学校に巣食うモノ

砂鳥はと子

学校に巣食うモノ


 放課後の学校はどこかうら寂しい。賑やかな子供たちの笑い声も足音も消え去り、校舎には静寂だけが漂っている。


 職員室も残る教師たちが立てる小さな音と時計の秒針だけで、近くを走る大通りの気配も感じない。


 午後四時が過ぎたところで、私は採点を終えたテストをまとめて引き出しにしまい、机を立ち上がった。


「見回りに行ってきます」


 誰にともなく声をかける。


「いってらしゃい、お願いしますね、笹尾ささお先生」


 三つ離れた席でノートパソコンを打っていた塩瀬しおせ先生が顔をあげる。眼鏡の向こうの優しげな瞳に、私も笑みを返した。


 いつ見ても塩瀬先生は美しい。私より少し年上で、困った時はいつも手助けしてくれる。児童からも好かれていて、教職員からの信頼も厚かった。私もいつか塩瀬先生みたいになれたらいいのに。


 私は職員室を出た。廊下は窓が少ないせいで薄暗く、少し薄気味悪い。子供たちがいる時間帯なら気にならない風景も、放課後となるとまるで別の景色のように思えた。


 職員室は校舎の東端にあり、私は西の方へと進もうとして、「笹尾先生」と呼ばれた。振り向くと職員室から塩瀬先生がこちらに向かって来る。


「どうかしましたか、塩瀬先生」


「私も見回り手伝いましょうか? ほら、笹尾先生はまだ赴任したばかりでうちの学校は慣れてないでしょう」


「お気遣いありがとうございます。でも慣れてないからこそ、一人でやらないといつまでも慣れませんから」


「そうですか。それもそうですね。余計なお世話でした」


「余計なお世話だなんて、そんな。私は塩瀬先生に声をかけていただけて嬉しかったですよ⋯⋯、えっとあのそれでは体育館の見回りだけ塩瀬先生にお願いしてもいいでしょうか?」


 せっかく手伝ってくれようとしたのに全く断ってしまうのも、何だか可愛げがないし、失礼な気がしてしまった。


「いいですよ。では校舎は笹尾先生が。体育館の見回りは私がしますね」


 私たちは途中まで各教室を覗きながら戸締まりがされているか、残っている児童はいないか確認して周る。それから昇降口によって、出入り口の扉を閉めて施錠した。


 また校舎の廊下に戻って、体育館へと続く渡り廊下の前まで来た。


「笹尾先生、見回りが終わったら真っ直ぐ帰って来てくださいね。寄り道はしないでくださいね。何も持たずに手ぶらでですよ?」


「えっ⋯⋯? あっ、はい」


 校内に寄り道するような場所なんてないけれども、案にサボらないでくださいと伝えているのかも。


 私は塩瀬先生と別れた。去っていく後ろ姿が体育館の入口に消えるまで、私は見入ってしまった。歩く姿もぴしっとしていてかっこいいのが塩瀬先生だ。


 私は一階端の理科室まで到達する。施錠されているので、窓から中を見た。教室の後ろに佇む人体模型と目が合った気がして、目を逸した。やはり放課後という空間が怖くもないはずのものを怖くしている。


「こんなことでびびってるなんて子供たちに知られたら笑われるわね」


 それに塩瀬先生も呆れるだろう。


 理科室脇の西階段を上り、二階に着く。さっきとは逆に東に向かって進む。特に異変や異常もなく、二階端の教室まで来た。次は最上階の三階。東階段を上った。


 自分の足音が聞こえるだけの静かな空間。三階が終われば終わりだ。


 早く終えたいという気持ちがあるせいか自然と歩く速度も増した。


 そして私は西端にあるトイレの前まで来る。女子トイレの入口の前に何か紙片が落ちており、私は屈んでそれを拾った。


「花子さん⋯⋯?」


 メモ帳ほどの紙片には赤黒い、例えるなら乾いた血のような色でそれだけが書かれていた。字は指先に血でもなすりつけて書かれているみたいにかすれている。


「何だろう⋯⋯」


 背中がぞくりとする。子供たちのいたずらか遊びの何かだと思うが、随分と趣味の悪い。このまま捨て置くわけにもいかないので、私は取り敢えず持ち戻ることした。


 私はトイレ前から去ろうとして、ふと誰かがいる気がして足が止まった。


 こんな放課後の校舎にいるのは教師くらいのものだ。児童たちはとっくに帰って一人も残っていない。それは見回りで確認済みのこと。なのにどうして人がいると思ったのだろう。そう感じた自分が何だか嫌だ。塩瀬先生は体育館の見回りをしてとっくに職員室に戻っているだろうし。


 廊下の小さな明かり取りの窓なんて、存在の意味もないくらい、ここは薄暗い。


 それが余計に私に得体の知れない怖さをもたらすのだろう。


 いつもいつも見回り当番の時は放課後の静まった校舎が好きではなかった。いもしない何かを想起して、恐怖を作っていた。


 でもなぜだろう。今日はその何かがもっと近くにいる気がしてならない。


 私はそっと、ゆっくり振り返った。


 どうせ何もいないのだから⋯⋯。


「⋯⋯っ!!」


 私は振り返った先に人がいることにびっくりして思わず後ずさった。よろけそうになり、とっさに右手を壁についた。


 トイレの前に女がいた。白いシンプルなワンピースに肩の上で切りそろえた漆黒の髪。年は多分私と同じくらい。三十歳前後の女性。私を見てうっすらと微笑んでいる。


「だ、誰ですか」


 私は尋ねていた。普通に考えて、この校舎にいるのは教職員だけのはずで。見覚えがない大人なら保護者か不審者だ。


「⋯⋯ハナコ」


「ハナコさん? 保護者の方ですか。もう学校に子供たちはいませんよ。勝手にこんな所まで入り込むのはご遠慮ください」


 口早に答えながら、ハナコという響きにさっきのメモを見返す。これは本当に保護者だろうか。何か違う気がする。具体的に何とは説明しがたいけれど。


 私は女から目を逸らさないようにしながら体勢を立て直した。もし不審者なら私一人で何とかしないといけないからだ。そして十中八九この人は不審者だろう。いくら非常識な保護者でも、放課後の校舎に無断で入る人はいない。よく見たら入校証をぶら下げてないではないか。入校証がなければ校舎に立ち入ることはできない。


 ここは職員室から一番離れている場所。大声を出しても私の声など届きはしないし、スマホも持ち歩いてはいない。


「お子さんはきっともう帰ってると思いますよ。玄関までお送りします」


 取り敢えず私が保護者と思い込んでるように見せておこう。相手が何をしてくるから分からないから。職員室前まで無事に行ければ何とかなるはず。


「⋯⋯先生」


 女はか細いのに耳にどろりとまとわりつくような声を発した。


「なんですか」


 私は女に注意を払いながら返答する。


「来テマスヨォ」


「来てる? 何がですか?」


「聞コエエマセンカ、ナニカ」


 女は相変わらず薄く笑みを浮かべている。


「ヨク耳ヲ、澄マシテクダサイ」


 すっと女は腕を上げると、階段の方を指さした。

 私は女から目を離さないようにしながら、階下に耳を澄ます。遠くから泥でも撒き散らすような音がする。べちゃりべちゃりと妙に湿った音。


 一体何の音だろう。校内でこんな音を聞いたのは初めてだ。それはだんだんとこちらへ近づいてる。


「⋯⋯⋯⋯」


「先生、来タラ、捕マッチャイマスヨ。捕マッタラ、モウ、帰レマセンヨ」


「⋯⋯捕まったら帰れない? 何なんですか。変な話はやめてください」


 私の神経は女と奇怪な音に向かっている。動悸がする。そしてその奇怪な音が何か良くないものであると、私も感じていた。理屈ではない。冷や汗がどっと湧き出る。体があれは危険だと知らせている。目の前の女より、あの音に。


 べちゃり、べちゃり、べちゃり。


 音は耳を澄ますまでもなくはっきり聞こえるようになった。


「逃ゲタ方ガイイデスヨ、先生」


「に、逃げるって何から」


「此処二巣食ウ悪イヤツ。ホラ先生、逃ゲマショウ」


 女は私の肩をぐいと音と逆方向に押した。それは女性のものとは思えないくらい力強く、私はよろけた。


「先生、逃ゲテクダサイ。ホラ、早ク」


 何だかよく分からないが、ここは逃げた方がいいのだろう。私は廊下を走り出そうとして、女の手を掴んだ。逃げなければならないのなら、この人も連れて行くべきだ。しかし掴んだその手があまりに冷たくて、ずっと冷水れいすいにでも浸されていたみたいに冷たくて、うっかり離してしまった。


「先生、モウ、時間ナイデスヨ」


「あなたも逃げるのよ」


 私はもう一度女の手を掴んだ。やっぱり冷たい。生きている人とは思えないくらいに。


 そして私は走り出した。あの音が更に大きくなったが、振り返らずに走った。東階段まで来て、そこを駆け下りる。人の手を掴んでいるせいで、上手く走れない。でも今は全力で逃げなくちゃいけない気がするから止まれない。


 無我夢中で転びそうになりながら走った。


 二階と一階の間に踊り場まで来たところで、突然ピンポンパンポーンと甲高いチャイムが鳴り響く。


『笹尾先生、笹尾先生、至急職員室までお戻りください』


 聞こえてきたのは塩瀬先生の声。


 その声を聞いて私はさっき塩瀬先生から言われたことを思い出す。



――笹尾先生、見回りが終わったら真っ直ぐ帰って来てくださいね。寄り道はしないでくださいね。何も持たずに手ぶらでですよ?――

 



 私は今何を手にしているだろう。


 左手にあるのはおおよそ生きている人間とは思えないほど冷たい女の手。


 振り向くと女が笑みを浮かべていた。


 その口は目元近くまで裂けて、釣り上がった目は真っ黒な闇が広がっていた。


「⋯⋯ひっ」


 勢いよく私は掴んでいた女の手を振り払った。ポケットにねじ込んだあのメモも捨てる。


「先生、置イテイカナイデェェ」


 壊れたラジオみたいに歪んだ女の声。


「先生、逃ゲマショウ、私ト一緒ニィィ」


 ケタケタと女の笑い声。


「遠クマデ、黄泉ノ国マデ⋯⋯」


 私はもう振り返らなかった。ただ何かに、人ではないモノに捕まらないように、逃げ切った。


職員室の窓から明かりがこぼれている。幸い、ドアが開いたままなので駆け込んで、急いで閉めた。


「はぁ、はぁ、はぁ⋯⋯」


「どうしたんですか、笹尾先生」


 肩で息をする私を訝しんでるのか、教頭が近づいて私の顔を伺っている。


「⋯⋯塩瀬先生が⋯⋯、放送で⋯⋯」


「ああ、そう言えばさっき呼び出してましたね。何か笹尾先生に急用なんですかねぇ」


 他の先生も私の様子が気になっているのか、視線がこちらへ向いている。


 まさか得体の知れない霊のようなものに会ったとは言えない。


 もたれていたドアが突然空いて、私は後ろに転けそうになった。誰かが支えてくれる。柔らかないい香りが鼻をくすぐる。


「笹尾先生、やっと戻って来てくれましたね。どうしてもお話したいことがあったので、放送を使わせていただきました」


 そこにいたのは塩瀬先生だった。


 私は塩瀬先生に連れられるまま、職員室と続いている印刷室に入った。塩瀬先生はきっちりドアを閉めて、二人きりになる。


「笹尾先生、私言いましたよね、さっき。手ぶらで帰って来てくださいと」


「ええ、はい」


「よりにもよってあんなものを連れて来るなんて」


「あんなものって、私が何を持って戻ると思っていたのですか?」


「それは、笹尾先生も見たのではないですか。見たというか、会ったという方が正しいでしょうか。会ってはいけないものに会いましたよね。拾ってはいけないものも拾った」


「まるで見てたみたいに言いますね」


「過去にもいましたから。笹尾先生みたいに好かれて遭遇してしまう先生が」


「あれは何なんですか。あの女の人は」


 黒髪の女。うっすらと笑みを浮かべていた女。


「あれはまぁ、この学校にいるよくないものです。トイレ花子さんって知ってます?」


「知ってますよ。私の子供の頃からある学校の怪談の一つですよね。私の受け持つクラスの子たちも噂話してたりしますよ。昔から語り継がれる怪談。あれが花子さんなんですか?」


 確か花子さんは子供の霊だったと思うけれど、あれは大人の女性だった。


「ええ、そうです」


 塩瀬先生はきっぱり言いきった。


「まぁ正確には花子さんではないんですけどね。この学校にいるモノと子供が延々と語り継いだ花子さんが一つになったモノですね。あれが花子さんの噂に取り憑いてしまったんです。結果としてあれは花子さんになってしまった、そんな感じでしょうか。他にも花子さん以外にもいくつかいるんです、ここは」 


 話を聞いても今ひとつ分からないが、人ではないモノに会ってしまったのは間違いない。これがあとで覚める夢でないのなら。


「塩瀬先生は詳しいんですね」


「笹尾先生よりはここ長いですからね。あとあまり言いたくはないのですが、そっちの感が少し強いので。渡り廊下の前で別れてしばらくしたら、何やらおぞましい気配がする。きっと、笹尾先生が出会ってしまったんだって気づきました。あいつらは出会う者がいなければ、普段は息をひそめてじっとしてますから」 


 非現実なことを塩瀬先生はさらさらと喋る。でも私が体験したことを考えても、デタラメを話してるわけじゃないのは分かった。


「私、教師生活しててこんな体験したのは初めてです。いえ、人生で初めてです」


「滅多にないですからね。これからは気をつけてくださいね」


「はい」


 と返事をしたものの、あんなのどうやって気をつければいいのか。


「笹尾先生不安そうですね」


「それは⋯⋯」


「お守り渡しておきますね。これであいつらは笹尾先生に近づけなくなりますから。それを持ってたら、大丈夫ですよ」


 塩瀬先生はスカートのポケットから白いお守りを取り出して、手渡してくれた。


「これでひとまずは何とかなります。いくつかお守りを調達して、職員室や教室にも置いておくといいですよ」


 にっこり微笑む塩瀬先生がいつにも増して心強く思えた。




「さぁ、乾杯しましょう!」


 明るくチューハイの缶をかかげる塩瀬先生に合わせて、私は乾杯した。


 ここは塩瀬先生の住む自宅マンション。


 何だが今日は一人きりの我が家に帰りたくなくて、それを打ち明けたら塩瀬先生が家においでと言ってくれた。図らずも、ずっと気になっていた人の家に来てしまった。


「さっきのことは飲んで忘れましょう。どうせ明日はお休みですからね。笹尾先生がべろんべろんに酔っても介抱しますよ」


「さすがにそこまでは飲みませんよ」


 なんて言いながら、私はけっこう飲んでしまった。飲むことであの恐怖と、塩瀬先生の自宅に二人きりという緊張をかき消すために。


 皿に盛られたおつまみもどんどん私たちの胃袋に消えた。


 いつの間にか時計の針は十二時になろうとしている。


「ところで笹尾先生、好きな人っているんですか?」


「好きな人ですか?」


 突然の予想外の話に心臓がばくばくしばじめた。私を見つめる塩瀬先生はお酒のせいか顔がほんのり朱色に染まり、艶っぽい。


 仕事に疲れて恋も忘れていた私が久しぶりに好きになった人。それはあなたです。


なんて言えるわけないけれど。


「⋯⋯特にはいないですよ」


「本当ですか?」


「え、ええ⋯⋯」


「私のこと好きだったりしませんか?」


 直球すぎる正解に頭がふらふらしてきた。


「し、塩瀬先生をですか?」


「そうです。実は私、そっちの感も鋭いんですよね⋯⋯」


 私を抱き寄せる塩瀬先生の腕は迷いがなくて、確信しているようだ。


「今夜は帰しませんよ、笹尾先生」


 本当に怖いのは霊ではなく、この人かもしれない。





 

 

 


 



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