第6話 時の始まり

「そろそろ、帰らないと」そう言って、彼女は立ち上がった。


「帰るって、どこへ?」


「どこへでも」


「その場合は、帰るではなく、還るだね。帰宅ではなく、円環」


「そうかもしれない」


「どうして、帰らなくてはならないの?」


「理由はない」


「それが、君のモットー?」


「モットーではないけど、理由がないのが普通ではないか、とは思っている」


「それは、どうして?」


「理由はない」


「うん、一貫性があるようだ」


「一貫性があることにも、たぶん理由はない。強いて言えば、貴方に一貫性を見出そうとする意志があるから。ただ、それだけだと思う」


「それだけでは駄目?」


「駄目ではない。それも綺麗」


「綺麗なものは好き?」


「好きだから、綺麗なのかもしれない」


「なるほど。たしかに、どちらが理由か分からない」


 彼女が立ち上がったことで腕に張力が生じ、僕も仕方なく立ち上がった。繋いだ手が少々弛緩する。彼女が歩き出し、僕も歩き出す。


 前方に巨大な月が見えた。地球に迫っているようだ。もしかすると、彼女はかぐや姫かもしれないと思ったが、そう思ってしまったから、それが事実になることはないだろうと分かった。


「君は、ひょっとすると、僕のお母さん?」


「それが、かぐや姫の代わりに思いついたこと?」


「僕の思考が読めるの?」


「読めない。口にしたら、当たった」


「うん、たぶん、システムの構造が似ているんだ。月を見て、同じことを連想した」


「そういうのを、奇遇と呼ぶ」


「そういうことにしておこう」


「貴方のお母さんは、どんな人?」


「分からない。見たことがないから」


「お父さんは?」


「分からない」


「私と同じ」


「それも、月からの連想?」


「そうかもしれない」


 二人で月に向かって歩いたが、辿り着くことはなかった。角を曲がり、自動販売機がある噴水の前を通り、駐車場を通り、昇降口に戻ってくる。


「歩いて帰るんじゃないの?」僕は質問する。


「ううん」


「そう……」


「何か、落ち込んでいる?」


「もう少し、一緒にいたい」


「私も」


「じゃあ……」


「でも、今夜は帰らなくてはならない」


「吸血鬼みたいなことを言うね」


「私は、たぶん、人間」


「確認したことはある?」


「ない」


「じゃあ、分からないよ」


「少なくとも、私は私」


「どこまでが君?」


「分からない」


 屋上に戻ってきた。


 真上に月がある。


 すぐそこに表面の凸凹が見える。


「どうして、貴方はここで気を失っていたと思う?」彼女が尋ねる。


「そうか」僕は言った。「僕は落ちてきたのか」


「思い出した?」


「なんとなく」


「貴方は帰らなくてはならない。私は、ここで待っている。今度は、気をつけて下りてきてほしい」


「分かった。気をつけるよ」


「気をつけて」


「でも、どうして、僕には妙な記憶があったのかな?」


「そうでないと、この舞台の上で動けないから」


「そうか」


 沈黙。


「また、いつか、会えると思う。明日すぐにというわけにはいかないけど」僕は言った。


「うん」


「そのときまで、待っていてくれる?」


「きっと」


「ありがとう」


「どういたしまして」


「コーヒー、美味しかったよ」


「そう」


「今度は、君が淹れてくれると嬉しい」


「うん」


「あとは……」


「もう、言うことはない?」


「うん」


「じゃあ、行きなさい」


「うん、行くよ」


「またね」


「また」


 屋上を囲む柵に乗り、僕はそれを軽く蹴って飛翔した。途中で力が反転する。頭と脚の位置を入れ替え、着地に備えた。上を見ると、彼女もこちらを見ていた。僕は小さく手を振る。彼女もそれに応じた。


 だんだんと、彼女との距離が離れていく。


 ある程度の距離になると、彼女は背を向けて立ち去った。


 僕たちは何を話しただろう?


 誰かと話した内容は、いつも忘れてしまう。


 お伽噺もそうだ。


 聞いたあとには、どんな話か忘れている。


 けれど、ハッピーエンドが約束されているから、終わったときには優しい気持ちが残る。


 物語の価値なんて、そんなもの。


 眠りに落ちるための、薬のようなもの。


 それで充分。


 それで眠れるのだから……。


 彼女は眠るだろうか?


 僕は目を閉じる。


 おやすみなさい。


 また明日。

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月光散解 羽上帆樽 @hotaruhanoue0908

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