第10話 歯車のひとつが


「幸くんが……飼犬スイートの男子が、帰巣ホーム本能シックを発症しましたっ……!」

 普段ではあり得ない取り乱し方をしている紅奈さん。肩で息をする彼女を見つつ、ボクは事態を理解しようと冷静になろうとした。今にも部屋から飛び出しそうなのを堪えて、情報を教えてもらわなきゃ。

 幸、帰巣本能、飼犬──。様々な単語が頭の中を駆け巡る。

「──彼は今、どこにいるのです」

「一階の救護室に……児童達の目に届かぬよう、我々が交代制で対応をしています」

「そう……状況は把握しました。しかし、これはどう対処すれば良いのでしょう──」

 救護室──場所は分かる。あそこには通っていたから。

「幸……」

 幸を今度こそ、失うかもしれない。あの時約束したのに、友達になったのにっ──……!

 震える胸を抑え、ボクはおぼつかない足取りで一歩踏み出した。

 理事長、挨拶もせずに去るボクを許してください。

「乱──」

「幸、幸っ……」

 あまりの動揺に、視界が揺らいでいる。息も上手く出来ない。けど今は、そんなことどうだって良い。

 紅奈さんの隣をすり抜け、ボクは無心で部屋から飛び出した。二人の呼びかけに一時も耳を傾けられずに。



「幸ッ──……!!」

 人にぶつかったら危ないから──なんていうのも忘れて、無我夢中で幸の所へ向かった。階段を飛び降りてでも、とにかく速く行きたかなくちゃって、それしか考えられなかったんだ。

 駆けて駆けて駆けて──ようやく見えた、施設の端にある救護室。

 エプロンを着たここの職員の人達が、ひっきりなしに出入りしている。

「すみません、入れさせてください」

 縫うように素早く、室内に入り込む──。

「ゆい、にいさん……?」

 引戸をを開けると──、一番に映ったのは白いベッドに寝かされていた幸だった。汗をかいているようで、職員が代わる代わる身体をタオルで拭いていた。

 幸の真っ白な肌が、熱で真っ赤に染め上げられている。幸はボクの存在に気付くと、荒く息をしながら薄目で見やった。 

「たす、けて……くるし……っ」

「幸……」

 幸のそばにいた人に一度退いてもらい、ボクは幸に触れようと、静かに近寄った。

 触れただけでも、ふっと命の灯が消えそうだ。触ったところから音を立てて崩れそうな程、脆く感じられる。

「(幸、目が──)」

 純朴な茶色の瞳は光を失い、おりのように濁っていた。とてつもない何かに曇らされているような──。

「ゔぅ、っ──……」

 その曇った眼を苦しげに瞑って、幸は頭を抱えながら呻く。喉を締め上げて出した、小さな悲鳴も聴こえた。

「幸っ──……頑張って、負けないで」

 嗚呼──自分の情けなさに打ちのめされそうだ。こんな薄っぺらい言葉、幸に届くわけないのに。

 ボクはせめてもの思いで、幸の片手を両手で包み込む。今のボクには、それぐらいしかしてあげられないから。

 職員の人達が次々と部屋を去っていって、戸を固く閉ざした音が聴こえてきた。今はその理由も気にせずに、とにかく幸に集中した。

「(幸、あんなに義兄かれから離れたがってたのに……ボクを義兄だと勘違いしてまで、強く求めている)」

 帰巣本能のことはボクも耳にしたことはある。自分のペアと再会しないとずっと症状が続くことも、その症状の辛さも。あまりにショッキングな苦しむ姿も、見たことはないけど聞いたことはある。

 勿論ボクは体験者じゃないし、初めて見た──だからこそ、本当にするべきことを分かってても、何も出来ない。

「(主人の彼を呼んだら……? いや、そもそもどこにいるかも分からないし──幸はそれを望んでいない気がする)」

 目の前の虚ろな幸が、幸じゃないような感じがするんだ。

 明るい声、お日様みたいな匂い、人形のように白く透き通った肌、真っ直ぐに未来を見据えた目。何もかも真逆だから、ボクは違和感を覚えた。

 けど──この小さい手を触った感じ、幸本人であることには間違いない。繊細で細い指も、幸のものだ。初めて友達と手を繋ぎ合わせた感触を、間違えるはずがない。

 普段はボクを安心させるそれも、今はただの混乱の材料にしかならない。

「(もし彼に来てもらったとして──幸は一時的に幸福を得るだけだよな……それでも呼ぶべきなのかな)」

 幸の枕元に置かれたタライを見た限り、食べた物を何度か戻してしまっているみたいだ。消毒液のツーンとした匂いがまだ残ってるし、ボクが来る直前までそうだったのかもしれない。

「はあっ……、にいさん……?」

「──うん、どうしたの」

 こうでもしないと幸が遠くに行ってしまいそうで──ボクは幸の目の前に片手をかざして、話し始めた。幸の濁った瞳を、どうしても直視出来なかったんだ。

「オレ、あいたかった……さみしいよ」

 ところどころ苦痛に表情を歪ませながら、幸は会話を続けた。その声は掠れて、蝋燭の灯のように不規則に揺らいでいた。

「うん……大丈夫だよ、大丈夫」

 下手なことを言ったら幸を傷つけるんじゃないかと心配になったから、辻褄の合わない返答を繰り返す。

 幸の目を塞いでいた手で今度は、柔らかな髪を撫でてあげた。

 そしてボクは途方に暮れたまま、混乱した脳を整理する暇もなく、ただ時間を浪費する──。

 

 そう絶望した、次の瞬間。


「にいさんっ、ずっと、あいたかっ──……た? 会い、たく……ない……?」


「幸……!?」

 幸の浮わついた声色が、ストンと落ちたように──元のあるべき形に戻った。

「オレ、あいたい……? い、や……違う、会いたくない──……」

 あいたい、会いたくない──何度もそのうわごとを繰り返す幸。どんよりと鈍い光を放っていた瞳に若干の光が戻って──その光の隙間を濁った闇が侵食して。プラスとマイナスが幾重にも渡って反復した。

 それでも、ボクの心で──パズルが一ピースずつ、カチリ、カチリと音を立てながらはまっているような感覚がしている。

 だけどそんな一縷の希望も、瞬く間に現実に揉み消された。

「う、っ……ん゙──ッ、いだいッ……!」

 とうとう痛みの頂点に達した幸が、悶え苦しみながら頭を掻き毟った。その上かけ布団を蹴り飛ばし、胎児のように身体を丸める。

 ────嫌だ。何で幸が、こんなに苦しい思いをしなきゃいけないんだ。何で思うように生きられないんだよ、何でまだ縛られてるんだよ。幸は自分の意思で、主人から離れたのに。おかしいだろ、こんなの。

 痛々しい姿の幸に、ボクは何もしてあげられない──自分にも、飼犬という身分にもどうしようなく腹が立ってきた。

「幸、耐えてよ──……ねえ、と約束したでしょっ……?」

 心が妙にソワソワして、奥底が鼓動に合わせて燃えるようなあの感覚──あの感情。

 俺達はそれを知らないから、見つけにいこうって。それで二人で喜ぼうって。

「いや、だッ……! や、ああ゙あぁ──……!!」

「っ──耐えろ、幸ッ……!」

 頬をガリガリと毟りながら、幸は呻く。爪を立てた所は赤い筋となって残り、徐々に血が滲み出てきた。

 俺は幸の自傷を止めようと、幸を組み伏すようにしてベッドの上に移る。そして細い手首を抑えつけ、暴れる幸の身体に跨がった。

「苦しいよね、辛いよね──あと少しの辛抱だからっ……」

 この状況を打破する存在なんているわけないのに。何の根拠も無しに俺は言った。もしかしたら、言ったことが現実になるんじゃないかって思ったから。どうしてもすがりたかったんだ。

 俺に抑えられた幸は、唯一動かせる頭を左右に振り乱しながら苦しみ続けている。その姿はまるで何かに取り憑かれているみたいで──そして今、その何かが抵抗をしているように見える。

「(空腹の俺が、幸に酷いことをしかけた時……幸は俺を受け入れてくれた。許してくれた。だから──)」


 今度は俺が救う番だ。


「うっ……あ゙ああああぁぁぁ、ッ────!」

 悲痛な叫び声が室内に響き渡る。と同時に、固く閉じられた幸の目から、一筋の煌めきが流れた。

 この涙は──幸のだ。本当の幸の涙だ。純粋で穢れなんてなくて、ただただ見惚れてしまう。

「(……駄目だ──油断するな)」

 幸に何が起きているのか全く分からないけど、変化が起きているのはよく分かった。それが吉と出るか凶と出るか──どちらに転んでもおかしくない状況なのは確かだ。

 何がなんでも憑き物が離れるまで、俺はいくらでも待つ。そう決意して、再び幸を抑える力を強める。

 

 ────その刹那、戸の開く音が不意に耳に入ってきた。





「もしもし、そこの狼くん」

「……すみません、いま目が離せなくて」

 ──男の声? 

 ここに男性職員がいた覚えはないけど……どちらにせよ、呑気に応答をしている場合じゃない。ボクは幸から目を逸らさずに、口だけを動かす。

「ああ、そうですよね。それじゃあ、僕がそちらに行きましょう」

 ──集中を切るな。幸がこれ以上傷付くのを止めるのが最優先だ。

 スリッパが床を擦る音がだんだんと近付いてきた。そしてその音はボクのすぐ隣で止まり、ボクの顔を覗くようにして男は屈んだ。

「おや……随分と大変そうですねえ」

 声が聴こえて──反射で男の顔を見てしまう。

 男は限りなく糸目で、狐のような胡散臭い顔つきをしていた。だけどここの職員と同じ、可愛らしいエプロンを身につけている。

「っ──黙っていてくれませんか……分かりきったことを言わないでください」

 ヘラヘラとした男に妙に苛ついて、ついぶっきらぼうに扱ってしまう。そしてすぐに幸に意識を向けて、男を気にしないようにした。

「気分を害してしまったみたいですね。これは失礼──ところで、そちらの彼はどうされたのですか?」

「あなたには関係のないことですよ、何でもありませんから」

 何て察しの悪い──張りつめていた気を無理矢理ほぐされている感じがして、無性にイライラする。

「僕には関係ない、ねえ……そんなことないかもしれませんよ?」

 声色が明らかに変わった。どうにも気になってしまって、ボクは男の顔に目を向ける。

 男はただでさえ細い目を更に細めて、ふっと笑っていた。

「────どういう意味ですか」

「どうと言われても……そのままの意味ですよ。僕なら彼をことが出来る、ただそれだけのことです」

「はっ……?」

 ──さっぱり理解出来ない。この男がつかさゆいで、幸の主人なのか?

 話に聞いていたのとは違う……もっと邪悪な雰囲気の人物だと思っていたけど。

「僕はとある研究に関わっていましてね。その副産物で、帰巣本能を抑制する薬を持っているのです」

 ほら、これですよ、と男はエプロンのポケットから小さなケースを取り出した。更にそれを開けて、中からカプセル剤を出してボクに見せた。

「──そんなの口から出任せでしょう」

 完全に偏見だけど……この男からはどうも怪しい感じがする。このカプセルは実は毒物でした、なんてことをしでかしそうな気さえしてきた。

「初対面のあなたを易々と信じる程、ボクは馬鹿じゃありませんから……手は借りません」

 ボクはそう言って、男の存在に気付く様子の無い幸に視線を戻す。幸はヒュー、ヒュー、と喉を鳴らしながら、荒く肩を上下させていた。涙の筋が乾いて、細い跡になっている。

「狼くん……もう、そんなに牙を向けないでくださいよ! きみの荒療治では不十分だから、僕は善意でこの話を持ちかけているのですよ? 分かりません?」

「──初めから分かってる、そんなこと……! それでもボクは幸を信じたい……だから得体の知れない薬にすがるつもりはない」

 ボクは声を荒げたことを少し後悔しつつ、幸をじっと見つめる。

 幸は──ピークを過ぎたのか、疲れ果てて脱力していた。全身がぐっしょりと汗に濡れていて、小刻みに震えながら息をしている。抑えつけていた腕も完全に力が抜け切ったみたいだ。

「帰巣本能をペア無しで乗り切るなんて……無謀にも程がありますよ。そのような記録は一度が見たことありませんね」

「……うるさいな──あのさ、ボク達は過去じゃなくて未来にしか興味無いんだよ」

 ボクは幸の涙の跡をそっとなぞりながら、いい加減黙れと言う代わりに同等の圧を男に放つ。

「ああ、怖い怖い。やはり狼くんは怖いですねえ──きみがそこまで言うなら僕は手出ししませんよ」

 ──本当にこの男、気に食わないな。

 笑顔の裏に何かありそうで、怪しい匂いがぷんぷんする。幸にこんな男の相手なんか、怖くてさせられない。

 男は柔和な笑顔を貼りつけたまま、少し離れた所に下がった。ボクと幸をずっと眺められるのは不服だけど、追っ払うのも時間の無駄だし、そのまま無視することにした。

「幸──まだ辛い?」

「……ん゙ん、うぅっ…………」

 幸は相変わらず顔をしかめているけど──最初と比べて、落ち着いている気がする。

「(もう大丈夫かな……)」

 ボクは腕の力を緩めて、幸の傍らに寝そべった。なるべく幸に寄り添って──幸の頭の上に片腕を回した。

「幸、幸。ボクの大事な幸。ボクの声を聞いて?」

 目を瞑ったまま、小さく呻く幸にボクは語りかける。

「幸はね──自由なんだよ。どこにだって羽ばたける、大きくて丈夫な翼を持ってるから。だから……帰巣本能これを乗り越えて、いっぱい色んなことしようね」

 自由、という言葉に幸は微かに反応した。ピクリと目蓋が動いたように見えた。

 すかさずボクは、言葉で幸を癒そうと語り続ける。

「嫌なことは嫌って言って良いし、好きなことを目一杯楽しんで良い。ボクも幸と同じ──“それが出来なかった”人間だから、幸との生活がとっても楽しみなんだよ。幸とのこれからがね」

 ボクの暗い部分は、まだ幸に話せていない。“あの人”のことだって、一切合切話したことがない。話す勇気がない。それでも幸は──恐ろしい狂犬マッドのボクを、怖がらなかった。ボクをボクとして受け入れてくれたんだ。

 これから幸と一緒に過ごしていく中で、一つずつ話していけばいいや──なんて甘い考えのボクを、幸は少しも責めないんだ。

「(ボクはそんな幸に救われたし、後ろめたさを感じている──幸の優しさに甘えてばかりだから)」

 まだ会って数日も経っていないけど……本能的に、幸がボクにとってかけがえのない存在であることをひしひしと感じている。だからこそ、ボクにでも出来ることを幸にしてあげたいんだ。

「大丈夫。幸にはボクがついてる」

 ボサボサに乱れた幸の髪の毛に、指をゆっくり通す。明るい茶色の髪。この色はボクのお気に入りだ。

 ようやく気が和らいで、ふっと溜め息をついた。

「──ら、んッ……?」

 ほんの一瞬、儚い声が鼓膜を揺さぶる。

「そうだよ。幸──」

 ようやく幸の声を聴けて、ボクは安堵した──。

 


 まだ幸が、支配の闇に蝕まれていることにも気付けずに。



「ぐッ……が、あ゙ああああああぁぁぁぁぁッ──!!」

「幸っ──……!?」

 幸は突然、グンッと凄い力で身体を仰け反らせた。散々叫んで喉がとっくに枯れているのに、まるで最後の力を振り絞るように──幸は命の限り、叫んだ。閉ざされていた目は限界まで見開かれて、その瞳には燃えるような強い光が灯されていた。

 ボクは咄嗟に、幸が頭に伸ばそうとする手を繋ぎ留める。組み伏しなおす暇さえ無かったから、そのまま幸を抱き寄せた。

「大丈夫、大丈夫。幸は強いよ、っ……」

 幸の爪がボクの身体に食い込もうと、引っ掻かれた跡がひりつこうと、暴れる幸を無我夢中で抱きしめる。ボクの方が力が強いはずなのに、気を抜いたらすぐに抜け出されてしまいそうな程、幸は力強くもがいている。

 その姿は──己に憑いた悪霊を振り払うための、最後の覇気を出しているようにも見える。

 正規の解決方法を使わずに、運命を乗り越える──あの男の言う通り、これは無謀な考えだ。けど、どれだけ無謀でも馬鹿げていても、それしか道は残されていないんだから。

 幸の主人は何としてでも呼びたくない。その人が来たら幸はまた元の生活に逆戻りだ。それにボクは幸と離れたくない。幸せな未来を手離したくない。

「絶対に、離さないっ──……!」

 幸はもう自由なんだから。二度と不自由にはさせない。

 幸を抱き締めて、ボクは目をギュッと瞑る────と、その時だった。

「(…………あ──止まった、のかな)」

 頂点を越えた頂点に達していたはずの幸は、突然石のように固まった。

 今のうちに、とボクは再び幸の上に身体を乗せ、組み倒す。もう一波来るかもしれない──その心配があったからだ。

「(綺麗──……絵から飛び出てきたみたい)」

 幸はまた、固く目を瞑ってしまっていた。さっきも涙を流していたみたいで、新しい跡がついている。

 その跡も全部含めて幸は、ずっと昔に絵本で見たお姫様のようだった。

 あの人と一緒に読んだ、あの本の題名は──そうだ、『白雪姫』だ。

 確か白雪姫は、王子のキスで目を覚ましたんだっけ──。

「(幸にキスしたら……起きてくれるかな)」

 幸は完全に疲れ果てて、目を覚ましそうな気配が全くしない。あまりに静かで、時も、窓から射す新緑の煌めきも、この息も、全てが止まってしまったようだ。

 気を失っていると信じたいけど、もしもう意識が無かったら──もう二度と目を覚まさなかったらとよぎったせいで、ボクはかなり気が動転していた。


 だから、少しも躊躇せずに────幸の口元へ顔を運んだ。


 その柔らかい感触に驚くと同時に、得も言えない心地好さに全身が包まれる。

 自分の唇を幸のそれに当てて──息も忘れて、ずっとそのままになっていた。

「っ、ふ──……」

 流石に苦しくなったから、渋々この甘い一時を終わらせることにした。

 チュ、と愛らしい音がして、ボクは幸から離れる。

 ──端にいた男が何か独りごちた気がしたけど、それに気付けない程、ボクはこの空気に浸っていた。

「幸……?」

 幸にした、初めてのキス。これで起きてくれなかったら……本当にどうしよう。

 最悪の事態を想像したからか、やけに心臓が跳ねてきた。あの男を頼るのは不本意すぎるし、でも幸が目覚めなかったら────ずっと頭の中でそれがグルグル巡ってる。

 焦っていても仕方がないよね──幸がいつ目を覚ましてもすぐに気付けるように、ボクはひたすらに幸を見つめた。


 ────ピクリ、と。


 睫毛まつげがふわりと動いて、細かな瞬きを繰り返しながら、美しい金剛ダイヤの瞳が露わになった。

 そしてその生命力溢れる輝きに、ボクはひとまず安心する。いつもの幸だ、と。

「…………らん……?」

「……幸、ボクだよっ……幸っ──」

 幸の優しい声が聴こえる──そう理解した瞬間、ボクの心の中で何かが弾けた。きっとそれは、良いものなんだと思う。

 ボクは気付かぬうちに幸に覆い被さり、強く抱擁していた。幸が「あはっ、苦しいよ乱……!」と言うまで、そのことに気付けなかった。

「ねえっ、もう辛くない? もう平気?」

「んー……何が起きたか全然分かんないけど──まあ、多分大丈夫だろ!」

「……幸がそう言うなら大丈夫か──もう幸ってば、ボクすっごい心配したんだからね!」

 幸は一言話すごとに元気が増していって、すっかり普段の無邪気な幸に戻った。

 ボクは幸と顔を合わせるために、抱き寄せた身を少し引く。

「ごめんって、な? そんな、今にも泣きそうな顔するなよ」

 泣きそう──か。ボク、今そんな顔してたんだ。

 あの人が家を出てからは、泣かないし弱音も吐かないって決め込んでたけど……。それに口調だって、変えてたのに。

「(ホント、幸には敵わないな)」

 幸の前だと、どんどん偽りのボクが剥がされていく。毒気ない笑顔がそうさせているのかな。自分が普通の人の、普通の感覚に戻るみたいで、何だかむず痒い。

「あ、乱──あの人は?」

「ん? ──ああ」

 幸の視線を辿った先には──案の定というか。

 幸があの嫌な男についに気付いてしまった。

 折角幸との再会? に喜んでたのに。よりによってアイツを混ぜたくないんだけどな──。しかもアイツ、ずっとこっち見てたし。

「うん? 僕のことですか?」

「はい──えっと、オレは幸です」

 あーもう、何て礼儀正しいんだ。こんな明らかに怪しい男に、自分から名乗り出るなんて。ボクだったら絶対しない。

「これはご丁寧にどうも。存じていますよ」

 無遠慮に見てたんだから当然でしょ、と言うのを、ボクはぐっと飲み込む。幸にふてぶてしい所を見せたくないからね。

 男は相変わらず狐のような目を細めながら、口角を上げて言葉を放った。そのアンバランスな雰囲気と、童顔具合が相まって、なおさら異様なオーラを醸し出している。

「狼くんは確か……乱さん、でしたよね?」

「……ええ」

 ボクは無愛想さを懸命に取り繕って答えた。これでも頑張った方だから。狼くん、なんてふざけた呼び方されてもボクは我慢出来るってことを証明してやる。

「それでは僕も。無礼を被るのは結構ですし、名乗りましょうか」

 男は童児のようにコテンと首を傾げて、ヘラッと笑った。

 

「僕はさきとう────つかさゆいの部下です」


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