第5話 人の始まり
ベンチに座って、夜が更けるのを待った。流星群が降ってきそうな空。身体に染み渡る空気。
握った手。
握られた手。
「僕たち、なぜこんなことをしているんだろう」
「なぜ、とは? こんなこと、とは?」
「なぜ、というのは疑問を表す標識。こんなこと、というのは日々の生活のこと」
「日々の生活、とは?」
「学校に通って、授業を受ける、という生活」
「授業とは、どんな授業?」
「受けても何の役に立つか分からない授業」
「役に立つ、とは?」
「生存に直結する、ということ」
「生存、とは?」
「明日も自分の命が保証されている状態」
「保証、とは?」
「何らかの作用がはたらいて、安全が確保されている状態」
「状態、とは?」
「禅問答みたいだね」僕は彼女を見た。「何が訊きたいの?」
「何も訊きたくない」
「それなら、黙った方がいい?」
「きく、の漢字が違う」
「ああ、なるほど」
「その種の思考は、大分前に何度も試行して、それでも分からなくて、今でも度々思い起こされる」
「答えなんて、出ないからね」
「出なくてもいい、と思うことができるようになった」
「そうらしいね」
「けれど、出なくてもいい、と思っていても、考えないでいい、とは思わない」
「自然と考えてしまうんじゃない?」
「そう」
「それなら、仕方がないよ」
「考えることで、安定すると言えるだろうか」
「言えるんじゃないかな。少なくとも、それについて考えている間は、ほかのことを考えなくて済む。明日までに提出しなくてはならない課題のことや、帰って準備しなくてはならない夕飯のメニューは、横に置いておくことができる」
「現実逃避をしている、ということ?」
「そう」
「それは違うかもしれない」
「かもしれないというのは、可能性を表す標識だから、間違いではない」
「さっき貴方が辿った思考は、今貴方が辿った思考より、上位に位置するように思える」
「つまり、横に置いておくというよりも、内に包み込む感じか」
「何が?」
「あれ、聞いていなかったの?」
「聞いていたけど、すべてを把握できるわけではない」
「要するに、日常的な思考と、その日常を捉える思考とは、横並びの関係ではなく、上下関係になっている、ということ」
「上手くまとめてくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
「そして、その通り」
「それはどうも」
「現実逃避がしたいのではなくて、まず、現実が如何なるものなのか、きちんと把握したいのだと思う。おそらく、過去の哲学者たちがやってきたことも、そう。みんな、日常を当たり前のように生きているけど、一方で、日常がどういう姿をしているのか分からないと、その日常に馴染めない人たちがいる。それが、たぶん哲学者」
「そういうことができる人は、あまりいない。危険だからだよ。自分で自分の足もとを掘るようなものだ。もしかしたら、矛盾という名の化石を発掘してしまうかもしれない」
「動物の性質ではない、と言いたいの?」
「言いたくはない」
「では、そういうことを意味している?」
「うーん、どうかな」
「しかし、彼らは彼らなりの言語を用いているはず。人間にはそれが分からないというだけ」
「そういう話ではないと思うな」
「私も、そう思う」
「変だね、君」
「的外れと思われる意見を、あえて口にすることで、議論が深まると聞いたことがある」
「誰に?」
「先生に」
「どんな先生?」
「小学生の頃の先生」
「よく、そんな昔の、そんな難しい話を覚えているね」
「引っかかって、離れなかった。あるとき、ふっと解消されて、地に落ちた」
「納得したんだね」
「納得したかは分からないけど、意味は理解した」
また風が吹く。ほんのりと塩の香りがした。彼女から漂ってきたのではない。近くに海があるから、その影響だ。
「人間が言語を捨てることは可能だろうか」
僕は一人で呟いた。意識したわけではなかった。呟きとは概してそういうものだ。意識的に出てくるものは呟きとはいえない。きっと、そういうものは作り物じみているだろう。電子空間に蔓延している呟きも、見ていて全然面白くない。その人の内から自然と現れたものではないからだ。
「その問題について考える際に、言語を用いているところを見ると、不可能と結論づけるのが自然に思える」
「その段階を飛び越えたら、どうなる?」
僕の言葉を受けて、少女は目を閉じた。そうしていると、彼女はとても綺麗だった。そうしていなくてももちろん綺麗だが、目を閉じている彼女が最も彼女らしかった。
「その段階を飛び越えても、分からない」彼女は答える。「言語が先か、思考が先かという問題に至る」
「同時?」
「おそらく」
「その認識を可能にしているのは、言語だね」
「たぶん」
「曖昧?」
「曖昧」
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