肺と胸と灰

@moonbird1

肺と胸と灰


 足を踏み入れるたび、今日が最後かもしれない、と思う。


 広い個室に私の足音だけが響き渡る。パタ、パタ――。簡素なスリッパの音は、まるで鳥の羽ばたきのようだ。父の生活音はしない。昨日来たときは、ここで新聞を広げて見ていたけれど。


「……お父さん?」


 もしかして、死んでしまったのか。心臓が凍り付くのを感じながらおそるおそる覗くと、そこには少年のような寝息を立てて眠る父の姿があった。


「寝てるだけか……ふぅ」


 窓側に備え付けられたテーブルと椅子。今日はなぜか離れ離れになっていると思ったら、椅子の方はベッドのそばに来ていた。私の前に来客? そうであってほしいとすら思うけれど、父と私は2人きりだ。看護師さんが毎日面会に来る私に気を利かせて、事前にセッティングしてくれたのだろう。


 そう、私たちは2人きり。父には私しかおらず、私には父しかいない。


 「ふぅ」、だなんて――あからさまに肝を冷やした自分が情けなくなる。大丈夫、今日も生きてる、大丈夫。


 制服のあかいリボンをいじりながら、今日は何を話そうかと思いを巡らせていた。父の体調のことは知りたいけれど、自分のことは話したくない。どうせまた「俺はここを出ていいから、大学に行きなさい」、と言われるに決まっている。


 「延命治療はしません。けれど死を早める治療も行いません。死を自然なことと認め、患者様の想いに寄り添う医療を」。


 これが末期がんに侵された父に用意された場所だった。いや、私が意図的に用意した場所だったと言えるかもしれない。母が交通事故で亡くなったときに得た賠償金は元々私の進学のために使われる予定だった。父は昔からヘビースモーカーだったが、母を失ってからまるで死に急ぐようにタバコの量を増やし続けたせいであっという間にステージ4の肺がんになった。手術を繰り返したが完全にがん細胞を取り除くことはできず、医者は曖昧に「諦めてくれ」、といった意味のことを何度も口にした。


 自業自得だった。どれだけタバコに逃げたって、煙の彼方から母が降りてきてくれるわけじゃないのに。


 「大学に行く金だろ」、父は何度もそう言った。分かっている。そのはずだった。けれど私はただ単純に、父に安らかな最期を迎えてほしいと思ったのだった。自分の将来と父の最期を天秤にかけて、私は後者を選んだ。


「高卒でも生きていけるよ」


 そう告げた私に父は怒鳴ろうとしたが、痰が絡んで激しく咳き込んだせいでその言葉は伝わらなかった。高卒で働いて、お金が貯まったら大学に通いなおせばいい――。私の言葉もまた、父に伝わらなかった。


 ホスピスに入ることになってから、父はタバコを辞めた。死神が首元まで鎌を持ってきてから悪魔との口づけを辞めたって、何もかも遅い。


「……んぁ」


 父が情けない声をあげて身体を揺すった。そのやせ型の肉体カラダも、悪魔が見せた魔法だろうか。


「おお、百合香ゆりか。来てたのか」


「やっほ」


 父は黄色く濁った歯を見せて笑った。胸が締め付けられる。


「体調はどう?」


「いい具合だ。やっぱりホスピスはいいなぁ。緩和剤を投与してもらうと、身体がふっと軽くなるんだ」


 そのセリフが父の旅立ちを暗示しているみたいで嫌だった。けれど、このやり取りは今まで何度も繰り返したことだ。「体調はどう?」と訊かなければいい。昨日元気だった父が、今日も、明日も元気であることを信じて、何も訊かずに他愛もない話をして面会を終えればいい。そうすれば私は、いつか必ず訪れる未来に怯えなくて済む。


 けれど、いつも心配が勝ってしまって尋ねてしまう。そして決まって後悔する。


「……よかった」


「大学、行けよ」


 間髪入れずに父が言った。嫌なことが続く。覚悟していたはずだったのに、やはり怯んでしまう。


「……またその話? もうお金ないって」


「だから、俺はここを出ても大丈夫だと言ってるだろ」


 腕に緩和剤が入った袋を装着しながら父は言った。どの口が言うんだか。


「だめだよ」


「ここを最期の場所にしろって言うのか」


 怒鳴り声――じゃない。亭主関白だった父だが、もう娘にも、母にも、誰に対しても怒鳴る元気を持ち合わせていない。


 小学生の頃――運動会で誰よりも大きな声を出して応援してくれた父は急速に枯れ続けている。お互いの弱々しい息が白の病室で重なった。


「そうは言ってない。調子がいいときは家に帰れるよ。いままでだってそうしてきたじゃん」


 このホスピスは実家での外泊を認めてくれている。


「……ほんの数回だけだ」


 不貞腐れた父はわざとらしく視線を外した。福耳――お金持ちになるなんて真っ赤な嘘だ。大きな耳たぶを見て、私は――。


 頭に浮かんだ愛する人の最期を封殺した。



――


 父のことが好きだった。家族としてではなく、1人の男性として父のことを愛していた。


 それがいつの頃からだったのかは分からない。けれど、自分が異質であることは思春期に突入した友人たちを見ればすぐに分かった。「汗臭いタオルを無造作に置いてる」、「一緒に洗濯されて最悪」、「束縛がきつくてうんざり」――。友人たちと同じようにそういう感覚を持つのが普通のことなんだと理解はしていた。


 けれど、私はそうは思えなかった。父の汗臭いタオルは私にとってご褒美だったし、何度だって嗅ぎたかった。母がいなくなってから家事全般は私に任されていたから、毎日父の下着の上に自分の下着を重ねて洗濯機に呑み込ませた。「大学に行きなさい」、「俺のことなんか放っておいて早く自立しなさい」、そう口にする父に、もっともっと縛ってほしかった。


「……眠い?」


「んん……」


 父は何度も眼をこすっている。眠り足りないのだろうか。父は夜、ちゃんと眠れているのだろうか。体調がいいって、嘘なんじゃないだろうか。


「寝ていいよ」


「でも、せっかく百合香が来てるのに」


「いいから。明日も会えるでしょ」


 自然と語気が強くなった。明日も会える。そう、絶対明日も会える。


「……それもそうだな。ありがとう」


 その微笑みをやめてほしい。やめないでほしい。あぁ、気が狂いそうになる。


「……柵、要らないでしょ」


「柵?」


「ベッドの柵」


「別に外さなくていいだろ」


 父はきょとんとした眼差しで私を見た。


「邪魔じゃない? これ」


「でも、いまから寝るから」


「落ちないでしょ。子どもじゃないんだし。お父さんの様子が見づらいんだよ、これ」


「様子を見るって、お前は看護師か」


 父はまた少年のような笑みを浮かべて黄ばんだ歯を見せた。


「……とにかく取るよ、これ」


「帰るまでには戻しなさい」


「分かってる」


 ガチャン。「消毒済」と書かれたシールを見ながら、父と私の境界線を取り除いていく。身体の奥底が燃えるように熱くなるのを感じながら、父がゆっくりと瞳を閉じるのを見つめていた。


「すぅ、すぅ、――」


 規則正しい寝息が聞こえる。しばらくして、いつもしているみたいに私は――。


 父のくちびるに顔を近づけた。



――


 母が亡くなってから、私は母の代わりとなった。食事、洗濯、買い物に掃除――家事全般を任されるようになり、充実感と幸福感で満たされていた。父との夫婦生活は私にとって最高の多幸感を与え続けたけれど、裏を返せば私が父のであるという運命を呪ったということでもある。私が娘でなければ、私は喜んで父と再婚しただろう。


 運命って残酷だ。いのちをつくる天使も、いのちを奪い去る悪魔も残酷。


 私は母の代わりになったはずなのに、夜の営みだけは代わるよう言われなかった。当然のことだ――それが倫理を守る真っ当な父親の姿だった。けれど、その部分だけは壊れてほしいと願った。母という偉大な存在の代わりにタバコを求めるくらいなら、母の代わりとして私の肉体を求めてくれればよかったのに。


 父娘おやこの欲求不満。父はタバコを求め、私は父を求めた。思春期になりぐんぐんと大きさを増す乳房を友人たちは羨んだけれど、それは同年代の男たちではなく父にこそ触れられるべきものだった。


 もちろん、真っ当な父はそんなことをしない。私は満たされないまま情念を燃やし続け、父は満たされる代わりに肺を壊していった。


「……明日も会えるよね。んっ――」


 じゅるるるる。死神に生気を吸われる前に、私が父の病魔を吸いつくしてやりたい。


「んっ、はっ、お父さん、お父さん――」


 表面だけで満足できなくなった私は、父の黄ばんだ歯の奥に紅い舌先を伸ばした。ゆっくりと父の肉体に自分の胸を預けていく。ぎゅうううううっ。大きな胸が父の上でぐにゃりと歪んだ。


「お父さん、好きだよ、好き――愛してる」


 遅すぎる禁煙をした父からは、もう朽ちた灰の味はしない。


 狭苦しい白い袋から父の肉体の中へ――等間隔に緩和剤しずくが注入され続けている。

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