はごろものためし
奈月沙耶
*
ふもとの大宮の春爛漫の桜花が終わりを迎えたころ、霊峰のいただき近くに天女の一団が現れた。
薫風にいざなわれるように緑濃く若葉を競う松林へと舞い降りてゆけば、波音がおだやかな海岸のくぼみに清水が湧き出た泉があった。
妙なることであると天女たちは踊り喜び、光がゆれる水面へと手をのばして笑いさざめいた。
(あら?)
十人寄れば十国の者というように集団の中に一人はいるもの、一人だけつまらなそうにあらぬほうをみやっていたひとりの天女が、あるものをみとがめた。
ひとりの男が松の樹の陰から首を伸ばして天女たちに見入っていた。頬を染めてぽかんと口を開いた顔がおかしくて、天女は
(なぁにあの顔、バカみたい)
男はいつまで経っても呆けた表情のまま松の樹にへばりつき、この世にあらぬ天女たちの美しさに見惚れている。
(人間の男ってほんとうに)
天女はあきれながらもいたずら心を起こした。領巾をするりとはずし手近な松の枝に預けてから、着物の裾を持ち上げて泉の中へと足をひたした。
「あなた。やめなさいよ、そんなこと」
「どうして? 気持ちいいわよ」
白いすねを更にさらして水面を蹴りあげれば、初夏の日差しを反射してしぶきがキラキラと舞い上がった。
さりげなく男が隠れた松の方を窺えば、男は顎がはずれるかと思うほど大きく口を開いていっそう顔を真っ赤にしていた。
(ああ、おかしい)
笑いをかみ殺し天女は大胆に膝の上まで脚を剥き出しにする。
品行方正な他の天女たちは眉をひそめて顔を見合わせ連れ立ってふわりふわりと飛び上がった。
「もう戻りましょう」
「もう少し遊んでいたいわ」
「置いていくわよ」
「ええ、けっこうよ」
ぱしゃぱしゃと水の中で足を動かしている間にほんとうに置いてきぼりにされた。
いいけれど。集団でしか行動できない並みの天女たちとは違うのだ、自分は。
肩を聳やかしてばしゃばしゃと水の中を歩きまわり泉の冷たさを楽しむ。その視界の端に、枝に掛かった領巾を抜き取りすたこら逃げていくあの男の姿が映った。
(え……)
思わぬ男の行動に、天女はぼうぜんと立ちすくんだ。
領巾を盗られた。あれがなければ天上へ戻ることができない。
天女は泉の中にたたずんだままぼうぜんと風に吹かれ、水面を見つめ、顔を上げて松の緑を見やり、天空を眺め、そしてまた足元へ視線を落とした。
ゆっくりと水の中からあがり、泉のほとりにすとんと座り込む。
いいけれど。蝶よ花よとひたすら美しいものを愛で、美しい音楽を耳にして、美しく舞い踊るだけの天上の毎日には飽き飽きしていた。
比べて地上の入り乱れているさまといったらどうだろう。ほこりっぽい匂いのする陽光。むせるような青葉の香り。耳を打つさざ波ととんびの鳴き声、土の匂い、水の匂いと潮の匂いもぶつかりあって、それらすべてが肌を刺す。
足の裏にはどうしようもなく地べたの感触。わたしは今ここにいる。
すうっと眼を開いた視界の端に、またまたあの男の姿がちらついた。持ち去った羽衣をどこぞにやって戻ってきたのか。
失笑を隠すように手で顔を覆い、天女はこれ見よがしにうなだれてしくしくと泣き始めた。背中に感じる気配で男が恐る恐る近づいてくるのがわかる。
「どうして泣いているのですか?」
「住処に帰れなくなってしまったのです」
天女は男と暮らしはじめ、やがて子どもをひとり産み落とした。そこまでのつもりはなかったのに。
親を亡くしてからひとりで暮らしていたという男の家は粗末な浜小屋で、暮らしは貧しく、天女も立ち働かなくてはならなかった。最初は物珍しく留まることはできても、どうせすぐに飽きてしまうだろうと、自分の性分をよく理解している天女はいつでも男のもとを立ち去るつもりでいた。
男が、盗んだ羽衣を行李の古びた衣服の間に隠していることは早くから知っていた。そんな男の不用意さをいつしか天女は愛おしく感じるようになっていたのだ。
冴えない男を支えてくるくると働き、子どもの世話をする。骨身を惜しまず尽くす自分の健気さに悦に入りもした。夫には自分がいなければダメなのだ。わたしはここに居なければ。
年月が過ぎようと男は変わらずうやうやしく天女に接し、大切にされていることも嬉しく感じていた。当然だ、このわたしが尽くしてあげているのだから。
そんなある日。よちよち歩きをするようになった子の手を引いて、男は浜辺に散歩にでかけた。夕餉の支度を整えてから天女も後を追った。
夫と子どもは、あの泉のほとりでのんびりと松葉ずもうをして遊んでいた。俯いたふたりは近づく天女に気が付かない。
まだ話もできない子どもの前で、男はとりとめなく物語っていた。
「……俺は何かせずにはいられなくて領巾を盗んだんだ。それで一緒に暮らせるなんて思ったわけじゃない。一緒に暮らしはじめてからだってそうさ。いついなくなってもおかしくない、そう思いながら毎日家に戻るんだ。戻って、領巾がなくなっていないか確かめるんだ」
盗み聞きして男の本心を知った天女は、身をひるがえして家に戻り、行李の中から羽衣を引っ張り出した。怒りに手が震えていた。
なんということだろう。あのぼんくらに、ずっと試されていたなんて。悔しさに目が熱くなる。
いつでも天に戻ることはできたのに、男のためにここに留まり、男のために尽くしてきて、子どもまで産んで。それなのにあいつはわたしを信じていなかった。これっぽっちも信じていなかった。このわたしが、ここまでしてあげたのに。
ぶるぶると肩を震わせながら涙を落とす。羽衣に涙のシミができた。それを眺めて天女はいったん心を落ち着かせた。
羽衣をきちんと元に戻して何食わぬ顔をして夫と子どもを呼びに行き、何食わぬ顔でいつもどおりに数日間を過ごした。
薄曇りで潮の匂いがことさら強い初夏の日の午後、エサをついばむ鶏たちの間で石を拾って一人遊びしている我が子を眺めていた天女は、思い立って再び行李の蓋を開けた。
ふんわりと、羽衣を肩にかけて小屋を出る。
地べたにぺたんと座って自分の手首に吸い付いていた子どもは、まん丸い黒い瞳で天女を見上げた。
(おさるさんみたい)
ふっと笑って天女は白い空へと舞い上がった。それきり戻ってこなかった。
はごろものためし 奈月沙耶 @chibi915
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