし……もし……お目をお覚ましなさいませ」
「んっ、んんっ……はっ!?」
ガバッと起き上がり、腰の刀に手を掛ける。
「さすがの
マルコは、
「その声、もしやザンダール家の……」
「はい、侍女のサンドラでございます。ご無事なようでなによりかと」
「しかしこれは一体……私はマイヤー子爵邸で、聖女さまのお戻りを待っていたはず」
まだ視点が定まらないのだろう。
「恐らく、子爵邸で出されたお茶に眠り薬でも仕込まれたのでしょう。これを噛んで下さい、気付けになります」
「んっ、ぐ……!」
目の見えないところへ口に
しかし、お陰でぼんやりとではあるが目が
「ここは……」
「全体、これはどういったわけだ……」
「アベル様は、どうやらマイヤー子爵令嬢の
「なんですって……!?」
サンドラは、主人であるカインの
「それで、聖女さまは……!」
「我が主人が間に合っていれば、ご無事であろうかと存じます」
「そ、そうか……」
マルコとしては、
「……二度と、出先で出されたものに口はつけまい」
「それが
苦り切った表情のマルコに、サンドラは無表情のまま答える。
「それで? 貴女はこれからマイヤー子爵邸に向かうのか?」
「いえ、マルコさんをこうして放り出したということは、知らぬ存ぜぬを通す心づもりかと……であれば、今さら行っても
「では、貴女は何のためにここに……?」
「――貴女ですよ、マルコさん」
「私……?」
思ってもいなかったサンドラの言葉に、マルコは目を見開く。
「
「あ……ああ、なるほどそういうことか……」
相手は子爵家だ。誘拐と聖女の力の
成功することが前提ならば、殺すよりも面倒がないからだ。
「マルコさんにはお気に召さないことでしょうけれど、アベル様はただ今カイン様の
「……いや、それについては、私も全く同意見だがな」
「では、このたびのことにつきましては、マルコさんもカイン様にお力添えをいただけますでしょうか?」
無表情なサンドラの問いかけに、マルコはしばらく考え込む。
「そうだな。ザンダール家の
「……面白いですね。貴女は教会に雇われているのではありませんか」
ずっと表情を変えなかったサンドラが、そんなマルコの答に初めて
「雇い主は確かに教会だが、私は聖女さまをお護りする為にここにいる。あの方の害になるものを減らすことが出来るなら、多少の
「そうですか。まあ、こちらとしては
興味がない、という感じの言葉がサンドラの唇から
「では取り急ぎご同道を。恐らく我が主人がアベル様を連れて戻られることでしょうから――その道すがら、これからどうするかをご説明させていただければと」
「承知した」
マルコは服についた
†
「申し訳ありません、助けていただいた上に、私の
「構わないわ。私も、アベルが聖女の力を実際に使うところを初めて見ることが出来たから」
アベルが上着を借りる為に部屋を出てからしばらく経っても戻ってこないので、何事かとカインが探しに出ると、当のアベルは娼館の奥で病気で
最早死を待つだけだった娼婦たちは涙を流して感謝したが、当のアベルは楽しそうに、
「秘密ですからね?」
そう云って、ただ笑うだけだった。
「良かったのかしら?
「そうですね。ですがこの娼館に私は命を救われたわけですし、そのご恩を返すという意味では構わないのではないかと」
「ふふっ、そういうことならありがたく受けとっておくわね」
裏口から館の外に出ると、
「大丈夫? 寒くはないかしら」
「はい、お借りした
「そう」
話し込んでいると、
「……カイン様、まさか馬でやっていらっしゃったのですか!?」
「それはそうでしょう。お友だちの
くすくすと笑うカインの言葉に、アベルは思わず涙ぐむ。
「えっと、あの……本当にありがとうございます、カイン様」
「そうね。考えてみると、人助けというのは初めてかも知れないわね。たまにはいいものね、こういうのも」
「馬丁に背中を貸してもらうといいわ」
カインの言葉に馬丁は黙って
「あっ、はい。ご迷惑を……きゃっ……!!」
手を取り、馬丁の背に足を掛けた瞬間に、カインによってその身体は引き上げられる。
「えっ、あの……これは、ちょっと恥ずかしいのですが……」
アベルは、カインの
「アベルは馬に乗った事がないのね。馬の後ろ足の上は、激しく揺れるから人は乗せられないものなの」
「だからってその、これでは……ええと」
まるで、カインに抱きかかえられているようで恥ずかしいと思ったが、それを口にすることは出来なかった。
「恥ずかしがっているアベルも、それはそれで
そう云って止める間もなく、カインは馬に
「ひゃああっ……!!」
「それでいいわ。しっかり
初秋の月明かりに照らされ、
「ふふっ、慣れてきたわね」
胸元にしがみつくアベルの手が、少し
「カイン様、馬に乗れるなんてすごいです……!」
「貴族の娘ですもの。もっとも、馬に乗るのはお転婆くらいのものかしらね」
しばらく山道を降りていくと街が近づき、馬の速度がやや落ちてくる。
「そういえば、あの方はカイン様の何のお師匠様だったのですか……?」
「あら、娼館で教わることと云ったら、ひとつしかないでしょう。肉の
「そ、そうなんですね……」
アベルには刺激が強かったのか、そう聞かされて目を白黒させている。
「ごめんなさい。ちょっとアベルには刺激が強すぎたかしらね」
「いえ、それで行きますと、私には一生刺激が強い話のままなので……」
「ああ、そうだったわね」
この子は本当に、普通の人間と考え方が違う。カインはそんなことを考えて、口元を緩めた。
「――以前、貴族の子どもの話をしたでしょう。
「あ、はい。覚えていますよ」
「あれは、私のことよ」
「えっ……」
アベルはそこで驚いた。
「昔、男女の
「それは……大丈夫だったのですか?」
「ふふっ、当然
「ええっ……!」
「権力があるのは私自身ではなく、私の身分にあるのだから……それを隠して娼館に遊びに行けば、もちろん誰に
「では、もしかして……」
「そう。その時に私の純潔を食い破り、あらゆる手で三日三晩快楽の泥沼に
「そ、そんなことがあったのですね……」
「父が、三日戻っていないことに気が付いて探してくれなければ、私はそのまま快楽
楽しそうに微笑むカインに、アベルは返す言葉を見つけられなかった。
「そんな顔をしなくていいわ、アベル。私はこうして生き残っているのだもの……そうでしょう?」
困ったように笑うと、カインは少しだけ馬の足を速めた……。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
ザンダール公爵邸に戻ってきた。馬から降りると、使用人がカインに耳打ちをする。
「そう。それは良かったわ……アベル、迎えが来るそうよ。それまで少し待っていてくれる?」
馬を馬丁が引き取り、使用人が去る。カインに促されてアベルも歩き出した。
「迎え、ですか?」
「貴女の侍従は無事だったそうよ。うちの使用人が子爵邸のそばで倒れていたのを見つけたらしいわ……今、お父様のところに行っているらしいから、少しだけ待っていて頂戴」
「本当ですか! よかった、マルコも無事だったのですね……」
心底安堵したのか、アベルは胸をなで下ろしたようだった。
「その、カイン様……このたびは本当に、ありがとうございました。私のような
「いいのよアベル。私は、その貴女の半端なところが、とても気に入っているのだから……ふふっ」
カインはゆっくりとアベルを抱きしめる。
けれどその裏で、少しだけ
†
「……よろしいかな、マイヤー子爵」
「は……」
数日後、アベルを奸計に
「私の持ち物である娼館にこのような無法を持ち込まれては、さすがに私としても見過ごすわけには行かなくてな」
ザンダール公爵のそばには、サンドラともう一人、アベルの護衛であるマルコが控えている。
「私の娘が、よもやそのようなことをしでかしたとは……まったくもちまして、その……」
それはそうだろう。突然貴族界を闇から
「しかしこれは
「は、はい……いえ、まことに汗顔の至りでして……その……」
総てはもう、何もかもが遅かった。すでに事態の主導権はマイヤー子爵の手には残っていないのだ。
教会に事件のあらましを伝えれば、王家によって、恐らく子爵家はよくて
それが嫌だというのなら、マイヤー家は一生、ザンダール家の支配を受け容れるしか手はないのだ。
「……
頭を垂れたまま、マイヤー子爵はその言葉を、喉から
「まったく、我が娘ながらどこでこのような
「あれが男であれば、我が家も
笑いながら立ち上がると、目をすがめて窓の外の青空を見つめていた……。
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