第7話

 朝になると慌ただしくその家庭は動いた。まるで引っ越しのような忙しさの中、僕らはぼうっとした顔と頭でご飯を食べていた。皆眠そうにしていた。田舎の朝は早い。一太郎の親戚のおとうさんはゆっくりとモゴモゴと歯の少ない口でごはんを咀嚼していた。僕らは平凡な朝のニュースを眺めていた。朝食には地元産の納豆が出てきて、僕らは舌鼓を打ちながら平らげた。

「少しこの家で休んでいこう。俺は少しばかり疲れた」一太郎先輩は三杯目のインスタントコーヒーを飲みつつ僕らに言った。

 僕はあの夜の後すっきりと眠れた。考え事をしながらも何故かぐっすりと眠れた。不思議な事だった。僕らは午前八時、眠った部屋を換気しつつ羊羹とお茶を取りつつスマホをいじった。風は昨日と違って吹かず、ただ秋晴れの空が悩みもなさそうにカラカラと澄み切ってそこにあった。空とは不思議なものだ。難しい悩みが深そうな夜もあればこうやって意気揚々としている午前もある。

 僕はおかあさんが淹れてくれたドリップを啜りつつ、横になっている女子二人と竹中を眺めていた。

 僕は食後の精神安定剤を飲んで、昨日の夜の事を考えていた。僕と亜川はあのまま黙ってタバコを吸っていた。風と夜の明かりが幻のように僕らを包み、そしてその中で時間がしんしんと静かに、そしてとても早く過ぎていった。僕らが眠ったのは月が雲の陰になった頃だった。僕らはどちらからでもなく飛び石をたどって歩き、池と月を一瞥し、そして静かに戸を閉めた。床に入ってから僕は切り取る人の事や精神病院の優しい患者たちの事を考えた。切り取る人と僕、そして患者のこと。それらは貨物列車のコンテナのようにしっかりと整理されて流れていった。考えたのは数分だった。五分程度かもしれない。そしてすぐ眠った。夢もない眠りだった。

 僕は亜川がどうして僕の後に出てきたのだろうと少しばかり考えたが、それは必然的な結果へと落ちた。あれは僕に対して何も言わない、という意思表示だったのだろう。何も言わない、だから頑張れ、と。

 僕はどうすればいいのだろうとぼんやり考えていた。なんだか全ての観念が風にさらわれてしまいそうなのだ。そして風に運ばれてどこか世界の奥へと消え失せていきそうだ。

 イオリはあれからもいつも通り接してきた。何も昨日のことについては触れない。僕が酔っ払っていたフリをしていたのに気が付かなかったのだろう。かといって僕は恋人らしくイオリと話すつもりにはなれなかった。だが僕は悲しみについて考えなくなった。愛の悲しみ。その事はもう気が楽になっていた。

 イオリはいつも通り皆が他人に期待する以上に明るく笑っていた。僕は彼女がにこやかに笑うエネルギーがどこから来ているのだろうと推測することもできない。

 一太郎先輩が三十分ほど休んで、どこか喫茶店を行こうと言った。コーヒーならここでも飲めるのにと何人かは反論したが、彼は田舎の喫茶店のレベルがどれくらいかを知っておこうぜ、と冗談混じりだがやや本気に応じるのだった。先輩は年を取っても恐らく少し、幼稚っぽい事をしてのけるだろうなと思った。彼はバイタリティーに富み、頭こそ良いが、着目点や思考の回路が若すぎるなと思う。だがリーダーシップがある。皆を楽しませようとしたり色々な所に連れて行ったりするには優れた才能の持ち主だろう。

 一太郎先輩はスマートホンのアプリで近くにある喫茶店を検索した。少し歩いた所にそれはあった。近所にあるコンビニの近くの田んぼの端っこにある喫茶店だった。そこの喫茶店近くを自転車で走っていると電車が岩木山をバックに通っていた。僕は感慨深いものを味わった。あの電車が通る道を順々に辿っていけばいずれ東京なのだ。東京には喫茶店が数多くあるがこのような美しい風景は見られないだろう。

 田んぼがあり、畑があり、林があり、済んだ空があり、澄んだ空をまっすぐ進んでいくと岩木山の顔が見える。岩木山はてっぺんが白塗りで、自然の輝かしさに溢れた場所だ。

 僕らはテラテラと脂が塗られた丸太小屋の喫茶店に入った。丸太小屋の中は地元の画家たちの先鋭的なアート作品が壁に均等に飾られていた。店内は幅が狭く、長い通路が真ん中にのび、奥の折れた方に清潔そうなレストルームがあった。

「いらっしゃいませ」一流に見えるヒゲを生やした店主がにこやかに笑い、僕らに深々とお辞儀した。彼は楽しそうに見えた。客を向かい入れるだけの顔だとしたら、僕の経験上それは非常に仕事に生きがいを感じている人間の持つ顔だった。

 僕は思わず嬉しくなり、カウンター席に座り、カウンターに置かれてあるコーヒーフラスコをしばし眺めた。皆が一列に並んで座ると、旅の一行だという意識が強く客観的に訪れた。

「メニューはこちらにございます」彼は少しも笑みを崩さず、そして一筋だけシワを深くして(僕にはそのように見えた)笑っていた。

 アメリカンコーヒー、当店オリジナルブレンド、キリマンジャロ、ブルーマウンテン、それぞれにアイス、ホットがあり、ジュース類はオレンジジュース、リンゴジュース、サイダー、コーラがあった。僕は当店オリジナルブレンドを頼んだ。他の皆はアメリカンだったり、キリマンジャロだったり、ブルーマウンテンだったり、アイスだったりホットだったりした。

 当店オリジナルブレンドは深くローストされたとても苦いコーヒーだった。苦かったがとても美味しいものだった。苦味の中に甘みというものが包まれているようだった。

 僕は店主の働いている動きをじっと眺めていた。彼はコーヒーを楽しむ僕らをとても楽しそうに見ていた。なんだか印象深すぎて夢の中でまでコーヒーを出してくれそうだった。

 彼はコーヒーを飲んでいる僕の方を向いて、「味はいかがでしょう?」と尋ねた。

「苦くてびっくりしましたが包まれている甘みみたいなものがあって、とても美味しいです。飲んでいくうちにまた更に美味しくなっていく感じです」

「それは良かった」彼は深い微笑をした。それはとても輝かしい表情に見えた。

 僕らは随分長い間、そこで談笑した。一太郎先輩と店主を軸にこの地元の話を沢山してくれた。岩木山は津軽平野から見ると美人な女性の横顔に見えるという話、そこに雲がかかると雨が降り、それはその女性の涙なのではないかという話、雪が降り積もると一メートル近く積もってまともに歩けなくなる冬の話など。僕らは興味深い話を沢山聞いた。僕らはやはり旅人なのだということを感じさせられた。

 僕らがそうしている間に午前十時半になった。そろそろ出発するべきだ、と一太郎先輩が言った。一時間以上話をしていたのだ。

「また機会があったらぜひ、いらっしゃってください」と店主は微笑みながら応対した。

 微笑みの似合う店主だと僕は思った。

 僕らは一度一太郎先輩の親戚の家に戻り、早めの昼食を取り、自転車に乗った。我々は鶴田町へ向かい、途中五所川原へ寄った。


 僕は今までに精神病の恋人と付き合ったことがある。彼女は僕より一つ年下の八重歯が可愛い女の子だった。僕は十八だった。

 彼女は少女らしい可愛い顔つきをしていて美しさも兼ね備えていたし、セックスを僕とするには相応しい背丈をしていた。僕らは何度も体を交わし、互いに愛し合い、何一つ不足などないと思っていた。彼女がどう思っていたのかは知らない。彼女はいつも歯をみせて笑い、その笑みが僕にはとても大切なものに思えていた。僕はいつまでも愛おしく思い続けるだろうと考えていた。

 だが彼女は何も言わず急に去ってしまった。死んだという意味ではない。急に音信不通になり家は引っ越していた。

 僕は自分の動ける脚の範囲内で駆けずり回り、僕の友人や彼女の友人に話を聞くとどうやら父親の仕事関係での引っ越しだということが分かった。

 だがなぜ彼女が僕の電話を拒絶し、僕の手元からいなくなったのかは分からなかった。僕はいつまでも愛し続けるつもりでいたのに。永遠を信じたのに。

 僕は彼女の友達も連絡がつかない事を聞き、ますます困惑した。

 全てを無かったことにすれば人を想う苦しみを完全に根絶する事ができるとでも思っているのだろうか? 僕には信じられなかった。

 一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月、半年、そして一年経った頃、僕の手元に彼女の母親から連絡が来た。彼女が自殺したとのことだった。

 僕は頭を抱え、壁に頭を打ち続けた。それがはじめの兆候だった。僕は自分の想う彼女の像を死んだものとしたくなかった。僕は頭を打ち続けた。そして入院した。それがはじめの入院だった。

 僕は精神科病棟の廊下を歩き回り、壁にとんと頭を当てていた。もう頭を打ち続ける気力は無かった。全てを失ったと思い続けた。思えば僕のその時までの人生は全て彼女の愛によって支えられていた。僕は支えを失ったのだ。

 思えばあの頃からどんどん、ゆっくりと孤独になっていたと思う。ますます深く、底のない湖に沈み続けるように。

 僕はどうすればあの子を助けられただろうと考え続けた。失ったものの代わりなどないと思っていた。僕は苦悩の中ただ独りで耐え続けていた。入院して回復すると、またたまに頭を打つことがあった。僕はこんなのは呪いだ、愛の呪いだ、と考え始めていた。愛する事の後悔が僕の痛みで、それだけが現実らしいと思えるものだった。

 僕はそうやって二十歳になった。タバコを吸い、自転車であちこちを走り、精神安定剤を飲んだ。

 寮で独りのときはずっとタバコを吸うか、DVDを見るか、勉強をしていた。その間ずっと僕は独りである事を忘れようとしていた。友人たちと話をする事は不得意になった。楽しくなってくると彼女の事を思い出すからだった。

 病院で治療していくうちに、精神科医はそれが彼女の寿命だったのだ、と言った。僕は徐々にそれが事実なのかも知れないと思うようになっていった。それは虚空に浮く蜘蛛の巣の蜘蛛を握りつぶすように残酷な事かもしれないとはじめは思っていたが、段々現実に存在する真実らしい事の一つと考えるようになった。

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