思いのほさき

束白心吏

思いのほさき

 幾つもの滴が額の辺りから重力に従って落ちていく。

 文字通りの猛暑。寧ろ酷暑。最高気温が40度に迫るという朝の天気予報を思い出しながら、俺は額の汗を着ているTシャツで拭い、左手で持っていた手桶が汗で滑り落ちないように強く握りしめて舗装もされていない土の道を登る。

 暑い暑いとぼやきながらある所まで登ってくると、ふと線香の独特な香りが鼻をついた。

 誰か来ている……ということだろう。たぶん、いや確実に、俺の知っているあの子だろう。確信があった。

 俺は登る足を早める。アイツには最近避けられているから、この期を逃せばそうそう話せる機会は巡ってこないだろうという勘が急がせたと言ってもよい。とにかく俺は目的地に急ぐ。

 急ぐ道の先には俺の一族のご先祖様達が眠るお墓がある。月に数度、近くに住む祖母が掃除に来ているため奇麗だが、お供え物をすると鳥に食われるとよくぼやいている。

 山奥だから仕方ないことだ……なんてくだらないこと思考を巡らせながら早歩きしていると、やっと墓に着いた。

 よぉく目を凝らすと、一人の人影があった。咄嗟に急いで最後の滑りやすい斜面になっている坂を上る。坂自体は草が生えているような土の道なのだが、上りきってからは大理石になっているため、最後の一歩の足音が異常に響いた気がした。

 人影は俊敏にこちらに振り向く。


「よ。火夜かよ

みやこ……」


 先客──藝神うかみ火夜かよは俺を認識すると、とても苦々しい表情を浮かべた。

 昔から顔に出やすい奴だけど、そう嫌がられると多かれ少なかれ傷つくもんだな。


「ごめんね。すぐ帰るから」


 そう言って早足に去ろうとする火夜を、俺はすれ違い際、ほぼ条件反射のように手を掴んで止めた。


「俺もすぐに拝むから、一緒に帰ろうぜ」


 火夜は驚いた様子を浮かべたが、小さくこくりと頷いた。

 有言実行すべく、持ってきた手桶の中から線香を取り出し、ズボンのポケットに入れていたライターを取り出して火を点けて拝む。花は……火夜が可愛らしい花を持ってきて供えていた。俺のは仏壇の方にでも飾っておこうかね。



「今日は何で来たんだ」

「……電車」


 拝み終えた俺は登って来た道を先行しながら質問をしたが、火夜は視線を斜め先にそらす。相変わらず分かり易い。


「じゃあここまでは徒歩か……ウチ寄ってけ」

「いいよ。もう、私は帰るから」

「バカ言うな」


 俺は後ろに振り向いて火夜の目を見て言う。

 心なしか顔が赤い気がする。まあこんな暑い中を帽子もかぶらず長時間活動したのだから熱中症に近い症状が出ても不思議ではないだろう。


「こんな暑い中、全然暑さ対策してない奴を放っておけるわけないだろ」

「……」


 不承不承と言った様子で火夜は黙って俯く。

 自分でも蛮行だとわかっていたのだろう。取り敢えず一緒に持ってきていた手をつけていない市販の飲料水を渡した。


「それ、冷えてるから飲んどけ」

「……ありがとう」


 そう言って火夜は蓋を取って水を飲む。

 余程喉が渇いていたのか、その飲みっぷりは見ていて気持ちいいくらいだ。

 およそペットボトルの半分くらいを飲んで我に返ったのか、火夜はこちらを一瞥して素早い動作で蓋を締める。そして俺を追い抜いて下りて行ってしまう。

 隠す必要もないと思うのだが、火夜にとってはそうでないらしい。

 俺は追いかけるように下って行き、舗装された道路に出たところで肩を並べる。


「こうして歩くのも久しぶりだな」

「……そうだね」


 世間話のように振った話題だが、火夜の声は暗く、顔は俯き気味だった。無言で隣を歩く姿をクラスメイトが見たら別人と錯覚するだろう。

 本来、火夜はそんな性格の子ではない。隣を歩く様子からは想像もつかないが、明るく元気で、クラスでも人気者で、先生からの覚えもいい『優等生』だ。

 そんな彼女だが、俺だけは毎度避ける。それも巧妙に。事務的な話の時は明るく話しかけて来るから、たぶん俺以外はわかっていないだろう。

 これが好意からくるものであるなら……と考えられるほど楽観的な思考はしていない。というかため、考えることは出来ない。


「……まだ引きずってんのか」

「当然、だよ」


 常識と言わんばかりに即座に返ってきた火夜の台詞に自然とため息が零れる。


「何度も言うけど、あれは不慮の事故で、別に火夜のせいじゃない」

「……っ」


 火夜が俯かせていた顔を上げて思いっきりこちらを睨む。鋭い視線が突き刺さる。


「やめてよ。そんなこと言わないでよ」

「そんなことって……」

「だってそうでしょっ。私があの時……っ」


 自分の拳を震えるくらい強く握りしめている火夜は、懺悔するように続ける。


「私があの日、道路に飛び出さなければっ、都のお母さんは──え?」


 涙まで流しはじめた火夜の肩を軽く突く。

 大きく目を見開いて意外感を表現する火夜に苦笑しながら、俺は『尾羽おばね』の表札を掲げた一軒の家を指さしながら言う。


「着いたし、話の続きは中で、な?」


■■■■


 俺に両親はいない。こう言うと誤解されるかもしれないが、父さんは物心ついてすぐに病床に伏せてそのまま逝って、母さんもその数年後に子どもを庇って自動車事故で逝った。だから現在、俺に両親はいない。

 そして母さんの自動車事故に関して、火夜は強く責任を感じている。この時庇われた子どもというのが火夜なのだ。

 俺としては、別段火夜を恨む筋合いはないと考えている。確かに母さんは火夜を庇って死んだが、それだけだろう。というのが俺の意見だ。

 確かに、死んでしまって悲しいなとは思った。色々と大変なことも多かれ少なかれあった。だけど人の死とはいつかは訪れるもの。遅かれ早かれ、なのだ。

 老衰して逝った人に対し恨みを抱くことがないのと同じだ。身を呈して子どもを庇って死んだことで、憤りを抱く者がいるだろうか? いるかもしれないけど、少なくとも俺は抱かない。それにたぶん、あの時に俺が火夜を庇って死んだとしても、母さんは火夜を恨むことはなかっただろう。


「ほい。麦茶」

「あ……ありがとう」


 冷房が効いた部屋の中で、ペタン座りで座布団に座っていた火夜が顔を上げて、麦茶を受けとった。

 俺は木製のトレーに乗せてきたもう一つのグラスと、二人分のお茶請けをちゃぶ台に置く。


「こ、こんなにされても、悪いよ」

「客人が気にすんな」


 こうしないと俺がどやされるのだ。婆さんに。

 それにこれくらいはしないと落ち着かないというのもある。幼い頃、婆さん家に何百回と来て見ていたからか、そして俺自身も手伝っていたこともあってか、お客さんにはおもてなしという習慣が身に染み付いたようだ。

 渋々と言った様子で火夜はお茶菓子に手を伸ばす。


「これ、高級なやつだよね……」

「さあ?」


 婆さんが買ったんだか貰ったものかは知らないが、紙の品質的に安い物でないのは確かだろう。今まで考えたことも値段を調べようともしてなかったので首を傾げてそう返すと、火夜は半眼でこちらを一瞥して、袋を奇麗に開ける。小さく一口食べると、その両目を大きく開いた。


「美味いだろ」

「うん。お茶にとても合う」

「最近は親戚も全然来ないからって、俺も大量に持って帰ることがあるんだ。どうせなら、袋で持って帰ってもいいぜ」


 なんなら、俺の住む賃貸には婆さんから貰った大量のお茶菓子がある。勉強のお供に食べることも少なからずあるが、消費よりも早く追加分が補充されるので、火夜が貰ってくれると非常に俺が助かったりする。


「……」


 しかし火夜は思うところがあるのか、麦茶をちゃぶ台の上に置いて黙ってしまう。

 ……あー、地雷だったかも。特に俺が言うから。

 そんな直観が当たったのか、火夜は小さな声で呟く。


「私に、そんなよくしないでよ……」

「おい、火夜」

「止めて……そんな優しい声で呼ばないで!」


 火夜が叫ぶ。


「本当にやめてよ都……私はそんな優しくされていいこじゃない。私は、都のお母さんを殺しちゃったんだよ?」

「だからそれは誤解だって──」

「誤解じゃないよ」


 若干涙目になりながら、火夜は言葉を続ける。


「誤解じゃない……誤解じゃないから……ねぇ都、私のことを怒ってよ。恨んでよ……」


 縋るような視線が向けられる。

 今の今まで、俺は火夜を恨んだことはないし、怒ったこともない。そしてそれはこれからも同様だろう。それが火夜を苦しめる呪いのようになっているとわかっていても、俺はきっと火夜を責めることはないと思う。

 だけど責めた方が火夜も救われるのだろうとは思う節はある。まあこのことばかりは譲れないんだけどさ。

 俺は火夜の目を真っ直ぐに見る。


「……誤解だろ。あれは明確に母さんの意思だ」

「違うよ。だって私があの時道路に飛び出さなければ、ああはならなかったもん」


 ……確かに、そういった側面はあるだろう。そこは否定しない。だが、それが全てではないだろう。


「確かに、火夜があの時道路に飛び出さなかったら、母さんは死ななかっただろうよ」

「なら──」

「でも母さんは庇うことを選んだ。

 その結果、死んだ。

 別にお前が母さんを操って~、とかそんな話じゃないだろ」

「そうだけど……」

「なら、俺はお前を恨む気にゃならん。火夜もそう気に病む必要はねェだろ」


 俺は麦茶を一口飲む。冷たい。

 思考をクールダウンさせながら俺は口を開く。


「そもそも、お前はあのとき庇われたことを後悔してんのか」

「うん」

「即答かよ」

「だって都は天涯孤独になっちゃったじゃん」

「別に身寄りがなくなったわけじゃないけどな」

「だけど都の家、ここから遠いじゃない」


 まあ、電車で一時間、そこから徒歩で更に二時間はかかるから、遠いことに違いはないな。なおバスはないしタクシー代は高校生の懐に優しくない。

 だけど婆さん達の他が身寄りにならなかったわけではない。


「お前ん家だって時には助けてくれたろ。夕食のお裾分けとか」

「あったね……あれ? でも都、私の家で食べることは少なかったよね」

「それはお前が俺を避けてたからだろ」

「あ……」


 母さんが死んで以降、火夜は露骨に俺を避けていた。今以上に露骨だった、というか俺が視界に入ると逃げるレベルだった。

 最近はとても自然に避けてるのか、避けられてると周りが思うような露骨な避け方はしていないが……あれ、自然と避けるようになったの、昔から避けられてたからでは? まあいいや。


「そういえば、そうだったね」


 火夜が儚げに笑う。心なしかその目には涙が溜まっているように見える。


「あーあ」

「何だよ」

「どうして私なんかを庇ったのかなーって。庇わなければ、こんなことにならなかったのに」

「馬鹿なこと言うな」


 火夜の台詞に我慢ならず、図らずとも声音に怒気が孕む。生来の目付きの悪さも相まってか、火夜は怯えた様子を見せる。


「死者を冒涜してんじゃねぇよ。何があのとき私が死ねばよかったのに、だっ。母さんはお前を助けることを選んで死んだ。これでお前がどんな感想を抱こうと別に構わねぇけど、母さんの行動を否定するような言動だけはいただけない」

「ご、ごめん……でも私を庇わなければ、死んじゃうことがなかったのは事実だよ」

「親が子を庇って何が悪いんだ? 例え自分ちの子でなくとも、知り合いの子なら守る義務くらいあんだろ。それに見殺しにしてりゃあ俺は母さんを見放してたわ」


 本当にそうなるかはさておくとして、な。仮定だし。

 それに……


「つーかさ、救われた命なんだしそんな後ろめたさを引きずんな。

 母さんの墓参りだって毎年来なくてもいいんだぜ? もっと好きに生きろよ」


 どうせ、どれだけ悔やんでも過去には戻れないんだし……なんて言うと、俺も過去を悔やんでいるよう聞こえるだろうから口には出さない。

 しかし言葉にせずとも、おおよその事は伝わったのだろう。暫く考えこんでから火夜は口を開いた。


「都は強いね」


 そう言って、火夜はどこか羨ましそうに俺を見る。


「そうでもねぇよ」

「絶対強いよ。それに、優しい。だってお母さんが死んじゃっても今まで弱音一つ吐かないでさ」

「好きな子の前で目一杯に強がってるだけかもしれないぜ?」

「お世辞はいいよ」

「世辞でんなこと言える程、俺は器用じゃねぇよ」

「え?」


 火夜は本気で驚いた様子を見せる。

 あ……やべ。つい本音が。


「……そ、そういやこれからお昼作るんだけど、食ってくか?」

「じゃあ、お言葉に甘えて……ねえ、さっきのって」

「じゃあちゃっちゃと作っちゃうからテレビでも観てくつろいでいてくれ」


 何作るかね……なんて気まずさから目をそらすように思考を切り替えながら立ち上がると、火夜もまた立ち上がった。

 俺は火夜にジト目を向ける。


「くつろいでていいぞ」

「ううん。私も手伝うよ」

「客人に手を煩わせるほど大変な料理は作らねえっての」

「都だってお客さんでしょ」


 そこを突かれると痛いわな。

 結局どうにか丸め込まれてしまい、数分後、俺と火夜は同じ台所で肩を並べていた。


「そういえば、さっきの都の言葉」

「……蒸し返すなよ」


 丁度俺が薬味を切り終えた頃を見計らって、火夜が話しかけて来た。

 あー思い出すだけで恥ずかしい。いやホントに。


「あれ、私も……だから」

「は?」


 そっぽに向けていた顔を反射的に火夜の方に向ける。

 火夜の顔は赤い。だけど熱中症のような赤さとはまた異なる赤さだ。

 その赤さが、先の言葉が幻聴や都合よく俺の頭が作り出した音声ではなく、火夜が実際に発した言葉だと無理矢理に理解させてきた。


「あー、一応聞いとくけど……マジ?」

「……嘘でそんなこと言えるわけないじゃん」

「……」


 仰る通りで。

 にしてもマジか……嬉しいけど実感わかねぇわ。


「じゃあ……付き合う?」

「……うん」


■■■■


「この時間帯になると流石に涼しいな」

「すっかり暗いけどね」


 肩を並べて手を繋ぎ、俺と火夜は住んでいる街の歩きなれた道を進む。

 時刻は七時半過ぎ。日はとうに落ち、真ん丸なお月様が我が物顔で夜の街を照らしている。結局色々あってこんな時間の帰宅となってしまった。婆さんに捕まったのが運の尽きだった……。

 なお仲直り? をした俺たちは両想いだったことが発覚し、そのままの流れで交際関係に発展した。とはいえ今は、距離感がとても近くなって心臓に悪いくらいにしか思えないけど。


「そういえば都は課題終わらせたの?」

「んー、ぼちぼち」


 やってはいる。やってはいるのだ……1ページくらい。ほぼ手付かずと同義とか言うな。

 そんな俺の状況を察した火夜は「全然やってないんだね」とクスクスと笑いながら言う。


「んなこと言われても多すぎるって」

「そうかな?」


 こてんと不思議そうに首を傾げる火夜。その様子も可愛――じゃなくてこの反応、コイツもしかしなくても課題終わらせてるだろ。


「まあ俺は自分のペースでやるよ」

「見ようか?」

「見せてくれてもいいんだぜ?」

「それじゃあ都のためにならないじゃん」

「仰る通りで」


 会話が一区切りし、俺達は何となく顔を見合わせて、ほぼ同時に笑う。

 母さんが死んで以降、急速に疎遠になった俺達が、またこうして昔のように話せるとは夢にも思わなかったから何となく可笑しい気分なのだ。それは火夜も一緒なのだろう。少しだけ繋いだ手にこめられる力が強まった。


「少し前までの私なら、見せてたかもね」

「俺は拒否ってただろうな」

「えー、勿体ない」

「自分のためにならんだろうが」

「都はそういう性格だよね」


 よくご存知で。

 雑談しながら歩いていると、あっという間に自分の家に着いた。


「あれ? 都の家、そこだよね」

「送ってく。彼女に暗い中を一人で歩かせるような趣味は持ち合わせてないからな」

「……ありがと」


 あえて火夜の口角が上がっていることは指摘せず、解かれかけた手をきちんと繋ぎ直して道を進む。


「そういや勉強、いつするんだ?」

「え、本当にやるの?」

「そりゃあいい機会だし……」


 たぶんこういう機会を逃すと直前に泣くことになるし。

 わかっていながらも出来ないの、何なのかねぇ? なんて思考に耽りかけたところで、火夜が口を開いた。


「じゃあ、明日から頑張ろ?」

「えらく急だな」

「早く終わった方がいいでしょ? それに……今まで離れてた分、いっぱい一緒にいたいから」

「――」


 小さいながらもはっきりと呟かれた言葉に瞠目した。

 とても意外だった。火夜がそんなことを言うだなんて思いもしなかったから。

 けど何を思ったのか、火夜は突然慌てだす。


「あ、あああ別に他意はないからね!? 一緒にいたいだけ……でもないけど……ともかく! 明日から!」

「そこまで考えてなかったけど……わかった」

「――っ!! じゃ、じゃあ私ここだから」

「あ、最後に一ついいか?」


 俺は言葉と解かれかけた手に少し力を入れて火夜を引き留める。

 火夜は足を止める。振り返らないのは……恥ずかしいからだよな。


「俺も同じ気持ちだから」

「……じゃ、じゃあおやすみっ!」

「お、おやすみ……」


 先程よりも機敏な動きで火夜は自宅へと入って行った。

 見送った俺はシャツで団扇のように扇ぎながら来た道を引き返す。

 あー……暑い。夏だからかね? あ、日中暑かったからか。

 不思議と悪い気はしなかった。

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