繋がる声は近く、届けたい想いは遠く

たれねこ

繋がる声は近く、届けたい想いは遠く

「もう明日なんだよな。美夜みやが引っ越すの」


 俺と幼馴染の美夜は夜遅くに家をこっそり抜け出して、近所にある公園に来ていた。そして、そこにあるベンチに並んで座っていた。

 三月の終わりというもうすぐ春という時期にも関わらず、夜はまだ春の気配が感じられないほどに肌寒いものだった。もしかすると、寒いと感じているのは気温のせいだけではないのかもしれない。

 いつになく重たい空気を感じながら、真っ暗な空を見上げてみるも、すぐ近くにあるポール灯のせいで、見上げた世界の三分の一はぼんやりと白んで見えた。


「そうだよ。だけど、見送りには来ないでよね? もし泣いちゃったら恥ずかしいし」


 隣に座る美夜に目を向けるとうつむき加減で、長い服の袖からのぞく指先を小さくこすり合わせているようだった。


「分かったよ。美夜が言うなら見送りには行かない。それに引っ越しても、今まで通りゲームしたり、ボイチャとかで喋ったりするだろうし、変わらないだろうしな」

「そうだね。そこはきっと変わらないかも。ただ、こうやって会えなくなる以外は変わらないよね、碧人あおと?」


 美夜は顔を上げ、俺を真っ直ぐに見つめてくる。その目は少しだけ潤んでいて、そのせいかポール灯の光を反射させ輝いている。どこか不安で仕方ないという美夜の表情を見て、ここで何かを言わなければきっと後悔するだろうなという予感めいたものを感じる。

 しかし、何を言っていいのか分からず、ただ美夜の視線を真っ直ぐに受け止め続けることしかできなかった。


「……そうだな。そもそも人も街も普段の生活も、そんなに簡単に変わるものでもないだろう? それに俺と美夜……もう何年の付き合いだと思っているんだよ?」


 結局、気の利いた言葉を思いつくことができず、いつものような軽い言葉を返してしまう。


「そうね。幼稚園から中学校までずっと一緒だったもんね。だから、もう十年以上の付き合いになるのよね。いくら碧人が暗記系の科目が苦手だからと言っても、それだけ付き合いの長い相手を忘れるなんてそうそうできないだろうし、そんな心配も必要ないよね?」


 そう言いながら笑う美夜の表情はいつもより暗いものに見えた。それが夜の暗闇のせいだけでないことは分かる。美夜が引っ越す前に見せる表情が曇ったままというのは、なんだか嫌だった。たとえ、本心は違っていてもこの街にいるときくらいは最後まで笑顔でいてほしかった。

 だから、考えるより先に立ち上がり、美夜の正面に立った。


「住む場所が離れたとしても、俺が美夜を忘れるわけないだろう。それにどんなに時間が経ったとしても、絶対に忘れない。だから、いつかまた会えたら、そのときは――――」


 そこまで口にしてハッと我に返り、勢いで言いかけた言葉の続きを呑み込んだ。

 急に冷静になり、これから引っ越しをして離ればなれになってしまう相手に伝えるべきではないと思ってしまったのだ。

 いや、きっとこれは言い訳だ。俺にはあと少し踏み込む勇気がなかっただけだ。

 今が夜で本当によかったと思う。きっと俺の顔は恥ずかしさから、赤くなっていたかもしれない。それほどまでに顔が熱い。だから、顔の前に手をやり、表情を読まれないようにしながら、


「とにかく、美夜は大丈夫だから。だから、その……またな」


 そうとっさに誤魔化すと、美夜は文字通り腹を抱えて笑い始めた。その表情を見て、俺はどこか安心して、ホッと胸を撫でおろす。美夜は笑いの波が収まると、


「うん。またね、碧人」


 そう笑顔を浮かべたまま、いつものように別れの言葉を口にした。


 それが俺と美夜が会った最後の夜のことで、今もあの言葉の続きは言えていない――――。


***


「美夜! 敵のアーマー割った! たぶん建物の中で回復してる」

『わかった。じゃあ、一気に突っ込んじゃおうか?』

「おうよ」


 いつものように夜にボイスチャットを繋いで、美夜と話しながらゲームをする。美夜が同じ街で暮らしていたころから変わらないいつもの日常。

 だけど、違うのは美夜とは簡単には会えない距離にいるということ。美夜は中学校卒業と同時に、親の仕事の都合で引っ越しをした。だから、以前のように家を抜け出して、公園で話したり、一緒にコンビニに行ったりなんてことはできない。

 それでも、今みたいに毎日のように一緒にゲームをしている。週末には動画配信サービスを利用して、同じ映画を観たりもしている。

 俺と美夜はいつも、いつでも声で繋がっていて、こうして話している間は遠くにいるはずなのに離れている感覚は薄かった。


『最後惜しかったね。あと少しで勝てたのに』

「そうだな。あれは相手が上手かったよ。それに最後の最後で俺はエイムが全然ダメだったし」

『そうだったね。でも、楽しかった。あっ、もうけっこういい時間だね。今日はそろそろ寝るね』

「分かった。もう遅い時間だしな。俺も寝るよ」

『うん。じゃあ、おやすみ。またね、碧人』

「ああ、またな。おやすみ」


 そうやって通話を終えてみれば、部屋には当たり前だけど俺一人しかいない。それだけでなくこの街に美夜はいない。美夜に会いたいと思っても、オンラインでしか接点がないのが実情だ。

 声だけはあんなに近くにいたはずなのに、現実の距離は残酷だ。

 こういう積み重ねが、俺の中で美夜の存在を次第に大きくさせていった。それと同時に不安も大きくなっていった。

 美夜に好きな人ができていたら、美夜を好きだと言う人がでてきたら――それ以前に美夜はこの街にいたころのように笑って過ごせているのだろうか。

 顔を見ることができれば少しは美夜の気持ちを察することができるのに、声だけでは分からないことの方が多い。

 今年で俺も美夜も高校も卒業だ。だから俺は美夜がいま住んでいる地域の大学か、美夜が行こうとしている大学、もしくはその近隣の大学に進学したいと考えていた。

 それほどまでに美夜が近くにいないという環境に耐えられなくなっていたのかもしれない。

 だから、またいつでも会える、そんな日が訪れたら俺は自分の気持ちを伝えようと思っていた。あの日、夜の公園で伝えることができなかった自分の想いを――。


 夏休みが目前に迫った終業式の前日。

 放課後になっても陽はまだ高く、すでに夏本番と言ってもいいほどの熱気が体にまとわりつくようだった。額に汗をにじませながら校門を出ると、スマホがポケットの中で震えはじめた。

 スマホを取り出して画面を確認すると、美夜からの着信だった。この時間に珍しいなと思いながらも画面に表示されている通話ボタンをタップした。


「よっす、美夜」

『やあやあ、碧人。今、通話しても大丈夫だった?』

「ああ。ちょうど学校終わって、校門出たところだし、タイミングとしては気持ち悪いぐらい完璧だったな」

『冗談でも、女の子相手に気持ち悪いとか言わないでよね』

「そうは言っても言葉のあやみたいなもんだろ。それで、こんな時間にどうした? 何か用事でもあった?」

『用ってほどでもないんだけど……』


 美夜のその普段とは違う歯切れの悪さにどこか違和感を感じてしまう。だけど、美夜が何を言い出すのか家に向かって歩きながら待つことにした。

 耳をすませば、美夜の歩いているような息遣いが聞こえてくる。もしかすると美夜も今は放課後で帰り道の途中なのかもしれない。そう思うと美夜がまだこの街にいたころのように、隣を歩く美夜の存在を感じることができる気がした。


『ねえ、碧人――』


 いつもの調子で美夜に名前を呼ばれる。そして、ひと息ついたような間の後、美夜が言葉を続ける。


『久しぶりにそっちの懐かしい景色や思い出の場所とか見たくなったの。だから、ビデオ通話にして、私に見せながら回ってくれないかな』


 そんな突然のお願いをされ、この暑い中を街中を歩き回るとしても、俺の中には断るという選択肢はなかった。


「分かった。いいよ」

『ありがとう。碧人なら、そう言ってくれると信じてたよ』


 美夜が隣で嬉しそうに俺を見上げてくる表情が、すぐそばにいなくても見える気がした。

 スマホの通話をビデオ通話に切り替え、美夜と一緒に街を見て回ることにした。


「それで美夜。どこか見に行きたい場所はあるか?」

『うーん……とりあえず、碧人におまかせで』

「美夜、お前な。思いつきなのかもしれないけど、適当すぎないか?」

『まあ、いいじゃん。私と碧人の仲なんだし』


 美夜は笑い声をあげる。そのせいで、流れでどんな仲なのかと聞き返すタイミングを失ってしまった。美夜からすればオレは幼馴染でそれ以上の感情は持っていないかもしれない。だけど、俺はそうじゃない。はっきりとどういう関係なのか言葉にされるのが少し怖かったので、聞き返せずにいたのは結果的にはよかったのかもしれない。

 そんな情けない自分に対してため息をついた。


『もしかして碧人、呆れてる?』

「そんなことないよ。じゃあ、今いる場所から近いところから、適当に回っていく感じでいいか?」

『うん。いいよ』


 鞄の中からマイク付きのイヤホンを取り出してスマホに繋ぐ。そうやって歩きながらでも会話できるようにして、最初に向かったのは俺と美夜が出会った幼稚園。

 敷地の外から、園庭で汗を流しながら遊んでいる園児の姿を映した。


『遊具とか、昔から変わってないね』

「そうだな。幼稚園の前は通ることはあってもこうやって中を見ることないから、すごい懐かしく感じる。建物自体も変わらないし、色々と思い出すよ」

『そっか、そっか。それでどんなこと思い出したの?』


 園児の声を聞きながら目を閉じる。それだけで記憶の中の幼い美夜が動き出す。


「美夜が男子に混じって、無茶ばかりしてたなって」

『そうだっけ?』

「そうだよ。ブランコの限界じゃないかってくらいの高さになるまでいで、さらに勢いよく飛びおりて着地に失敗して膝とか擦りむいたり、うんていの上を歩いたり――男の俺から見ても、ヒヤヒヤするような危ないことしてたぞ」

『ああ、そんなこともあったかも。そんなことよく覚えてたね、碧人。あのころは若かったよ、私も』

「なに年寄りみたいなことを言ってんだよ?」

『幼稚園児から見たら、高校三年生はだいぶ大人だよ?』


 美夜の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。昔からどんなことでも楽しんでいて、思い返してみれば思い出の中の美夜はいつも笑顔だったように思える。そんな無邪気さはこの幼稚園に通っていたころから変わらない美夜の魅力の一つだ。

 そんな美夜の表情を思い出し、思わず笑みがこぼれる。美夜の隣にいた俺もつられてよく笑っていた。だからこそ、美夜がいない高校生活は笑顔が減り、退屈な時間が増えた気がする。


「じゃあ、そろそろ次に行こうか?」

『はいはーい。案内よろしくー』


 美夜の気楽な返事に口元が緩んでしまう。ビデオ通話だけど、自分の顔が映っていないことにホッとする。もし今の表情を見られたら美夜にからかわれていたに違いない。


 次に向かったのは通っていた中学校。学校に近づくにつれ、下校途中の生徒とすれ違うようになった。着ている制服を見て、つい最近まで自分も同じものを着ていたなという、懐かしさがこみ上げてくる。

 中学校に到着し、フェンス越しにグラウンドをのぞくと、そこには部活で汗を流している生徒の姿があった。


『中学校はあんまり懐かしいって感じがしないなあ。まだ卒業してからそんなに時間が経ってないからかな?』

「そうかもな。でも、俺は少しだけ懐かしいかも。この暑い中、部活しているところを見ると、夏の大会に向けて、がんばっていたころを思い出すよ」

『碧人はサッカー部で汗まみれになってたもんね』

「まあな。でも、そう言う美夜も汗まみれで楽器吹いてただろ?」

『たしかに。吹奏楽部ってさ、なにげに体育会系だよね』


 そう同意を求めるように笑う美夜の声を聞きながら、俺は聞こえてくる吹奏楽部の練習している音に耳を澄ませる。中学生だったころも練習の合間にグラウンドでこうやって音を聞きながら、美夜もがんばっているからと気合いを入れ直して、練習に励んでいた日々を思い出す。

 思えば自覚をしていなかっただけで、俺はずっと美夜のことが気になっていて、片思いをしていたのかもしれない。しかし、距離が近すぎるうえに幼馴染という関係だったせいで、自分の美夜への気持ちの正体に気付けないでいた。

 美夜から引っ越しをすると聞いたときに、ようやく自分が美夜に向ける想いに“恋”というラベリングがなされ、実際に離れたことでその気持ちの大きさに自分でも驚かされることになった。


 それから中学校時代、二人で放課後によく寄り道していたコンビニで飲み物を買い、店の前でひと息つくことにした。


「それで美夜。他に行きたいところというか、見たいところはあるか?」

『うーん……じゃあ、暑い中、碧人にはたくさん歩いてもらったし、この時期によく言った川沿いで涼むってのはどう?』

「……分かった」


 これから向かう場所は川のそばということもあり、周囲より気温が少しだけ低く感じられる場所だった。美夜がこの街にいたころは特に夏場に帰り道にわざわざ通ったり、夕暮れ時や夜に家を抜け出して涼みに来たりと、思い出深い場所だった。

 しかし、今だけは行きたいと思えない場所だった。それでも美夜が行きたいと言うのであれば、行かないわけにもいかない。

 川沿いの道に辿り着き、まだ新しい舗装路の上をゆっくりと歩く。


『なんだか道が綺麗になってるね。私がいたころは砂利道で、脇には背の高い草とか生えてたのに』

「そうだな。一昨年の冬くらいからかな。ここをサイクリングロードにするとかで、整備されたんだよ」

『そうだったんだ……まだこの街を離れて少ししか経ってないけど、変わっていくものなんだね。勝手に何も変わってないと思ってた』


 美夜の声はどこか寂しそうに聞こえた。この川沿いの道には、今ではなくなってしまったが前は所々にベンチがあった。そこに座って、川の流れる音を聞きながら、夕方から夜に変わっていく空を眺めるのが美夜は好きだった。俺はその隣で空を見上げる美夜の横顔を見たり、同じように空を見たりしていた。そうやって、美夜と過ごす何もしない時間が好きだった。

 今思えば、気を遣わないでいい幼馴染で好きな女の子でもある美夜と二人きりで、のんびりと同じものを見て、同じを音を聞いていた時間が特別なもので、愛おしい時間だったのだと分かる。

 そして、変わってしまったからこそ、二度とあのころと同じ時間を過ごせないということが、どこか寂しかった。だから、俺は美夜に今の川沿いを見せたくなかったのかもしれない。

 思い出は思い出のまま、そっと胸の奥に大事にしまい込んでおきたかった。俺はこの道が整備されてからは、意識的にも無意識的にも来るのを避けていた気がする。


 どこか重たい雰囲気が通話越しに伝わってくる。もしかしたら、そう感じているのは自分だけかもしれない。


『ねえ、碧人』


 美夜の絞り出すように俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。その声は川の流れる音と近づく夜の闇に溶けていく。俺はけだるさのまとった返事をし、美夜の言葉の続きを待った。


『もう暗くなってきたし、最後にあそこに連れてって』

「わかった」


 具体的にどこと言われなくても、なんとなく察しがついた。まだ回っていない場所で美夜が最後に行きたいと思う場所は一つしか思いつかなかったのだ。

 それは俺と美夜にとっては思い出の場所でもあり、同時に別れの場所で。

 俺は引っ越しの前日の夜に、美夜に言えなかった言葉を未だに言い出せずにいる。今も言い出すきっかけを求めて、タイミングが来ることを待っているだけの勇気を振り絞れずにいるただの腰抜けだ。

 公園に着くころには、夜の暗さが辺りを包み始めていた。俺はあの日以来、この公園に入ることはなかった。避けていたというよりは通り過ぎることはあってもわざわざ中に入る理由がなくなったというのが正確だろう。

 あの日と変わらない公園とその中に点在するポール灯の明かりを前にして、少しだけ歩く足が重たくなった気がした。


『そういえばさ……あの日、碧人は何を言いかけたの?』


 あの日と同じポール灯の下で立ち尽くした俺に美夜の声が届く。この公園に来て、話す内容があの日の続きになるのは容易に予想できたことだった。

 緊張から震える唇を一度噛んで、何事もなかったようにいつものように美夜の言葉に返答する。


「どうせ美夜のことだから、俺が何を言おうとしたのか、だいたい分かってるんだろう?」

『そうだね……そうかもしれないけどさ、私の勘違いかもしれないじゃん? だからさ、言葉にしないと伝わらないものもあると思うの。特に大事なことはね』

「それもそうだな」


 美夜の言葉は俺に向けて言いながら、自分にも言い聞かせているようだった。

 しかし、美夜の顔が見れない今は、言葉の真意をうかがい知ることも美夜の僅かな表情や空気感の変化から心中を察することもできない。もしかすると勝手に自分の願望や気持ちを美夜に投影しているだけかもしれない。

 そうだったとしても、俺の心は美夜の声を聞いているだけで満たされてしまう。顔が見えないことで素直になれる気さえしてしまう。今なら美夜にお願いされるだけで俺はどんなことでもできてしまう気もする。

 そんな美夜に依存した勇気に情けなさと同時に笑いも出てくる。


『ねえ、碧人。あのときの続き、聞かせてよ?』


 最後の一押しとばかりに美夜の言葉が俺の背中をしっかりと押してくれる。目を閉じて、あの日の美夜の姿をまぶたの裏に映し出す。引っ越しを前に不安そうに表情を曇らせた美夜の顔が浮かんでくる。俺は美夜にはいつでも笑ってほしかった。そんな美夜を見るのが好きだったから。


「住む場所が離れたとしても、どんなに時間が経っても俺は美夜を忘れない。実際に今もこうして話しているし、美夜のことを考えない日なんて一日もなかった。そもそも毎日変わらずゲームしたりして話してるんだから、忘れようと思ったとしても忘れさせてもらえなかっただろうけどな。それで、あのときの言葉の続きだけど……いつかまた会えたら、そのときはずっと一緒にいられる――そんな関係になろう、って言いたかったんだ」


 思った以上に素直に言葉になって口から出てきた。俺のそんな告白と同義の言葉を聞いた美夜の息を呑んで言葉を探している、そんな雰囲気や空気感が隣にいるかのようにまじまじと感じられる。


『それって……どんな関係?』


 美夜はきっと、明確な言葉でどういう関係になりたいのか聞きたいのだろう。しかし、聞き返されると思っていなかったので、すぐには答えを口にはできなかった。だから、もう一度勇気を振り絞るために息と唾を呑んだ。


「――恋人、かな」

『そっか。そうなりたいと思えるほど、私のこと好きだったの?』

「そうだよ。悪いかよ?」

『悪くない、悪くない。それで、今は?』

「なんでそこまで言わないといけないんだよ?」

『私が聞きたいの! それじゃあ、ダメ?』


 そのままこの流れで勢いに任せて答えてもよかったが、いったん気持ちを落ち着かせるために間を取った。どうせすぐに会える距離にはいないし、いつかは自分から美夜に会いに行って、直接伝えるつもりだった。それは早くて来年の春くらいだろうか。

 そのときのための練習を兼ねて、通話越しだけれど、実際に美夜を目の前にしていると思いながら気持ちを込めて、先ほどの美夜の疑問に対する答えを口にする。


「今でも好きだよ。いつでも気軽に会えなくなって、どれだけ美夜の存在が俺にとって大きかったのか実感してる。日に日に美夜に対する気持ちは大きくなってる気がするくらいだ」


 素直に気持ちを言葉にして吐き出したのはいいけれど、美夜からは何もリアクションが返ってこなかった。その無言の時間が俺を不安にさせる。

 ふいに見上げた空は夜の闇にすっかりと覆われているが、あの日より立っている分だけポール灯の明かりに近いせいか、世界の半分が白んで見える。

 なにか間違ったかもしれないと、思わずため息がこぼれ落ちた。

 その次の瞬間、後ろから誰かに抱きつかれた。


「私も碧人のこと、好きだよ」


 耳元で聞き馴染みのある声にそう囁かれる。久しぶりに直接聞いた好きな女の子の声と、嬉しい重みと感触。夢かと思うけれど温もりと回された腕は現実のもので。

 だから、そんな突然のことでも驚くよりも嬉しさが勝り、自然と笑みが浮かんでくる。心臓はバクバクと高鳴っているのに頭は驚くほどに冷静だった。

 つけていたイヤホンを外し、息を一つ吐いた。


「なんでここに美夜がいるんだよ?」


 時間と距離を飛び越えて、あの日から変わらないいつもの調子で尋ねることができる。美夜はそれが当たり前というように抱きついて離れないまま、俺の質問に答えてくれる。


「夏休みの間ね、ずっとじゃないけどこっちで過ごすことにしたの」

「一言くらい言ってくれてもよかったのに」

「碧人を驚かしたかったの。どう、驚いた?」

「うん。驚いた」

「まあ、私もまさか今日、碧人にあんなこと言われると思ってなかったから驚かされたんだけどね」

「俺も今日伝えると思ってなかったから、自分に驚いてるよ」


 そのまま二人して顔を見合わせないまま笑い合う。


「しばらくはさ、こっちに住んでるおばあちゃんの家で過ごすから、またいつでも会えるね」

「そうなんだ。そういうことなら、今年の夏休みは久しぶりに楽しみだな」

「うん。でもね、ゲームはさすがに持ってこれなかったから、碧人の家でやらせてね? 映画とか観るのも」

「それくらいなら全然かまわないよ」


 美夜は「やったね」と嬉しそうな声で口にして、俺にさらに体を預けてきた。そうやって掛けられる重みに不快感は全くなく、大事なものを扱うように静かに受け止める。


「あとね、こっちに来たのにはもう一つ理由があってね、こっちにある大学を受験するつもりだから、オープンキャンパスにも行きたいなって思ってるんだ」

「それ、俺も一緒に行っていいか?」

「もちろん。そもそも、私から誘おうと思ってたし」


 その言葉に今度は俺が「よしっ」と声に出して、喜んでしまう。


「なになに? もしかして碧人、私と同じ大学に行きたかったの?」

「そうだよ。近いうちに美夜に志望校聞こうと思ってたんだよ」

「そうだったんだ。へえ……ふーん……」

「なんだよ?」

「なんでもないよ」


 美夜が俺を抱きしめる腕に力を込める。照れ隠しなのだろうことはすぐに分かったが、今は美夜のそういう感情さえも愛おしくて大切なものに思えた。


「それでいつから俺の後ろにいたんだよ?」

「最初から。高校の校門近くで碧人が出てくるの待ってたからね」

「じゃあ、わざわざビデオ通話なんて面倒なことせずに声を掛けてくれたらよかったのに」

「そうかもしれないけど、碧人に再会するならここかなって思ったんだもん」


 別れの場所で再会し、そこから始める――。

 きっと美夜はそう考えたのだろう。もしかすると、最後にこの場所にちゃんと俺が来れるかも試したのかもしれない。

 ふいに美夜にまだ言ってない言葉があることに気付いた。


「なあ、美夜」

「なに、碧人?」


 俺が身じろぎすると美夜はゆっくりと腕を解き、体がゆっくりと離れていく。それがどこか寂しいような気もするけれど、正面から美夜の顔を見れると思ったら、嬉しい気持ちにもなるのだから不思議なものだ。

 美夜と公園のポール灯の下で久しぶりに顔を見合わせる。俺がなかなか言葉を発しないものだから美夜は不安そうに首をかしげている。美夜は少しだけ大人っぽくなったような気がする。一言で言えば以前よりキレイになったように見える。それは美夜が俺に恋をしていてキレイになったと思うのはおこがましいかもしれない。だけど、俺が美夜に恋をしているというフィルターが何倍にも美夜をキレイだと思わせているのは確かだった。


「おかえり、美夜」

「ただいま、碧人。それで……私とずっと一緒にいてくれるんだよね?」


 上目遣いに尋ねてくる美夜の表情は嬉しさが滲みだしていて、目は輝いて見えた。それはポール灯の光を反射させているだけではないだろう。


「ああ。もちろん」

「それじゃあ、そろそろ帰ろうよ、碧人」

「そうだな。家まで送ってくよ」

「ありがと」


 そして、あの頃と同じように並んで話しながら、公園の出口へと向かって歩き出す。あの頃と違うのは、手が繋がれていることくらいで。

 きっと繋がったのは手だけじゃなくて、気持ちも――。

 話しながら隣で笑顔を浮かべる恋人の横顔を眺めながら、これから先、いつまでもこうやって一緒に歩いたり、美夜の笑顔を一番近くで見られる関係性でありたいと思った。

 公園を出て、空を見上げると星空が見えた。


「なに見てるの、碧人?」


 視線を隣の美夜へと戻し、当たり前に美夜がいるという幸福をあらためて感じる。


「美夜との未来?」

「なに言ってるんだか。バカじゃないの?」

「バカは言いすぎじゃね?」


 美夜と俺の笑い声が混じり合い、夏の湿気をはらんだ空気に溶けていく。

 そうやって、笑いながら夏の夜空に美夜の隣にずっといられますようにと祈ることにした。

 その祈りに応えるように握られた手がもう離れたくないとばかりにギュッと力が込められ、その気持ちに応えるために優しく握り返した。

 隣で気持ちが通じ合えたことに満足したのか、美夜は俺を見上げながら笑みを浮かべていた。


 きっと俺は今日のことは忘れないだろう。放課後に歩きながら見上げる青い空から夕闇に染まっていく様も、大切な人と再会し、恋人になった夏の美しい夜のことも深く胸に刻まれたのだから――。

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