破壊と創造の箱庭

名南奈美

破壊と創造の箱庭



 僕が五歳の頃から飼っていた犬が亡くなった。黒い犬だった。村には他に黒い犬がいなかったから、みんな黒い犬と呼んでいた。十二年も生きて、ある朝に突然息をしなくなってしまった。そのあとすぐに、飼う動物に人間のような名前をつける文化がよその町にあると聞いて、僕の黒い犬にも名前をつけたかった、名前で呼びたかった、他の家族のように愛してあげたかった、と喉の根っこが苦しくなった。

 母も父も働いてばかりで、僕には僕の黒い犬しかいなかったのに。

 少しして母が倒れた。母も黒い犬が心の支えになっていたらしい。僕たちの黒い犬。

 感傷の話はさておいて、父だけでは家計が成り立たないから僕も働きに行くことになる。都会に出て働き口を探していると、ひとつの話を聞いた。

 広い屋敷に住み込みで働けばたくさんのお金を貰える。どんな身分の人でもよくて、ただ掃除が上手ければいいらしい。屋敷には女主人がひとりで住んでいるけれど、彼女は穏やかで掃除以外のすべてを自分でやってしまうから、他のところの召使よりも体力的には楽なのだとか。

 けれども。

 実際に働きに行った人は、みんな怒りや悲しみを抱えて逃げ帰ってしまったらしい。だからこの求人はよく出されるけれど、その先に何があるのか恐ろしくて、手を出す人は少ないのだとか。

 黒い犬を亡くした僕は何かに怒る気もないほど悲しみに沈んでいる。だから得るものはお金だけだ、と僕は紹介してくれた人の忠告を無視して屋敷に手紙を送った。

 自分がどんなに働きたいかということを、買えるなかで一番いい紙に書いた。

 僕は掃除が得意だった。箒も水拭きもできるし、姿勢も完璧なのだ。父が、きちんと掃除ができるだけで健康に生きていけるから、と教えてくれたから。

 魔法を覚えるための魔導書も買えない家に生まれてしまったけれど、それでも何もないってことはなくてよかった、と心から思った。それから、部屋を綺麗にする魔法というものがなくてよかった、とも。



 手紙の返事にあったように、門扉に鍵はかかっていなかった。

 大きな屋敷だったけれど、それよりも大きな庭だと思った。花畑だった。高い塀に囲まれていた。箱庭という言葉を聞いたことがあって、意味はよく知らないけれど、字面から受ける印象はまさに、眼前に広がるそれだった。

 屋敷の入り口、大きな扉の前に女性が立っていた。金色の髪と黒いドレスが高い背に美しく映えていて、作りもののように上品だった。

「貴様が」近づいたとき、女性は口を開いた。「ウル・ポラルか」

「ええ。貴女はリンダクリーム様ですか?」

「そうだ。あたしは、エネ・リンダクリームだ。エネ様とでも呼ぶとよい。ウル・ポラル、貴様が今日からあたしの家に住み清掃を担うのだな」

「はい。掃除に限らず、なんなりとお申しつけください」

「掃除だけでよいよ。貴様にしてほしいことはそれくらいだ。してほしくないことならば山ほどあるがな――立ち話もなんだ、入るがよい」

 屋敷のなかは一見すると綺麗だったが、よく見ると窓のさんなどには、にわかに埃が積もっていた。通された大きな部屋の絨毯にも、金色の毛がひとつ落ちているのを見つけた。僕は目がよかった。

 エネ・リンダクリーム――エネは、僕を座らせて別の部屋に行くと、すぐにティーセットを持ってきた。僕のぶんだけのようだった。

「さて」エネは向かいに座ると僕と目を合わせた。「細かいことを確認しておこうか。まずは、あたしのほうから。先ほど言った、してほしくないことだ」

「はい」

「ひとつ、あたしの創造に恋慕するな。ふたつ、あたしの破壊に抗議するな。みっつ、あたしの箱庭に意見するな」

「……ご趣味で、何か作られているのですか?」

「それほどのものではない。ただ、あたしは屋敷のなかの雰囲気を自由に変えるから、気にするな邪魔するな文句言うな、というだけの話だ。コロコロ変えることもあれば、しばらくそのままにしておくこともある。いつ、どんな風に変えたとしても、貴様に口出しする権利はない。それを覚えておけ」

 言われてみるとそれは、当たり前のことだった。僕は雇われるのだから、住む部屋とお金をもらうのだから、口出しなんて、そんなわがままをするわけがない。

「わかりました。そんなことは、絶対にしません」

「そうか。ならばよいのだがな」エネはそう言うと、一瞬だけ遠くを見るような目をした。それから、「では、貴様の番だ。何か、どうしても我慢のできないことや、そうだな、確認をしておきたいことはあるか?」

「確認……あの、給金なのですけど」

「うむ」

「手紙にてお伝えしましたが、僕の両親の住む家に渡してくれますか?」

「無論だ。しかし、手紙にもあったが、貴様には全く渡さなくてよいのか?」

「ええ」

 だって僕はもう、何もいりませんから。

 黒い犬を喪った僕にとって、それは心からの本音だった。



 それから一日目が始まった。僕は地図を貰い、部屋の配置を覚え、毎日掃除するべき場所、そんなに頻繁にやらなくてもよい場所、と言われるままにメモをとった。最初の七日間は基本的な構造に慣れてもらうためデフォルトの屋敷だ、とエネが言っていた意味がわかるのは、八日目の朝からだった。

 起きてすぐ、僕はひどく混乱した。

 いつも天井にあったシャンデリアが、どこにもなかった。代わりに、真っ黒な天井に打たれた数えきれないほどの白い点がきらきらと光り、歩くに困らないくらいの照明になっていた。そして黒と白点は、壁や床や家具にも敷かれていた。窓には黒いカーテンが下りていた。そして驚くべきことに、そのカーテンを開けようとしたが、どれだけ力を入れても微動だにしなかった。

 部屋から出ると、廊下もまた同じように、黒と煌めく白点だらけだった。呆然としていると、

「起きたか、ウル・ポラル」とエネが言った。「なんだ、世界がひっくり返ったような顔だが。屋敷は何も変わってはいないぞ?」

「え……いや、え、でも」

「くふふ。冗談だ」エネは笑った。「屋敷そのものが変わっていないのは事実だがな。変わったのは、見えかたなのだ」

「み、見えかた?」

「あたしが考えた見えかたを反映させた。夜の空の星々に、上も下も囲まれてみたいと思ってな。ただ、あたしだけが見えるようにはできないから、巻き込まれてもらう形になった」

「何を言っているんですか」

「禁じられた魔法だよ、ウル・ポラル」エネはそう言うと踵を返した。「朝食ができている。早く来い。説明は食事の後だ」

 何もわからないまま僕は食卓につく。食器と食べるものは普通の色をしていて、少しだけほっとする。でも、白点――改め、夜闇と星の光に四方八方を囲まれながらの食事は、落ち着かないものだった。

「あたしは魔法をいくつか使うことができる」エネは不意に言った。「傷の治癒や火を起こす魔法など、そこらの者と変わらないラインナップだ――ただひとつ、幻覚の魔法を除いてな」

「幻覚の魔法……あの、僕は魔導書を読んだこともないのでよくわかりませんけれど、それは珍しいんですか?」

「禁忌の魔法だ。すべての魔法を発見し、あるいは考案し、魔導書として人々に普及させた大魔導士メトル・リットラー。そやつが、これが広まったら悪影響のほうが強いとして秘匿した、いくつかの魔法のひとつだ」

「……えっと、秘密にされたのに、どうしてエネ様が?」

「あたしの先祖にメトル・リットラーの助手がいた。ゆえに、書いてから禁ずることに決めたからと処分するように言われた、幻覚の魔導書を保存しておくことができたのだ。付け加えるなら、メトルの没後に金銭を稼ぐために利用したから、あたしの継いだこの莫大な財産が生まれた」

 つまるところ、エネはそういう家に生まれ、そして幻覚の魔法を受け継いだということのようだった。記憶を辿れば、この屋敷の主人を魔女と称する者もいた。魔法を使う者などありふれている、と僕は僕自身の環境の貧しさを感じながら思ったものだけれど、あれは、一般的に見ても奇々怪々とした魔法を扱うからこそ、敢えてそう呼称されていたのかもしれない。

 禁断の魔女、エネ・リンダクリーム。

 とはいえ、エネの表情に恐ろしいものは、現時点では感じなかった。聞けば、幻覚は少なくとも僕に影響する範囲では内装変え以外に使うつもりはないという。七日間接してきた印象を鑑みても、怒りや悲しみを抱いて逃げる、なんて結末を呼び寄せる者であるとは僕には思えなかった。



 幻覚の魔法について。自他の五感を意のままにする魔法で、僕の目の前にある内装はあくまでも、そういうふうに見えている、というだけでしかないのだという。

 先ほどカーテンが開かなかったことについて訊いてみたところ、実際には開いているだろうが貴様の目には微動だにしていないように映っているだけだ、と答えられた。家具は動かすことができたので、魔法で生み出したい内装の雰囲気を壊さない程度の移動であれば問題がないようだった。

 それから、これはついでに教えられたことだが、屋敷の外の広い庭に咲いている花もエネの幻覚だそうだ。嗅覚に関してのみ再現していない理由は、虫に寄りついてほしくないからだという。徹底的に管理の要らない花畑、と考えるとなかなか夢のようではあった。

 仮初の花園は、だからこそ本当のそれよりも美しく、欠点がない。

 星空の屋敷は、家具も同じ色にされていることもあって掃除をしにくかった。しかし、内装への意見はしてはいけないルールであるため口を噤んでせっせと仕事をした。僕にまで魔法を適用する必要はないのではないかとだけ言ってみたが、あくまでも建物が発する感覚情報に魔法をかけているため、しょうがないことのようだった。

「あたしは幻覚魔法を使うことができるがな、できることを網羅しているわけではないのだ。魔導書のページは年月を経て劣化し、そのうえ管理が行き届かず読めなくなってしまったページもあるのでな。まったく、先代までに杜撰な者がおると当代は迷惑なものだよ」

 エネはその点に関して心から不満そうに言った。

 七日間でそれなりに配置や構造は覚えきれていたため、大した事故もなく一日の労働を終えることができた。

 次の日もそうだったが、その次の日は最初の、いわゆるデフォルトの屋敷内装に戻っていた。

「朝起きて、飽きたと感じたからな。そのうち新たな理想が生まれれば、そのようにする」

 次の日には内装はまた変わっていた。

 朝、枕元に防寒具が置いてあったから何かと思った。廊下に出てみると、その意味がわかった――そこは一面の銀世界だった。記憶が正しければ雪と呼ばれるものが降りつもり、寒い風が吹いていた。僕は震えながら部屋に戻り、着込んで食卓に向かった。廊下のみ雪と寒さに支配されているようで、食事をとる部屋に入ってみると普通の体感温度だった。

「いつだったか行った雪山が恋しくなったのだ。しかし、すべての部屋をそうするというのも過ごしにくいから、廊下のみそう認識できるようにしてみた。くふふ、刺激的でよいだろう」

 僕としては、掃除に集中をするために刺激的な環境は邪魔そのものだったけれど、否定をしてはいけない約束だったため、何も言えなかった。

 仕事はしなければならない。雪だらけだからといって、廊下の掃除を怠るわけにはいかないのである。僕はまやかしの雪の冷感に鳥肌を立たせながら、いつも通り廊下を含む屋敷中の清掃を行った。

 そして夜には熱を出し、寝込むこととなってしまった。

「ふむ、そのようなことになるとは思いもしなかった。これは、あたしの予測が足りなかったな。よし、次にこのようなことを行う場合、仕事は免除することにしようではないか」

 エネは反省なのか感想なのかわからないことを言いつつも、病人のための食事を僕にふるまい、僕の熱を下げるためたくさんの水と時間を使ってくれた。とはいえ水は魔法で無尽蔵に生成することができるようなのだけれども。

 自由奔放ながら、他人の不幸に無関心ではいられないところのある女性なのだと、僕はエネを捉えた。

「エネ様は、お優しいですね」

「……ウル・ポラル。貴様はただ、運がよいだけだよ。あたしが、偶然いま他人に施す気分であっただけ、行いの結果の責任を取る気分であっただけなのだ。気分屋、というやつだよ。どんな事情よりも気分に従事する、気分の奴隷だ。……だから、まあ、あたしの気が変わらないうちに快復するとよい」

 エネはどこか気まずそうに言った。それでも、施したくなるような、責任を取りたくなるような気分になれるだけ善良なのではないかと僕は思った。



 熱に浮かされた僕は悪夢を見た。黒い犬を殺される夢だ。父のような、町で僕に魔女の話をした男のような、混ぜこぜになったとにかく悪い男が、僕の黒い犬の頭を棍棒で殴打していた。僕は身体が動かなくて、それでも必死に、やめろ、やめてくれ、僕の黒い犬が痛そうだ、殺さないでくれ、黒い犬が大好きなんだと、喉も胸も目も振り絞って叫んだ。すると混ぜこぜの男は言った。「黒い犬って、どれのことだ」混ぜこぜの男の周囲には、たくさんの黒い犬が血を流して歩いていた。混ぜこぜの男は僕の黒い犬をその群れに投げてしまった。「一匹だけ持っていけ。残された犬は全部、殺しちゃう」僕は僕の黒い犬を探そうとした。でも、全部の黒い犬が同じ顔で、同じ傷を持っていた。「どうした。わからないんなら、犬の名前を呼べばいいじゃない。反応したらお目当ての犬だ」僕は叫んだ。黒い犬、と。すると、すべての犬がこちらを向いた。「みんなお前の犬か? そんなわけないだろ。まさか名前がないのか? 馬鹿じゃないのか。名前もつけないから、こんなとき救えないんだぞ。それで本当に愛していたのか?」犬に名前をつけるなんて文化、知らなかったんだ。「愛しているなら文化がなくても思いつくことじゃないのか! 愛ってのは唯一性を与えるものなんだよ! お前の愛はまったく足りなかったんだよ!」混ぜこぜの男は焼けるように熱い吹雪を起こし、黒い犬たちは人形みたいにばたばたと死んでいって、そしてそのなかに僕の母もいた。

 目が覚めるとびっしょりと汗をかいていた。ベッドサイドに、昨日の残りの水とタオルがあった。僕は一気に飲み干して、タオルで汗を拭いた。それからベッドから這い出て、タンスから服を出して着替えた。汗まみれになった服は、いずれ洗濯しなければならない。

 額などに手を置いてみるに、体温は心なしか下がっているように思えた。

 恐る恐る部屋を出ると、廊下の気温は室内と変わらないものだった。雪もなく、僕は胸を撫で下ろす。よく見渡せば、内装はデフォルトとされているそれだった。予定よりも早く内装の変更をすることになったのだろうか。僕のために。エネが気を遣ってくれたのだ、と考えると少しだけ嬉しい自分がいた。

 食卓に着くと、エネはいつも通りの食事を振舞ってくれた。僕はそれに応えて、いつも通りの仕事をこなした。しかし、屋敷の書斎を掃除していたところ、机上に本が一冊だけ放置されている、ということに気がついた。僕はその表紙に思わず目を奪われてしまった。そこには犬の絵が描かれていたのだ。

 タイトルには『犬達 西大陸の隅から隅まで』とあり、恐る恐る開いてみると、どうやらそれは西大陸にいる様々な犬をスケッチ・彩色した記録を内容とする書籍のようであった。大きな犬、小さな犬、痩せた犬、肥えた犬、短足の犬、柱のような足を持つ犬。模様のある犬、模様のない犬。白い犬、茶色い犬――そして、黒い犬。

 僕は僕の黒い犬を、そして悪い夢のことを思い出して崩れ落ちてしまった。喪失感、無力感、そして夢の内容に対するショックがぶり返して、うずくまって泣いてしまった。しばらく、そうするほかなかった。



 喉を喰らう感情が落ち着いたころ、僕は急いで書籍を閉じて掃除を再開し、書斎を出た。

 普段より掃除の終わる時間が遅れてしまった。けれどもエネは、僕の顔に涙の痕跡でもあったのか、咎めることもせず温かな夕食をくれた。

「エネ様。次の内装変えはいつごろになりそうですか?」

「起きた際の気分と、準備によるよ」

「準備?」

「イメージの通りの世界を創りたいのならば、まずはイメージを固める必要があるのだ」

 次の日の朝、起きた僕は比喩でなく飛び上がった。

 なぜなら、僕の部屋も廊下も、食卓も書斎も、犬だらけになっていたからである。

 様々な犬が屋敷中を徘徊していた。そしてエネは、茶色の犬を抱えながら料理をしていた。

「屋敷にたくさん犬がいたら愉快だろうと思ったのだ。どれも無害な犬だ。噛まぬ、吠えぬ、糞を漏らさぬ。毛も落ちぬから、掃除の不安はないだろう」

 僕は食事を終えて仕事を始めると、かこつけて屋敷中の犬を見て回った。

 そして屋敷の端っこで、ついに僕は黒い犬を見つけることができた。僕の黒い犬と、色だけでなく犬としての種類も同じように思えた。僕は我を忘れ、掃除の道具を放っておいて黒い犬を抱きしめ、持ち上げたりその体毛に顔をうずめたりした。重みもぬくもりも、生きる犬そのものだった。幻であることを思い出したのは、分針が一周するほど堪能したあとのことだった。

 黒い犬を抱えながら、いそいそと掃除をした。

 夕食時、黒い犬を抱いて食事を摂る僕に、エネは笑った。

「どうした、そやつが気に入ったのか」

「はい! ありがとうございます!」

「ふむ。あたしの創造した世界が気に召したのであれば、あまり悪い気分ではないが」エネは言う。「しかし、貴様はあくまでも、あたしのために仕事をしにきていて、あたしが許しているからこの屋敷にいられるのだということを、ゆめゆめ忘れるなかれよ」

 たしかに、今日はうつつを抜かしてしまっていた。明日からは気をつけよう、と考えながら食器を片づけ、黒い犬を抱えて部屋に戻った。

 黒い犬を抱きしめて横たわっていると、ふと、名前をつけようという気になった。僕はすっかりこの黒い犬を僕の黒い犬と重ねて愛着を持ってしまっているし、それならば同じ後悔は二度としたくないと感じたのだ。

「きみは温かくて、きみのおかげで僕の悲しみは少しだけ安らぐ。そうだな、ベドーというのはどうだろうか。ベッドのようだから、ベドー。嫌じゃないかな」

 黒い犬は、ただやわらかい表情をしていた。ベドーにしよう、と僕は思った。



 それから僕はベドーを可愛がりながら毎日を過ごした。起きるたびにベドーがいること、つまりはエネの気分が変わっていないことに胸を撫で下ろしながらベドーを撫でて幸せな気持ちで働いていた。ベドーはほかの犬と遊ぶことも好きなようだったから、自分に縛りつけ過ぎず遊ばせてやることもあった。すると両手が空くことになるため掃除は捗ったが、やはりどこか寂しいものがあった。

 掃除を終えてベドーを捜していると、廊下でエネにばったり出会った。

「エネ様。ベドーを知りませんか。ええと、黒い犬です」

「ふむ。黒い犬ならば衣装部屋の傍で戯れているのを見かけたが。貴様、もしや名前をつけたというのか?」

「あ……はい」僕はいくらか面映ゆい気持ちで答えた。犬に名前をつけて可愛がるということにまだ馴染めていないこと、それから仕事の合間にそのような遊びをしていることから。「ベッドのように安らげますから。ベドー」

「……そうか」

 エネは何か言いたげに僕の顔を眺めたが、やがてすれ違うように歩き去っていった。僕が衣装部屋のほうに歩くと、向こうからベドーが歩いてきた。

「ベドー!」

 僕はそう叫んで駆け寄り、飛び込むように抱きしめた。ベドーは僕の頬を舐めてくれた。

 次の朝もベドーは屋敷にいた。その次の朝も。いつしかベドーがいる日々が当たり前になっていった。幸せを感じながら、エネは内装を変えようと思わないのだろうか、と疑問を抱いた。

「犬のいる屋敷にしてから、貴様が目に見えて嬉しそうに働いているものだからな。他者が幸せにしていると、実に気分がよい。あたしは気分屋だ。気など遣っておらぬ。ただ、いま、あたしのしたいようにしているのだ。だからウル・ポラル、貴様は貴様の幸せを喜んでいればよいのだ」

 それから少しすると、エネは白く美しい犬を傍に置くようになった。エネはその犬をシーチュと名づけた。クリームシチューと清潔なシーツの色だった。

 ベドーとシーチュは馬が合うようで、よく一緒に遊んでいた。僕は掃除の休憩がてら、エネの隣で愛しき白黒を眺めることが日常になった。

 僕がベドーを愛するように、エネもシーチュを愛しているように見えた。僕はすっかりこの仕事が好きになった。村の両親から手紙が来たとき、母の調子が回復したことを嬉しく思いながら、僕はここでずっと働き続けることにする、という連絡をした。エネはとても優しい主人であるということや、ベドーという黒い犬がいるということも書き綴った。それらの真実を以て、安心をしてほしいと考えた。僕が稼いだお金は、幸せな僕のことなど気にかけず自由にしてよい、と書き添えて封をして送った。

 そして返事が来た日、僕はこの仕事を辞めた。



 それは、手紙を出した次の、さらにその次の朝のことだった。ベッドから身を起こした僕は、すぐに違和感を抱いた。それがなんであるのか、寝惚けた頭ではすぐには理解ができなかった。しかし服を着替え、廊下に出たとき、全身を鳥肌が襲った。

 廊下は真っ白であった。壁も床も天井も、塗りつぶされたかのように白色だった。

 何が起こったのだろう? 僕は心を落ち着けるため、屋敷のなかを駆け回った。とにかくベドーが傍にいれば、何があろうと僕の心は愛情で満たされ、どのような出来事も些事となるはずだった。

 ベドーはいなかった。どころか、どこまで駆けても、黒い犬も白い犬もそのほかの犬も、見つけることができなかったのである。

 理解ができなかった。いやさ、理解はできた。理解そのものは、廊下に出たときから、きっとわかっていたのである。だからこその鳥肌だったのだ。しかし、到底受け入れられない現実だった。

「何をほっつき歩いておる」背後から、エネが声をかけてきた。「起きたのであれば、すぐに食卓につけ。あたしの料理を無駄にする気か、貴様は」

「エネ様」僕は振り向いて、言葉を必死に繋ぎ合わせながら言った。「エネ様、これは、どういうことでしょう」

「うん? ああ、内装を変えたのだ。究極の、滲みも汚れもヒビも埃も排除されたまっさらな白。よいものだろう、うっとりするほどだ」

「ベドーは」僕は最後まで言えず、息を吐き切ってしまった。ゆっくり吸って、「僕の、ベドーは、どうしたんですか」

「犬か? あれらはもうおらぬよ。犬の気分ではなくなったからの」

「どうして!」僕は思わず怒鳴ってしまった。目頭が熱を帯びる。身体が震えている。面食らっている様子のエネに、縋りたくなる。「どうして、どうして。僕は、ベドーがいたから、幸せだったのに。何もなかったのに、ベドーがいたから。名前をつけることができたから」

「どうしても何も、犬の気分ではなくなったのだと言っているだろう」

「僕がベドーのおかげで幸せだったことを知っていたでしょう。僕がベドーの存在に、どれだけ癒されたか、心の穴を塞がれたか! ベドーは僕のなかを占めていたんです! なのに、朝起きたら……突然、別れも言えなかった、僕は、僕は壊れそうだ」

「ウル・ポラル。煩いぞ」

「エネ様、あなたは酷い人だ! あっさりと、何も言わずに取り上げるくらいなら、どうしてあんなことをしたんだ! なんだって僕の幸せを尊重するようなフリを、残酷なぬか喜びをさせたんだ! 奪うなら始めから与えないでくれ!」

「煩いと言っているのだ!」エネは僕よりも大きな声で言った。「あたしは気分屋だ! あたしは気分の奴隷なのだ! ずっとそうだ、貴様を甘やかすことも、それに飽きることも、それが気分だからだ! そして――それの何が悪い! あたしが想像した世界を、あたしが破壊して何が悪い! どうしてその自由を阻害されなければならない! その権利を剥奪されなければならない!」

「……でも、僕の気持ちも、考えて」

「貴様の気持ちを、どうしてあたしが慮ってやらなければならない? そんな気分でもないのに! そうしたいという気分は、過ぎ去ったというのに、惰性で、作業的に、やりたくないことをやり続けろと、貴様の傷に束縛されろと言うのか? 貴様の望む世界をどうして維持しなければならないのだ! 貴様になんの権利があって、あたしになんの義務があるのだ? なあ、どうしてあたしは、ウル・ポラル、貴様に悪しざまに言われなければならないのだろうか!」

 僕はエネの剣幕に二の句が継げなくなってしまった。黙る僕に、エネは言う。

「貴様、最初に約束したことを覚えておるな? ひとつ、あたしの創造に恋慕するな。ふたつ、あたしの破壊に抗議するな。みっつ、あたしの箱庭に意見するな。これらの、してほしくないことを、貴様は行った」

「……あなたのような人のもとで働き続けるなど、こちらから願い下げだ」

「……ふん。そうか。どこへでも行くがよい、貴様など」それからエネは言った。「ああ、これは貴様の親からの手紙だ。あたしには紙屑だから、忘れず持って帰っておけ」

 僕は喪失感と哀しみ、怒り、それから空腹感を抱えながら村まで歩き始めた。金銭を持っていなかったから、村に着かないことには食事を摂ることもできなかった。疲労感で歩けなくなったころ、岩場に座りながら両親からの手紙を読み始めた。

 僕が素晴らしい仕事を得ることができてよかったということ、いつかベドーに会ってみたいということ、これからも礼儀を忘れず働くことを頑張ってほしいということが書かれていた。

 深い痛みが胸を刺して、どこにも行きたくなくなってしまった。



 ウル・ポラルは屋敷の扉を叩いた。エネが扉を開けると、頭を地につけ、非礼を詫びた。エネがウル・ポラルの感情を癒し続けて当然だと思ってしまった、自由な生活を自分の思うように支配しようとしてしまった、申し訳がない、と言った。

 エネは彼を赦した。屋敷のなかに招き入れ、少し冷めてしまった朝食を魔法で温め直して提供した。ウル・ポラルは本当に美味しそうにそれらを頬張った。エネは密かに、その食べっぷりを気に入っていた。

 ウル・ポラルは空腹を満たすと、屋敷の内装がまた変わっていることにようやく気がついた。天井から、様々な人形が吊り下げられていた。ウル・ポラルはそのなかの黒い犬の人形を見つけると、嬉しそうに頬ずりした。

 エネは、この内装もあたしの気分が変われば変えるが、よいな、と言った。

 よいも悪いもございません、とウル・ポラルは言った。エネ様の創造も破壊も気の向くままに行われるべきでございます。それでこそエネ様の創造は愉快なのだ、と存じます。

 エネは涙を流しながら破顔した。

 そんなふたりのことを、同じく一度は屋敷を出て行ったが心を改めて戻ってきた、リル・モーイスとサガン・ヴィとスアリー・メーとホール・グバンクル・ミッド・ケーキとクラウス・ミシェとメンデュ・サウスが笑顔で眺めていた。エネは全員で食卓を囲むことにした。一日中楽しい気持ちでエネは過ごした。

 それらすべてが幻であることなど、エネ・リンダクリーム自身が一番よくわかっていたけれど、喪失感にも幻にも飽きるまでは、こうするほかに術を知らなかった。

 禁断の魔女はそのようにして、傷も後悔も忘れてきた。

 だからこそ、またいつか繰り返すことにも、気づけないままで。



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破壊と創造の箱庭 名南奈美 @myjm_myjm

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