第8話

 僕らは五所川原の町なかのコーヒー屋で休憩し、そして鶴田町近くにまで行った。そこらにある一太郎先輩の知り合いの家でまた寝泊まりさせてもらうことになっていた。そこに行くまでにはかなり長い田舎道を通らねばならなかった。僕らは冷たい空気の中で熱い吐息をし、時間に余裕が無いことを感じつつ焦って向かっていた。

 青ざめた夜だった。既に午後八時近くになっている。だが僕らはそれほど真剣にこの状況を受け止めていなかった。僕らは鈴虫の巨大な盛大な声を聞いて、その大合唱が心地良かったから、気持ちはかなり楽だった。僕らはボイスカムで会話しながら走った。皆の声が楽しそうに弾んでいる。僕も楽しかった。遅れて行こうかと思ったくらいだ。

 僕らが一太郎先輩の知り合いの家に着いたのは午後八時半近くだった。小さな家で、ボロボロの家だった。その家の人は画家で狭いところが好きらしく、何十年もその家に住んでいるらしかった。

 五十代あたりのおじさんでかなり頑迷そうな人に見えたが、朴訥とした人間らしさを僕は感じた。そっけない感じではなく、ただ単純に人と話す機会が少ないためにどう僕らを扱ったら良いか分からないように見えた。

 僕らはレトルトのコーンポタージュで向かい容れられた。僕らはありがとうございます、お世話になります、と応じてコーンポタージュを飲んだ。

「後は冷蔵庫にあるもので好き勝手作ってくれればいい」彼は恥ずかしそうに顔を歪めながら言った。そうして絵を描いているらしい部屋に入り、あとは物音一つさせなかった。

 僕らはその態度に本当にそうしていいか迷いつつ冷蔵庫の中の物でカレーを作った。ニンジンが無かったがそこまで贅沢を考える気もそういう余裕もなかった。僕らはカレーを食べた後、居間に敷かれた布団の中で静かに眠った。そこは七人も入らないため、女子二人は台所で寝た。竹中は野宿道具を使って庭で眠った。

 僕は大きな物音で目を覚ました。皿と皿がぶつかり合っている音だった。もう夜が明けようとしている時間で、画家のおじさんは料理を作っているらしかった。

 僕は布団の中でもぞもぞと起き出し、音が鳴る方へと歩いて行った。女の子二人は台所におらず、台所の台の上に近所のホテルで眠りますと置き手紙があった。よほど窮屈だったのだろう。彼女らにはこの旅で大変な目に合わせてしまったかもしれない。

 僕はおじさんに「おはようございます。食事なら昨日のカレーが残っていますよ」と伝えた。

 おじさんは不格好なべっこう柄のメガネをかけていた。ヒゲがもじゃもじゃと生えてかなり強面の男だった。

「そうだったのか。気づかなかった。ほとんど作ってしまったからあとは煮るだけになってしまった」と言って自分の作っている料理を見た。

 笑ってキッチンペーパーで鼻をかんだ。そして気になったのか手を石鹸で洗い、備え付けられているタオルで拭いた。

「絵でも見るか?」

 彼は話の種に困ったのか、そう言い、ドリップ式のコーヒーの残りを温めて僕に渡し、昨夜入ってしばらく音沙汰がなかったあの部屋へ案内してくれた。

 扉が古いらしく、ギュリギュリとノブが回る音がした。僕はその音が不思議と芸術家の世界へ変遷していく儀式の音に聞こえた。この古ぼけたドアの赤褐色の色も、この絵具の臭いも、なんとなく違う世界へと入っていくための通り道のように思えた。

 扉を開けるとそこは沢山の野花や山々が描かれた美しい色合いが満ち溢れた部屋だった。黄や赤や青、紫の花、そこらを舞う蝶々。高く、高く盛り上がった山々の隆々とした様子。それらは僕らが見てきた素晴らしい世界を彼の視線で見たものだった。

 彼は恐らくきっと素晴らしい感性を持っている。純粋で子供のような明るい感性を。

 僕は彼の作品を眺めて回った。どれも雫の輝きの一滴を思わせるような微細な点描の感覚で細部を描いている。一つの花を何度も点描し、そしてそれらに一筋一筋の光の輝きを保ちつつモネの睡蓮のような美しさを演出している。

 僕は感慨深いものを胸に宿しつつ、そしてその輝きが強められるのを感じつつ見て周った。

「好きな作品はあったかな?」

 彼は楽しそうに僕を見詰めていた。

「はい。どれもこれもキレイな作品ばかりで……」

 僕はどのように語ったらいいか分からなかった。だがどれも素晴らしいものであるのには変わりがなかった。やがて竹中がやってきて、その美しさに目を見張っていた。

「すごいな。どれもレイコに見せてやりたいものばかりだ」

 僕はレイコという女性が彼にどういう存在なのか尋ねた。

「ああ、レイコは僕の妹ですね。十二歳の頃に死んでしまいまして、彼女は将来絵描きになるって言ってて、それがふと思い出されてしまって。彼女が生きていたらきっとこういう風な作品を沢山描いたのかもしれないと想うと、つい言葉に出てきてしまいました」

「そう」僕は彼がいつも写真を撮っていたのを思い出した。それはきっと妹に対する温かな思いやりだったのかもしれない。きっとその写真でずっと妹に対する想いを抱いていたいのかもしれない。きっと、生きていたらという幻想を抱き続けていたいのだろう。

「写真に撮っていいですか?」

 僕は尋ねた。

「いいよ。大したものではないかもしれないが、気に入ったのを幾つでも」

「ああ、僕も撮りたいな。カメラ持ってきてもいいですか?」

 竹中は尋ねた。なんだか彼はウキウキしていた。

「ああ。幾らでも撮っていきな」

 おじさんは非常に楽しそうな笑いをし、そして紳士らしく手のひらをドアの方に向けた。

 僕は写真を撮っている間、初めて恋をした彼女の事を思い返していた。写真の中にいる彼女を頭の中で投影し続けた。彼女がいる事が一時期は僕の支えだった。それが全て霧散していく感じがした。お葬式をあげているみたいだった。彼女に対する僕の思いのお葬式。僕はなんだか彼女への思いが強かったのだなと理解した。失っていた彼女は誰よりも素晴らしく美しかった。だが彼女はもういない。

 僕は生きるのだと決意した。


 僕らが画家の家を出て三日経った。弘前市ももう目前になった頃、僕らは自転車を配送してもらい、電車に乗って新青森まで行き、新幹線で帰ろうとしていた。

 色々な事があった。僕はこの旅で多くの物事の価値観が変化したと思う。旅というのは多くの価値観の変化を催す。なぜだかは分からないが、皆そう言うのだ。

 僕はイオリと一緒の隣の席に座っていた。イオリは疲れて眠り、僕の肩に頭を預けていた。僕は女性に対する価値観も変わった気がする。恋愛を大抵の場合傷つくだけのしろ物だと思っていた。僕は彼女と真剣に交際する気になっていた。だがまだ彼女を真剣な対象として見ることができるだろうかと考えていた。僕はもう怯えたくない。

 僕は弘前から新青森に着くまでじっくり美しい風景を見ていた。僕はもう大丈夫だ。そんな気がしてきた。僕はきっと真剣に恋愛し、勉強し、苦悩するだろう。それでいいのだ。僕はもう悲しみを含んだ初恋の相手を思い出さないだろう。思い出したとしても、きっとそれは現在と切り離されているだろう。僕はイオリの顔を見た。

 美しかった。きっと多くの人が彼女に恋してきただろう。だが今は僕と真剣に付き合うべきなのだ。僕も真剣に付き合うべきだ。

 新幹線に乗ると僕は青森の地を離れ、北関東の地で一般的な人間になり、病気も克服し、なんとか生きていかなければいけない。

 そう考えているうちに僕は眠りに就いた。僕は切り取る人の夢を見た。

「キミはもう切り離されたね」彼は言った。いや、彼女だった。初恋の人の顔だった。なぜ今までこの顔を忘れていたのだろう。どうして彼女に僕らは切り取られていたのだろう。多分、僕は彼女が最悪な事をする人間に成り代わっても生きていてほしかったのだ。

「わたし達は切り離された。これでおしまいよ」彼女は八重歯を出して笑っていた。僕もなんとなく微笑むことしかできなかった。

「僕は頑張るよ」

「頑張って」彼女は笑った。そして霧のように消えていった。

 目が覚めると新幹線は目的地に着いていた。僕は黙って伸びをして背中の筋肉を伸ばした。

「さて、生きていこうか」僕は本当に心の底から笑えた気がした。




                                  了

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俺の青春ってサイクリングより、激しいぞ 日端記一 @goldmonolist

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