氷の花
銀色小鳩
氷の花
戸を開けると、一面雪に埋もれた景色が目に飛び込んできた。吹雪が続いたあとの久しぶりの晴れた空に、雪は白く浮かび上がり、与助はひとときだけ、暗い屋内の寒さと埃の匂いを忘れた。
「ええ気持ちじゃ……」
この村は冬は雪で覆われ、埋もれてしまう。嫁のいない与助にとって、冬は独りで過ごすには長い時間だった。雪に埋めておいた大根を掘り出すと、途端に腹がぐうぅと鳴った。
「白はきれいだけんど、こう腹がへると、頭のなかまで白くなっちまうんでねえかなぁ」
くらくらと目眩のするような空腹に、与助は空を仰ぐ。白い米というものを、茶碗に一杯、いやせめて、ひとくちかふたくちだけでも、食べてみたい。
きらりと陽の光を反射させたのは、透き通る氷だった。
「はぇ、このつららはきれいだ」
軒から垂れ下がっていたのは、与助の孤独の分長くなったつららだった。
「べっぴんさんだねぇ。おまえさんだけだよ、冬の長さをいいと思わせてくれるのは」
与助は土を払った大根を少しだけ齧るとまた雪の中へ埋めた。いつか自分の体も干涸びた大根のようにしわしわになって雪のなかに永遠に埋まるのではないか。冷え冷えとした気分にぶるっとした。
今夜は、少しだけ、あわを増やそう。鏡に使えるのではないかと思うほど薄い、水だけの粥を食べていると、心まで蝕まれてしまいそうだ。
縄を編み、どのくらい時間が経っただろうか。外からはびゅうびゅうと風の音がして、軋む木の板の僅かな隙間から冷気が入り込んでくる。また吹雪いているのだろう。これでは外を見てもきっと時間はわからない。
与助は囲炉裏に火を準備し、一人分の粥を煮ながら、まわりにほんのわずかにできた温かな炎の恩恵に身を寄せた。
吹雪の音に混じり、石が戸に当たるような音が聞こえた。かすかな消えそうなコンコンという音は、何度も同じ、戸の方向から響いていた。
「こんな夜中に、訪ねてくるもんは、いないはずだけんども」
与助が戸を開けると、吹き込んでくる雪の中に白い影が浮かび上がった。消えるような声で、話すことができる相手だとわかった。
「大雪で、道に迷ってしまいました。一晩、泊めてはもらえませんか」
「かわいそうに。寒かったじゃろ、さぁ囲炉裏においでなさい」
「私はここで……」
遠慮がちに囲炉裏から少し離れて座ったのは、細い女だった。ぱちぱちと燃える火に時折照らされて炎の色に染まる頬は、もとの肌の白さを引き立てた。透明感のある肌に、与助は今朝見た氷の鋭い輝きを思った。そして、朝汲んだばかりの濁りのない水を思った。春になると村はずれに現れる雪解け水の流れ込む湖の深さを思った。
深い透明な世界に飲まれるようにして女を見つめていると、女は少し笑った。
「なにか珍しいですか」
「きれいじゃなぁ」
「今朝も……」
「え?」
なんでもありません、と女は言い、与助の差し出す粥を、食欲がないからと断った。
吹雪は翌日も、その翌日も止むことはなかった。
「これでは危ねぇからな。止むまで、いつまででも泊まってええからな」
いつしか、軒にはたくさんのつららが長く伸び、一週間、二週間、三週間経つころには、与助は朝起きる時に女がいるのが当たり前のような気がしてきていた。この吹雪はいつ止んでしまうのか。
「おまえさんだけだよ、冬の長さをいいと思わせてくれるのは……」
与助が呟いたとき、女はうつむいたまま、言った。
「私にそう言ってくれるのも、おまえさまだけです」
「もし」
与助は、この美しい女に触れることなどできないと思いながらも、一瞬訪れた静寂に息をのんだ。これは幻で、本当はこの家には自分しかいないのではないか? この時間が、雪のように幻として消えてしまいそうに感じた。声を、音を出さなければ、この空間は雪の中に消えてしまうのではないか。
「もし、おまえさんさえ良かったら、およめさんになってもらいたいんだけんども」
「私には、本当は、帰る家があります……」
「おまえさんは、そのぅ、結婚をして」
「いません」
「他に、男が」
「いません」
女はしばらく黙っていたが、ぽつりと言った。
「およめさんに、してください。おまえさまの」
それから二人は毎日一緒に働き、縄を編み、そうしていつしか吹雪は止み、雪解けの水の流れるのが見られるようになってきた。
食べるものが増えてくると同時に、女はだんだんとやせ細り、弱っていった。
「どこか悪いんでないか?」
「なんでもありません」
女は悲しそうに首を振り、そして、ある日突然、姿を消した。
与助は村じゅうを走り回り、山を越えて向こうの村まで行き、女を探したが、姿を見たものはいなかった。村の者たちは与助を見て、嫁に逃げられたのだと言い、早く忘れろと口々に言った。
「もう、いなくなったもののことは忘れて、新しい嫁をもらいなさい。ちょうどあんたを見初めた娘がいる。会わせてやるから、その女と結婚しなさい」
次の冬が来る前に、一人の村人が与助にその女を紹介した。
与助は新しい嫁を貰った。名はあまねといった。与助を見初めたというわりには、あまねは与助に触れられることを嫌がった。
俺は、女に嫌われやすいのかもしんね。
与助のことを睨み、唇を引き結んだまま、あまねは与助の家に居座っていた。与助はあまねとの距離のあるめおと関係にも次第に慣れていった。長い冬を共に過ごせる相手がいることは、一人で過ごすよりずっと良かった。
ある吹雪の晩、またかすかに戸を叩く音が聞こえた。与助が戸を開けると、いなくなったはずの女が立っていた。
「おまえ、いったい、どこへ行っていたんだ」
「ごめんなさい」
うつむく女の顔は陰っている。部屋の奥のほうを覗くようにする眼光は鋭くとがるようだ。与助はやはり自分にあいそがつき、憎んでいるのだと思った。
「誰か来たの?」
部屋の奥からあまねが顔を出した。途端に、戸口にいた女の表情は凍りつき、吹き込む吹雪の激しさに見合うほど、恐ろしいものへと変貌した。
「二人はめおとになったのですか。そうですか。私を忘れて、めおとになったのですか? そうなのですね」
女は吹雪に混ざるように体を舞い上がらせ、一本の鋭い氷となって、与助へと襲い掛かった。
刺される。
与助はすんでのところで土間に転がり避けた。大きな氷の柱はあまねのほうへ飛んでいき、胸に突き刺さった。
あまねのはだけた白い胸の上に、ぽたぽたと溶けた水滴が落ちる。氷の柱は女の姿を映し出していた。あまねに馬乗りになった女が氷柱に重なって見える。ゆらりと姿をかすませる氷霧のなか、女は冷たい無表情のままでぽろぽろと透明な涙を落としていた。あまねは氷を抱きしめるように撫でていた。胸にこぼれている水滴は涙だった。
「あんたを忘れられなかったから、戻ったのに。いなかった。あんたは、いなかった。囲炉裏の火は消えて、どこにもあんたがいなかった」
潤んだ目は熱を宿し、人のかたちをした氷はまるでおのれの熱で溶けたように涙を流し続けていた。
あまねは氷塊に向かって詰るように呟く。
「あんたのいない家で火を点し続けながら待っていられる性格じゃなかったんだよ。あんたが先に、他の男に心変わりしたくせに」
「あんたが嫁に行けっていったのに。なんで嫁に行けなんて言ったの? あんたがあんなこと言わなければ、出ていかなかったのに!」
言い返されたあまねは黙ってしまった。やさしい言葉しか与助に使わなかった女の唇は、あまねに向かってつららのように尖った言葉を吐いていた。氷のひとがたは、少しずつ人の形をすることもできなくなっていく。あまねが撫でるたびに、尖った氷は少しずつ角をなくしていく。
「だめだった。暮らすたびに、一緒にものを食べるたびに、服を縫うたびに、あんたのことしか浮かばなかった。私が縫いたいのは、あまねの服だった。ふたりぶん作りたい汁物は、あまねとの分だった。あんたでなけりゃ、だめだった」
与助は立ち上がり、二人の女の会話をただ黙って聞いた。割って入れるような空気はない。めおとの喧嘩のように見えるが、どうやら相手は自分ではないのだった。
「待ってたのに。ずっと待ってたのに。迎えにきてくれると思ってたのに」
氷塊があまねの体の上に少しずつ溶けていく。
「あんたは、私のことを、きれいなんて、一回もいってくれないで。こうやってこの男と」
恨み節を身体中で受けて、あまねは静かに言葉を返した。
「きれいって言えなかった。言えなかった。好きすぎて、言えなかった。今言うから、何度でも言うから」
刺された胸からさらさらと灰をこぼしながら、あまねもまた形を崩していく。
「好きだよ。きれいだよ、大好きだよ。溶け合いたい。あんたと何度でも溶け合いたい。お願い、お願い、来年の冬は、私のところへ戻ってきて」
やがてかすかな二人の声が夜の中に溶けていき、与助の前に残されていたのは灰と水の混ざりあった泥のみになった。
与助は残されたその泥をこね、二人の体を合わせてやり、一つの土器を作った。
しかし人の手の入った器にはすでに魂の宿る様子は見られなかった。一年のあいだ、土器はもの言うこともなく土間に置かれたままになっていた。
翌年の冬、与助のもとに睦ましげに二人の見知った女が現れて「恩返しにきました」と氷でできた花を挿すまで、与助の作った土器は、彩りのないただの塊であった。
氷の花 銀色小鳩 @ginnirokobato
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