紗衣香の誕生日

伊統葵

紗衣香の誕生日

 テレビのあるリビングに行きたくなかった。どうせ、また、悲しみを乗り越えて立ち上がる被災地の人々と銘を打って特集でもしているのだろう。それで大衆を勇気づけるのは結構なことだが、私には逆に苦しむだけだ――

「さいちゃん、誕生日おめでとう」

 友達からメールが来た。ベッドに寝転がる。いつもは戯言専用だが、今日に限っては特別のものとなる。私は祝ってくれる親友の顔を思い浮かべた。

「ありがとう」

 その後、いつも通り彼女と他愛もない事、主に自分が休んでいた学校での事を中心に話をする。

「そういえば、誕生日何ほしいっていったの?」

「言ってないよ。今回はパパが選んでくれるみたい。楽しみ」

「いいなあ~。後で報告よろしくね」

 私はその言葉に「うん」と返し、メールを止める。体を脱力させ、天井をじっと見つめた。


 パパは私に何を買ってきてくれるのだろう。正直何でもいいというのが本音だ。パパは保護者の役割だけでなく、家族の一員として確かに可愛がってくれる。それだけで十分だ。

 ママは……。どうなのだろう。祝ってくれるだろうか。家族としては接してくれている。いつも無口、無表情であるが、私を気遣ってくれていることも分かっていた。


 窓から溢れんばかりの光が部屋を照らしている。カーテンを閉めた。体をうつ伏せにし、枕を取り寄せ、あごの下に敷いた。考えたところで仕方がない。「多分、大丈夫」と自分に言い聞かせながら、夕食に出てくるであろうケーキを思い浮かべ、行き場のない心を無理やり隠した。


 おかしい。単純にそう思った。リビングの時計の針は既に9時を回ったことを示している。パパはこういう家族との時間は大切にする人だ。何かあったのだろうかと心配する。宿題に取り組むが、内容は全く入ってこなかった。ママも流石におかしいと思ったのか少し前からスマホを見ながらそわそわしている。

「ママ、パパから何か連絡あった?」

 ママは無言で首を振った。急用の仕事が入ったのだろうか。

 テーブルに皿が用意され、お母さんが普段作らないような豪華な料理が所狭しと用意されているが、私の隣は空席だ。珍しくお母さんからため息が出た。

「ママ、もう食べよう?」

「……そうね」

 ママは下を向いて微かにそう答えた。


 パパが帰ってきた。玄関に向かう。全力で走って帰ってきたようで、肩で息をしていた。

「紗衣香、ごめん」

 所々に雪を被ったパパは申し訳なさそうに顔をゆがめた。その様子に拍子抜けした。本当は娘と妻を心配させといてその言い草はなによと言いたかった。久しぶりにプンスカ怒ってやろうと意気込んでいたのだ。でも、そんな顔をしたら、なにも咎められなかった。全く世話の焼けるパパだ。でも、こうして無事帰ってきてくれて本当によかった、心からそう思う。

「パパ、謝る前に何か言うことは? 私ずっと待ってたんだよ」

「……そうだな。ただいま。心配をかけた」

「うん。おかえり」

「麻衣はどうしてる?」

「リビングにいるよ。ママも心配して待ってたんだから」

「そうか。ママにもしっかり謝らないとな」

 服についた雪を払っているパパは柔和な表情を浮かべた。ふと、パパの左手にぶら下がる鞄が目につく。

「パパ、それは?」

「ああ、ちょっとな」

「運ぶよ?」

 受け取った鞄はかなり重たかった。思わず、取っ手の方を見ると、隙間から、「アルバム」と書かれた文字が見えた。

「ありがとう」

 パパは安心するように言った。


 食卓の中心にケーキがある。ケーキに突き立てられたろうそくの火は暗闇の中で光っている。パパと私で誕生日の歌を歌う。歌っている間ママはじっと私のほうを見つめるだけだった。パパは立ち上がって鞄の中から包装された小さな箱を取り出し、私に渡した。

「紗衣香、誕生日おめでとう」

「ほら麻衣も」

「……ん。おめでと」

「パパ、ママありがとう」

 顔が暗くて見えずらいがママは微笑んだようだった。それをしっかり目に焼き付けてから私はフーッと息を吐いた。

 誕生日プレゼントはアナログの腕時計だった。ベルト部分がキラキラと光沢を示していて可愛い。ママと色違いのお揃いのやつだ。多分ママが選んでくれたものだと思う。

 そう考えるととても嬉しかった。


 急に目が覚めた。時計を見てみると日付が変わる時刻に近づいていた。台所の電気はついていた。どうやら私はリビングのソファで寝ていたらしい。気だるくなった体を起こし、毛布をどけた。パパとママは既にいないようだった。私はソファに座り直し、背凭れに身を任せる。

 丁度、窓に自分の姿が映った。パパにも、ママにも、似ていない顔だ。


 15歳になった。人生が100年とするならすごく小さく見える。けど大人になるのが18歳と考えるなら途轍もなく大きなものに見えてきて、私を得も言われぬ気持ちにさせる。瞼を閉じて、これからの私を想像してみる。高校へ行って、大学や専門学校に行って、就職して、結婚して、出産して、人生を送る。でもその中で私が笑っている姿が想像できない。いずれパパやママ、今の友達だっていなくなってしまう。今のように幸せで立っていける自信がない。

 私は養子だ。物心ついた時から知っている。東北地方太平洋沖地震。所謂、東日本大震災。あの大災害で私だけ生き残った。他の全てを消し去って――その時の記憶は何一つ覚えていない。知っていることは後から聞かされたものばかりだ。

 すでに更地なっていたかつての家を見た。奇跡的に残ったしわくちゃの家族写真も見た。実の父親は私を庇って、瓦礫に落ち潰されて死んだと聞いた。そのどれも実感が湧かず、本当の意味で何も感じることはなかった。災害の悲惨さをこの身で体感しながらも、それを何一つ分かっていない。


 このままでいいのだろうか。私だけが生きる人生を送っても。その問いが庇った父親、家族に対しての冒涜する言葉だと知っている。だが、そう考えずにはいられないのだ。せめて、何かを覚えていれば良かったのに。


 瞼を開く。そこには何も変わらない景色。やはり未来も過去も考えても意味はないのだろう。少し苦笑した。私は思春期と呼ばれる難しい病にかかってしまったようだ。


 翌朝、パパは私を外へ連れ出した。ママは一緒ではないが、昨日もらった腕時計は一緒だ。現在私は車に乗って、常盤自動車道を走っている。どこに行くのかとパパに尋ねても、秘密の一点張りだ。何となく行く場所は分かっていたが、私は大人しく車の揺れに身を任せることにした。

 私の予想は的中した。私の誕生日は三月十一日。つまりはそういうことだ。

「貴方方から預かった紗衣香を大切に育てています。これからも紗衣香を見守ってやってください」

 隣でパパが手を合わせていた。その声ははっきりと透き通っていて確固たる決意を感じさせるものだった。

「ほら、紗衣香も」

「うん」

 見慣れない名前が書かれた墓を前に、私は言われるがままに膝をついて、目を閉じた。見守っていてください、そう心に唱えた。毎年恒例のものであるが故に、伝える言葉は定型文だ。非情かもしれないが、それしかできない。いや、それ以上の言葉を伝える権利がないというべきか。パパは私に良かれと思ってやっているのだろうが、ただ苦しいだけだった。

 パパは私を乗せて再び車を走らせた。一時間くらい経った頃、ある高台についた。パパの進みに従って歩く。私には見覚えのない街並みが見えた。

「ここどこ?」

「紗衣香と初めて出会った場所だ」

「えっ」

 パパから出た初耳の発言に驚く。

「紗衣香ももう15歳。あと一カ月で高校生だしな。言ってなかったことを伝えようと思ってな」

 そう言うと、パパは格子柵の前にあるベンチに腰掛けた。そして、鞄の中から何かを取り出した後、ベンチに座りこちらに手招きをした。私はそれに引き寄せられるように隣に腰を下ろす。

「何?」

「アルバム」

 パパはそう言って、それを開く。

「紗衣香と本当の父親だ」

 パパはある写真を指し示した。指先には若い頃のパパと、赤ちゃんを抱えた笑顔を浮かべる男の人がいた。私はその写真に見入る。幼少期の写真を、本当の家族との写真を見るのは初めてだった。その写真から目を外した時、パパは静かに語り始めていた。


「パパはね、紗衣香の父親と友達だったんだ。あれは震災の2年前のことだったと思う。その日は彼と一緒にここでBBQをしていた。勿論、彼の妻も一緒でね。その時、私は彼に抱かれて眠っている紗衣香を見た」

 パパは私の方を一瞥し、続ける。

「彼は娘を見てすごく幸せそうにしていた。昔は一匹狼のとがった性格をしていたんだけど、立派に父親をしていた。その時私はそれを見て、いい家庭を築いていくんだろうなと漠然と思っていた。けど、それは幻想に過ぎなかった。彼が死んで、その娘だけが生き残っていると聞いたとき、彼の意志を守らなければと思ったんだ」

 斜陽が橙色の光で私達を包む。パパは今までに見たことがない表情をしていた。何かに耐えるようなそんな表情だった。


「何で今その話なの」

「紗衣香を守るためじゃなく、彼の為に私が紗衣香の親になったということを打ち明けるのが怖かった。ただそれだけの事だ」


 パパは嬉しそうに、けど力なく笑っていた。それは写真の中にいた本当の父親の笑顔と重なり、何処か安心する心地を覚えさせ、また燻る心を動かした気がした。



 帰り道、車の走る音だけが聞こえる中で、私はずっと考えていた。パパが今まで黙っていたことを告白した意味。もしかしたら、大した理由などなく、パパが臆病だったのかもしれない。

 不思議と、もっと早く言ってほしかったとは言わなかった。何故ならば、私も怖いから。私に勇気をくれただけでも十分なのだ。口が開いても、声を出すのが難しい。ママに似てきたなと独り苦笑する。やっと過去と向き合う決心がついたのだ。この機会を逃してはならない。


 深呼吸をして、もう一度挑戦する。

「パパ、行きたい場所があるんだけど――」


 思った以上に声は響いた。

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