ヴィーナスの指輪

香久山 ゆみ

ヴィーナスの指輪

「さて、どうしたものかな」

 僕は、深い溜め息を吐く。

「どうしたのさ」

 向かいの席でブラックを飲んでいたハルが視線を向ける。

 金曜日の夜、僕と幼馴染の友人ハルは、いつものように喫茶三日月館の窓際の席にいた。

「角倉クンが、大変なんだ」

「角倉くんが?」

「角倉クンが、犯人になってしまうかもしれない」

「は!?」

 ハルが驚いたように目を見開く。

「どういうこと?」

「昨日のことなんだけどね……」

 僕はハルに説明を始めた。


   *


 木曜日は、家庭教師のアルバイト。僕の生徒は、中学三年生の少女・明香ちゃんだ。元気いっぱいでチャーミングなイマドキの女の子。勉学の合間を縫っては、やれ誰々ちゃんとケンカしただの、やれ先生は彼女いるのだの、お喋りに余念がない。僕も適度な相槌を打ち、適当な話題を提供する。中でも明香ちゃんは、雑談の折に僕が度々話のネタにした、変人・角倉氏のことがたいそうお気に召したらしい。「今度の模試で十番以内に入れたら、角倉クンさんをうちに連れてきてね」、そんな約束を見事果たした伸び盛りの少女のために、大人が嘘は吐けないだろうと、僕もしぶしぶ角倉氏を家庭教師先のお宅へと連れてくることになった、という訳だ。もちろん角倉氏は大いに抵抗したのだけれど、仁義を重んじる角倉氏のことなので、「約束」という二文字にはどうも弱いらしかった。

 そうして昨日、僕と角倉氏は、明香ちゃんのお茶会に招かれることとなった。角倉氏はこんがり焼けた筋肉質の体に、太い眉毛、よれよれのTシャツ、履き古したジーンズ、ビーチサンダルという、いかにもこの高級住宅街に不似合いな出で立ちで、精一杯の抗議の意を表明しているようだ。

「いらっしゃい。なんだか無理を言ったみたいでごめんなさいね」

 明香ちゃんのママの、宵子さんが、僕らをリビングに案内してくれた。ちなみに、宵子さんは、こんな大きな子どもがいるようにはとても見えない、ボンキュボンの匂いたつような美人だ。なのに角倉氏ときたら、「まったく無理な話で、無礼千万な話だ……」なんて、隣で不貞腐れたようにぶつぶつ言っている。

「先生いらっしゃい! 角倉さんもようこそ!」

 部屋から出てきた明香ちゃんが、子犬のように僕らのまわりをくるくる回る。ミニスカートからすらりと伸びた足が、少し眩しい。

「おふたりとも、コーヒーでいいかしら」

 席についた僕らに宵子さんが尋ねた。

「はい」

 と、素直に答えたのはもちろん僕で、角倉氏は、

「牛乳。冷たいやつだ。ただし決して氷はいれないこと。薄くなる。できれば濃厚なものの方が良い。が、さすがの俺もそこまで高望みはしない」

 まるで注文の多い料理店だ。困惑する僕を尻目に、宵子さんは平然としているし、明香ちゃんはクスクス笑ってる。

「はあい。おまかせを。あたしがバッチリ用意するね。いつもお手伝いしてるんだから」

 明香ちゃんはまるで笑いを隠しきれていない、にやにやした口元のまま、パタパタと台所へと姿を消した。

 明香ちゃんが戻ってくるまでの間、僕らは、というか僕は、宵子さんととりとめもない世間話をしながら、なんとなく部屋の中をぐるりと見渡していた。

 広いリビングの中央には高価そうな角テーブル。それを挟むように置かれたソファの片側に僕と角倉氏、向かいに宵子さんが座っている。角倉氏はハットリくんのようにへの字口を結んだまま、指と足で貧乏揺すり。僕はすぐに視線を逸らし、見ないふり。宵子さんの背中側の奥は大きな窓で、僕らの側からは、広い庭が一望できる。いくつかの花が咲いているが、僕には向日葵しか分からない。部屋の隅にはグランドピアノが置かれている。明香ちゃんか宵子さんが弾くのだろうか、蓋が開いたままになっている。壁には額縁に入った大きな油絵。蔦の絡まった風車が描かれた風景画だ。さすがに暖炉はないな……なんてキョロキョロしているうちに、明香ちゃんがカチャカチャと音を立てて戻ってきた。

「はい、どーぞ」

 テーブルの上に、飲み物が載ったお盆が置かれた。僕のアイスコーヒーと、角倉氏の牛乳。明香ちゃんと宵子さんにはカフェオレが。どれも、ちょっとお高そうなグラスに入っている。ミルク入れもシュガーポットも、なんだかしゃれてる。真っ白な砂糖の中に、色とりどりの星の形をした砂糖粒が混じっている。

「ありがとう。いただきます」

 僕が言い終えないうちに、グビ、グゴ、ゴク、と、隣で角倉氏が牛乳を一気呵成に飲み干した。

「うむ」

 なにが、うむ、だ。僕は穴があったら入りたい。なければ掘って、ブラジルへでも逃亡したい。宵子さんも明香ちゃんも目を円くしている。

「角倉さん、おかわり入れてこようか?」

 明香ちゃんが、珍獣でも発見したかのように目をキラキラさせている。

「いや、結構。牛乳は一日一杯と決めている。それ以上は腹を壊しかねん危険な領域だからな。しかし、濃厚な、良い牛乳であった」

「まあ、どうも。ありがとう」

 宵子さんがやさしく微笑む。少し小首を傾げて、長い睫毛に縁どられた大きな目を少し細め、紅くふくよかな唇の口角がきゅっと上がる。きっと若い頃には、この笑顔ひとつですさまじくモテたろうな、と思われる。いや、今でもイチコロになる男は多いのではなかろうか。それにしても、角倉氏の牛乳一日一杯説は初耳だ。おそらくは、角倉氏なりの遠慮と礼節である、と考えられる。

「ね、角倉さん。角倉さんて、恋人いるの?」

 明香ちゃんが荒唐無稽な質問をするものだから、思わず吹き出しそうになった。

「そうね、魅力的な方だから、きっといい方がいらっしゃるでしょう」

 宵子さんまで無茶苦茶なことを言う。

「いるものか」

 角倉氏が一刀両断する。そうだ、そうだ。

「じゃあ、好きな人は?」

 いるものか、という僕が想像した即答は聞かれず。角倉氏は少し間を置いて、

「ふんっ」

 と言ったっきり、明後日の方を向いてしまった。

「いるのね! 角倉さん、好きな人がいるのね!」

 明香ちゃんがパン、と手を叩く。まさか! 僕はあまりの衝撃に呼吸をするのさえ忘れてしまった。

「角倉さん、好きな人にね、指輪を贈ったらいいのよ! そしたらイチコロよ」

 興奮した明香ちゃんはひとりで喋り続けている。

「ママだってそうだったんだから。お父さんから貰った指輪、とても素敵だったのよ。ね、ママ、角倉さんに見せてあげてよ」

 僕と宵子さんは、やれやれと少し顔を見合わせたものの、宵子さんは、左手の細くて白い薬指から、指輪をはずした。

「ね、見て! 素敵でしょう!」

 宵子さんがはずした指輪を明香ちゃんに渡す。明香ちゃんはそれを僕に渡す。「きれいですねえ」なんて言いながら、僕は指輪を角倉氏に渡そうとしたが、角倉氏は「いらん」と一蹴。仕方なく僕は、「や、本当にきれいですねえ」なんて言いながら、それを明香ちゃんに返す。明香ちゃんは指輪をテーブルの真ん中に置いて、「素敵ねえ」とうっとりしている。

 僕と宵子さんは、苦笑した顔を再び見合わせ、とりとめのない世間話を始めた。角倉氏は、相変わらずの仏頂面で、寝ているのだか、瞑想しているのだか、世間への怒りに震えているのだか、地球温暖化を危惧しているのだか、何を考えているのかよく分からない。

「あ、スズメ!」

 明香ちゃんの声に、一同パッと庭へ顔を向けた。と、小さな雀が二羽、ピョコピョコと向日葵の蔭を歩いている。

「あら本当。かわいいわね」

「木陰に休みにきたのかな」

「雀の焼き鳥なんてのも、あるらしい」

 最後は、勿論角倉氏だ。そうこう言ううちに、ふとテーブルを見ると、指輪がない。

「あれ。指輪は?」

 それで皆がテーブルに目を向けた。やっぱり指輪はない。しかし、誰も知らないという。

「転がってったのかもしれないわ」

 皆で部屋中探したが、鞄の中も、机の中も、探したけれど見つからない。ちらと見ると、さすがに宵子さんは少し顔色が悪い。

「何かの拍子で、ポケットに転がり込んだりしていないか、確認したほうがいいかしら」

 明香ちゃんの提案に、僕も乗っかった。

「そうだね、お互いに確認し合おうか」

 そうすれば、まずいことにはならないだろう。

 宵子さんと明香ちゃんがお互い確認しあって、次に、明香ちゃんが僕のポケットを確認する。もちろん無罪放免。そして、

「角倉さん、見せてね」

 と、明香ちゃんが角倉氏に手を伸ばしたところ、角倉氏の堪忍袋の緒が切れた。

「ふざけるな!」

 角倉氏は、明香ちゃんの手を払いのけた。驚いた明香ちゃんは目を丸くする。

「いい加減にしろ。用もないのに無理矢理に人を招待して。今度は、犯人扱いか。不愉快だ。帰る!」

 まずい。まずい展開だ。怒った角倉氏には闘牛士だって手がつけられない。しかし、このまま帰してしまっては、非常に、まずい。

「待って。待って待って角倉クン。僕が悪かった。だけど、ポケットの中だけは、すっかり見てもらって、すっきりしてから帰ろう」

 角倉氏は、そんな僕の思いを分かっているのかいないのか、鋭い眼光で僕を睨みつける。

 と、そこで、それまで静かに事の成り行きを見守っていた宵子さんが立ち上がった。

「嫌な思いをさせていまい、大変申し訳ありませんでした。もとより、お二人のことを疑ってなどおりません。指輪は、きっとどこかに転がっているのでしょう。あとでもう一度しっかりと探してみます。お気になさらず、どうぞお帰りください」

 宵子さんの言葉を受け、角倉氏は「邪魔をした」と、ずんずん帰っていった。

 僕はそれを追いかけて出て行ったものの、しまった、やはりこのままではいけない、と引き返し、明香ちゃんの家のインターホンを鳴らした。「はい」と、宵子さんが出た。

「あの、先ほどの件なんですが、もう一度部屋を探させてもらえませんか」

「……申し訳ありませんが、お引取りください。少し気分がすぐれなくて。しばらく一人で落ち着きたいのです」

「あっ、あの、角倉クンはあのような奴ですが、決して悪い人物ではないので、……」

「分かりました。本当にごめんなさい。お引取りください。ゆっくり考えたいのです。失礼します」

 ガチャリ、とインターホンは切られ、その後は、何度鳴らしても、出てもらえなかった。


   *


「消えた指輪、かあ」

 じっと話を聞いていたハルが呟く。

「角倉くんも、誤解されやすいからなあ」

「まったく。困ったものだよ」

「指輪、本当に失かったの?」

「ああ。皆で部屋中探したけれど、見つからなかったんだ。隅々までね。ソファーの隙間まで見たよ。だからさ、あと探していないのは角倉クンのポケットの中だけってことになっちゃうんだよねえ……」

 僕はまた溜め息を吐き、ハルも眉根を寄せて空を見つめている。

「角倉くんは、どうしているの?」

 ハルが訊ねる。

「ああ、もちろん、あのあと角倉クンのアパートまで追いかけていったんだけど、生涯においてこんな無礼な扱いはいまだかつて受けたことがない! って憤慨してて、門前払いされちゃった。ま、角倉クンが怒っているのはいつものことだけれど」

「まあ、そうだよね。角倉くんなら。せめて、身の潔白を証明してから立ち去ればよかったのにね」

「本当に……」

 角倉氏は聞く耳持たないし、明香ちゃんのお宅には入れてもらえないし。八方塞がり、万事休す。僕は頭を垂れる。ハルはじっと目を閉じて考えに耽っているようだ。

 指輪さえ見つかればなあ。ああ、来週の家庭教師、どうしようかな。はあ。

 沈黙する僕らのテーブルに、店主が水を注ぎにきた。

「こちら、お下げしてもよろしいですか」

「あ、すみません。まだ使います」

 僕は、残りわずかになったカフェラテに、さらにシロップを足す。

「相変わらず、甘ったるいなあ。よそではカッコつけて、ブラックのまま飲むくせにね」

 ハルがいつもの皮肉を言う。と、その瞬間、ハルが大きな目をさらに大きく見開いた。

「……あ!」

 ハルが突然大声をあげる。

「シロップだよ!」

「はあ?」

 ハルの言わんとすることが、僕にはてんで飲み込めない。

「テーブルの上には、グラスに入った飲み物と、ミルクと、シュガーポット。おかしいじゃない!」

 僕はますますわからない。

「シュガーポットだよ!」

 ???

「ええ、まだわかんないのっ? かっこつけて、外ではブラックなんて飲んでるからダメなんだよっ」

 興奮したハルに不条理な侮辱を受ける。

「はあ。じゃあもう、一から説明するね。まず、グラスに注がれてきたってことは、皆、飲み物はアイスだったんだよね」

「うん」

「そして、用意されたのは、ミルクと粉砂糖だった。カフェラテにもガバガバとシロップを足す甘党君には、わかるよね? なにがヘンなのか」

「……あ!」

 店内に響き渡る大声を上げてしまった。僕は声を落とし、改めて続ける。

「熱い飲み物には粉砂糖だけれど、冷たい飲み物にはシロップだ。冷たい飲み物に粉砂糖だと溶けないから」

「そう」

「……だけど、それが何だっての?」

 僕はまだ、やっぱりさっぱりわからない。ハルが話を継ぐ。

「指輪が失くなって、皆、部屋中隅々まで探したんだよね。鞄の中も、机の中も、探したけれど見つからなかったんだよね。どこにも」

 僕は頷く。

「テーブルの上も全部探した? 隅々まで」

「もちろんさ」

 テーブルの上は、皆で見た。絶対なかった、筈だ。

「ところで、そのテーブルの上のシュガーポットだけどね。誰も使わなかった粉砂糖の蓋が開いているんだよね、なぜか。……その中は誰か探した?」

 僕はごくり、と生唾を飲む。そんなところ、誰も探すわけがない。

「誰も使わないシュガーポットを用意したのは誰? その蓋を開けたのは? 皆の注意をテーブルの上の指輪から外させたのは?」

「……ハル、ありがとう」

 けれども、さて、どうしたものか。僕はまた溜め息を吐く。


   *


 次の金曜日、三日月館の窓際の席。窓の外では一番星の金星が輝いている。ハルはいつものブラックで、僕も相変わらずのシロップたっぷりのカフェラテ。

「で、どうなった?」

 ハルの質問に僕は答える。一応、解決したということだけは先にメールで伝えておいたけれど。

「うん。まあ、上手くいったんじゃないかな」

 甘いカフェラテをひとくち口にしてから、僕は事件の顛末を話し始める。


   *


 ハル名探偵が事件の真相を解き明かした翌日、僕は東急ハンズで必要な買い物を済ませてから、午後、明香ちゃんの家へ向かった。

 ピンポーン。

 インターホンを鳴らすと、「はい」と宵子さんの声。

「お話したいことがあってまいりました。上がらせていただけませんか」

「……」

 僕の声を聞いた宵子さんが、インターホンの向こうで小さく息を呑むのが分かる。そして沈黙。

「少し、お話しさせてもらえませんか」

 もう一度繰り返す。少しして、玄関のドアが静かに開いた。

「……」

 戸惑った表情の宵子さんが立っている。宵子さんは困った顔もまた美しい。なんてことはさておき。

「僕は指輪を見つけました」

「えっ……」

 きっぱりと言い切る僕に、宵子さんは困惑の表情を向ける。

「あの……」

 宵子さんはどうすればいいのか、何を言えばいいのか、言葉が出ない。けれども僕は、その表情に、宵子さんは指輪の在り処を知っているのだろう、と思う。そして、それを黙っているのは、言えない理由は、きっと昨日ハルが言っていた通りなのだろう、と思う。


   *


「……もしかすると、宵子さんは真相を知っているのかもしれないね」

 あの日、ブラックを飲み干したハルは言った。

「え。……なんで?」

 僕の質問は、相変わらず間抜けだ。ハルが僕の目を見て話す。

「大事な指輪が失くなった。しかも、盗まれたかもしれない。容疑者角倉くんが目の前にいる。なのに、帰ってください、だ」

「それだけじゃ分からないだろう。大事な指輪を失くして、動揺したのかもしれない。あ、それに第一、もしも宵子さんが真相を知っていたとしたら、例えば、明香ちゃんが指輪をシュガーポットに隠すところを見てたりしたら、当然言うだろう。明香返しなさい、って」

「うん。普通ならそうだろうね。……言いたいのはさ、宵子さんが真相を知っていたかどうかじゃなくてね、知っていても言えなかったんじゃないか、ってこと」

 うー? ハルは何が言いたいのだろう。わかりましぇん、僕はハルに目で訴える。

「……確かな証拠もないのに、こんなこと言うべきではないんだけど……」

 続きを言いにくそうにしているハルに、言って言って、と目で訴える。お願―い、という気持ちが通じたのか、ハルが口を開いた。

「……これは、あくまでも勝手な推測なんだけどね。だから軽々しくこんなこと言うべきではないんだけどね……」

 ハルもなかなかしつこい。

「……宵子さんと明香ちゃんは、本当の母子ではないんじゃないかな」

 青天の霹靂。ハルの言葉に僕は絶句。頭の上でシンバル鳴らされたようだ。

「ごめん。少し言い方が悪かったかもしれない。二人は血が繋がっていないんじゃないか、ってこと。宵子さんは、明香ちゃんのお父さんの後妻なんじゃないかな」

「なんで。そうおもうのデスカ」

 一層頭の働かなくなった僕は馬鹿みたいに訊く。

「宵子さん、明香ちゃんくらいの子どもがいるようにはとても見えない程、若くて美人なんでしょ。おまぬけノー天気な甘党バブバブ君が、デレデレ見惚れちゃうくらいに。それに。明香ちゃん、父親のことはお父さんって言うのに、宵子さんのことはママ、でしょう」

 そういえば。僕は思い返す。なんだか悪口が混じっていたような気もするが、それどころではない。確かに、お父さん、と、ママ、だった。だけど。

「でも」

「うん。分かってる。それだけじゃ何の証拠にもならない。だからただの推測。本当は口にするべきじゃあない。……だけどね。もしも、今の推測が当たってたとしても、そうでなかったとしても、宵子さんが真相を知っていて、それを言えないんだとしたら。それって、良いことじゃあないよね」

「……ああ。心配、だね」

「そ。だからさ、先生、頑張って」

 そう言って、昨日僕はハルから送り出されたのだ。


   *


「僕に、任せてもらえませんか」

 困惑顔の宵子さんの目を真っ直ぐ見据えて、僕は言った。

「明香ちゃんと、話をさせてください。お願いします」

 宵子さんはしばらくじっと僕の目を見つめ返してから、静かに口を開いた。

「……わかりました。お願いします」

 きっぱりと言い切る僕を信頼してくれたのか、そう言って頭を下げた宵子さんは、僕を二階の明香ちゃんの部屋に通してくれた。

「先生、どうしたの?」

 そう言う明香ちゃんの言葉はいつも通りだが、心なしか表情が緊張している気がする。警戒しているのだろうか。

「明香ちゃん、こないだの指輪の件だけどね」

 ピク、と明香ちゃんの肩が動く。僕は微笑みの貴公子のように表情を作り、落ち着いて続ける。

「見つかったよ。角倉クンのズボンのポケットにあった」

 そう言って僕は、ポケットから指輪を取り出す。先の東急ハンズで購入した、宵子さんのにそっくりなおもちゃの指輪、イチキュッパだ。

「……うそ……」

 明香ちゃんが目を見開く。言葉に詰まった困惑の表情は、宵子さんに似ているような、似ていないような。

「本当にごめんね。宵子さんの大事な指輪を、申し訳ない。謝っても許されることではないかもしれないけれど。だけどね、角倉クンも悪気があったわけじゃないんだ。角倉クン、間違えたみたいなんだ。角倉クンさ、例の好きな人に指輪を贈ろうと用意していたみたいで、ポケットに入れてたんだ。それが何の拍子か、いつの間にか宵子さんのと入れ替わってしまったみたいで……」

 神様、角倉様、嘘吐きの僕をどうか許してください。

「……うそ」

 明香ちゃんはまだ、半信半疑だ。

「角倉クン、絶対にポケットの中身を見せなかったろう。恥ずかしかったのさ」

 明香ちゃんの目が、そういえば、と揺れ動く。本当にそうだったのかな、と。

「あの後、角倉クンをとっちめたら、白状したんだけど、例の指輪を見て、二人とも驚いたわけだよ。宵子さんの指輪だったから。で、本日返しに来た次第です。本当にお騒がせしてしまい、申し訳ない」

 僕は頭を下げる。

「はい……」

 と、明香ちゃんもなんだか混乱の態でよく分からなくなってきたようだ。

「ところで。こんなにご迷惑をかけて、その上言える義理ではないんだけれども、……角倉クンの指輪を見なかった? 宵子さんのと入れ替わって失くしたようなんだけど」

「えっ」

 明香ちゃんが、豆鉄砲食らったような顔をする。僕は、明香ちゃんの目が一瞬、キョロリ、と本棚に置かれたキャンディ缶に走ったのを見逃さなかった。

 こっそり自分のものにしたいほど大事な指輪なら、きっと自分の手元に置くだろう。しかし、ママに見つかる恐れがあるから身には着けまい。でも、目の届く所に、自分の部屋に隠すだろう。ハルの予想通りだ。だけど、証拠もないのに前途ある少女を犯人呼ばわりし、出せと言われて出すはずもない。証拠を、指輪を見つけることが肝心だ。だから、誘導尋問で、指輪の場所を明らかにする。あとは、君の腕次第。これもハルの言った通りに。けれど、隠し場所が、机の中とか、タンスの下着の引出しの中とか、スカートの中とか、そんなじゃなくて、本当によかった。

「明香ちゃん、キャンディを一つ、もらってもいいかい?」

 僕はキャンディ缶に手を伸ばす。チェック・メイトだ。


   *


 僕はホームズへの結果報告を終えた。真相は、ハルの予想通りだったこと。ハルの忠告通り、明香ちゃんを決して犯人扱いしなかったこと。それでも、ごめんなさい、と泣きじゃくる明香ちゃんを必死で宥め、話を聞いたこと。そして、宵子さんにも話をしてもらったこと。それから、僕と、明香ちゃんと宵子さんの三人で話し合ったこと。僕が帰った後も、二人はじっくり話し合ったであろうこと。

「あの指輪、もとは、明香ちゃんのお父さんが、お母さんへ――明香ちゃんの産みのお母さんへプロポーズするのに贈ったものだったそうだよ。で、お母さんが亡くなり、お父さんが宵子さんと再婚する際に、宵子さんへ、その指輪を贈ったそうだよ」

「えー、わっかんないなあ。明香ちゃんのお父さんもわかんない人だなあ。なんでそんなことするんだろ。亡くなった奥さんとの思い出が詰まった指輪を、また別の人に贈るなんて。ケチなことするね。宵子さんも嫌だったろうに」

「いや、宵子さんが言ったそうだよ。亡くなった奥さんが大切にしていた指輪がいい、って」

「ええー?」

 ハルが、ますますわかんない、という表情をする。明香ちゃんにもわかんなかった。だから、お母さんの指輪を取り返そうとした。

「亡くなった明香ちゃんのお母さんと同じくらい、明香ちゃんを大事にします、っていう思いからだったそうだよ」

「……ふうん。……ならきっと、大丈夫だね」

 そう言ったハルの表情が、なんだか少し、ほころんでいる。

「それからね、角倉クンにも事後報告に行ったんだけどね」

「うん」

「指輪見つかったよ。って言ったらさ、角倉クン何て言ったと思う?」

「なんて?」

「ああ、あの悪ガキ、白状したのか。ってさ!」

「なんと!」

 そう、あの部屋で、真実を知らぬは僕ばかりだったのだ。やっぱり角倉氏には敵わない。

「角倉クンは、指輪のことよりも、しきりに明香ちゃん家の牛乳のメーカーを気にしていたよ」

「はは、角倉くんらしいなあ」

 ハルが声を上げて笑う。

 一件落着。僕は、ジーンズの後ポケットを手探りする。

「ハル、手ぇ出して」

「なに?」

 訝しそうな顔をして、ハルが手を差し出す。

「プレゼント」

 そう言って僕は、例のおもちゃの指輪をハルの掌に載せた。

「こんなオモチャいらないわよ! 私は廃品回収じゃないんだからね!」なんて怒るかもしれない、と身構えていたものの、反応がない。おや、とハルの顔を見ると、驚いたようにじっと掌の指輪を見つめている。しばらくして、我に返ったようにハッと顔を上げ、「ありがと」だなんて。

 そして、テーブルの上のシロップをどばどばコーヒーに注いで、ぐるぐるとストローでかき回し、ぐーっと飲んで、げほげほとむせ返って顔を真っ赤にしている。なにしてんだか。と言いたいところだけれど、幼馴染の僕は知っている。ハルがこんなおまぬけな行動をする時は、気持ちを抑え切れないくらい、最高にうれしい、のサインだ。けれども、そんな推察さえ必要ないくらいに、ハルが本当に、子どもみたいにうれしそうな顔をするから、なんだか、僕の顔まで少し赤くなってしまったじゃないか。

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