嫁がいなくなった日
羽生零
1.
「スゲー、猿だってよ」
ラーメンをすすっていると、隣に座っていた
「珍しいよなぁ、野生の動物て」
「珍しいかぁ? 最近よく聞くぞ。猿だのタヌキだの、猪だのって」
「マジかよ」
頷いてまた麺をすする。言ったはいいが、正直そこまで野生動物を街中で見ることはない。テレビでよく見るようになったという程度で、都心ではそこまでない。ニュースで流れている話の大半は、ベッドタウンになっている多摩や埼玉の方での話なのだ。
「でもそうかもな、この辺でもわりとそういう話聞くし」
「そういう話? ああ、水道のアレ」
「そうそうアレよアレよ」
どうやら阿南は知っていたらしい。「アレってマジなの?」と話の流れを作ってくるが、半笑いで左手を軽く振る。
「いねーだろ。下水道のワニだろ? 日本の下水にワニなんているかよ」
「あやっぱり? てか、下水道のワニってアメリカかなんかの話だしなー」
「え、そうなのか」
初めて聞いた。阿南は一人で、白いワニがどうとか、マンハッタンがどうとか言っていたが、半分は聞き流していた。阿南の話は大抵が荒唐無稽な噂話だ。真剣に聞くほどのことじゃない。
「地下といえば、再開発の地盤調査ってどうなったんだ?」
「……あ?」
……と、適当に聞き流していたので、反応が遅れていた。急に話が変わったので何かと思えば、下水道、地下、地盤と話がいつの間にか遷移していったらしい。
「お前んちのあたりさ、地下開発とか新築の地盤沈下とか、なんかそういうこと言ってなかったっけ?」
「あー、言った。俺の家は大丈夫なんだけど、ちょっと心配なんだよな」
「いきなりそういう話が出だしたんだろ? 地下の空洞化とかそんないきなりならねーし、もしかしたら地下になんかいるのかもよ」
「なんかって……なんだよ」
「さっき言ったヤツ」
すまん阿南、聞き流していた。
「巨大ナマズがマジでいたらさー、最近の地震とか地盤沈下とか下水道のワニとか、全部辻褄合うじゃん?」
「辻褄?」
「巨大ナマズがいるから地震が起きて地盤沈下が起きてんだよ。で、下水道のワニの正体がソレ」
「…………何で下水道にナマズ」
「え、だってナマズって水ねーと死ぬだろ。魚だし」
それはそうなんだが、そういうことじゃなくてだな? いや、もういいか。
「馬鹿なこと言ってないでさっさと飯食えよ」
「分かった分かった……てかお前、弁当は? 嫁さんのいつもの愛妻弁当」
「んー、庭弄りで忙しくて作り忘れたって」
「ええ、何だそりゃ。朝に畑仕事するのは分かるけど、庭だろ?」
「家のことろくに手伝ってねーんだから、たまのすっぽかしだってうだうだ言えねーよ。嫁、あの庭気に入ってるらしいしな」
そう言う俺に、阿南は不満げな顔をしている。何だよと聞く代わりに視線をやってメンマを噛む。
「お前それさー、なんか怪しくね?」
「怪しい?」
「嫁さん、実は早起きして浮気してるんじゃねーの。それか実は、庭にこっそり男連れ込んでるとか」
「ねーよ」
「言い切れるか? 奥さん、自分が庭弄りしてるときは庭に入るなって言ってたんだろ」
それは事実だ。ただそれは、庭の整備に集中したいのと、土まみれになった姿を見られるのが恥ずかしいからだ。そう嫁は言っていたし、俺はそれを信じていた。少なくとも、嫁は結婚してから変わった様子は無かったし、怪しいところなど無かった。
「人の嫁の浮気心配する暇あったら、彼女の一人でも作れよお前。童貞オツ」
「童貞で悪いかよ! このリア充め、爆発しろ」
軽いやり取りを交わしながら、流石に休憩時間が無くなると、二人して飯をかっ込んだ。
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仕事を終わらせ、家に帰ると嫁が夕食を作って待っていてくれた。嫁、尋子が作った飯は魚の煮付けに味噌汁、ほうれん草の胡麻和えと純和風だ。でも、和食だけでなく、色んなジャンルが得意で、特に魚料理は絶品。魚屋で安くて良い魚を丸々一匹買ってきては、自分で捌いて料理している。
微笑む嫁に美味い夕食。会話の合間に会社の愚痴を挟んでも、にこやかに宥めて慰めてくれる。とんでもなく良い嫁を貰ったもんだ。お互い趣味が合うのも最高だ。ダイビング、そして釣りは最近じゃ女性もよく参加するようになったけれど、それでも趣味がバッチリ合う女は、いままでほとんど会ったことが無かった。大学時代の友人と行った海水浴場でのナンパ。それがまさか、こんないい女との結婚に繋がるなんて思ってもみなかった。
そんな最高の嫁の、目下の趣味はガーデニングだ。海の近くで暮らしてきて、あまり植物に慣れ親しんだことがなかった嫁は、新築の一軒家についてきた広い庭を大層喜んで、それからガーデニングにいそしむようになったのだった。
今日も今日とて嫁は庭に出ている。自宅とはいえ夜に出るのは危ないのではないかとも思うのだが、嫁は基本的に、俺が庭に出ることを許してくれない。
……いや、正確には嫁が庭にいる間に、俺が庭に出るのを嫌がるのだ。
阿南にも言った理由。浮気……なんて言われてあり得ないと返したものの、本当にそうだろうかと疑うような気持ちがあるのも事実だ。
…………ちょっとだけなら。
ちょっとだけなら大丈夫だろう。
俺は庭に続くガラス戸を開けた。リビングの、スライド式のドアを音を立てないようゆっくりと開ける。
と、声が聞こえてきた。嫁の声だ。……スマホで誰かと話しているのだろうか。
マジで浮
途端に腹の底が冷えたような、目眩が起きたような感覚に襲われる。もし本当に男がいるなら確かめないと――と思うものの足が動かない。ただ、耳鳴りがする中で異様なまでに聴覚が研ぎ澄まされて、ぼんやりとしか聞こえていなかった嫁の声が微かに聞こえた。
「わた――――ふか――――」
聞き取れたのはそれぐらいだった。もっとちゃんと聞こうと無意識に足を踏み出したその時、かなり近くで救急車のサイレンが鳴った。家の前を通り過ぎたのではないかというほどの音量にびくっとなる。俺はそろそろと足を引っ込め、そしてそっと戸を閉めた。
エアコンの風が体に当たる。酷く寒い。背中にびっしょりと汗をかいていた。そのせいで、夏だというのに寒かった。
……嫁は何を話していたのだろう。
ぼんやりとそう思ったが、それ以上のことは考えられなかった。風呂にでも入ろう。熱い湯を被ればこの気分もちょっとはマシになるかもしれない。
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翌日。俺は嫁への疑いをなるべく顔に出さないよう、神経を使いに使って仕事に出た。嫁に変に思われなかったか? もしかしたら逆に、俺が浮気を疑われちゃいないか? そんな考えが通勤電車の中に揺られる俺の頭を支配していた。
仕事が始まっても切り替えが上手くいかない。
塞ぎ込んでいるというのが、どうにも職場の同僚や上司にも見て取れたらしい。大丈夫か体調悪いのかとちょいちょい聞かれて、余計に塞ぎ込む。表に出るほど嫁の浮気を疑ってるっていうのが、情けなくってしょうがなかった。
「――ま、あんなことがあったし、気が気じゃないよなぁ」
食堂。昨日と同じように阿南が俺の隣に座って話しかけてきた。視線は相変わらずテレビの方へ。手元を見ず、器用にうどんを食っている。夏場によく温かい肉うどんを食う気になるな……と真っ先に思い、そして言われた言葉が遅れて頭の中に入ってきた。
「あんなこと……?」
「あ? なんだ、アレのこと気にしてんじゃねーの?」
アレ、と言いながら箸をちょいちょいと振って阿南はテレビを指し示した。俺はテレビを見る。そこに映っていたのは、昨日と同じワイドショーだ。何かの特集的なものをやっているらしい。
「地盤沈下……」
「お前の家がある辺りだろ? てっきりそれで塞いでんのかと」
「あ、ああ……まあ、そうだな」
「……?」
「……いや……実はな」
俺は嘘を吐くのを止め、本当のことを話した。元はといえばこいつが悩む羽目になった元凶だ、一緒に頭を悩ませてもらおうじゃないか。
「――というわけなんだが」
「ふーん。わた……ふか……ってなんだろな」
「わた、ってのは私、とか私たち、とかそういう感じだったと思うんだよ。ただ、ふか……ってのが分かんなくて」
「ふか、ふか……ふかふか? なに、ふかふかしたもんが欲しい?」
何言ってるんだこいつは。目ん玉に箸を突き刺してやりたい。
「あ、いやいやいや、真剣に考える、考えますから怒らないで。怖いんですけど」
「……で、他の考えはどうだよ」
「いやそんな急に聞かれても。……んー、あー、ふか、ふか……フカヒレ? 嫁さんフカヒレ食いたいの?」
俺はテーブルの上に置かれていた阿南の手を箸で突き刺した。悲鳴が上がったが知るか。目じゃないだけありがたく思いやがれ。
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結局、嫁が何を話していたか、思い至らないまま締まりのない仕事をどうにか終わらせて帰宅した。玄関のドアを開けるとカレーの匂いが漂ってきた。金曜日はいつもカレーだ。俺たちの地元に海自の基地があったせいなのか、いつの間にかそういうことになっていた。
リビングに入る。しかし、嫁の姿はそこに無かった。
いつも玄関で出迎えてくれるというわけじゃない。できたての料理を用意するために、俺が帰ってくるだろうタイミングで作り始めてくれるから、帰ってきたときはキッチンに立ってることが多いのだが。リビングに入っても「おかえり」の声は聞こえてこなかったし、俺がキッチンに顔を出しても、そこに嫁は立っていなかった。
まさか、マジで、浮気?
ぞっとして俺は思わず庭の戸を引き開けていた。そこに嫁がいる気がした。
夏の夜、むっとするような熱帯夜の空気は、草花と土の匂いにあふれている。雑草は綺麗に刈られ、一方庭木は青葉を茂らせている。壁際のアサガオ、垣根のそばのひまわりがやけに目に付く。
庭に降りると、昨日と同じように微かに声が聞こえてきた。
……妙なことに、その声は反響しているような気がした。しかも、嫁の姿は庭にも無かった。もしかしたら物置にいるのだろうか。物置は庭の奥にある。そっちへと向かうと、声は近くなっていった。ただ、やはり変な聞こえ方をしている。くぐもったような、それでいて反響しているような。しかも嫁の声以外の、誰かの声も聞こえてくる。
男の声だ。
しかし、女の声もする。
いや、どちらか分からない。低いような高いような、唸るような掠れるような、単調なような抑揚があるような。
一人だけじゃない。大勢の声が聞こえてきている……気がする。
物凄い恐怖が這い上がってきた。
嫁が浮気しているかもしれないという恐怖なんて吹っ飛んでいた。得体の知れないものがそこにある恐ろしさが俺を締め付けるように包んでいた。緊張で震えが止まらない。全身が硬直するような感覚があるというのに、足は声のする方へと勝手に進んでいた。ざっ、ざっ、と土を踏む音が重く湿って聞こえる。
声がする。俺は足を止めた。声は足元からする。俺は足元を見る。
マンホールがある。
家の敷地に、道路にあるようなマンホールがあるというのは何だかおかしな話だ。しかもこのマンホール、特に装飾も何も下水かどうかの表示も無いような、やはり変なものだった。
何を思ったか、俺はマンホールを開けた。ごりごりと音を立ててマンホールが横にずれて短い芝の生えた土の上に落ちる。声が一瞬だけはっきり聞こえた。
「ここもそろそろ――」
そんな声が聞こえてきた。嫁の声だ。俺はマンホールを覗き込んだ。しかし、そこに嫁はいなかった。
マンホールの底は、夜だけあって暗いはずだ。倉庫には近づくとライトが点くようになっている。その僅かな光が、マンホールの底に届くだろうか? 俺の影になっているはずなのに?
だが、俺は確かに見た。そこには、魚がいた。いいや、ワニかもしれない。あるいは鱗のある、全く別の生き物かもしれない。
そこには鱗の生えた生き物がいた。二本の足で立ち、魚のようにのっぺりした顔をこっちに向けている。目蓋の無い丸い目がこちらを見ている。いくつも、いくつもの魚めいた感情の無い目が俺を見上げていた。
――気づけば俺は天を仰いでいた。
少ない星と半月が見えている。俺は仰向けにぶっ倒れていた。土が近いのに、鼻をつくのは潮の匂いだ。魚臭い、とも言う。俺はのろのろと起き上がり、開きっぱなしになっているマンホールを覗き込んだ。そこにはもう何も無い。誰もいない。何もいない。
マンホールを元に戻す。庭から家の中に戻ると、潮の匂いも土の匂いもしなくなって、カレーの匂いがした。
俺は炊飯器からご飯を、寸同鍋からカレーをよそってダイニングで食い始めた。ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、そして魚。サバカレーだな、と思う。背中がざらざらする。土がついているのだろう。分かっていたのに、服を着替えることも風呂に入ることもせず、ただカレーを食べた。
カレーは美味かった。作った嫁はどこにもいなかった。
その日から、嫁はいなくなった。警察に失踪届は出した。俺は嫁に逃げられた可哀想なヤツとして、職場でしばらく扱われた。ご両親に何て言おうかと重い気持ちで嫁の実家に電話したが、繋がらない。この電話は現在使われておりません――。
俺は有休を取って実家に帰った。実家の親は多くを言わずに慰めてくれた。一日、二日と家で過ごして、嫁の実家に行った。家は残っていたが、人の気配は無く、表札も無い。偶然出てきたご近所さんが俺に気づいて、嫁の両親がいつの間にか引っ越していたことを告げてくれた。
俺は海水浴場の近くに行ってみた。夏。俺と嫁が出会った季節。海水浴場にはまばらに人がいる。
嫁はどこにもない。
この地上のどこにも嫁はいない。海を見ていると、そんな気がした。
嫁がいなくなった日 羽生零 @Fanu0_SJ
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