仰げば尊し
香久山 ゆみ
仰げば尊し
私の当時は何を歌ったけ。式次第を見守りながらぼんやり思い返す。確か「仰げば尊し」だった。時代だな。
講堂に並んだ学生達も、さすがに今日ばかりは校長の長い話を神妙に聞いている。学ランの男子、セーラー服の女子。黒、黒、黒。まるで喪服みたい。入学式には色とりどりの明るい服を着る先生方も、なぜだか卒業式には地味なスーツを着ている。主役よりも目立たないようにという配慮かしら。かくいう私も淡いグレーのスーツ。墨染めだ。
なぜ卒業式ときたら葬儀のようにしんみりしてしまうのだろう。彼らの三年間を振り返る。確かに思春期のこの三年間は、大きな事件から個人的な失敗まで、葬り去りたい過去で満ち満ちているだろう。我々教師にしたってそうだ。大過なく三年間を終えることがいかに困難か。勤務年数を重ねるごとに授業は上手くなっていく。しかし、相対する生徒達は一人ひとり個性が違うし、時代も変わる。人権がどうの、昔ほど厳しい指導は出来なくなった。個人情報の管理が厳しくなるとともに自宅作業は制限されることになり、学校に残る時間が増えた。休日でも生徒に何かあれば呼び出される。それでいて、一般企業に勤める友人からは「あなたは学校以外の世界を知らないから」とマウントを取られる。毎年何十人何百人の新しい人間関係を作るのがどれだけ大変か。だが、外の世界を知らぬのは事実なので言い返すこともできない。あんたらみたいなのがモンペになるんだわ、と内心毒づくだけ。葬り去りたいことだらけだ。
私のクラスが座る一角を見遣る。――一人足りない。小さくため息を吐く。
「すみません。うちの生徒が一人いないので、連れてきます」
隣の席の先生に声を掛けてそっと席を立つ。驚く先生に、「うちのクラスの授与までにはちゃんと戻りますから」、大丈夫ですと言い切って講堂を抜ける。大丈夫、校長の話は今日は特段長い。私がこの学校を卒業した日もそうだった。
卒業式をボイコットする彼がどこにいるか、当たりはついている。特別素行の悪い生徒ではないけれど、彼がサボる場所はいつも決まっている。国語科準備室の裏手、私と同じ。
案の定、彼はそこにいた。
「卒業式、もう始まっているわよ」
「……別に、出席したって意味ないし……」
ぼそりと呟く。保護者席に彼の晴姿を見送る人がいないから。父子家庭の彼の父親は卒業式はもとより、入学式にも運動会にも一度も顔を見せたことはない。
「私が見てるわよ」
彼はしゃがんでそっぽ向いている。
「先生が皆の門出をちゃんと見てる。あなたや、色んな事情を抱える子もひっくるめて。様々な理由で出席できない親御さん達の思いも背負ってる。先生は三年間あなたたちをずっと見てきたんだよ。しっかり巣立つ瞬間を見せてよ」
一言ずつ思いを込めて、彼に語る。
「……って、昔あなたのお父さんに言われたのよ、私」
「え?」
彼が顔を上げる。視線の合った彼にニヤリと笑ってみせる。
「私の親も教師でね、入学式や卒業式に来てもらえなかった。我が子を放ってよその子を祝ってるなんて、私は愛されてないんだ。って、私も卒業式をボイコットしてたの。そしたら、先生が迎えに来てそう言ってくれた。……自分もきっと息子の卒業式には出席できないだろう。けれどその時息子をこんな風に見守っていてほしい、いや、自分自身がこう見送ってやりたいという気持ちで、生徒達に接しているんですって」
彼はまたしゃがんだ膝に顔を埋める。じっと動かない。
「だから、私がちゃんと見てるから」
ぽんと肩を一つだけ叩く。
「それじゃあ、そろそろ時間だから先に行くわね。返事があるまで何度でもあなたの名前呼び続けるから。早く来なさいよ」
講堂に戻ると、すでに一つ前のクラスの卒業証書授与が始まっていた。皆名前を呼ばれ元気に返事をする。はじめて名前を与えられるみたいに。葬送儀礼には再生への祈りも込められるという。私は、教師として何度この瞬間に立ち会うだろう。生徒だけでない、我々も幾度も生まれ変わるのだ。なんてすごい仕事だろう。そして、このタイミングで母校に赴任したことに運命を感じさえしていた。
うちのクラスの番が回ってきた。担任教諭として壇上脇のマイクに向かう。生徒を見渡す。彼の姿がある。落着いて深く息を吸って胸を張り、出席番号一番の生徒の名を呼ぶ。
入ってきた時に扉を閉め忘れたのであろう、あたたかな風とともに吹き込んだ早咲きの桜の花弁が講堂内を薄紅色に染めた。
仰げば尊し 香久山 ゆみ @kaguyamayumi
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