第6話
夕食になり、僕はイオリと隣に座っていた。イオリはまだ元気に僕に話しかけ、僕もまた彼女の勢いに釣られて大いに笑い、沢山の事々について会話した。幼少時代の頃、思春期の頃、大学生になって一太郎先輩に自転車サークルに勧誘された事、授業成績の出来に非常に差があり、落第点を取ったり、非常に優秀な成績を取ったりした事。僕らはまるで悪い事で盛り上がる高校生のように笑った。
「あなたと二人だったら良かったのに」彼女は突然笑うのを止めて真剣な目をして微笑んだ。
僕はそれに対して微笑した。「そうだね」と答えた。
僕は彼女を愛するのに不適格な要素が多いと思う。いや、僕は誰を愛すのにも不適格なのだ。
僕の悲しい微笑を見て彼女は「本当は人間を嫌っているんでしょ」と不幸そうに笑った。
僕は何も答えられなかった。どういう言葉を、どういう感情を表したらいいかを見つけられなかった。僕はただ彼女に不幸な笑みを返すことしかできないでいた。
一太郎先輩が僕にビールを運んできた。僕は酔う事にした。こういう悲しい出来事がある日は、酔っ払ったほうがいい。だがビールを幾ら飲んでも僕は酔えなかった。彼女は一人で少しずつビールを飲んでいた。僕は酔ったフリをして彼女に言った。
「僕は不幸なのかい?」
彼女は複雑そうに苦笑していた。
「教えてくれ。僕はどうすれば幸せになれるんだ? こんな地獄から? 悲しみしかないじゃないか。孤独しかないじゃないか。僕は……ひとりぼっちだ」
彼女は苦笑した。そして言った。
「そういう独りで孤独な人がこの世の中には沢山いるっていう悲しみは、あなたの悲しみを埋めてくれないのかしら」
僕は驚いた。
僕は夜、布団の中で彼女の言葉を思い出して何度も反芻した。精神安定剤を多めに飲み、段々と効いてきていた。
『そういう独りの人。そういう沢山の孤独な人。僕の悲しみを埋めてくれるだろうか』
僕は悲しみについて考えた。それは暗く冷たい水の底にいるような気持ちだった。幼少期に通ったあの湖の底だった。僕はそこで溺れて息もできずにもがき続ける……。
僕は息苦さを感じて起き上がった。十一時にもかかわらず皆疲れで眠っていた。僕も疲れていたが中々寝付けそうもない。
僕は障子戸を開けて外の新鮮な空気を吸いに向かった。庭は高い外灯で美しく神秘的にライトアップされていた。何本もの松が白い光に怪しく照らされ、松の針葉の光沢がテラテラと光った。岩石でできた灯籠には何かの祭りの時季だからか、ポッとロウソクで火が灯されていた。(恐らくそれがこの家にある風習なのだろう)僕はふううっ、と火を消すような深く長いため息を吐いた。そのため息で世界中に存在する様々な建物なんかが吹き飛ばされでもすればいいと思った。
庭の夜は青白さとオレンジ色の光で色づけられている。縁側からまっすぐ塀まで五十歩ほど歩くことができ、横も同じく五十歩ほど歩けた。塀にたどり着くまでに草垣が幾つもあり、それもまた呑み込まれそうな夜の深い水の底のような色に色づけられていた。サンダルがあった。僕はそれでじゃりじゃりと庭を歩いた。誰も来なかった。庭に出ると三日月の白い光もここに落ちているというのが分かった。奥の方へ行くと掛け橋のかかった清らかな透明の池があり、そこに三日月がしっかりと克明に映っていた。そこには数え切れないほどの星々も光って映り、僕はその世界に飛び込んでみたいと思った。
僕はなんとなく笑った。タバコを持ってきて良かった。僕はタバコを吸い始めた。出てきた縁側から右斜にある東屋の中に入り、岩石の席に座って池を見下ろし、そしてたまに空を見上げ、そして庭を見た。空気が涼しかった。風が時折吹いた。静かで穏やかな風だった。空は黒く、庭は青白く、そして部分的にオレンジだった。
どこかで微かに戸を開く衣擦れのような音がした。亜川が僕と同じ所から出てきていた。僕はそちらを見て、手を振り、そしてにこやかに微笑した。彼も小さく手を振った。それはガソリンスタンドの店員が車の窓を拭く動きを僕に連想させた。
彼は飛び石を確実に踏んで僕がいる東屋に歩んできた。彼は来る途中キャスターのスーパーライトに火を付け、池の掛け橋の真ん中で止まり、月を仰いだ。
月を眺めているその瞳は恋愛に恋して他人のそれを見届ける男の、透明な悲しい輝きを持っていた。少なくとも僕にはそう思えた。彼はイオリに恋しているかもしれないと、僕は薄々感じていた。
彼は月を眺めた後、ちょっと池を一瞥し、そこでぼうっとし、ようやく歩みを進めたと思ったら、また池を振り返って見て、そして僕の方へと歩いてきた。彼は儚げで無邪気な微笑を浮かべていた。僕はそれに何も返せなかった。
彼は東屋の端っこに立ち、ぼうっと池を眺めだした。そして寒い、と呟いた。僕はそうかもね、と答えた。
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