マスターと思い出

人生の選びかた

「な、なんでおまえがこんなとこにいるんだよ!」


 それはぼくの店だからだ。単純にして明快な事実である。


「失礼ですが、どちらさまですか」

「……そう、そういうやつだよな、おまえは。知ってる」


 人違いでもしているのだろうか。旧知の仲のような口ぶりだけれど、ぼくにはまるで見覚えがない。


「どなたかと間違えて」

「ねえよ。竹芝だろ。竹芝たけしば すぐる


 こちらの言葉にかぶせるように発せられたそれは、たしかにぼくの名前だった。が、やはり見覚えがない。まぶたが重そうなひとえの細い目。鼻はそこそこ高くて唇は薄い。毛根はまだしっかりがんばっているようだが、でっぷり貫禄のある体躯は中年の見本のようだ。

 あらためてじっくり見てみるも記憶にひっかかるものは発見できない。

 相手もまた不機嫌とあきらめと、ほんのすこしの期待が同居しているような、複雑にゆがんだ表情でこちらを見ている。どうやら、ほんとうに知りあいっぽい。いささか心苦しいが、覚えていないものは覚えていないのだからしかたない。


「降参です。お名前、教えていただけませんか」

「やだね」

「そうですか。ではご注文は?」

「……そういうやつだよな。うん。知ってる」


 すこしはくいさがれよ。と、ブツブツ文句をいっている。なんだか面倒なお客がきてしまった。


「三田だよ。三田みた 政弘まさひろ


 男性は深いため息のあと、ぼそりと口の先からしぼりだすように名乗った。ほんとうはいいたくない、気にくわないという気持ちが目に見えるような声である。


「三田……?」


 三田。

 三田政弘。

 その名前からは、うっすらとよみがえってくる記憶があった。

 高校時代、なにかとつっかかってくる同級生がそんな名前だったような——。


 *


 ——今の世のなか、せめて高校くらい出とかないと、もっともっと、ずうーっと面倒な人生になるぞ。アルバイトひとつするのだって、高卒以上って条件がついてることが案外多いんだからな。


 面倒くさいという理由で不登校になった中学生のぼくにそういったのは、当時の担任教師だった。

 たしかに一生遊んで暮らせるような富豪でもなし、いつかは働かなければならないわけで、なるほど一理あるなと思ったぼくは、あっさり学校に復帰したのである。

 そうして、ぼくの学力で無理なくはいれる高校に進学した。


 テストまえに一夜漬けなどするほうが面倒に思えたから日常的に勉強はしていたけれど、留年せずに卒業できる成績がとれていればそれでよかったから、やるのは必要最低限。それでも順位がいつも中の上くらいだったのは、それだけぼくの頭に無理のない学校をえらんだからである。

 そんなぼくに、なぜかテストのたびに勝負を挑んでくるクラスメイトがいた。それが、たしか三田という名前だった。

 ぼくが学年トップとかいうならともかく、可もなく不可もない中の上である。

 しかしどうやら三田は『毎日一生懸命勉強しているのに中の下』の成績だったようで、たいした努力もなく自分の上にいるぼくが気にくわなかったらしい。

 面倒ごとを避けようとすればするほど面倒ごとがよってくる。世の理不尽に思いを馳せた一件だった。


 *


 それにしても——だ。記憶にある三田は、線の細いひょろひょろとした男だった。目のまえにいる、でっぷりとした男から思いだせというのは無理があると思う。


「人って、変わるものですね」

「……おまえは変わらねえな」

「そうですかね」

「思いだしたんなら敬語やめろよ」

「いや、あまりに変わっているので、ぼくとしては、やっぱりはじめましてって印象のほうが勝ってしまうんですが」

「はあ、まあいいか。ところでここ、おまえの店なの?」

「ええ、そうです」

「世のなか不公平だよな……」


 うらめしげにため息をつかれる。辛気くさいし面倒くさい。ちょっとつまみだしたくなってきた。


「必要最小限の労力でうまいことやるやつもいれば、必死に努力してもぜんぶからまわりで、なにもかも失うやつもいるんだから」


 どうやらだいぶ深刻な状況らしい。やはりつまみだそうか。


「そう面倒そうな顔すんなよ。客の愚痴を聞くのも仕事のうちだろ?」

「客だというなら、まずは注文していただきたいところですが」

「それもそうか。じゃあビールとなんかつまみを……」


 メニューをひらいた三田が動きを止めた。


「ここって、定食屋?」

「よくいわれます」


 三田はメニューとぼくを交互に見やり、やがて脱力したように笑った。それは、つきものが落ちたみたいな無垢な笑顔で、わずかにむかしの面影がよぎる。


「俺さ、あり金つかいはたしたら死ぬつもりだったんだ」

「はあ」

「……おまえほんとリアクション薄いよな。嘘でも話を聞いてやろうとか、引きとめようとか、心配するそぶりくらいあってもよくねえか」

「申しわけない。目のまえで死のうとしている人間がいたらたぶん止めますが、そうでなければご自由にと思っているもので」


 もしもそんな現場に出くわしてしまったら、ぼくの目の届かないところでやってくれと頼むほかない。


「むかしから思ってたけど、わりと人でなしだよな」

「それもたまにいわれますね。否定はできませんけど、ぼくは他人の人生にまで責任持てませんので」

「ある意味マジメといえばマジメなのか。じゃあさ、おまえはどうなんだ? 生きるのをやめたくなったこととかないの?」

「う~ん、そうですねえ。生きるのを面倒に思うことはありますけど、じゃあ死のうとはさすがになりません。だいたいぼくは、いかに面倒ごとを避けて楽に生きていくかということしか考えてませんから、死にたくなるほど苦しくなるまえに逃げます」

「だよな。おまえに聞いた俺がバカだった。つーかおまえ、ホント変わらねえな。なんかいろいろバカらしくなってくるわ」

「それはなにより」

「ほめてねえぞ」


 ぼくの人生は消去法だ。

 好きなこともやりたいこともなく、こだわりなんかも特になかったから、とにかくできるだけ苦にならない道を選んできた。

 ほめられた生きかたではないだろうけれど、べつに人にほめられるために生きているわけではないし、ぼくは自分のことをできるかぎり楽に生かしてやりたいだけである。

 たとえば、選んだ道でなんらかの努力をもとめられたとき、さほど苦にならないのならがんばればいいし、つらいならまたべつの道に進めばいい。むかしも今も、ぼくの基準はそれだけだ。


「その結果がこの店ってわけか」

「そうですね」

「いいな、苦でも面倒でもないものがあるって」


 その声音には先ほどまでの陰鬱さはなく、素直な羨望がにじんでいる。


「あなたには、ないんですか」

「どうだろうな。楽とか苦しいとか、得意とか苦手とか、そういう基準で考えたことがなかったような気がする。学生時代はただひたすら将来のためって思って、すこしでも人生の選択肢を広げるために、勉強もスポーツも全力でとりくんできたからな。まあ、俺は地頭悪いし運動神経も悪いから、いくら努力しても平均以上にはいけなかったんだけど」


 知ってんだろ? と目顔で問われる。知っている。そんなことない——とは、お世辞でもいえないくらいには、知っている。


「社会に出てからは、会社のため、そのうち女房のため、子どものため、ってのも加わって、ずっと必死だった。でも、ぜんぶなくなった。この年で人生ふりだしだよ」


 日々店に訪れる客たちの話を聞いていると、人というのはどうしてもなくしたもの、手にはいらないものに目が向いてしまう生きものなのだと知らされる。まあ、三田ほど極端な例はあまり聞かないけれど。

 ぜんぶなくなったというのが文字どおりの意味ならば、仕事と家族を失ったということだ。それが倒産なのかリストラなのか、離婚なのか死別なのかはわからないけれど。いずれにしろ、自由になりすぎて途方に暮れている状態なのだろう。


「それくらい身軽になったなら、旅行でもされてみては?」

「旅行……」

「それで気にいった土地があったら、しばらく暮らしてみるとか」

「明日、嵐でもくるんじゃ」

「は?」

「いや、なんか今、おまえの口からアドバイスみたいなものが聞こえたから」

「あなたもたいがい失礼ですね。まあなんでもいいですが、いい加減なにか注文してください」

「そうだった。じゃあ、そうだな……マスターのおすすめで」


 そんなメニューはないのだけれど、しかたがない。

 人間、おいしいものをたべて、ぐっすり眠ったらたいていのことは乗りこえられるといっていたのは、ちいさな身体にブラックホールといわれるほどの胃袋を持っている常連の女性である。


「なにかたべられないものはありますか。アレルギーとか」

「アレルギーは特にないけど、プツプツしてるのはちょっと苦手」

「プツプツ?」

「イクラとかタラコとか、魚卵系っていうの?」

「ああ、なるほど」


 個人的には人生に意味や理由なんてないと思っているけれど、人が生きていくにはなにかしら理由や目的が必要なのかもしれないとも思う。

 それは一日のおわりのビールとか、疲れた日の甘いものとか、そんなものでいいのだと思う。


「飲みものはビールでいいんですか?」

「うん」


 とりあえず、このLazyレイジーでの食事が三田の最後の晩餐なんてことにならないように祈っておこう。



     (人生の選びかた——おしまい)


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怠惰な店の傍観者 野森ちえこ @nono_chie

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