妖 祓 い

那智 風太郎

 ぬたおろち


 ぬたおろち。


 そのあやかしに憑かれたのがゆい様だと知って浮かんだ疑念は、彼女が夜更けの海辺で誰を想うていたのかということだった。


 考えると途端に胸が高鳴り、息が浅くなる己を恥じた。


 そしてその羞恥さえも詮無いことだと心に言い聞かせると、代わりに冬の日暮れのような寂寥が胸に満ちた。


 唯様は貴族の娘で、もとより自分のような下賎が吊り合う相手ではない。


 それに年が明け、雪が消える頃には隣国の王族に輿入れするとも聞く。


 彼女が頻繁に仕事場を訪れ僕に話しかけるのは単に妖に関心があるためか、あるいはただの気まぐれに他ならない。


 分かっている。


 けれど唯様が向けてくる微笑が、どうしても知らずどこかそれよりもずっと深いところから滲み出してきているように思えてしまう自分は全く愚かだ。


 頭陀袋を肩掛けにした僕は、その自嘲を奥歯に噛みながら高台に聳える邸宅へと向かった。



 門衛に生業を明かすと彼はあからさまに表情を歪めて、裏手門に回るように命じた。そして言われた通りに足を運ぶと石壁に嵌め込まれた鋲打ちの鉄扉があり、それを二回叩くとやがて開いて銀髪の老婆が顔を覗かせた。


「封じ者かえ」


しんと申します。祓いを命じられて参りました」


 答えると老婆はニヤリと笑い、その枯れ木のような手で僕を招き入れた。


「若いのう。じゃが寄越したのはかいじゃ。それなりに腕は立つんじゃろう」


 そう言って先を歩き始めた老婆の頼りない背中に思わず僕は尋ねた。


「お師匠をご存知なのですか」

 師匠の名を知る者は多くない。


「ご存知も何も櫂は甥っ子よな」


 笑声まじりのその言葉に驚いた。

 弟子に入って十年足らず、師匠の口から親類縁者の話はおろかその詳しい素性さえ聞いたことがない。


「てっきりお師匠はどこか別の国から流れてきたものとばかり」

 目を丸くすると老婆は振り返り嗄れた声で答えた。


「あれは偏屈者でのう。身内など街中で顔を合わせても知らぬふりじゃ」


 苦笑いを浮かべた僕は、けれど心の内で密かに得心する。


 封じ者に情念の隙は禁忌だ。

 妖は狡猾にそれに取り入る。

 ゆえにこの家業は身寄りの乏しい者に向いている。

 たとえば幼い頃、親に捨てられた僕のように。


 だから師匠はあえて親類とも疎遠を貫いているのだろう。

 

 けれど、そう考えればまた新たな疑問が生じた。

 それならば師匠はどうしてこの祓いに自分を指名したのか。


 仕事場である石塔に足繁くやってくる唯様に僕がさほど情を持っていないとでも考えているのだろうか。

 歩きながら微かに首を振る。


 それはない。


 僕は彼女に対して至極儀礼的な態度を装ってはいるものの、神眼の異名を持つ櫂に共に暮らす弟子の心の揺れを悟れないはずはない。


 だとすれば考えられる理由はただひとつ。


 これは師匠から課された試練ということになる。



 大樹が色づいた葉を散らす中庭を右手に静謐とした回廊を進んでいくと、やがて老婆は立ち止まり、そこにある扉の前で目顔をこちらに向けた。


 うなずいた僕は老婆と入れ替わる。

 そして呼吸を整え扉を引くとたちまち黒い霞のような妖気が流れ出でて足元を包んだ。

 息を呑み、後退る老婆の気配を背に受けた僕は素早く室内に身を入れ、後ろ手に扉を閉めた。そしてひとわたり目線を回らせてみたものの、その濃密な暗がりの中では人の姿どころか部屋の広ささえも判然としない。


 妖は光をいとう。


 窓には隙間なく分厚い暗幕が重ねられているようだ。


 僕は噎せるような妖気にしばし呼吸を止め、ゆっくりと目を閉じた。


 まずは音を寄せる。


 師匠の教えに従い神経を集中させた鼓膜はやがて繰り返される微かな息遣いを捉えた。そして再びまぶたを開き、音のする方に向き直ると闇の中にぼんやりとした白い影が浮かび上がる。

 どうやらそれが唯様だと分かり、慎重に数歩そちらへと足を運んだ。

 けれどその様相が次第に明らかになると、その哀れさに思わず僕は目を逸らしかけた。


 唯様は一糸纏わぬ姿で床にあぐらを掻き、その端正な顔に卑しげな微笑を浮かべていたのだった。


 妖に憑かれた者はその全てを邪に委ねるしかない。


 別人に変貌し、そのまま刻が経つほどに心を蝕まれ、やがては廃人に成り果てる。そうなれば師匠ほどの手練れでも巣喰った妖を完全には切り離せず、その者は生涯痴夢の中を彷徨って生きるほかはない。

 そのような哀れを僕はこれまでに幾度となく見てきた。


 僕は息を深く吐き出すと跪いて頭陀袋を床に置き、そこから握り拳ほどの丸い玉を二つ取り出した。


 そのひとつは白。もうひとつは黒。


 そして言霊を唱える。


千万神ちよろずのかみよ。万象のことわりをもってどうかひじりを与え給え」

 するとほどなく白玉が濃紺の光を放ち始めた。


 次いで僕は視線を唯様へと送る。


「悪き精霊。よこしまな戯れを収め、この漆黒の玉へと帰れ」


 すると青みがかかった薄闇の向こうで彼女はおもむろに立ち上がり、あられもないその白い身体を晒した。


「ふふ、せっかくの慰みをそう易く手放せるか」


 唯様の声を耳にした瞬間、頭蓋の奥で警鐘が鳴った。


 情念を妖に悟られてはならない。

 師匠の試練はそれだ。


 僕は自我を鎮め、次いで己に暗示を掛ける。


 これは見知らぬ女だ。

 ヨシミの欠片さえない者だ。


 心が氷のように冷えて硬くなる。

 身体が透けていく感覚が爪先から立ち昇ってくる。

 目に見えない膜が僕を幾重にも押し包んでいく。


 やがて僕は静かに息を吐き出した後、落ち着いた声で語りかけた。


「おろちよ、苦しかろう」


「ほざけ、青二才」


 女が顔に怪しい笑みを湛える。


「無理をするな。おまえの血にこの聖青せいしょうは毒だろう」


「ふん、我は千年を超えて生きる魔蛇ぞ。そのような子供騙しが効くものか、小賢しい」

 ぬたおろちはそう言い捨て、やおら腕組みをした。


「ほう、それは見それた。ならばこれはどうだ」


 僕は床に跪き、頭陀袋からひとひらの真っ白な花弁を取り出す。

 次いでそれを慎重な手つきで白玉へ載せると焼け蒸す音がして煙が上がった。

 そして棚引く紫煙を見据えつつ両手の指を複雑に絡め、さらに祓いの詠唱を紡ぐ。


「千万神よ。この愚かな精霊に裁きと慈悲を与え給え」

 すると石が放つ光の青みが恐ろしくその濃さを増した。


 それはまるで群青の炎。

 その燃えるような光に妖が苦しげに呻く。


「ぐっ、貴様。なにをした」

「ヤソウギだ。百年に一度しか咲かぬこの花の焼煙は殊更に聖光を強め、どんな妖でも滅する」


 答えると女の柔らかなまなじりは吊り上がり、唇は大きく真一文字に裂けて、鬼の形相になった。


「おのれ……」


 ぬたおろちは喉を掻きむしり、膝を折った。


 するとその白い腿に真っ黒な鱗が浮かび上がり、やがてうねる蛇の尾に変化した。


「そうだ。その者から出でて、邪を容れる黒玉を頼れ。死滅から逃れるにはそれしかない」


 そう諭すとおろちは苦悶の表情を浮かべてこちらへとニジり寄った。


「忌々しい若僧め。我を見逃せばこの娘はくれてやるぞ」


「愚かな。そんな手に封じ者が応じるはずもなかろう」


 一蹴するとおろちは激しい息遣いの中に歪な笑声を立てた。


「我は情愛の化身。知っておるぞ。この娘と主が相想いの仲であることを」


 鼻で嘲ろうとして、けれどそのとき胸の底で一滴の雫が落ちて波紋を広げた。


 相想い。

 唯様と僕が。


 わずかにも表情は変えなかった。

 しかし妖がその気の揺らぎを見逃すはずもなかった。


「ククク、やはりな。この者が闇夜の海に浸かり結びを願うておったのは主よ」


「嘘だ……」


 呟きが自然と喉から漏れた。


 ぬたおろちはほくそ笑む。


「嘘ではない。新月の夜半、人知れず波間に身を浮かべて想いを祈ると龍神が聞き届ける。そのような下らぬ迷信をいじらしいことよな」


「黙れ」


 声が震えた。


 目を逸らすといつのまにか揺蕩たゆたう光のその青がずいぶんと色褪せていた。


「ワシはこの娘がどうにも不憫でのう。龍神に成り代わり心得たと囁けばこの者、涙を流して喜んだわい」


 その嘲るような口調に僕が拳を握りしめると、女の顔からスッと邪悪さが消えた。

 そして胸元で両手を組み、鈴の鳴るような唯様そのものの声で祈りを捧げる。


「真のそばにいたい。真とともに暮らしていきたい。それが叶うならたとえ血族の縁を切られても、この地を追われても良いのです。龍神様、どうかこの願いをお聞き届けください」


 その哀願と彼女の頬を伝う涙に僕の中にきつく結ばれていたはずの何かが解けた。すると次いで情動が全身で蠢き、たちまち僕を支配した。


「唯様……」


 呟くと彼女はゆっくりと僕に近づき、その美しい裸身を寄せた。


「真、私と逃げて。どこか遠くへ」


 戸惑いに目線を浮かせると光はさらに弱まり、揺らぐ青は水底から見上げる陽光のように淡い色をしていた。


 それを目にするともう、なにもかもがどうでもいいように思えた。


 僕は唯様の背中に腕を回した。

 そして強く抱きしめると彼女は吐息を漏らした。


 瞬間、僕の全てが形を成さない温かな泥になった。


「ぐふふ、たわいも無い」


 下卑た声が身体の内側から響いた。


 理性の残滓がどこかで悲鳴を上げたような気がしたが、もうそれもどうでも良かった。


 この心地よい泥にいつまでも浸かっていたかった。

 ずっとこうして唯様と抱き合っていたい、それだけを願った。


 けれどそのとき頭の片隅に不可解な思念が芽生え、指先が勝手に動いた。


 そして懐に忍ばせていた封魔の剣を握ると僕の手はそれをためらいもなく自分の喉元に突き立てた。


 刹那、正気を取り戻した僕はぬたおろちの驚愕した声を聞いた。


 そして慌てて僕から脱し、再び唯様の体に戻ろうとする妖に喉元から引き抜いた剣をすかさず突き立てるとぬたおろちは凄まじい断末魔を残して滅した。


 後のことは憶えていない。


 けれど薄れていく意識の中に僕の名を叫ぶ唯様の声を聞いた気もする。


 

 気がつくと僕は師匠に背負われていた。


「自刃の呪いを刻むなど、たわけめ。俺が様子を見に来なけりゃ今頃、お前はあの世だ」


 顔を上げると剣で刺した喉が痛み、同時に真っ赤な夕焼けとその色に染まる玉響の塔が師匠の足取りに合わせてゆらゆらと揺れて目に映る。


 どうやら負ぶわれたまま帰路についているのだとようやく気づき、僕は彼の隆々とした師匠の肩口に額を当てた。


「すみません」


 そう謝ると師匠は片手を持ち上げて僕の頭をぐしゃぐしゃと揉んだ。


「阿呆め。妖の術にまんまとはまりおって。真、お前は真面目が過ぎる。奴らの言葉なんぞ間に受けるな」


 僕はもう一度、詫びるつもりで肩に頭を埋め、それから聞いた。


「あの、唯様は」


「無事だ。まあ、ふた晩ほどは熱にうなされるだろうが心配ねえよ。婆さんも付いてるしな」


 僕が内心そっと胸を撫で下ろすと、師匠はサバサバとした口調で言葉を付け足した。


「ああ、そうだ。ところで輿入れの話はなくなるようだぜ。あの娘に妖の残り香があると俺が冗談をかましたせいかな。ハハ、気の毒なことよな」


 僕はしばし呆気に取られ、それから揺れる師匠の肩にまた顔を埋めた。

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