かぐやこのはな

香久山 ゆみ

かぐやこのはな

 ユマの小さな妹。突然いなくなってしまった。あんなに大好きで、あんなにかわいくて、特別だったのに。お姉ちゃんであるユマを置いて、ひとりでどこかへ行ってしまった。

 どこへ行ったのか知らない。けれど、きっとずっと遠いところ。ユマは青空に白い煙がすうっと溶けていくのをぼんやりと見上げた。

 妹のカグは、ユマが保育園に上がる前にうちにやってきた。それからもう十年もいっしょにいる。毎日じゃれあって、けんかして、時々こっそりふたりでお菓子を分け合って食べたり。一つの布団にふたりで眠ると、寒い冬でもとっても温かかった。ずっといっしょだった。これからもずっといっしょだと思っていた。なのに、もういない。そんなこと、信じられない。

 家の中は、カグの気配が溢れている。いつも座っていたソファ。いっしょに眠ったベッド。小さくて温かい体。柔らかくてふわふわの毛。廊下を歩く可愛い足音。お菓子を食べようと袋を開けると、耳聡くどこからか飛び出してきて、「カグにもちょうだい」って言う。あの可愛い目。

 さみしがり屋で甘えん坊で。家族で出掛ける時、カグだけお留守番となると、必死に足元にまとわりついて離れないものだから、パパもママも困ってしまって。結局根負けしていっしょに連れて行くことになるのだ。そんな甘えん坊の妹が、ひとりでどこかへ行ってしまうはずがない。

 泣き疲れて眠りに落ちたユマは、朝、可愛い足音を耳にした。布団にもぐり込んでお姉ちゃんを起こしにきた妹の気配で、目が覚めた。ああ、全部夢だったんだ。そうっとユマは目を開いた。布団をかぶったままぐるりと首を動かす。どこにもカグの姿はなかった。けれど、確かにユマは聞いたのだ。カグの足音、温かい気配。まだ耳に残っている。

 のろのろと支度をしてリビングに降りると、パパもママももうテーブルについていた。

「おはよう」

「今日は早起きね」

 パパとママが笑顔を向ける。いつもと変わらない朝。もそもそと、味のしないトーストとスクランブルエッグを食べて、家を出た。鼻の奥がつんとした。

 学校に着くと、ミサキちゃんやチカちゃんや何人かの友達が、ユマを囲んだ。

「ユマちゃん、大丈夫?」

「カグちゃんのこと、残念だったね」

「元気出してね」

 みんなとても優しかった。ユマは頑張って笑って、「うん、ありがとう。大丈夫」と答えた。

「でも、びっくりしたよ。この間会った時にはカグちゃんすごく元気で走り回っていたのにね」

 チカちゃんが言うと、みんな、「うん、そうそう」と頷きあった。ユマだけは顔を上げられなくて、ただじっと俯いていた。本当に、そうなんだ。カグはお別れのすぐ前まで、ずっと元気にしていたのだ。そう、ユマは思っていた。けれど、もっと早くにカグの異変に気づいてあげることだってできたのではないか。そうすればお別れせずにすんだのではないか。私はカグのお姉ちゃんなんだから。今さらそんなことを思ったって仕様がないのに、考えずにはいられなかった。そしてそう考えることは、出口のない苦しみを自分に与えることだった。

 先生が教室に入ってくる。わらわらとみんなが席に着く。授業が始まる。先生はカグのことを知らないから、いつもと何ひとつ変わらない授業がたんたんと進む。

 昼休みにはみんなでワイワイと運動場に飛び出して、ドッジボールをした。上手くボールを取れなくて、ずっと外野の隅で雲一つない青空を見ていた。同じ毎日。いつもと変わらない時間が流れていく。ユマはぷかぷかそこに浮かんで漂っていた。たった一人で教室に居残るほど強くないから。笑顔をはりつけて、みんなとキャアキャア言ってボールを追い掛けた。

 帰り道にようやく一人になれた。と、ほっと息をついていたら、「おいっ」と、突然うしろからランドセルを叩かれて、びっくりして振り向くと、カズヤがいた。

 人のランドセルを叩いて呼びとめておきながら、振り返ったユマに、カズヤは驚いた顔をしてる。ふいに振り返ったから、涙を拭いそびれたのだ。ごしごしと、慌ててユマは涙を拭く。

「なによ?」

 ぶっきらぼうにユマが言う。カズヤが、泣いていたことでユマを冷やかしたりしないと知っているから。

「あのさ」

 案の定、カズヤは何も見ていなかったようにぷいっと目をそらせながら言う。不器用だけど、優しい奴なのだ。幼馴染のユマはよく知っている。

「カグのこと。かわいそうだけど、元気出せよ」

「元気にしてるし」

 こんなに頑張ってるのに、元気に見えないのだろうか。

「うん、元気そうにしてるから、心配なんだよ」

 どっちだよ。ユマが返事をせずにじっと見返すと、カズヤがボリボリと頭を掻きながら言う。

「ええとさあ……、無理すんなってこと」

「してないし」

「いや、してるだろ」

「してない」

「泣いてたじゃん」

 と言ってすぐにカズヤはしまったという顔をしたけれど、ユマだって止まらなかった。

「うるさい! バカ!」

 そう言って駆け出した。本当に私ってかわいくない。カズヤが心配してくれているのだとわかっている。けど。

 もう全部いやだった。変わらない毎日も、かわいくない自分も、カグのいない世界も。

 けれどユマがどれだけ涙を流しても、ただ静かに日常は過ぎていった。

 ある日、家でおやつを食べていたユマは、こぼしたチョコレートの欠片をそのままゴミ箱に捨てた。捨てた瞬間にはっとした。私、チョコレートをゴミ箱に捨てちゃった! それはありえないことだった。カグが家にいた時には。

 カグはユマの妹で、大事な家族だけれど、犬はいっしょに連れて行けない場所もけっこうあって、カグだけお留守番になることもままあった。そんな時には、家に帰るとすっちゃかめっちゃか。ゴミ箱やらティッシュペーパーやら、倒すは漁るは散乱するは。大暴れ。だから、うちでは絶対にカグの手の届くゴミ箱には食べ物のゴミなんかは捨てなかった。食いしん坊のカグが間違って食べちゃうといけないから。

 なのに、今。ユマは捨ててしまったのだ。あんなに寂しいと思っていたのに。いつの間にか、カグのいない日常に慣れてしまっていた。そう。いつの間にか、家の中の気配も薄れているような気がして、カグのことを思い出す時間も少しずつ減ってきていて、いつか大事なカグとの思い出さえも……。そう思うと怖くなった。いても立ってもいられなくって。探さなきゃ。ユマは決意した。あんなに愛おしい存在が消えてしまうはずがない。きっとどこかにいるはずだ。

「私は、カグを探す旅に出る」

 ユマは、パパとママに宣言した。パパもママも笑わなかった。当然だ。冗談でこんなことを言うわけない。けれど、止められた。「そんな危ないことよしなさい」と言う。パパもママもカグに会いたくないの? 会いたいけれど、仕方ないのだと言う。仕方ないことなんかない。大切な家族だもの。きっと見つけてみせる。

「けれど、ユマのことが心配だ」

「ユマまで失ってしまうと、もう」

 そんなことを言うので、ユマは誓った。

「必ずちゃんと帰ってくるから。無事に。カグを連れて」

 真っ直ぐに二人の目を見て言った。パパもママももうそれ以上何も言わなかった。ただ、ぎゅううっとユマを力いっぱいに抱きしめて、見送ってくれた。

 とはいえ、どこへ行けばいいのか。当てなどあるはずもない。

 とりあえず商店街に行ってみることにした。お年寄りが多いから、何か知っている人がいるかもしれない。けれど、八百屋のおばさんも、魚屋のおじさんも、金物屋のおじいさんも、誰も何も教えてくれなかった。

「残念だけれどねえ、仕方のないことなのよ。もう諦めて、静かに供養してあげなさい」

「そりゃあ寂しいだろうけどね。時間が解決することさ。忘れちまいな」

「生きてるものはみんないつかは死んじまう。人生とはそんなものだ。お嬢ちゃんは美味い物たらふく食べて、早く元気出しな」

 みんなそんな風に、諦めさせようとしたり、慰めてくれようとしたりする。けれど、ユマは納得できない。だって大事な妹なのだ。私が見つけてあげなくちゃ。

 商店街をぐんぐん進む。

「あら、ユマちゃん。どこへ行くの?」

 途中で花屋のお姉さんに声を掛けられた。

「カグを探しに行くんです」

 ユマが答えると、お姉さんは少し悲しそうな顔をした。

「危ないわよ」

「へいきです」

 きっぱり言うと、お姉さんはそれ以上ユマを止めなかった。代わりに、「これを持っていきなさい」と、桃の花の一枝を差し出した。

「お花はね、はかないの。枯れてしまうともう同じ花が咲くことはない。たった一度きり、精一杯に花開くから、お花は美しいのよ」

 そう言いながら、美しい桃色の花をユマの髪に飾ってくれた。そして、教えてくれた。

「商店街の一番奥の、時計屋のおばあさんのところへ行くといいわ」

 お姉さんに教わった通りに、商店街の奥を目指して、ユマはどんどん進む。と、途中でぐいっと誰かに背中を叩かれた。振り返ると、カズヤが立っている。

「よう」

「よう、って。あんたなんでこんな所にいるの」

「オレは図書館の帰り。オレ今、宇宙にはまってるから」

 ちらっとカズヤの鞄を覗くと、確かに宇宙関連の本がぎっしり詰まっている。

「すごいんだぜ、宇宙は。ユマ、知ってるか。今現在この世界で科学的に解明されているのは、宇宙全体のほんの四パーセントに過ぎないんだ。大人たちがあれだけ一生懸命研究してもほんのそれだけ。だから……」

「ごめん、私いますごく急いでいるから」

 長くなりそうなカズヤの話を途中で遮る。

「お、そうだ。ユマは何でここにいんの」

 カグを探しに行くのだと説明すると、途端にカズヤは真顔になった。

「なら、オレも一緒に行くよ」

「いいよ、一人でへいき」

「オレだって小さい時からカグのことずっと知ってるんだから。オレも行くよ」

 カズヤはユマの腕をぎゅっと掴んで離そうとしない。本当はユマだって一人で不安だ。誰かについて来てもらいたい。でも。

「ありがとう。でも、これは私一人で行かなければならない。そんな気がするんだ」

 真っ直ぐに言うと、ようやくカズヤは手を緩めた。緩めてもらわなきゃ外れなかった。いつの間にか、こんなに力が強くなっていたんだなと思うと、やっぱりいっしょについて来てもらいたく思ったけれど、でもだめだ。自分の力で妹を探しに行かなきゃいけない。そう確信していた。

「ピンチになったら呼べよ。助けに行くから」

 カズヤが言う。どこへ行くのかもわからないのに、助けに行くだなんて変なの。だけど、その気持ちが嬉しかった。

「うん、ありがとう」

 それでカズヤと別れて再び歩き出した。少し足取りが軽くなっている。別れ際にカズヤが「あと、ソレ似合ってる」と照れ臭そうに桃の髪飾りを褒めてくれたのが、くすぐったくて、ちょっと元気が出た。

 商店街の一番奥まで来たのは初めてだった。

 路地の奥まったところに確かに時計屋はあった。よーく注意していないと見落としてしまいそうなくらい古くて小さなお店。古い板壁を一面覆うように蔦が絡まっている。蔦の間に入口を見つけて、そっとドアを開ける。ぎいいっと音を立てて開いたドアの隙間から、おずおずと店内に入る。

 店の中は外観よりもさらに不思議な空間だった。

 チク、

 タク、

 コチ、

 カチ、

 カチ、

 カタ、

 カチャ、

 クルッポー、

 ボーン、ボーン、

 カタカタカタカタ、

 壁面いっぱい、棚の上も棚の中も、床の上にも。店中に所狭しと時計が置かれている。壁掛時計、柱時計、置時計、目覚まし時計、懐中時計、腕時計。古いもの、とても古いもの、ずいぶん古そうなもの、ちょっと新しそうなもの。世界中の時計がここにあるのではないかと思うくらい。

「こんにちは。何をお探しかね」

「きゃっ」

 振り返ると、いつの間にか小さなおばあさんがユマのすぐ後ろに立っている。

「あのその、妹を、カグを探しに来たんですけど……」

 もじもじと答えると、おばあさんはじろーっとユマを見てゆっくり口を開いた。まるで魔女のおばあさんみたい。

「そうさねえ、心当たりを教えてやってもいいけれども、でも、危ないからねえ」

「お願いします!」

 ユマはぴょこんと頭を下げた。桃の髪飾りがふわりと揺れる。おばあさんはそれを見て、おやおや、と少し考えて言った。

「いいだろう」

「ありがとうございます!」

「しかし、とても危ないところだよ。帰ってこられないかもしれないよ」

「へいきです。なるべく危ないことはしません。必ず帰ってきます」

 きっぱり言うユマを見て、おばあさんは、おやおや、と笑った。

 ついといで、と歩きだしたおばあさんのあとを追ってユマは店の中を進む。ぎしぎしと古い階段を下りる。こんな古い建物なのに、地下室があるんだ。

 薄暗い地下へ続く階段を下りると、分厚い木の扉がある。おばあさんがその扉に手を伸ばそうとするのを、「あ、私開けます!」とユマが真鍮のノブに手を掛ける。おばあさんの力だと開けられないと思ったのだ。しかし、ユマが精一杯扉を引いても、びくとも開かない。おやおや、とおばあさんはユマに代わってノブに手を掛ける。しわしわの小さな手。なのに、おばあさんが扉を引くと、まるで魔法みたいに音を立てずスッと扉は開いた。

 扉の向こうはほんの小さな部屋だった。部屋というよりも物置なのかもしれない。狭くて暗い空間に、大きな古い柱時計だけがどんと立っている。

 ユマが柱時計をぼおっと見上げる横で、おばあさんは鍵を取り出して、カチャリと柱時計の蓋を開けた。長い振り子はだらんと止まっている。おばあさんはその振り子に手を掛けてぐいっと持ち上げた。

「さあ、お行き」

 持ち上げられた振り子の後ろには穴が空いている。まるでどこかへ続く入口みたいに。穴の向こうは暗くてよく見えない。

「あの、この向こうにカグがいるんですか」

「さあねえ」

「えっ」

「あたしもその子がどこにいるのかは知らないのさ。けれど、向こうにはそのヒントがある。それだけはわかってるのさ」

 さあ、どうする? おばあさんがユマを見つめる。そんなの決まっている。ほんの少し怖気づいてしまっただけだ。

 えいっ。

 ユマは柱時計の奥に飛び込んだ。真っ暗な闇にユマの体は吸い込まれていく。おやおや、背後でおばあさんの笑う声が聞こえた。そして、おばあさんが手を離したのだろう、カチカチ、と振り子が時を刻む音が遠く後ろの方に聞こえた。

 何も見えない暗闇の中、ユマは夢中で手足を動かして走った。

 どこをどう進んだのか、それとも気を失っていたのか。ユマが目を開けると、辺りはひんやりとした緑に囲まれていた。ざわざわざわと葉擦れの音がする。緑に覆われているのだろう、薄暗い。ユマが体を起こすと、そこはまったく見覚えのない場所だった。

 竹林。青竹が真っ直ぐに立っている、幾本も、無数に。まるで緑の宮殿みたい。ここはどこだろう。近所に竹藪なんてなかったはずだけれど。辺りは葉の擦れる音が聞こえる以外は、しんと静まり返っている。誰もいないのだろうか。当てもないのにどこへ進めばいいのだろう。この永遠に続くような竹林のどこかに、カグはいるのだろうか。不安にきょろきょろ辺りを見回すと、ふっと、竹藪の向こうに何かが動いた気がした。

 カグ?

 ユマは駆け出した。もう二度と手放さないように。一心に今動いたはずの場所を目指した。

 しかし、ちがった。カグじゃない。似ても似つかない。おじいさんだ。古臭い着物をきたおじいさん。がっかりしているユマを見て、なぜだかおじいさんも落胆しているようだ。

 けどまあ、人に出会えたのだ。ユマはこの世界にひとりぼっちではなかった。よかった。ユマはおじいさんに訊ねた。

「ここはどこですか?」

「はあ? 竹藪じゃが」

「あ、ええと、どこの竹藪ですか?」

「裏山の竹藪じゃが」

「ええ?」

 ユマの家の近所に山なんてない。一体このおじいさんてば何を言っているんだか。どうにも話が通じそうもない。それとも私の方がおかしくなっちゃったのだろうか。それでも、今頼りになるのはこのおじいさんしかいないのだ。

「ええと、あの、私いま、妹を探しているんですけど。どこにいるか知りませんか?」

「はて? 知らんのう。わしも今、人探しをしているんじゃよ」

 まさか同じ境遇の人に会うなんて!

「おじいさんは誰を探しているんですか?」

「娘じゃよ」

「娘さん?」

「おお、そりゃあ可愛い娘でのう。みんなからも愛された。あの子がいるだけで、家の中に光が満ちるようだった」

「ああ、わかります……」

 ユマも思わず呟く。わかる。同じだ。うちも、カグがいることでどれだけ家庭が明るくなったか。家族が救われたか。小学校高学年になってもずっとパパとママとお出掛けしていたのもきっとカグがいっしょだったお陰だ。カグがいなかったら、チカちゃんみたいに反抗期で、親といっしょに出掛けるとか恥ずかしいし! なんて言っていたかもしれない。カグは家族が大好きだった。パパとママがケンカを始めると飛び出してきて小さな体で必死になって止める。その姿がとってもかわいいから皆すぐに笑顔になっちゃう。お出掛けした時だっていちいち振り返ってはちゃんと皆がそろうのを確認していた。カグがいたから皆いつも一緒だった。

「でも、おじいさんはどうしてこの場所で娘さんを探しているの?」

「あの子に出会ったのもこの竹藪だったからじゃよ。あの子を見つけた時、まるで光り輝いて見えたんじゃ」

 同じだ。私も。はじめてカグがうちに来た時、まるで天使みたいだって思ったの。なんて愛らしい仔犬なんだろうって、ビビビッて光って見えたんだ。

「あの子はわしらの姫じゃった……」

 そう言いながら竹藪を探し歩くおじいさん。ユマもおじいさんのあとについて、竹藪の中を歩き回った。しかし、見つからない。しばらくしておじいさんが言った。

「おじょうちゃんは、もうお行き」

「え、でも」

「ここは、わし一人で探すから」

「けど、カグもいるかもしれないし。私もいっしょに探します」

 ユマがそう言うと、おじいさんは小さく首を振った。

「……ここにはおらんじゃろう……」

 カグが? それとも? けれど、ユマももうそれ以上は口にしなかった。

「わかりました。だけど、私一人だとこれからどこへ行ったらいいのかもわからないんです」

 辺り一面、どこまでも青い竹林が続くんですもの! すると、おじいさんは竹藪の向こうを指さした。

「この方向へずっと進みなさい。しばらく行くと水の音がする。音の方向に進みなさい。川に出る。そこにばあさんがいるはずじゃ。ばあさんに聞いてごらん。よう井戸端話をしとるから、わしより世間に詳しいじゃろう」

 なら、おじいさんもいっしょに行きませんか? そう言いかけて、やめた。おじいさんはここで探すのだ。愛する娘を。彼女の思い出を。見つからないはずなんてない。私も、……きっと見つけてみせる!

「ありがとうございます」

 ペコリとおじぎをして、ユマは教えてもらった方向に進む。おじいさんは微笑みながらしばらく手を振っていたが、ユマの姿が見えなくなると、またすぐに娘を探し始めた。

 ユマは竹林の中を駆けた。ざわざわざわという笹の音。どれだけ走っても変わらぬ景色。笹の音のほかには、はあはあと自分の呼吸音。耳もとに響く鼓動。どんどん。どんどん深い所まで進んでいくような感覚。そんな不安を振り切ってユマは走った。今は信じるしかないのだ。

 すると、耳の端にようやくさらさらと笹ではない音が、かすかに聞こえた。音を辿って進むと、川に出た。先程までの出口のないかに思えた竹藪が嘘のような広い川原。

 川原に突き出た大きな岩の上に、着物をきて手拭いを頭にかぶったおばあさんが座っている。足をぶらぶらとさせているが、足元に洗濯物があるところから見ると、川で洗濯を終えたところなのだろう。まるで昔話みたい。

「こんにちは」

「おや、どなた?」

 振り返ったおばあさんに、先程竹藪にいたおじいさんに教えられてここへ来たこと、妹を探していることを伝えた。ああ……、おばあさんは小さく溜息をついた。

「じいさんはまだ竹藪を探しておるのか。わたしを置いたまま……」

「あのっ。きっとおじいさんは娘さんを探して、おばあさんを喜ばせたいから。また家族で仲良く暮らしたいから。だから一生懸命探しているんだと思います」

 ユマはなんだか慌てておじいさんのことをかばった。

「そうかい……」

 それでもおばあさんは小さな溜息をそっと吐く。寂しそうな息を。

「ところで、おじょうちゃんは何のご用だい?」

「えと。あの。私も、妹を探しているんです。おばあさんに訊けば何かわかるかも、って」

「ああ、おじょうちゃんもかい……」

 そう言っておばあさんは少し考え込んでから、口を開いた。

「よした方がいい。危ない道のりだよ。お父さんもお母さんも心配するだろう」

「大丈夫です。危ないことはしません。カグを見つけたらすぐにいっしょに帰ってきます」

 本当にあんたらみたいなのは言い出したら聞かないんだから。どれだけ心配しているか周りの声なんてちっとも聞きやしないで。馬鹿なんだから……。おばあさんはぶつぶつとひとしきり独り言をいったあと、特大の溜息を吐いてから教えてくれた。

「黄泉の国へお行き。この川を渡って、ずっと行った先に洞窟がある。そこを一番奥まで進めば辿り着くよ」

 けど、危ないから気をつけなさいよ。おばあさんは最後にまたそう付け足した。

「あの、おばあさん。もしも、黄泉の国に娘さんがいたら、いっしょに連れて帰ってきましょうか」

 ユマが言うと、とたんにおばあさんの顔がくしゃっと歪んだ。

「そりゃあ……」

 言いかけて、言葉に詰まって、おばあさんは大きく息を吸ってから言い直した。

「そりゃあ、帰ってきてほしいよ。けれど……。姫に聞いとくれ、帰るかどうか」

 そんな風に言うので、ユマは不思議だった。泣きたいくらい会いたいのなら、素直に帰ってきてほしいと言えばいいのに。姫だって帰りたいに決まってるのに。

「それからね。姫に伝えておくれ。ずっと愛していると。わたしもじいさんも、姫のことをとてもとても愛しているのだと、どうか伝えておくれ」

 それで、おばあさんとお別れした。別れ際におばあさんは、大事なことを忘れるとこだった、と言い足した。けっして黄泉の国のものを食べてはいけない、と。黄泉の国のものを食べると黄泉の国の住人になって、もう帰ってこられないから。それから、カグを連れ帰るときにはけっして振り返ってはいけない。もしもカグが黄泉の国のものを食べてしまっていた場合、黄泉の国から離れるにつれてその体はどろどろに崩れていってしまうから。そんな姿を見てしまうと、その者への愛さえ消えてしまう。だから振り返ってはいけないよ。おばあさんはそう注意した。なのでユマは心配になった。だって、カグは食いしん坊だから。けれど、とにかく行くしかない。

 おばあさんに手を振って、ユマは先を急いだ。

 川を渡らなければならない。けれど白い砂利の敷詰められた川原をどこまで進んでも一向に川幅は変わらない。どこから川を渡ろうかと、川原をうろうろしていると、青い顔をしたひょろりとした人が「こっちこっち」とユマを手招きする。行くと、青い人は船頭さんで、親切にも川を渡してくれるという。知らない人にはついていってはいけないが、今は緊急事態。渡りに船とばかりに、ユマは小さな舟に乗り込んだ。

 ちゃっぷん、ちゃっぷん。ゆーらゆら。

 川を渡るうちに、どんどんと天気は悪くなっていき、雲の上ではゴロゴロと雷の生まれる音がする。ごうっと突風が吹き、舟が大きく揺れ、ユマは船べりにしがみつく。船頭さんの頭にかぶっていた笠が風に飛ばされ、その頭の上につんと立ったツノが見える。着物がはだけ、虎柄のふんどしが覗く。けれど、ユマは懸命に船べりにしがみついているから気づかない。

 向こう岸につくころには、風はおさまり、船頭さんもすっかり身を整えていた。

「ありがとう」

 ぴょこんとお礼を言って先を行こうとしたユマを、船頭さんが呼び止めた。

「ここには超有名な観光名所があってね。ご案内しましょう」

 急いでいるんだけどな、と思いながらも、そう遠くないと言うし、せっかくの親切なのだからと、ユマは案内について行く。

「ごらんください。こちらがかの有名な、瘤取りじいさんの穴です」

「へえ、あの、おむすびコロコロの?」

「そうですよ。覗いてごらんなさい」

 興味津々で身を乗り出して穴を覗き込んだところ、とん、と誰かに背中を押されて、ユマは穴の中に落ちていった。

 コロリンコロリンスットントン。

 穴の一番下まで落ちて、ようやく止まった時、そこは真っ暗闇だった。風もなく、なんだか空気が重い。息を潜めてじっとしていると、次第に暗闇に目が慣れてくる。手探りで周囲に触れるとゴツゴツしている。岩だろう。どうやら、ここは洞窟の中のようだ。図らずして、黄泉の洞窟に辿り着いたみたい。

 向こうの方、洞窟の曲がり角からほの白い光が漏れている。そろそろと、光の方を目指して進む。曲がり角を折れると、すぐにその光の正体が分かった。

 女の人だ。まるでお姫様みたいに美しい女の人の白い体が、ぼうっと発光しているのだ。

 そして。

 ――カグ!

 女の人のすぐそばにちょこんと座る黒い影。カグだ。間違いない!

「カグ!」

 ユマは真っ直ぐに駆け寄る。ユマの声に、カグもバッと振り返る。そして驚いたようにユマの声と足音と匂いとを捉えて、カグもユマに駆け寄る。ぶんぶんとしっぽを振って。

 カグ!

 ユマちゃん!

 ふたりはしっかりと抱きしめ合った。温かい。小さな体、この匂い。

 体を離すと、ユマはカグの耳のうしろを撫でた。カグはユマの手を鼻でツンとつついてからペロリと舐めた。

 それからようやくユマは女の人に訊いた。

「あなたは、竹取のおじいさんの娘さんですか」

「そうよ」

「なら、いっしょに行きましょう。おじいさんがずっと探しています」

 そう言ってユマは立ち上がった。けれど、姫は座ったままだ。カグも。

「さあ。行きましょう。早く!」

 姫は首を横に振った。

「だめよ。わたしはもうこの国のものを食べてしまったもの」

「大丈夫ですよ!」

「いいえ。一度ここに来てしまったのだもの。もう同じ場所には戻れないわ。わかるでしょう?」

「わかりません!」

 今度はユマが首を振る。ぶんぶんと。

「あら?」

 ユマの頭で揺れた髪飾りを目に留めて、姫が手を伸ばす。桃の花を白い掌の上に乗せ、もう片方の手でそっと蓋をする。

「わたしはもうしばらくここにいるわ。ここで、あなたたちのような人たちの助けになることが、今のわたしの使命だから」

 白くて細い指をそろえた両掌を重ねたまま、姫が言う。

「なら、もうしばらくしたら帰るってこと?」

「いいえ。そしたらまた違う場所に行くわ。……どこかな……」

 姫の重ねた手の内がぷくりと膨れる。姫はじっと座ったままだ。

「おばあさんが。愛していると言っていました。おじいさんもおばあさんも、あなたのことをとてもとても愛していると。だから」

 ユマは懸命におばあさんのことばを伝える。姫の白い頬に一筋の涙がつうっと伝う。

「ありがとう……。わたしも、とてもとても……」

 なのに姫は座ったまま。カグは。

「カグは、帰るでしょう?」

 ユマが膝の上の小さなカグを見つめると、カグは困ったように姫を仰いだ。そんな。

 カグに見つめられた姫は静かに微笑んだ。もう泣いてはいない。そして、そっと掌を開いた。姫の掌のうちには、先程ユマの髪から抜いた桃の枝。三輪の桃の花があったはずだけれど、そのうちの一つがぷるんと丸い桃の実になっている。その実をもぎ取って、姫はカグに差し出した。カグはがぶりと桃の実を食べた。そして、立ち上がった。姫は残った桃飾りをユマの髪に戻して、そっと背を押した。

「いってらっしゃい。よい旅を」

 そうして、ユマとカグは歩き出した。いっしょに帰るのだ。

 洞窟は真っ暗だったけれど、姫が持たせてくれた涙の粒をかざすと、ピカーッとまるで懐中電灯みたいに先の方までよく見えた。けれど、そのせいで、すぐに鬼に見つかってしまった。

「おい、こら。お前らどこ行くんだ!」

「無断外出かよ!」

「まてー!」

 わああああー!

 ユマとカグは、鬼から逃れるため、洞窟の中を全速力で走った。すごく久しぶりに。最近はカグといっしょにこんな全力で走ることはなかった。最近のカグは昔みたいに速くは走れなかったから。だから、ユマは少し不安になった。カグはちゃんとついてきているだろうか。それで、ふとおばあさんの話を思い出した。けっして振り返ってはいけない。黄泉の国のものを食べた者はどろどろに崩れてしまうから。けど!

 ユマは振り返った。

 迎えに行くし振り返るし逃げないしつれて帰るし! もしもカグの体がどろどろで、蛆虫が出てきたって、いい。蛆虫なんてピンセットで全部取ってあげるし、体だってきれいに洗ってあげる。絶対いっしょに帰る! そんな覚悟で振り返ったけれど、カグは。しっかりユマの隣について来ていたし、体もかわいいカグのままだった。桃の実を食べたおかげだよ、とカグは笑った。

 鬼はしつこく追いかけてくる。ユマとカグはアイコンタクトでぴったりの息で曲がり角を曲がる。けど鬼しつこい! と、鬼の様子をうかがおうと頭を振った拍子に、ユマはバランスを崩してズべーッと転んでしまった。だって、なんか頭が重くって!

 起き上がろうとする間もなく、背後から鬼たちの声が近づいてくる。岩壁に鬼たちの影がずんずん迫り来る。

「ユマちゃん! 頭の桃!」

 ユマに駆け寄りながらカグが叫ぶ。ユマが頭に手をやると、もう一つ桃の実がなっている。どうりで頭が重いわけだ。

 ユマは頭の桃を一つもぎ取って、身を起こし、背後にむけて投げた。

 ドーン!

 桃の実が爆発して、煙幕が充満する。

 う、わ、わ、わあああ!

 うろたえる鬼たち。

 カグがユマの足をペロッと舐める。カグに励まされながら、ユマは立ち上がり、そしてまた走り出す。今度はカグが先に立つ。煙で真っ白な視界の中、くんくんとカグが鼻を利かせる。ユマがちゃんとついて来ているか、時々振り返りながら、カグは進む。ユマはその姿をじっと追いかける。そうだ。いつでもそうだった。お散歩の時も、いつも。カグは時々振り返って、ちゃんと家族がついて来ているか確認して、待ってくれた。なのに。

 道は上り坂になる。

 坂の先に光が見える。出口だ――。

 出口を抜けると、そこは一面の花畑だった。青い空。赤い曼珠沙華がどこまでも続く。振り返っても、もう鬼の声は聞こえない。

 お花畑をふたりで進む。ふたりでお花の匂いを嗅ぐ。時々しゃがんで花の陰に隠れてみたり。ああ、あの頃と同じ。

 しばらく行くと、川が見えた。もう少しでうちに帰れる。いっしょに――。

 なのに、ここまで来て、カグがぴたりと足を止めた。

「あれ? カグ、どうしたの?」

「ごめんね、ユマちゃん。カグはこれ以上はいっしょに行けないの」

「なんで?!」

 カグは答えない。ただじっと動かない。こっちに来てくれない。また。

 だめだよ。

「だめだよ、カグ」

 思いが溢れる。だって、あの時も。

 最後の最後まで、カグはいつもと変わらぬようにしてくれた。ワンワン、けんかして。いっしょの布団で寝て。みんなといっしょにいたいと甘えて。ご飯だってもりもり食べて。いっしょに散歩して。でも、あれ? 調子が悪そうだって、そこでようやく病院に行って。即入院になって。そのまま帰ってこなかった。散歩の時はいつも振り返って待ってくれるのに。この時は待ってくれなかった。たったひとりで行ってしまった。あんなに甘えん坊だったのに。最後の瞬間にひとりにさせてしまった。さびしくなかったろうか。そう思うと苦しくて。だから、もう二度と手を離したくない。

 なのに、カグはただ困ったようにじっとユマを見つめる。

 ザザザーっと一陣の風が吹き抜ける。砂埃が立ち、瞬間、ユマは手で目を覆った。再び目を開けると、カグの隣にきれいな男の人が立っていた。

「誰?」

「ツクヨミです。この、黄泉平坂の番人です」

「よもつひらさか?」

「継黄泉の地……、現世と黄泉をつなぐ場所です」

「なら、私とカグをいっしょに現世に帰して!」

 ツクヨミは静かに微笑む。カグをそっと見つめる。

「彼女はだめですよ。もう肉体もありません。あなたが思っているのと同じようには、現世で過ごすことはできないのです」

「どうして?」

「本当は、もうわかっているでしょう?」

 静かな声。わからない! そう言いたいのだけれど、ユマの目からは大粒の涙が溢れてきて止まらない。犬は泣かない。けれどカグも。心配そうにじっとユマを見つめる。

「じゃあなんで。なんでカグはここまで来たの? いっしょに帰りたいからでしょう?」

 ツクヨミは答えない。ゆっくりでいいよ、ちゃんと自分のことばでお話しなさい。そう言って、ツクヨミはカグの背をそっと押した。おずおずとカグが口を開く。

「あのね、カグ、おしゃべりは上手じゃないから上手く言えないかもしれないけど」

 大丈夫だよ。十年間いっしょにいて、カグが言いたいことユマはちゃんとわかるのだから。

「最期の時にね。ユマちゃんやみんなのこと待てなくてごめんね。カグ、とっても疲れていて、そのまま眠ってしまったの。最後の最後までみんなといっしょにいられたから、満足してしまったの」

 いいよ。カグは全然悪くないんだよ。

「でもね、やっぱりもっとユマちゃんたちといっしょにいたかったなって。そう思っていたら来てくれたから。すごくすごく嬉しかったよ。だからもう少しだけ、いっしょにいたくて」

 カグの目からぽろぽろと光る粒が溢れる。ユマの目からも。

「最後にユマちゃんと遊べて楽しかった。いっぱいいっしょに走って、お花畑でかくれんぼして、おもしろかったね。また思い出ができたよ」

 私も。ユマもそう言ったけれど、泣き声でうぐうぐとしか聞こえない。それなのに、カグはなんて強い子なんだろう。

「ユマちゃん、大好きだよ。パパもママも、みんなのことも、大好きだよ。パパとママにも伝えて。ママ、いつもお世話ありがとう。パパ、おうちに連れてきてくれてありがとう、って。もちろんユマちゃんも。今までいっぱいありがとうね」

「ユ。ユマも。カグのこと、だいだいだいだいだーい好きだよ。パパもママもみんなも、カグのこと大好きだからね。いっぱいいっぱい大好き。カグと家族でよかった!」

 涙は止まらないけれど、それだけはどうしても伝えたくて。ばかみたいに大声になってしまって、カグがうふふと笑い、ユマもえへへと笑った。

「じゃあね、ユマちゃん」

「待って!」

 ユマがカグに駆け寄る。小さな体に手を伸ばす。それで、ぎゅっとぎゅーっと抱きしめる。この温もりを忘れないように。カグもくんくんと鼻を動かす。ユマの匂いを忘れないように。

「ユマちゃん」

「なあに」

「あまあい、桃の匂いがする。ユマちゃんの桃、おいしかったなあ」

「ふふふ、カグってば食いしん坊なんだから」

 そうだ。ユマは体を離し、髪飾りを取った。桃の最後の一輪が実りかけている。これをカグに。ユマが実をもぎ取ろうとすると、カグがその手を止めた。

「カグはもう食べたから。その桃は別の人に」

「でも」

 すっと横から手が伸びてきた。桃の枝の上に重なったユマとカグの手。その上にそっとツクヨミが手を添える。すると。枝の何もなかったところから、ぷくぷくと一輪の愛らしい花が咲いた。ツクヨミが手を離す。ユマとカグが同じ顔で見上げる。

「それは、あなたたちふたりの花ですよ。美しいですね」

 ユマとカグはおでこをくっつけて花を見つめる。桃色の小さな花。少し輝いている。やさしくて甘い香り。

「ねえユマちゃん」

 カグが顔を上げる。

「このお花、ちょうだい」

「いいよ」

 ユマはそっと小さな花を摘み、カグの耳に飾ってあげる。

「ありがとう」

「うん」

「じゃあ、さようならだね」

 カグがツクヨミの隣に立つ。ツクヨミはそっとユマの頭を撫で、そして、カグの体に触れる。カグの体がほのかに光を帯びる。カグ! ユマが声を上げる。

「大丈夫ですよ。先程言ったでしょう。同じようには現世で過ごすことはできない、と。世界はまだまだあなた方が知らないことも多いのですよ。肉体がなくなっても、またちがうかたちで」

 ツクヨミの静かな声は徐々に空に溶けていく。

「カグ、大好きだよ。またね!」

「うん、またね!」

 ユマはぼろぼろ泣きながらもとびきりの笑顔を向けた。カグもぶんぶんと力いっぱいにしっぽを振った。そして、ぐんぐん大きくなった光に包まれて、カグは行ってしまった。

 花畑に、ユマは一人きりになった。

 どれくらいそこにいただろう。すっかり涙が乾いてから、ユマは再び歩き出した。もう振り返りはしなかった。

 川原には行きの青い船頭さんがいて、ユマの姿を見ると驚いた顔をした。ユマが向こう岸に渡りたいと、ぴょこんと頭を下げた拍子に頭の上で揺れた桃の実を見て、船頭さんはなぜだか慌てた様子になって、さっさとユマを向こう岸まで送り届けてくれた。

 舟から降りて、川下の方を見ると、遠く岩の上にはまだおばあさんがちょこんと座っているようだった。ユマはおばあさんのところへ行こうかどうしようか、少し悩んで、ひらめいた。

 頭から、最後の桃の実をもぎ取った。一番長いこと頭の上に乗っかっていた桃の実は、ずいぶん大きくなっていた。

 よいしょっとユマは桃の実を抱えて、それをそっと川に流した。

 大きな桃はどんぶらこどんぶらこと流れていく。川下のおばあさんを目指して。おばあさんはあの桃を拾ってくれるだろうか。姫が不思議な力で育てたあの桃を。

 ユマは桃の行方を見届けずに先を急いだ。待っている人がいるのだ。竹藪を進む。果てしない青い世界。走り続けるうちにぐらりと眠くなって、そのまま倒れた。

 だれかー!

 帰らなきゃ。その思いで、助けを求めたような気がする。けれど、ユマの目はそのまま閉じられた。真っ暗な夢の中。ペチペチという音に目を覚ますと、ペチペチは自分のほっぺを叩かれている音だった。

「お。よかったあ。起きたか」

 目の前にカズヤの顔がある。頭が痛い。ゆっくりと体を起こすと、頭の下には図書館の本がいっぱい詰まったカズヤの鞄。枕にするならもっと柔らかいものにしてほしいんだけど。

「やっぱり心配になって、あとからオレも追いかけてきたんだ」

 興奮気味のカズヤが言う。まだぼうっとした頭で、ぼんやりユマはそれを聞く。

「けど、商店街の奥に時計屋なんてないしさ。代わりに、この空き地にお前が倒れてんじゃん。びっくりしたよ!」

「え!」

 ユマは慌てて起き上がろうとして、よろめいた体をカズヤに支えられる。確かにここは、ユマが辿り着いたはずの商店街の一番奥だ。しかし、来た時にはこんな空き地はなかった。ここにあったのは、あの時計屋――。

 もうどこにも時計屋はなかった。

 カズヤと別れてからどれほどの時間も経っていない。カズヤが追いかけてきたところ、ユマはこの空き地で眠っていたという。空き地の、この、桃の木の下で――。

「帰ろう」

 ユマが言うと、カズヤは少し驚いた顔をした。

「もう、いいのか?」

「うん」

「そっか」

 カズヤの手を借りて起き上がり、二人は並んで歩き出す。家に向かって。

 カズヤの鞄から覗く一冊の本が目に留まった。

「かぐや姫?」

 宇宙の本の中に、一冊だけ『かぐや姫』だなんて。変なの。

「おう。かぐや姫ってさ、SFなんだぜ。異世界のかぐや姫が、月へと還るんだから」

「でもただのおとぎ話でしょ」

「わかんねえぞ。言ったじゃん、現代の科学で解明されてるのは四パーセントだけだって。あとの九十六パーセントは何があるかわからない。奇跡の世界だよ。異次元とか、宇宙人とか、幽霊とか……」

「魂とか、思い出とか?」

「そうそう」

 歩きなれた商店街を、町を進む。家に着くと、いつも通りのパパとママがいる。いつもの日常。けれど、ここには確かにカグがいた。帰ったらパパとママに伝えよう。カグからの伝言を。「ありがとう」「大好き」だって。大人ってわかりにくいけれど、きっとパパとママも同じだと思うから。あの竹取のおじいさんとおばあさんみたいに。

 いや、まずはこう言わなきゃ。

「ただいま。心配かけてごめん」

 って。それから、

「パパ、ママ、今度はいっしょにお出掛けしよう。カグと行ったあの山へ、家族みんなで!」

 

   *

 

 数日後の下校時、カズヤとユマは商店街を歩いていた。

 商店街の奥の時計屋――。確かにあったのだ。ユマがもう一度確かめに行こうとしたところ、カズヤもいっしょに行くと言うから。前回助けてもらった借りがあるので仕方ない。二人で行くことにした。

 花屋のお姉さんにも聞いてみたが、なぜかお姉さんも時計屋のことを知らないという。あの日お姉さんが教えてくれたはずなのに。そのことさえ覚えていなかった。ただ、ユマはなぜだかお姉さんのことをもっと知っている気がした。きれいなお姉さん。桃色のお花を触る白くて細い指。けれど、ユマもまた思い出せなかった。

 商店街の一番奥に辿り着く。二人で隅々まで探したけれど、あの時計屋は見つからなかった。

「夢でもみたんじゃないの」

 カズヤが言う。

「なによ。九十六パーセントの奇跡を信じないっていうの」

 ぶうぶう言いながら空き地の土管の上に腰を下ろす。

 ん?

「カズヤ、聞こえた?」

「なにが? 何も聞こえないよ」

「しーっ」

 確かに、何か。気配がする。胸がどきどきしてる。吸い込まれるように土管の中を覗く。

 光ってる。目と目が合う。ユマはそっと手を伸ばす。その小さな生き物は逃げもせずに、ユマの胸におさまった。

「捨て犬か。よく気づいたなあ」

 カズヤを無視して、ユマはじっと仔犬を見つめる。仔犬もじっとユマを見る。その頭には小さな桃の花がのっている。ユマはその仔犬をぎゅっと抱きしめた。

 カズヤが見上げると、いつの間にか桃の木が満開の花を咲かせていた。

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かぐやこのはな 香久山 ゆみ @kaguyamayumi

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