第11話 ひとつを嚥下してから


「僕の名はさきとうつかさゆいの部下です」

 尾崎──狐男がそう言って口角を上げた次の瞬間には、ボクは奴を壁に押さえつけていた。

 肩と手首をがっちりと掴み、奴の退路を断つ。

「っ──乱ッ……!?」

「おや……完全に警戒されてしまったみたいですねえ。どうどう──」

「目的を簡潔に答えろ」

 ゆいに怖いところは見せたくなかったけど。今はこの爆弾のような男を処理することが最優先だ。政結の部下と言ったことが事実であれば、十中八九幸が関わるんだろう。幸を連れ戻しに来た──なんて、最悪の結末が見え隠れしている。

「簡潔に、ですか。そうですねえ……」

「──勿体ぶるな」

 幸がいなくなることへの不安、焦燥感。それとコイツへの苛立ちが混ざり合って──ボクを、どうしようもなく凶暴な獣へと変貌させた。

 徐々に箇所を押さえつける力を強めていく。狐男の眉が苦痛にピクリと歪んだのを横目に、ボクは次の言葉を催促した。

「目的と言われましても──……まあ、狼くんが予想しているようなことではないと断言できますよ」

「……」

 一度口を開けば、感情に任せきった罵詈雑言が迸りそうだった。けど、濁流のように暴れる言葉を幸に聞かせたくない──というなけなしの理性が、ボクの口を何とかつぐませた。

 その代わりに、奴の薄い皮膚を突き破らんばかりに爪を突き立てる。

 狐の喉奥から、押し固められた悲鳴が聴こえた。それでも狐は嘘臭い笑みを崩さずに、ヘラヘラとした態度を続けた。

「っ、出来れば口外したくありませんでしたけど……折角の命を溝どぶに捨てる真似は御免ですからねえ──」


「僕は彼から尻尾巻いて逃げ出した、臆病な狐なんですよ」


 今までの奴からは想像もつかない程繊細な声色で、狐男はそう言った。

 この時、幸がどんな表情をしているかは見て取れなかったけど、息を飲む音がしたからきっと愕然としているんだと思う。ボクでさえ、珍しく意表をつかれたんだから。

 狐男はかつての自分を遠く見つめるような──ようやく人間らしい顔をしたものだから、つい力を緩めてしまった。

「勿論、嘘偽りのない事実ですよ」

 ボクが真実か否かを問うより先に、狐男は「ご安心を」と言ってヘラリと笑った。

 それから奴は、おもむろに口を開いて──。

「僕に尋ねたいことが山程あるでしょうけれど、ここで話すのは少々場違いな気がしますし──あなた方を家へ送りがてら、車中でお話しましょうか」

 あまりの急展開に、戸惑いを隠せない。コイツにボクの家を知られたくなんかないし──だけどワケは聞きたいし。

 というか、そもそも。

「アンタ──車あるのか?」

「ええ、勿論。それに乗って逃げて来たのですよ」

「へぇ……」

 ボクが半信半疑に応えると、狐男は満足気に口角を上げた。

「立ち話も何ですし、ぼちぼち行きましょうか」

 狐男はすっかり表情を緩めて、奴を押さえつけていたボクの手にそっと触れた。その顔はまるで安心しきっている。

「(コイツ……絶対、ボクを丸め込めたと思ってるんだろうな)」

 ボクは幸のために狐男を信じてるんだ。アンタのためじゃないし、そもそも信用してない。そこを勘違いされては困る、とボクは心中でひとりごちた。

 それと同時に、奴を圧迫していた手をのけて解放してやる。狐男がほっと安堵の息をついたのを無視するように、後方の幸を見やった。

「幸──どうする?」

「……オレはその人、信じるよ。だからついてく」

 幸は臆する様子を一切見せずに、きっぱりと断言した。幸にとって脅威となる可能性を秘めた人間を前にして、ここまで気を保てているなんて──やっぱり幸はすごいな。これからどんな真実が暴かれようとオレは動じないぞ、という気迫を全身で感じる。

 ボクには到底真似できないよ。隠されたものを知ることが怖くて仕方のないボクには、絶対に。

「幸くんは素直ですねえ、実に良い人間性をお持ちのようで」

「──何だよ、ボクが捻くれてるとでも言いたいわけ?」

 それに比べて誰かさんは……みたいな目で見てくる狐男に、ボクは再び不快感を覚える。嫌悪増し増しで睨めつけると、奴は巫山戯ふざけた様子で肩を竦めた。

 自分は酷い奴だって自覚してるけど、よりによってコイツに言及されたくはない。

「僕の車は、ここの方に頼んで上手く隠していただいていますので──門の外で先に待っていてください」

「分かりました、お願いします」

 本当に幸は真面目だなあ。あんな胡散臭い奴に、丁重に挨拶までしてるよ。心が真っ直ぐな幸らしいや。

 狐男はエプロンを脱ぎつつ、この部屋を後にした。狐男の足音が遠ざかっていくのを確認して、ボクは幸に呼びかける。

「幸、歩けそう?」

「あー、ちょっと待って……今立ってみるから」

 幸は慌ただしくベッドから身を起こし、フローリングの床に足をつけた。そしてスッと腰を上げて──。

「おっ……! あ、やっ、ば──」

「幸っ──!?」

 幸が不意にふらついて、足を縺れさせた。それで更にぐらっと身体が傾いて、ボクに突っ込んでいくように倒れ込む。いくら一室の中とはいえ、ボクと幸との間にはそこそこ距離がある。このままだと幸は頭から転んでしまう。

 ボクは咄嗟に幸の方に向かって走り、腕を伸ばす。間に合え──その一心で、息も忘れて幸に駆け寄る。

「っ──……あれっ?」

「間に……合った」

 トスン、と軽い感触がして、幸を何とか助けられたんだと理解した。間一髪──ボクの反応があと一秒遅れていたら、幸はとんでもない前へ1 / 3 ページ次へ


「僕の名は尾崎おさき冬牙とうが。政つかさ結ゆいの部下です」

 尾崎──狐男がそう言って口角を上げた次の瞬間には、ボクは奴を壁に押さえつけていた。

 肩と手首をがっちりと掴み、奴の退路を断つ。

「っ──乱ッ……!?」

「おや……完全に警戒されてしまったみたいですねえ。どうどう──」

「目的を簡潔に答えろ」

 幸ゆきに怖いところは見せたくなかったけど。今はこの爆弾のような男を処理することが最優先だ。政結の部下と言ったことが事実であれば、十中八九幸が関わるんだろう。幸を連れ戻しに来た──なんて、最悪の結末が見え隠れしている。

「簡潔に、ですか。そうですねえ……」

「──勿体ぶるな」

 幸がいなくなることへの不安、焦燥感。それとコイツへの苛立ちが混ざり合って──ボクを、どうしようもなく凶暴な獣へと変貌させた。

 徐々に箇所を押さえつける力を強めていく。狐男の眉が苦痛にピクリと歪んだのを横目に、ボクは次の言葉を催促した。

「目的と言われましても──……まあ、狼くんが予想しているようなことではないと断言できますよ」

「……」

 一度口を開けば、感情に任せきった罵詈雑言が迸りそうだった。けど、濁流のように暴れる言葉を幸に聞かせたくない──というなけなしの理性が、ボクの口を何とかつぐませた。

 その代わりに、奴の薄い皮膚を突き破らんばかりに爪を突き立てる。

 狐の喉奥から、押し固められた悲鳴が聴こえた。それでも狐は嘘臭い笑みを崩さずに、ヘラヘラとした態度を続けた。

「っ、出来れば口外したくありませんでしたけど……折角の命を溝どぶに捨てる真似は御免ですからねえ──」


「僕は彼から尻尾巻いて逃げ出した、臆病な狐なんですよ」


 今までの奴からは想像もつかない程繊細な声色で、狐男はそう言った。

 この時、幸がどんな表情をしているかは見て取れなかったけど、息を飲む音がしたからきっと愕然としているんだと思う。ボクでさえ、珍しく意表をつかれたんだから。

 狐男はかつての自分を遠く見つめるような──ようやく人間らしい顔をしたものだから、つい力を緩めてしまった。

「勿論、嘘偽りのない事実ですよ」

 ボクが真実か否かを問うより先に、狐男は「ご安心を」と言ってヘラリと笑った。

 それから奴は、おもむろに口を開いて──。

「僕に尋ねたいことが山程あるでしょうけれど、ここで話すのは少々場違いな気がしますし──あなた方を家へ送りがてら、車中でお話しましょうか」

 あまりの急展開に、戸惑いを隠せない。コイツにボクの家を知られたくなんかないし──だけどワケは聞きたいし。

 というか、そもそも。

「アンタ──車あるのか?」

「ええ、勿論。それに乗って逃げて来たのですよ」

「へぇ……」

 ボクが半信半疑に応えると、狐男は満足気に口角を上げた。

「立ち話も何ですし、ぼちぼち行きましょうか」

 狐男はすっかり表情を緩めて、奴を押さえつけていたボクの手にそっと触れた。その顔はまるで安心しきっている。

「(コイツ……絶対、ボクを丸め込めたと思ってるんだろうな)」

 ボクは幸のために狐男を信じてるんだ。アンタのためじゃないし、そもそも信用してない。そこを勘違いされては困る、とボクは心中でひとりごちた。

 それと同時に、奴を圧迫していた手をのけて解放してやる。狐男がほっと安堵の息をついたのを無視するように、後方の幸を見やった。

「幸──どうする?」

「……オレはその人、信じるよ。だからついてく」

 幸は臆する様子を一切見せずに、きっぱりと断言した。幸にとって脅威となる可能性を秘めた人間を前にして、ここまで気を保てているなんて──やっぱり幸はすごいな。これからどんな真実が暴かれようとオレは動じないぞ、という気迫を全身で感じる。

 ボクには到底真似できないよ。隠されたものを知ることが怖くて仕方のないボクには、絶対に。

「幸くんは素直ですねえ、実に良い人間性をお持ちのようで」

「──何だよ、ボクが捻くれてるとでも言いたいわけ?」

 それに比べて誰かさんは……みたいな目で見てくる狐男に、ボクは再び不快感を覚える。嫌悪増し増しで睨めつけると、奴は巫山戯ふざけた様子で肩を竦めた。

 自分は酷い奴だって自覚してるけど、よりによってコイツに言及されたくはない。

「僕の車は、ここの方に頼んで上手く隠していただいていますので──門の外で先に待っていてください」

「分かりました、お願いします」

 本当に幸は真面目だなあ。あんな胡散臭い奴に、丁重に挨拶までしてるよ。心が真っ直ぐな幸らしいや。

 狐男はエプロンを脱ぎつつ、この部屋を後にした。狐男の足音が遠ざかっていくのを確認して、ボクは幸に呼びかける。

「幸、歩けそう?」

「あー、ちょっと待って……今立ってみるから」

 幸は慌ただしくベッドから身を起こし、フローリングの床に足をつけた。そしてスッと腰を上げて──。

「おっ……! あ、やっ、ば──」

「幸っ──!?」

 幸が不意にふらついて、足を縺れさせた。それで更にぐらっと身体が傾いて、ボクに突っ込んでいくように倒れ込む。いくら一室の中とはいえ、ボクと幸との間にはそこそこ距離がある。このままだと幸は頭から転んでしまう。

 ボクは咄嗟に幸の方に向かって走り、腕を伸ばす。間に合え──その一心で、息も忘れて幸に駆け寄る。

「っ──……あれっ?」

「間に……合った」

 トスン、と軽い感触がして、幸を何とか助けられたんだと理解した。間一髪──ボクの反応があと一秒遅れていたら、幸はとんでもない怪我を負っていたと思うとサァーッと血の気が引いた。

 幸はボクの胸部に顔を埋めるような体勢になっていて、ボクは幸を思いっきり両腕で抱き締めていた。幸が飛び付いてきた勢いで、幸の身体がボクにピタリとくっつく。

 幸が無事だったという安心からか、幸を抱き押さえる力が次第に強くなっていく。

 ──長く安堵のため息をついて、ボクはようやく幸に尋ねた。

「幸、怪我はない?」

「あ……ああ! 全然へーきだよ!」

「まだふらついてるみたいだし、あんまり無理しないで? ボク、びっくりしちゃった」

「えっと、ごめん……」

 幸は顔を突っ込んだ姿勢のまま、なぜかモゴモゴと幸らしくない話し方をしている。

 下を向いて幸の顔をみようとしても、幸はボクに顔を見せないようにそっぽを向いてしまう。

「幸? どうしたの?」

 ボクは単純な疑問を幸に投げかけた。けど、相変わらず幸は視線を泳がせてどこか恥ずかしげにしている。

「ゆーき、ねえ──」

 どうしても気になったから、一向にボクを見てくれない顔を、というより頬を両手で押さえる。それからグイッとボクの顔の前に幸の顔を寄せた。

 ビクリと身体を跳ねさせた幸は────これまでにない程可憐に、純白の頬を赤く染めあげていた。

「待っ──今のオレ、変な顔してるからっ、見ないで……」

 幸は弱々しく眉尻を下げながら、ポソポソと言葉を紡いだ。いつも強い輝きを宿している瞳は、戸惑いながら揺れ動いている。

 そんな幸が熟れた林檎のようで、愛らしいと感じてしまって──ボクは無意識に身体を強張こわばらせた。……心臓が大きく脈打つ。

「変、じゃない……幸の顔──ねえ、どうしたの」

 ボクは腰を曲げ、顔と顔との距離を更に縮める。そしてもう一度、幸に問う。

「オレ……乱に受けとめてもらった時、胸がギュンって苦しくなって……っ! 乱の体温とか鼓動とかに包まれてたら、痛いぐらい締め付けられて」

「幸……」

「何でだろ、こんな……義兄にいさんにされても何も感じなかったのに──また、あの変な気持ちになっちゃったんだ」

 幸の肌とボクの肌。幸の心臓とボクの心臓。

 密着することでお互いが密に絡まり合って、溶け合って──ボクだって、幸と同じ気持ちになっている。

 これでもかと鼓動が波打って、送り出された血潮が身を焦がす勢いで全身を巡る。末端まで張り巡らされた血管が、内からじわじわと焼き尽くされていくようだ。

「何かその、本当に──……みたいで」

 幸の声が途端に小さく萎しぼんだものだから、思わず聞き返してしまった。

「え、今……今何て言ったの──」

「幸くぅ────んッ!!」

「ッ、は……!?」

 バシン──ッ! とものすごい勢いで戸を開けて入ってきたのは──紅奈さんだった。息を切らしているし、猛スピードで駆けてきたんだと思う。全然足音に気がつかなかった。

 ボクは幸を押さえていた手を反射的に離し、ベッドに下ろしてあげる。そして何事もなかったかのように幸から距離を取った。

「もう平気か? 辛くないか? 私に出来ることはないか?」

「──わっ、紅奈さん! 大丈夫、で、すよっ!」

 幸は紅奈さんに飛び付かれて、ぐわんぐわんと身体を揺さぶられている。紅奈さんが今にも泣き出しそうな顔付きをしているから、ボクはつい二度見してしまった。

 珍しい──あの泰然自若な紅奈さんが、こんなに取り乱して。そんな彼女を何とか宥めようと、紅奈さんの肩を軽く抑えて語りかける。

「紅奈さん、落ち着いてください」

「──ハッ……! 私としたことが、人前で痴態を晒すとは……! 幸くん、乱、すまなかった」

 コホン、と咳払いを一つして、紅奈さんはクールモードに戻った。それから申し訳なさそうな表情をして、こう続けた。

「先程、部屋から出てきた尾崎くんから諸々を聞いてな……どうしても会いに行きたくなったんだ」

「尾崎って──あの狐男か」

「ははっ、狐男か。言い得て妙だな! しかし外見と裏腹に、彼は気性の穏やかな好青年だと私は思っている」

 好青年……? あの、嘘つくのが生き甲斐です、みたいな見た目の男が?

 ボクはどうも溜飲が下がらなくて、紅奈さんの考えには賛同出来なかった。

「尾崎さんのこと、紅奈さんもご存知なんですね──あの人は一体、何者なんですか」

 ボクが口をつぐんでいた矢先、幸がズバリと核心を突く。

 そう、それ。ボクも気になってた。アイツの口から聞くよりも紅奈さんからの方が信用出来そうな気がするし、聞くしかないよね。

「……ああ、それなら──本人に直接聞いてみるのが得策ではないか?」

「まあ、そうですよね……」

 当たり前というか、完全に希望は打ち砕けた。ガックリと肩を落としてボクは呟く。

「彼も中々に苦労してきたと聞いているし、きっと良い話が聞けるさ。そう落ち込むな、乱」

「(うん……そういうことじゃないけど、黙っておこう)」

「──あの、紅奈さん! オレ達、尾崎さんに家まで乗せていっていただくことになっていて」

 ナイス、幸っ! ボクが狐男の話題に苦しんでいるのを見かねて、助け船を出してくれたんだ。それから幸は事情を口早に説明し始めた。

 もう幸、本当に完璧すぎる。空気は読めるし、優しいし、可愛いし──。

「(──って、可愛いしって……!)」

 紅奈さんの乱入の直前のあの時──風前の灯のような雰囲気を纏った幸の面立ちと、その熱っぽさ。抱き締めた時に直に感じた華奢な体躯。ボクの体格とのあまりに大きな差。

 早くもぼやけ始めていた記憶が、感情が──何度も思い起こされていく。鮮やかに、はっきりと。

「なるほど、そういうことだったんだな! ……ん? 乱、どうしたんだ?」

「あ……いえ、何でも」

 どうしよう、声裏返ってなかったかな。突然話題振られたのによく対応出来たな、ボク。

 大丈夫、大丈夫。何とか誤魔化せてるはず、顔に出てないはず──

「そんなに顔を赤くして、熱でもあるのか?」

「え゙ッ──!? ……何でもないですから、本当に」

 普通にバレてた。ボクってそんなに顔に出やすいタイプだったっけ──紅奈さんに嘘をつくのは気が引けるけど、致し方ない。何となくあの時の幸のことを、誰にも言わないでおきたかったんだ。ボクだけが知っていたいというか、ボクにしか見せてほしくないというか──。

「まあ、乱がそこまで言うなら心配ないな。ところで、そろそろ尾崎くんの元ヘ行った方が良いんじゃないか?」

「──はい、そうですね! 色々とご迷惑をおかけしてしまってすみませんでした……他の方々にもお伝えしていただけると有り難いです」

「そんな……堅苦しく思わないでくれ、幸くん。きみの責任ではないのだから」

「──ボクからも、お世話になりました。近いうちにまた来ます」

 一息ついてようやく別れの挨拶を済ませた。ボクの話題も良い具合にスルーされて正直ほっとしている。

 幸、見てたかな──どう思ったかな。若干の不安を抱きながら、幸をおぶるためにベッドに近寄る。

「幸、いいよ?」

 ボクは幸に背中を向けて彼の名を呼ぶ──だけど一向に幸はボクの背中に乗ろうとしない。おんぶは恥ずかしかったかなと思っていた所で、

「乱の顔が見たい」

 と、幸は一言だけ言った。その声が二人きりの時みたいな熱の籠った響きをしていて、意図せず心臓が早鐘を打ち始める。

「じゃあ──こうかな」

 ボクは少し逡巡した後、幸の膝の下に片腕を通して掬うように抱き上げた。顔が見える担ぎ方といったら、今のボクにはこれしか思い付かなかったから。

「ああ、これがいいな」

 幸は満足した様子で、目を細めて微笑んだ。その笑顔が眩しくて、こっちまで目を細めてしまいそうになる。もういつも通りの、太陽みたいな幸だ──とボクはゆっくりと理解した。

 こうしているとまるで──物語の王子と姫みたいで、どこかむず痒いな。ボクは王子なんかじゃなくて悪役ヴィランなのに。正義を振りかざす勇気もないのに。本当なら幸は、黒い罪と後悔に塗まみれたボクなんかと一緒にいてはいけない存在なのに。

 それでも。

「(素直に嬉しいな──)」

 幸がボクに対して抱いている感情を全て読み解くことは出来ない。けど今この瞬間、幸がボクと同じ気持ちでいてくれているなら、どれだけ幸せだろう。どれだけ心が楽になるだろう。

 幸とこうして馴れ合えば馴れ合う程に、そういう幸福と──いつか訪れる結末への絶望を感じてしまう。今日の帰巣ホーム本能シックのような奇跡がまた起こる保証は無いから。

 ボクと幸が歩む茨道は多分、正規の物語ルートは辿れないだろう。を失った時みたいに、悲しみのどん底に堕ちてしまうかもしれない。

 だけどやっぱり──未来を考えれば考える程、幸だけでも幸せにさせなくちゃって強く思うんだ。幸が茨に怯えたとしても、ボクが幸を背負えば良いだけ。鋭利な棘が肌を突き破る痛みも我慢すれば良いだけだって。

 幸をしがらみから解放してあげられるならば──ボクは一人、地獄に堕ちたって構わない。

「それでは、また今度」

「ああ。二人とも気を付けてな」

 意を決して──幸を抱き上げたボクは一歩踏み出す。初めはボクと幸を見て驚いていた紅奈さんも、カラッとした笑顔でボクたちを励ますように見送ってくれた。そんな優しい彼女にボクからも精一杯のお返しをしようと、慣れない笑顔を浮かべる。

 それを見た紅奈さんが、涼しげな目をなぜか大きく見開いた。その理由は分からなかったけど、悪い感じはしなかったからきっと気にしなくても平気なんだと思う。

「ありがとうございました」

 幸とボクで声を揃えて挨拶をし、ボク達は部屋から立ち去った。


 木造の廊下を行き、目的地へと歩みを進める。

 ちょっと悪いけど──勉強中の子供達を盗み見て、今の子は偉いなと感心した。

「乱──オレが意識を失くしてる間、何があったのか教えてほしい」

 真面目な顔をして幸が問う。やっぱり幸は知らなかったんだな、と思って心のどこかで安心したな。だってあの苦しいことは、覚えているべきじゃないから。

 本当に良かった。けれど──それを教えても良いのかな。折角苦痛を知らないでいたのに。ボクは、幸の幸せを踏みにじりたくない。

「何にもなかったって言ったらどうする?」

「勿論、本当のことを言うまでしつこーく聞き続けるに決まってるだろ? 何度も、何度も何度もな」

 無邪気に笑った幸に、ボクはどうも毒気を抜かれてしまったみたいで──たちまち気が変わっちゃったよ。幸が全力でボクに向き合うなら、ボクもそれ相応の対応をするのが礼儀だからね。

 きっと幸にとって、知らないことを知ることも幸せの一つなんじゃないかな──なんてボクは思ってしまった。

「ふふっ、じゃあ言おうか──あんまり大きい声、出さないようにね」

「りょーかいっ」

 遊び盛りの少年みたいに幸は応えた。そんな幸の笑顔を崩してしまうことに足踏みをしかけた──けどこれは大事なことだからと、ついにボクは口を重々しく開いた。

 大事なことも辛いことも、回り回って幸の経験になるから。ボクはその手助けをしなくちゃ。と思いながら。







 二人の青年の絆が一層深まる、数時間前。


 とある研究者の、仄暗く非生物的なラボラトリーにて。

 不規則な電子音、フラスコ内の発光液がボコリと沸き立つ音、実験に使われる白ネズミ達がケージに爪を立てる音。

 それらが醸し出す底知れない不気味さに微塵も注意を向けず、長机にただただ突っ伏す男が一人。何枚ものモニターから映し出される光に照らされながら、野獣のように低く唸っている。

 書類の広げられたその机は散乱しており、所々四本線の指紋が──恐らく彼の付けた物が点々と残っていた。

「ア゙、あっ……ゔうぅ……」

 何かに蝕まれ、もがき苦しむように男は呻く。暗い茶に染まった頭髪は、乱雑に掻き毟られたことが目に見えて分かる程にぼさついている。

「あ゙……後、少し──」

 男は喉を掠るような細い声を出し、机に力一杯己の拳を叩きつけた。ガンッ──と本能をぶつけられたような音が、だだっ広い一室に響き渡る。

 何かが過ぎ去るのを必死に堪えるような彼は、何者かがこの場に入ったことにも気付かず、肩を荒く弾ませ続けていた。侵入者がドアを開けた音すら、今の彼の耳には届かなかったのだ。

ゆい。大事か」

 うら若く、漆黒の軍服を身に纏った男は、ゆったりとした足取りで男──結の傍らに歩み寄った。

 軍服の男は襟足が首元まで伸びた、癖のある髪質をしていた。室内の暗さに溶け込む程に深い黒さも特徴的だ。外套をたなびかせながら近付いてきた男に、ようやく結は気が付く。

「見て、分かるだろ……俺がこうなることは、事前に伝えていたはずだろうが──……」

「ああ。記憶に新しいな。確か──貴殿の飼犬スイートが直に帰巣ホーム本能シックを起こすから、籠らせてくれ……だったか」

 軍服の男の問いに、結は一言も返さなかった。ただ、皆まで言わせるなと言わんばかりに軍服の彼をギロリと睨んだだけだった。

 しかし軍服の男は、上質な軍帽を目深に被っていたために、結の圧に屈する素振りは見せない。そんな冷静な様子の軍服男に、結は呆れたように目を背けた。

「なあ……今の俺は辛そうに見えるか……?」

「かなりな。貴殿の荒れっぷりから見て取れる──死に際の獣のようだ」

「ふ、はっ……そうだよなあ。けどな──この程度、どうってことないんだよ」

 結が長く息を吐き、部屋の空気を全て吸う勢いでゆっくりと深呼吸をする──それを境に、結は落ち着きを取り戻したようだ。どうやら峠を乗り越えたらしい。

「ほら、もう落ち着いた。それに……は全て想定内だしな」

 結は机から跳ね上がるように身を起こし、軍服男に向き直る。

 そして興奮で頬を赤らめながら、恍惚とした表情で語り始めた。

「幸が俺から逃げ出してから帰巣本能の発現までの、この短さっ……! 分かるだろ? これはな、俺と幸が深い愛と絆で結ばれていたからこその結果なんだよ」

「愛か……私もそれには同感だ」

「だろう? 帰巣本能の症状はペアの関係性の濃淡によって発現時期が大きく変わると聞いていたからなあ、これで確信したよ」

 しかし──と、結は少々不機嫌な声色で愚痴を言うように言葉を零す。

「どうして幸は逃げたんだろう? 俺の知能を持ってしても、これだけは理解出来ないんだよ」

「それは──……そうだ、貴殿の愛を確かめたかったからではないだろうか」

 ほんの少し間を空けて軍服男が言った言葉は、結にとってのベストアンサーだったらしく。結は「流石ーっ! お前は本当に俺を理解わかってくれてるよ」と言い、曇らせていた顔を緩ませた。

 が、瞬く間にその美貌は歪められ、憤りを込めた声で結は淡々と続けた。

「ところで──幸をたぶらかしたあの男のことは、勿論お前も知ってるだろ? ほら、あの食人鬼」

「ああ。忠犬クレバーから、一日に何十件と報告を受けている。偽装ニュースの報道の強制、政府からの給付金の強奪──上げ出せばキリがない」

「……ははっ──そりゃそうじゃんか! だってお前が、忠犬にそう指示してるんだからさ」

「……そうだな」

 感情の起伏がはっきりとした結と対照的に、軍服男は人間味のない返事を繰り返す。感情のおこりの乏しいそのさまは、さながら機械ロボットのようだった。

「予定通り、もうしばらくは泳がせておこうか。これは大変不本意だけれど──幸と奴との仲を深めさせるんだ」

「と、いうと?」

 理由を聞かれた結は、軍服に掴みかかる勢いで生き生きと、自分に言い聞かせるようにこう続けた。

「油が乗ってきた所でな、ズッ……タズタに引き裂くんだよッ──……! それで幸に、幸に見合うのはこの世で俺一人だっていうのを分からせるんだ」

 唾を飛ばして力説する結を目の前にしても、軍服男は丸で動じなかった。口を真一文字にキュッと縛ったまま、一方的に結の相手をされているといった具合だ。

 まるで、幼子が人形と飯事ままごとをしているかのように。

「奴は俺から幸を奪ったんだ、それ相応の仕打ちをしなきゃなあ? 愛する者を目の前で奪われた喪失感、憎悪、絶望──何もかも、徹底的に味わわせてやる」

「──貴殿の目標のため、私も尽力しよう」

 相変わらず浮き沈みのない声色で、軍服男は結を取り鎮めた。それでも結の熱ほとぼりが冷める気配はなく、見えない何かにがなり立てるように言葉を放つ。

「俺の頭脳あたまに歯向かおうと思った時点でお前のけなんだよ、月尾《つきび》乱──……ッ!!」


「お前も最後まで俺に従ってくれよ────なあ、導犬リーダーさん?」


「──そのつもりだ」

 室内を濃く濁った狂気で満たされ、それに充てられてもなお、軍服男──この世でただ一人の導犬は無生物的な調子を崩さずに応えた。

 ──真の愛情を謳う研究者の高らかな笑い声が木霊する。







 いつもありがとうございます。

 投稿頻度が少なくなり気味なので、作者も歯痒く思っています……これからも乱と幸の思い出をたくさん紡いでいくので、最後まで見届けていただけたらとっても嬉しいです!

 

 以下は新キャラ、さきとう導犬リーダーの青年の設定です。それと、乱&幸&結の詳細設定も追加します。もう頭の中でイメージしちゃったよ! という方は飛ばしてくださいね……!


 尾崎冬牙(名犬フェイマス) 26歳

 小柄な男性。ですます口調で、捉えどころのない性格をしている。ちょっと面倒なタイプの男。

 幸の義兄である結の元部下で、とある理由から彼を避けるようになる。そして身辺整理を完璧に終わらせてついに逃亡。このことを不名誉だと思っているので、あまり話したがらない。

 逃亡中、車のタイヤがパンクして途方に暮れていた所、食品の買い出しをしていた紅奈に助けられる。その恩返しとして“故郷ふるさと”の職員となり、一時的に世を忍んでいる。実は、恩はきっちり返すタイプ。

 身長は171センチメートルで、やや小柄。橙色に近い茶髪で、センター分けをしている。さらにその前髪と横髪が白く染まっていて、狐の尻尾のような配色になっている。ちなみにメッシュではなく、地毛。

 完全な糸目の持ち主。その容貌と話し口調からか、周囲から怪しまれることが多々ある。けれど実際はそこまで性格は悪くない(自称)。乱には速攻嫌われた。

 一人称は僕で、モチーフは狐。

 誕生日は8月7日。



 ???(導犬) 23歳

 分犬法の始まりである青年。機械的な、どこか不自然さを感じさせる話し方をする。しかしその声の堂々たる響きは、民衆を導き新たな世界を創ったのは彼なのだと、有無を言わさず納得させる。圧倒的な統率力を前に人は皆、彼に伏す。関係者からは、生まれながらのカリスマとまで称されている。

 髪型は野性的なウルフカットで、少し癖のある黒髪をしている。襟足は首元近くまで伸びている。

 一人称は私で、モチーフは──。

 誕生日は2月10日。



*幸の設定

 明るめの茶髪と、同じく茶色の瞳の持ち主。肌が人形のように真っ白だが病的な白さではない。全体的に色素が薄くて、線が細いイメージ。サラサラとして手触りの良い、ふわっと軽い髪質をしている。髪型は、真ん中の前髪が少し長い短髪。髪の毛一本一本が細いので、繊細さを感じられる。

 丸目で、若干ツリ眉。元気いっぱいな男の子という印象の反面、青年期特有の爽やかさもある。受けにありがちな可愛い系、とまではいかないけれど、20歳の男にしてはかなり可愛らしい方。笑顔が特に愛らしい。

 少しの運動も出来ない環境で育ったので、筋肉量は少ない。成長途中の少年を思わせる体型。

 モチーフは犬。

 誕生日は1月1日。



*乱

 先の見えない宵闇で染めたような艶やかな漆黒の髪と、琥珀色アーバンの瞳を持つ。モデルも羨むレベルの美貌の持ち主で、色気たっぷりの美人さん。目元まで前髪が伸びきっているが、メカクレではない。薄めの前髪が目を少しだけ隠している感じ。真ん中の前髪が若干多く、イケメンに似合う系統の短髪。少し内巻き気味。

 切れ長の涼しげな目で、幸と出会うまでは光を失いかけていた。かつては荒みきっていたが、幸と出会ってからは優しく潤い始めてきている。全体的にクールかつダウナーな印象。

 細く見えて、かなり筋肉質。その肉体美はもはや芸術の域に達している。着痩せ体質なので筋肉に気付かれにくい。

 モチーフは狼。

 誕生日は12月26日。



*結

 スモーキーな焦茶色ダークブラウン調の髪色と、限りなく黒に近い瞳の持ち主。女性人気が高く、アイドルのような柔らかい物腰で他人と接する。献身的な態度は幸にしか見せない。優男風味のお兄さん系イケメンで、顔付きも他の登場人物と比べて大人びている。お腹の中が真っ黒なことを幸に気付かれているが、結本人はそれを知らない。

 タレ目で凛とした眉をしている。常に笑顔を絶やさないようにしているので分かりにくいが、彼の目は生気をほぼ失っている。模糊としてしまったそれは、幸に対する度を越した愛が原因である。

 筋肉は人並み程度にはある。特別力が強いだとか筋骨隆々だとかではない。

 モチーフはいぬ

 誕生日は6月25日。





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オレを食べてよ、食人鬼さん? ろん @Qron

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