マジイロオニ

ハヤシダノリカズ

マジイロオニ

 前時代の姿を残したトイレの手洗いの蛇口を解放したまま、オレは鏡の中の自分の顔を見る。「どうしてこうなった……」聞く者もいない狭い空間で、大量の水を放出し続けている蛇口の音を聞きながら、オレは独り言を言った。そして、もう一度顔を洗い、タオルもハンカチもない事に今更ながらに気付いたオレは、濡れた手で顔を拭い、備え付けのペーパータオルで手を拭う。流石にこんな安物のペーパータオルで顔を拭こうという気にはならない。


 古臭いままの、あらゆる設備を新しくしようという気がまったく無いオフィスビルのトイレを出たオレは、真っすぐ上司のデスクに向かう。こうなってしまった以上、仕方がない。ありのままを話そう。

「部長、心苦しいのですが、現時点より休暇を頂きたい。どんな形でも結構ですが、とりあえず、なってしまった以上、今の私に通常の業務は不可能ですので」ノートPCの画面に目を向けたままでオレの言葉を聞いていた部長は訝しげにオレの顔を見上げたが、オレの顔を一目みるや「お、おぉ。そうか。それは仕方がないな。分かった。今は……、11時20分か。今日の午後からの休みと手配しておこう。もちろん、今すぐに帰ってくれて構わない。が処理できたなら、すぐに電話をしてくれ。それまでは特別有給休暇ということにしておこう」と椅子を後ろにのけぞらせながら言った。「ありがとうございます」オレはそう一言だけ告げてオフィスを後にする。いつも無表情に一瞥をくれるばかりの同僚たちの、恐ろしいものを見る様な目線を浴びながら。


【マジイロオニ】……、今やそんな俗称で知れ渡った、呪いと病原体の複合の忌まわしいこの災厄は、出会ってしまう確率を考えれば、人類の……いや、日本人の脅威となるようなものではない。その存在を知っていても、ほとんどの人にとっては対岸の火事程度の恐ろしさでしかないものだ。だが、当事者となってしまっては話は別だ。


「ムラサキ」と声をかけられ、とっさに紫色のものを探したが、トイレの中にそんなものはなかった。紫色の物に触れる事が出来ないまま、オレは声をかけて来たヤツに触れられた。すると、ヤツの額に突き出た角はなくなっていき、赤い光を放っていた目は濃い茶色の光彩になっていった。「わりぃな。今度はキミの番だ。頑張ってくれ」と言ってヤツは出て行き、鏡の中のオレの額には瘤が出来、それが徐々に角となり、瞳は燃える様な赤い光を放っていた。


 子供の頃にやった【色鬼】のシャレにならないマジ版【マジイロオニ】、日本に常に数人存在しているというそのオニは、その役を誰かになすりり付ける訳だが、オニになってしまった者は異常な倦怠感と憤怒に襲われる。そう、聞いていたが、予想以上のダルさと怒りがオレの頭と肚に渦巻いている。これは、マズい。オニ役はどうすれば他人に擦り付けられるんだっけ。オニ役をずっと持ったままだとどうなるんだっけ。


 とにかく、大抵の会社では「数日は甘んじてオニのままでいろ」「一度オニになった事があるものには触れてもオニを押し付けられないから、田舎で相手を探すのはやめろ」「自社がある地域や自社関連の会社がある都市はなるべく避けろ」というガイドラインを提示している。基本理念は自治会の役の持ち回りのようなもので、【誰もがなるべくしてなるのだから、一定期間は我慢しろ】な訳だ。そして、【自社の損失は最小限に】だ。


 それゆえに、「オニになったら行きたかったトコロへ旅行がてら出向いて誰かにオニ役を擦り付けりゃいい」なんて事を考えてはいたが、なってしまうと倦怠感と憤怒の感情で旅行気分になどなれやしない。いや、しかし、どこかに行こうとはぼんやり考えていたハズだ。……どこだったか……。


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「いやー。ホントに美味いね。ここへきて正解だったよ」

 北陸の一地方都市の小料理屋のカウンターに座って、オレはカウンター内で料理を作っている男にそう話していた。今日の昼間に、無事、オニを肩代わりさせる事が出来たオレは心も晴れやかにいい気分で酔っていた。

「マジイロオニって、てっきり都市伝説だと思っていたのに、ホントにあるとはなぁ」心の中の枷も怒りも全て捨てきったように思っていたオレは、聞いている様な聞いていないような顔をしながら調理をしている店の男に向かって話し続けた。

「大体、なんで色鬼ルールなんだろうね。自分が身に纏っているモノは、オニに提示された色だとしてもそれを触っても無効だとか、よく分からないよなー」

「良かったですね、お客さん。これはそんなお客さんへのお祝いというか、サービスです」店の男がカウンターから白身魚の天ぷらを出してくれた。さっそく噛り付く。美味い。「これはなんて魚なんです?」


 すると男は言った。

「フグです。そして、ついでに言いますと、お客さんが今日の昼間にオニを擦り付けた相手、私の息子なんですよね」

 マジか、あれ?手が痺れ……。

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